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現代文の授業で、「であることとすること」?みたいなタイトルの評論をやりました。そこにあった一文で、「自由人にあこがれを抱くのは間違っている、本当の自由とは自分が自由と思い込む者ではなく、自分が不自由と自覚して自由を追い求める者にだけ訪れる」みたいなのがありました。
思うんですが、自由人なんて誰も憧れてないと思います。「いいねー自由で(協調性がないな)」とか、「ニートになりてー(今だけ仕事休みたい)」とか、そんなんばっかだと思います。自由人と呼ばれる人たちはどこか社会から切り離されて孤独感と不安を感じているのが実情ではないでしょうか?それをわかっていてこの評論は、なんだか「自由人」のプライドを傷つけたなーと、そう思いました。現代の忙しすぎる社会において、色々な事に疲弊して働く義務を放棄した自由人は確かに存在しますが、自由人そのものは自分が不自由であることに薄々気づいているし、人々の言う自由人への憧れはただの一時的な偶像や、もしくは馬鹿にしているのではないか?と私は思うのですが、皆さんはどう思いますか?

A 回答 (3件)

自由にも色々な意味があります。


本能からの自由とか、国家権力からの自由とか。

ここでいうところの自由とは次のようなものです。

仕事をする自由、しない自由があった場合、
どちらを選ぶか、の自由です。

お金がなければ、そんな自由はありません。
仕事をする、という道を選択する他ありません。

しかし、お金があれば、仕事をしない自由を
選択できます。

自分が自由に選択できるのが、ここにいう自由です。

ニートは、そうした自由を行使しているわけでは
ありません。
追い込まれてその道しか選べなかったのです。
つまり不自由の結果のニートです。

社会から孤立する道も、そうでない道も
自由に選べるのが自由です。
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論文の「自分が不自由と自覚して自由を追い求める者にだけ訪れる」と、貴方の指摘している


「自由人そのものは自分が不自由であることに薄々気づいているし」が一致しているので

貴方は論文が正しいと 言いたいのではないでしょうか?

もし そうで無いのなら 自らの考え方に統合性を持てていないと いう事に成りますね。。
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「自由」である事が、何故に義務や働く事を放棄した人なのでしょうか。

その人の純粋な自由意志による選択ならば、勤勉である事も、また自由である事です。
そして、人は何事にも、可能性や選択肢を探り当てれない時に、自分を不自由に感じるのだと、私は思います。だからこそ、自由である事とは、常に可能性や選択肢を欲求し、探求する事で、あるのですよ。
探検家は、コンビニにいても探検家です。旅人は家路につく時も、旅人ですよ。労働者は、デートをしていたって労働者だし、母親は子供を失っても母親です。それは事象ではなく、人格なのですよ。
ですので、自由人は不自由でいても、自由人なのです。
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