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新田義貞という人物について



彼はどういう人物だったのですか?楠木正成には人望がないと奉上されてましたが、死ぬときは部下が苦しんでるのに逃げられないといって果てたと書いてありますが  
死に様を見る限り、強くて真面目みたいな感じで人望がないと思えないんですが

A 回答 (3件)

65歳主婦です。



楠木正成は、自己を犠牲にしてまでも約束を守った忠臣の鑑の人

だったと思っています。

正成は戦前の教科書では、歴史でも修身でも、大いに

もてはやされた人物でした。

戦前の教科書では、正成を「天皇への忠誠を守り抜いた人物」と

いうように描いてます。

そのため、天皇に対する日本人の尊いを打砕きかったGHQにとっては

楠木正成は邪魔そのものでした。

とりわけ正成の家紋がGHQに嫌われました。

菊に水。天皇家の十六花弁の菊花御紋章にあまりにも似た楠木家の

菊水紋は、それだけで排除される対象とみなされました。

そのため、楠木正成を題材に語られた皇国史観を排除するだけで無く、

正成・正行親子そのものの事跡が消し去られました。

でも、現代人が正成から学ぶことは多いと思います。

武士の律儀さというか、自分が犠牲になっても約束を守っていくという

潔さを感じます。

「人間の生き方」の一つとして、楠木親子の律儀さ、自己犠牲の精神は

現代人も学ぶべきことだと思いますね。

元弘の変にあたって、笠置山に逃れた後醍醐天皇は、有志を募る。

この当時、まだ倒幕の機運は高まってませんでした。

武士たちもなかなか立ち上がらない中で、真っ先に天皇のもとに

馳せ参じたのが楠木正成。

彼は、河内の金剛山の麓に住む豪族でした。

正成は河内に帰ると、赤坂城を築き、わずか五百人ほどで挙兵しました。

さすがにこれは倒幕軍に、打ち破られ、天皇も捕らえられて

隠岐に流されました。

しかし、この事件をきっかけに倒幕の機運が高まっていきました。

正成は金剛山にに千早城を築き、千人ほどの兵で幕府を

手こずらせたのです。

その結果、幕府は倒れ、建武の新政が始まったのです。

しかし、まもなく足利尊氏が反旗を翻しました。

この時、正成は、尊氏との和平を天皇に申し出ています。

尊氏に天下の武士の信望が集まっていることを正成は

見抜いていたのです。が、この策は一笑に付されてしまいました。

この正成の懸念どおり、尊氏は九州で勢力を盛り返し、

ふたたび攻め上るのです。

このときの故事が、あの有名な「桜井の別れ」ですね。

自分を犠牲にしてまで、忠臣として尽くす、、という、、、

楠木正成の精神は、現代人でも学ぶべきことなのではないでしょうか?

が、「自分が良ければ他人はどうなっても良い」という

戦後教育に染った現代人には理解出来ないかも知れませんね。
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作家の新田次郎さんが、同姓ということで新田義貞の小説を書いていますね。


一度、読まれたらいいと思いました。(私も昔、読んだのですが内容は…)
常に、足利尊氏と比較されていたようで、
敗北者側の義貞の本当の人物像は、色々と調べて自分でイメージするしかないと思います。
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毀誉褒貶は死後も変遷するようです。

どれが正しいやら闇ですが、・・

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
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