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1955年生まれの61歳です。
大学を卒業し、とある企業に就職 60歳の定年 今は再雇用の嘱託(元の部下が上司で少々居心地が悪い・・・従っていますが。)です。

バンバン「いちご白書をもう一度」は1975年にヒットしました。
わたしが成人を迎えた大学生のころです。

この曲は、わたしと2年学年が上に当たる(1954年1月生まれ)の荒井由実(松任谷由実)
がバンバンに提供した曲。

1968年ごろ わたしが中学生のころ 全国の大学が荒れました。
安田講堂事件も鮮明に覚えています。

しかし、わたしのほんの少し上の世代が、何であんなに暴れたのか
どうしても理解できませんでした。
破壊活動をして何が面白いのだろう? 馬鹿がやることと思っていました。
共産主義なんてどこが良いのかわからなかった。
貧乏人だから共産主義になるのか? 
そこそこ食えているのに、社会に力で対抗したって何の得にもならない。
反戦平和は単なる理想 とぐらいに思っていました。
公共の場で暴れれば逮捕されるだけ。
前科者になったら家から追い出される。家族一族にも迷惑をかける。
連合赤軍なんて馬鹿じゃないか?
街角で革マルや中核のヘルメットかぶった人が署名活動をしていました。
馬鹿じゃないかと思うと言ったこともあります。

そんなことするぐらいなら遊んでいた方がいいし、寝ていた方がいい。
(いわゆる ノンポリなのか? 当時 ノンポリだという概念すらありませんでした。)
その前に、良い高校に入るために、いやだけど、受験勉強しなければならない。
その3年後も同じ。
良い大学に入るために、単語一つ 赤尾の豆単で覚えなければならない。

わたしも、私の中学高校ではそんな感じでした。周囲に過激なことを肯定する人はいませんでした。
(地方都市の公立 中学 高校です。)
その結果、都会のとある大学に入学。学校では厳しく学生活動を禁じていましたが、
少なくとも私の周囲にはその方向に興味を示すことすらありませんでした。

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わたしが、1977年大学4年生の時の就職活動は大変でした。
第二次オイルショックの影響で大手企業は軒並み、採用を絞っていました。
6月ごろから、企業研究目的でOB訪問などしていました。
学校の成績が良かった(これは社会に出てから良いという意味と全く違うことは承知しています。)ことと、10月会社訪問解禁時に行われた筆記試験・・・(これは本当は協定違反のはず
当時は筆記試験解禁は11月1日) の成績が良かったこともあり、面接をすんなり通過、
社長を含む役員面接、その時点ではいくつかの会社を10月の1週間で訪問 
わたしは、世間的評価でみたら今の会社よりは格下と思われる会社からは、ことごとく落とされていました。
「ここで落とされたらもう後はない」「就職活動やり直し」という状態でした。

役員面接で役員の一人が同じ大学出身者ということもあったのか、回答で詰まっている
わたしを助けてくれました。
そのおかげもあったのか内定を頂けました。
わたしの周囲では、なかなか就職が決まらず、やむなく小さな会社に入った人が多い。

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ここまで長文にお付き合いいただきありがとうございます。


本題に戻すと、私と同年代の、荒井由実が どうして少し上の世代の世相を理解できたのでしょうか。
彼女は八王子に現存する呉服店の娘 多摩美術大学の学生
学生運動とはそれほど縁はなさそうに感じます。

歌詞の中の
僕は無精ヒゲと 髪をのばして学生集会へも 時々出かけた 就職が決って 髪を切ってきた時もう若くないさと 君に言い訳したね

この歌詞も謎です。
当時は長髪が流行っていました。これは理解しています。
わたしも大学生時代少し髪を伸ばしました。
4年生になったら、きちんとした格好にしました。

「就職が決って」→「髪を切る」 このプロセスがおかしいと思っていました。
 逆でしょう。
 1975年当時、学生集会なんかありませんでした。(学校にもよるのかも知れません。)

