今流行の安倍晴明ですが、彼にまつわる様々な伝説はどこからきてるのでしょうか?そもそも、彼は実際に存在した人物なのですよね?
古典作品や記録等に残されてるのだと思うのですが、その出典を知りたいです。
 彼が「狐の子」であるという伝説は「今昔物語」に書かれていると、テレビで言っていました。

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A 回答 (4件)

安倍晴明については安倍家(後の土御門家)の系図が残されていますし、正史にも登場するので実在の人物です。



安倍晴明が正史に登場するのは約57歳のときです。
この約と言ってるのは生年がハッキリしないからです。そして57歳以前については正式な記録(=正史)は残されていません。

そして正史に登場してからは天皇や藤原道長に重用されたという記録が続きます。

そして安倍晴明が陰陽師として活躍した話を伝える文書は次の通りです。

1.花山天皇の前世を見抜いた。「古事談」
2.式神を自在に操った。「今昔物語集」
3.人の操る式神を隠した。「今昔物語集」
4.死者をよみがえらせることが出来た。「今昔物語集」
5.花山天皇の譲位を予知した。「大鏡」
6.人の感情を操ることが出来た。「北条九代記」
7.どんな呪いをも返すことが出来た。「宇治拾遺物語」
8.在原業平の家を災害から封じた。「無名抄」
9.藤原道長の命を眼力で救った。「古今著聞集」

後の文献は後世に書かれたものが多く、書かれた頃に伝わっていた話あるいは創作した話か、いずれにせよ諸説まちまちの話が多いです。
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この回答へのお礼

詳しい回答、ありがとうございます!!
色々あるんですね…。自宅にあるものから読んでいこうと思います。まずは「今昔物語」に挑戦します。

お礼日時:2001/06/28 02:01

テレビということは、"知ってるつもり"ですね、、、あれには、


かなり不満があって、途中から早送りしました。~(=^‥^A アセアセ・・・

山のようにあるので、全部はどうかな? と思うので、主なものだけです。

・尊卑分脈「安倍氏系図」
  晴明の系図と享年(85)が書かれてます
・土御門家記録
  寛弘2(1005)年9月26日に他界とあります
・御堂関白記
  いろいろなところに晴明の名が出ているらしいですが、
  長保6(1004)年7月14日に日照りが続いていたので、五龍祭を行い
  夜に大雨が降ったとあります。
・発心集、不動利益縁起 他多数、、、
  いわゆる泣き不動説話です。
・しのたづまつりぎつね 付あべノ晴明出生、蘆屋道満大内鑑 他
  信太森の葛の葉姫の話ですね
・平家物語 屋代本「剣巻」、前太平記 巻の第17
  茨木童子の話ですね。切った腕を晴明が封じます
・源平盛衰記
  晴明が使役した12神将を妻が恐れたので、一条戻り橋の下に置いた
  とあります。
・大江山絵詞
  酒呑童子の話ですね。晴明が卜占によって、大江山の鬼の仕業であ
  ることを突き止めます。その後、晴明の術によって守られているので、
  都で人をさらうことが出来ないと酒呑童子が悔しがっている、
  とあります。
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この回答へのお礼

そうです、「知ってるつもり」です。私も、安倍晴明に関しては殆ど知らないにも関わらず、「こんなに美化(?)しちゃっていいんだろうか…」と思いながら見てました(笑)。

出典、こんなにあるんですね。源平や酒呑童子関連にあるのには驚きました。ありがとうございました!

お礼日時:2001/06/28 02:45

安部晴明で検索すると「今昔物語」のどこに


書かれているか取り扱っているHPありますよ

「物語から読む阿部晴明」

「安部晴明 その生涯を辿る」など

教えてgooで検索しても阿部晴明に関わる回答3件ぐらいあります
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この回答へのお礼

そうですね、有名ですものね。
それでは、早速やってみます!
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 01:40

藤原道長の時代に実在した陰陽師と言われています


一番一般的な出典はやはり「今昔物語」でしょうか?
晴明の母親の話や、実際に晴明が術を使った話などが記載されておりますので、ぜひ読んでみてください!

