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日本史において、天皇(大和朝廷)ははるか昔から北海道・沖縄を除く全域のトップとして統治・君臨していたというふうに習うことが多いです。統治の定義ですが、例えば律令制が施行されていた地域は日本の統治下にあったと言えるでしょうし、中央から国司が派遣されていた地域も同様でしょう。
でも実際は大和朝廷も奈良・京都を中心にだんだんと勢力を拡大してきたはずであり、歴史を見る限り、東北地方が統治下に入ったのは平安時代後期のようですが、それでは関東地方が統治下に入ったのはいつ頃だと考えられるでしょうか。
奈良時代、もしくはそれよりも前でしょうか。

A 回答 (4件)

東京都の西側に府中市と国分寺市があります。



府中市はヤマト朝廷の国府が置かれたところであり、国分寺市はそのための国分寺がおかれたところから由来しています。
本質的には701年の大宝律令後には府中に国府が置かれたはずですが、741年に国分寺令が発せられる前にはまちがいなく国府は存在していたでしょう。

また千葉県の市川市にも国府台という地名があり、ここは下総の国の国府が置かれていましたので、同様に8世紀まで遡ることができるといえます。

同様に神奈川の大磯にも国府という地名が残っていますし、茨城県には常陸国府跡があります。

ですから、ヤマト朝廷は8世紀には関東を支配していたといえるでしょう。

しかし、支配の規律は緩かった、というかあまりちゃんと管理されていなかったのでしょう。だから東国武士は力をつけつつ朝廷に不満をもって鎌倉に幕府を開いた、と言うことだと思います。
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前方後円墳が県別に多い順で


千葉県 685
茨城県 444 です。
たぶん東京も多数あったでしょうが、開発で失った。
但し、古墳を調査してみると、古墳時代後期(500年後半~600年前半)
関東も古くから前方後円墳文化圏になった。
(ヤマト朝廷の連合国ではあった。統治と云えるかどうか?)
一方、奈良では、仏教が伝わり、古墳は作らなくなっている。
聖徳太子が遣隋使を送るなど、ヤマト朝廷は結構な権力者であったが、
蘇我氏、物部氏の争いなど身近での内紛、クーデーターの連続
関東、九州などの実質の支配どころではない。(飛鳥時代)

694年 藤原京 奈良の橿原市、明日香村
701年 大宝律令
707年 平城京 奈良時代
784年 長岡京 京都府長岡京市
794年 平安京 京都市で400年続く

大宝律令の制定には、下毛野古麻呂など関東の貴族も参加しています。
関東、東北を含む実質的統治が完了したのは701年ではないでしょうか。
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詳しくはないので間違えもあるかもしれませんが、記紀を元に考えると、10代天皇の崇神天皇が四道将軍を送って平定したと考えられていると思います。

これ以前は支配域が畿内の一部程度だったわけです。

または12代の景行天皇。彼の息子がヤマトタケル命で、お話としてはヤマトタケル命が九州行って関東行ってってやったとされていますが、実は父の景行天皇が九州に行って平定し、武内宿禰を東に遣わしてたりします。

崇神天皇なら4世紀前半ころではないでしょうか。
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大和政権は豪族の連合体と考えられており、金石文から5世紀後半には埼玉県の辺りがそれに組み込まれていたのだと思います。

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