当時は1973年のオイルショックがあり、多くの企業は採用を見合わせています。

わたしの会社でも、
1974年は急速な業績悪化で内定取り消し
1975年1976年は一部の高卒者を除いて採用なし
1977年から若干名を採用という状況でした。
本格的な採用を再開したのは、1985年以降です。

映画「いちご白書」は1975年に見ましたがどこが良いのか?私は何とも思いませんでした。
(1970年に制作された映画) 

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わたしの感性として、
リアルで大学生であった1975年時点でこの曲の歌詞に違和感感じまくりでした。

荒井由実の翌年1976年の曲 中央フリーウェイの世界のほうが
わたしの学生時代のあこがれと合致しています。
18歳で運転免許は真っ先に取得しました。

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質問がぼけましたが・・・
1975年の大学生世代は、「いちご白書をもう一度」の歌の世界に生きていたのでしょうか。

40年の時がたった今も、謎に感じています。

会社に入った後、とにかく少し上の団塊世代にはずっとずっとさんざん苦しめられました。
もちろん良い人もいますが、数も多いこともあり、たちが悪い人が多く感じる。
団塊世代は総じて大嫌いです。ごめんなさい。
(しかも、年金や社会保障を数で食いつぶしていく。その少し後の私たち。
 「バッタの大移動のあと」には何も残っていない。・・・これぐらい団塊世代が大嫌い。
 医療機関も団塊でパンクするでしょう。高齢者の福祉もパンクするでしょう。
団塊世代が近づいてくると、子どもじゃないですから排除はしませんが、警戒レベルを上げて接します。 

会社ではやっと卒業してくれましたが、今度は平成になってから入ってきた人たちが丁寧な言葉ですが
やり方に難癖付けてくる。(ある意味わたしたちは、数が多い団塊世代社員に守られていた?)

結局、私たちの世代はなんなのでしょう?


参考質問 
ばんばんの“「いちご白書」をもう一度”の背景について・・・
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/248704.html

余談ですが
・神田川 1973年 当時は高校生でした。
 この歌のどこが良いのか理解できませんでした。
 3畳一間とか、そんな貧乏生活は絶対したくないと心に誓いました。

A 回答 (4件)

64歳です


同じ時代の同じ国に生きていたとしても、人それぞれの人生が
あるわけで、それをひとくくりにまとめて捉えようとすることに
無理があるわけで。

ましてやその時代や世代をたった1つの歌に当てはめて、完全一致しないからといって
不可解だと言われても困ってしまいます
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この回答へのお礼

有難うございます。そうですかね?
少なくとも私の周囲では子供時代から、書いたとおりの感覚でした。

中学も荒れませんでした。高校も荒れませんでした。
大学では一時的に他の大学から運動家が入って来て扇動したそうですが
鎮圧したそうです。問題学生は停学や退学にしたらしい。

わたしは地方の主要都市(現在は政令指定都市に昇格)出身で
大学進学で東京に来ました。

「いちご白書をもう一度」の歌詞に共感したのは、団塊世代だったのでしょうか?
少なくとも、わたしの東京の大学には学生運動の香りはありませんでした。

1970年3月 日本万国博の感動の中発生した、よど号ハイジャック事件
わたしはちょうど高校に入学の年。
入学祝をかねて大阪の親せき宅に泊めてもらい、3日間万国博に通いました。
あの時の感動が忘れられません。それ以来、博覧会マニアになりました。
後の博覧会 1975年沖縄海洋博 たいしたことない。海がきれいなだけ。
1981年 神戸ポートピア 大したことない。
1985年 つくば科学万博 これも規模は大きくても大阪の感動はない。
これ以降の博覧会で特筆する感動がない。年を取って感性が鈍った?