ちなみに、晴明の母親「葛の葉姫」の伝説は平安時代でもかなり有名だったらしく、「葛の葉」が現れた篠田の森には和泉式部が詠んだ歌も残っています。

晴明の末裔は福井県名田庄村に移り住んだと言われており、この村には土御門家(安陪家)に関する資料が展示されていますよ!
詳しい場所等は下のURLをご覧下さい。(^o^)丿

参考URL:http://www.natasho.co.jp/koyomi/
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この回答へのお礼

なるほど、「今昔物語」ですか!
「葛の葉姫」に関する和泉式部の歌とは、「恋しくば訪ね来てみよ和泉なる…」というやつですかね。
URLのご紹介も、ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 01:35

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Q【安倍晴明は詐欺士だった?】 安倍晴明は式神と一緒に暮らしていたとされる。 貴族が安倍晴明の邸宅

【安倍晴明は詐欺士だった?】

安倍晴明は式神と一緒に暮らしていたとされる。

貴族が安倍晴明の邸宅に着くと誰もいないのに安倍晴明の邸宅の門扉が自動で開いたので貴族は驚いたという。

実際は誰か手下が来客が来ると門扉の下の隠れ部屋から棒やロープで操作していたと思われるが、自動ドアが無く、自動ドアの概念がなかった貴族は驚いたという。

これって完全にキリスト教のイエスキリストと同じ手口の詐欺行為ですよね。

イエスキリストも手下を次の村に半年前に行かせて、イエスキリストのマジックの下準備をしてイエスキリストが村に来ると次々に奇跡が起こっていった。

安倍晴明のトリックは現代のマジシャンと同じ。

マジックで当時の政界を動かしたので詐欺士と言えるのではないでしょうか。

Aベストアンサー

安倍晴明の奥さんは、自宅にいる式神が気味悪くて屋敷の外に出してほしいと
晴明に依頼した為に、晴明は仕方なく近くの一乗戻り橋の下に式神を隠していた
と伝えられています。

夜になれば真っ暗な時代です。「たたり」とか「怨霊」とか「魑魅魍魎」といったものが
平安時代には実際にあったのかもしれないですね。

Q安倍晴明塚&蘆屋道満塚

兵庫県佐用郡に、「安倍晴明塚」「蘆屋道満塚」があると聞きました。
そういうのに興味があって佐用町も結構私の町から近いので行ってみたいのですが、探し方が下手なのか、マイナーなところのせいなのか、細かいいい地図が見つかりません。
わかりやすい地図を置いているサイトを知っていたら教えてください!!

Aベストアンサー

参考になるといいのですが。

この塚は、オカルト雑誌で有名な月刊ムーの特集「日本伝説紀行」で取り上げられたことがあり、記念特大号企画のときに編集部(?)にコピーしてもらった記事が手元にあるので多少説明できそうです。ただしメインはもうひとつの伝承地、岡山県金光町の道満池、坊主岩のほうになっていますが。

佐用郡佐用町は播磨国(兵庫県)の地誌『峰相記』に道満終焉の地と記されているそうですね。

佐用町の『大木谷』というところに、2つの山の頂上でにらみ合うように道満塚と猪伏清明塚があるそうです。この記事では記者は町の公民館の人と甲大木谷地区総代の人に案内されていて、詳しい地図はありません。(大木谷は棚田で有名なところらしく、乙大木谷地区の棚田は百選の1つらしいです)。

写真を見ると、道満塚は塚というよりは石塔ですね。清明塚のほうは写真がありませんが道満塚に比べて基壇部分がだいぶ立派なものらしく、記者は陰陽道の天壇ではないかと推測しています。清明塚のある裏山には清明ゆかりの天文台があったとか。

この記事の詳細は掲載号を読むのが一番だと思いますが、ただ、記念号のときにこれまでの雑誌の全記事リストが付録であったはずなんですが、見当たらなく、何年何月号だったのか分かりません。わかればその号を古書店で探してみるという手段もあるのですが…。すみません。編集部に問い合わせてみるのもアリかもしれません。

大木谷についてはBIGLOBE地図で見ると大撫山の北みたいですね…。棚田で有名なくらいですからかなりの山奥では? 迷う可能性大と思います。佐用町役場か、公民館に連絡してみるのが一番ではないでしょうか。

参考になるといいのですが。

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Q近頃気になる安倍晴明。。。

最近安倍晴明がとっても気になり、その時代の事を知りたくなりました。
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ところで、安倍晴明や蘆屋道満の子孫の方っていらっしゃるんでしょうか?
今も陰陽道は受け継がれているんでしょうか?

Aベストアンサー

参考URLのところに安倍晴明に関する情報がありその中に書籍の紹介もあります。
なかなか面白いページですので覗いてみてください。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/haruakira/

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 陰陽道は支那の「陰陽五行説」に基づいて、十二支十干などの天体の運行の配当を考え、さらに方位・年月・日時などの吉凶を判断する、総合的な学門です。 現在のテレビやマンガなどに登場するいわゆる「陰陽師」は、祈祷師や呪術師・修験者・神職と混同、誤解していたり、オカルト的な面のみしか着目していませんが、本来は天体の運行を観測し、歴(こよみ)の作詞、元号の改元などの暦学が本来の目的です。ただし、天文学・暦学は同時に吉凶判断も重要な命題でした。
 この吉凶判断において特に高名なのが、安倍清明です。そのため陰陽道においては、天文は清明の流れを汲む「土御門家」が、歴は「加茂家」が担うようになりました。しかし、加茂家は後に断絶したため土御門家が両者を兼ねるようになります。また、本来は陰陽師は天文・歴の判断であって、祈祷などの儀礼は僧侶・神職の分限でした。しかし、平安後期ごろから陰陽師も宗教的な儀礼を行うようになり、律令体制の崩壊に伴って、陰陽師は本来の職限を超えて宗教色・咒術色が強くなります。
 また安倍清明(921~1005)もその名が国史に登場する、初見も天徳4年(960)に節刀の形状を勘申とあります。つまり40歳です。その後、寛弘2年(1005)を最後にその活躍は見られませんので、85歳以後に没したと考えられます。
 マンガや小説に見られるようなものは、“若いころから平安京の闇で活躍していた”ようなスーパースターの清明像は、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの伝説化、創作されたものを根拠にした、改変(劣化改悪?)であって、その実像とはかけ離れています。

ですので、マスコミで宣伝される、陰陽道も安倍清明も、その実像とはかけ離れた「虚像」といっても過言でもないような気がします。

参照・吉川弘文舘『国史大辞典』 

 

 陰陽道は支那の「陰陽五行説」に基づいて、十二支十干などの天体の運行の配当を考え、さらに方位・年月・日時などの吉凶を判断する、総合的な学門です。 現在のテレビやマンガなどに登場するいわゆる「陰陽師」は、祈祷師や呪術師・修験者・神職と混同、誤解していたり、オカルト的な面のみしか着目していませんが、本来は天体の運行を観測し、歴(こよみ)の作詞、元号の改元などの暦学が本来の目的です。ただし、天文学・暦学は同時に吉凶判断も重要な命題でした。
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Q安倍晴明?清明?

陰陽師で有名な安倍晴明の名前ですが、「晴明」と「清明」どちらが正確な記述なんでしょうか。

名前の由来として、清明節から採ったとか清浄を意味する等があるようですが、だったら「清明」のほうが正確なのではないでしょうか。にもかかわらず、一般的には「晴明」のほうを使うことが多いのはなぜでしょう。

「晴明」も「清明」も同じ読みだからどちらでも良いという事なのでしょうか?
でも有職読みしなかったら「ハルアキラ」と「キヨアキラ」では全然違いますよね?
詳しい方、教えてください。

Aベストアンサー

「晴明」が正しいです。

「清明」と書かれるようになったのは、
鎌倉時代末から室町時代初めに成立した陰陽道の書物
「簠簋内伝」が最初です。
それ以前の史料には「晴明」と書かれています。

元々「はれあきら」または「はるあきら」と呼ばれていたと
思われる晴明ですが、死後の伝説化に伴って「せいめい」の
呼び名が民間に普及し、「清明」の字があてられるように
なったと考えられるそうです。

Q元号について、日本の古典には価値ものがないから、中国の古典から引用するのですか?