どうして、北朝鮮という共産主義の国に行こうとするのか?
資本がすべてではないか。
共産主義なんて貧乏人のものという気持ちを当時でも持っていました。

今でも、地下に極左勢力が存在するのが不思議です。

お礼日時:2016/12/24 10:30

リアルタイムに作詞した訳じゃない



と考えれば良いんじゃ無いのか?
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この回答へのお礼

そのような考えもありますね。
しかし・・・1975年当時二十歳前後の美大生の荒井由実が
どうしてそんな詩を書けたのでしょう?

ばんばひろふみは1950年2月生まれ 団塊世代と言われる最後の集団
1975年は25歳

この世代、学生運動で留年していたとしてもその当時、まともな企業であれば、年齢制限で新卒採用の対象にはならず苦労したはずです。
(今考えても、オイルショックの影響で狭き門でした。)
採用に当たり下宿と実家周囲に興信所が調べに来たようです。
学生運動歴や思想を知りたかったのでしょう。
わたしはそれが何もない。学生運動デモなんて社会からドロップアウトした馬鹿がやるものと当時でも思っていました。

この頃は、2年単位程度で世の中の価値観が変わった時代だと思います。

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以下脱線
当時悪く言われた、指定校制度 これはある意味助かる制度です。
他からは採用しない! と言ってくれるのですから。

今の新卒採用、陰には、その会社の価値観が後ろに隠れていると思います。
(私の会社は、かつては採用した大東亜帝国class エントリーシートではじいています。ニッコマ 日だけ一応目を通すとのこと。ほかは落とす
マーチが最低ライン ただし出世コースにのせないと、
平成入社の人事部長(旧帝大卒)が宴席で漏らしていました。)
本音としては男はとるつもりがない求人広告も巷に溢れています。

お礼日時:2016/12/24 09:33

そのへんの時代のことは大量に書物が出ていますから、読めば?


当初の学生運動は切実な問題から発生したものだったんだよ。経済盛り上がってきたら切実さがなくなり、
今で言う「パーティーピープル」の場になったわけだ。異性と出会える!やれる!ってね。
だから学生終われば髪切ってさっぱりお別れさ。

君の文章、ただの「ぼくは苦労したんだ」と書いてるだけだね。
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この回答へのお礼

わたしが幼かった(5歳のころの)安保闘争
もちろんリアルでは見ていませんが、中学生ぐらいになってから
馬鹿じゃないかと思いました。(おかしいですか?)
ただ1960年当時に大学に行ける人自体は限られていたのではないか。
http://www.garbagenews.net/archives/2014387.html
1960年 男子15% 女子5% 平均10%
1965年 東京五輪不況
わたしが大学に入った時代 平均30%程度
都市部と地方では差があったのではないか。
現代 55% 

>切実な問題から発生した
というのがどうしてもわかりません。
私の周りは恵まれすぎていたのだろうか?

お礼日時:2016/12/24 09:12

自分の見える範囲とご自分の嗜好(質問者様は思考ではなく嗜好で物事を判断されています)が全ての方が時代の気分を歌う歌詞を理解することは難しいでしょう。



自分は違うけれどこういうひともいるんだね、という視点を持つことができなかったのだからしかたありません。
荒井由美はそういう視点を持っていたから自身の経験や感覚と違うものを歌詞にすることができるわけです。
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この回答へのお礼

経済好調だった1970年ならばわかるけど
オイルショックも経た1975年 自分が見る限りは
そんな世相ではなかったと感じています。

このあたりの時代は1~2年刻みで時代の価値観が急速に変わったのではないか? と感じています。

わたしが敵視するゲバ棒団塊世代。
その人たちから見たらなんなのでしょう?

はじめは兄貴面して近寄って来て心を許すと
軟弱だ! 議論しろ!  これでさんざんな目に何度も会い
団塊世代を警戒するようになりました。

荒井由実は団塊世代なのかと思っていたら以外に若かった。

お礼日時:2016/12/24 09:17

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