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(日本には、価値ある古典が無い、という理由でしょうか?)

Aベストアンサー

中国は日本文化の師匠でした。

文字だって中国からの輸入品です。

平安時代の公文書は、漢語でした。

昔の教養人というのは、中国の歴史や
文学に詳しい人を意味しました。

清少納言の次の逸話はあまりにも有名です。

中宮(定子)様 が「少納言よ、香炉峰の雪はどんなでしょうね」
とおっしゃったので、御格子を あげさせて、
御簾を高く巻き上げたところ、(定子様は)
にっこりとお笑いになる。

「A そういうことは誰でも知っているし、歌などにも詠むけれども、とっさには思いつきもしませんでした。
B やはりあなたは、中宮様にお仕えする女房としては、
ふさわしい方なのでしょう」 と言う。

中唐の詩人、白居易の『白氏文集』に出てきます。
平安時代の貴族は広く漢詩を愛読していたのでした。
「 遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、
香炉峰の雪は簾をかかげてこれを看る 」



つまり、舶来品ということで有りがたいとか
重い意味があったのだと思います。

それが習慣になって残っているのでは
ないですか。

師匠が欧米だったら英語表記になって
いたかもしれません。

中国は日本文化の師匠でした。

文字だって中国からの輸入品です。

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とおっしゃったので、御格子を あげさせて、
御簾を高く巻き上げたところ、(定子様は)
にっこりとお笑いになる。

「A そういうことは誰でも知っているし、歌などにも詠むけれども、とっさには思いつきもしませんでした。
B ...続きを読む

Q安倍晴明の呼称について

当方、趣味で日本文化について調べております。
東アジア圏では「諱」という文化があるそうで、ひとつ気になったことがあったので質問させていただきたいことがございます。

安倍晴明という平安時代の陰陽師の名前は予てから知っているのですが、
この場合彼の諱は「晴明」で正しいのでしょうか。
また、「晴明」が諱であるなら仮名や通称がある筈ですが、当時彼はなんと呼ばれていたのでしょうか。

ご回答いただければ幸いです。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

 安倍晴明の諱である「晴明」の読み方って確定していなかったと思います。
 (はるあき・はるあきら など…。)

 諱を使わないのは、呪殺を恐れてという理由もありますから、陰陽師たる晴明の本当の読みが不明なのも当然かも知れません。

 「せいめい」という読み方は、有職読みだったかと…。
 (敬うべき古人の実名(諱)を音読みにして敬意をあらわすこと。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E8%AA%AD%E3%81%BF

 また、有職読みとは厳密にはいえませんが、読み方が分からない個人に対しても便宜上、音読みする事があります。

 まあ、音読みは鎌倉時代以降に整理統合(1字に30音以上あった物もあった)されていったので、現代では使わない様な読み方だったかもしれません。

 晴明の出生伝説「葛の葉」にて、幼い晴明が「童子丸」と言う名で登場します。
 (もしかすると、これが晴明の幼名(親などが呼ぶ通称)だったのかも知れません。)

 おそらく、一般的な呼称では地位や役職(穀倉院別当や播磨守)を付けて呼ばれていたと思います。

 安倍晴明の諱である「晴明」の読み方って確定していなかったと思います。
 (はるあき・はるあきら など…。)

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 (敬うべき古人の実名(諱)を音読みにして敬意をあらわすこと。)
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Q死刑の今昔

律令の昔から被告人を死刑にする際には地方役所では判断する事ができる中央が裁可していたと聞き意外でした。
江戸時代も代官クラスは軽微な犯罪しか裁けず、死刑などの重大事犯は中央政庁で裁可していたようです。

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