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【沈黙】見て キリスト教布教が悪い訳でもないけど やはり 異国の仏教に立ち入る側も 悪い訳で。 そもそも キリスト教 仏教 イスラム教 て 何も悪い訳でなく 何が違いますか??

A 回答 (9件)

まさしく、どんな宗教も、宗教それ自体が悪いわけではない、と監督は言いたかったそうです。

おそらくは原作者の遠藤周作もそれは同じでしょう。

ただ、昔は情報がありませんでしたから、キリスト教国で育った若き宣教師らは、キリスト教こそが人々を救う絶対のものだと信じていたでしょうし、一方で、異国に行ったことがない仏僧は、仏教こそが絶対だと信じていたのだと思います。

それが実は違っているのかもしれないと気づいたときの心の揺れこそが、どんな拷問にも増して身震いするほどのものだったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

当時はね。 てか 自分の 生き方の 手本になれば 宗派に国境はない。

お礼日時:2017/01/25 22:12

不受不施義(ふじゅふせぎ)とは、日蓮における思想の1つで、不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、不施とは法華信者以外の供養を施さないこと。


日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを平気で受けるなど、次第に変質していった。このような状況の中で、室町六代家足利義教の頃「鍋かむりの日親」とあだ名された日親が不受不施を主張した。
日蓮宗は安土桃山時代に豊臣秀吉が命じた千僧供養に出仕するかどうかで、受布施派と日奥らの不受不施派に分裂し、その後不受不施派はキリスト教と同じく「邪宗門」と位置付けられて江戸時代を通じて禁圧を受けた。そのような状況の中でも派内で内紛が生じ、明治時代になって日蓮宗不受不施派として再興される日堯らの導師派の系統と、同じく明治時代に不受不施日蓮講門宗となる日講らの不導師派(講門派)の系統に分裂、さらに幾つかの派に分派した。


https://ja.wikipedia.org/wiki/不受不施義


~~~~~~~~~~~~~~

仏教でも日蓮宗の一部は弾圧されていたようです。

江戸幕府の宗教政策の問題でしょうね。
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沈黙、映画は、良かったですか?



米国在住、キリスト教徒です。原作を若い時に読みましたが、極限の状態に陥った時の人間の弱さ、そんな状態に陥った時に、自分を頼る人々に、いったい、何をしてあげられるのか、という、テーマであったように覚えています。

別の場所(対談だったと思います)で、もしも、キリストが踏み絵の場にいたら、”踏みなさい、私を踏んで、助かりなさい”と、言うに違いない。。。と遠藤周作さんはおっしゃっておいででした。人間を救うのが、神の役目であると、彼は、そんな風に信じておられました。

宗教は、空白地帯(精神的な飢餓状態にある地域)に、野火のように広まります。仏教が日本に伝来したとき、土着宗教であった神道と、(曽我・物部の宗教戦争はあったものの)大きな摩擦がなく広まったのも、何か、精神的な支えが必要とされていたからだと思います。

キリスト教が伝来したときに、時の政府があれほど厳しく禁教として罰しなければ、いったい、どんな風になっていたか、司馬遼太郎氏は、日本はスペインの植民地になっていただろうと、仰っていました。

キリスト教・仏教・イスラム教が悪いわけではなく、私は、それを手立てに、侵略を企てる、人間の恐ろしさをみます。沈黙のポルトガル人の青年は、同胞を助けに来ただけでしたが、同時代、南アメリカでは、有名なコルテスとピサロが、文化・文明そのものを破壊します。けれど、その手下の、キリスト教の司祭は、それを無残に思い、現地の文化を、詳細に記録してゆきます。コルテス・ピサロが、南米で、残虐の限りを尽くしたのは、キリスト教徒だったからではなく、彼らが、あまりにも政治的かつ軍事的であったからでしょう。

そんな風に、キリスト教以前の文明を失ってしまった南米の人々が、現在、最も熱狂的なキリスト教徒であり、カトリック教の教皇を出したのを、私は皮肉な結末であると思います。

全然回答になっていなかったら、申し訳ないです。
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この回答へのお礼

良かった…のかもしれません。 【踏み絵を踏むか踏まないか】ただ それだけの事なのに 深過ぎます。 捉え方が あり過ぎて 多分ヒットしない映画だと思います!! 【監督は収益より ただこの映画を 自分が誰より先に作りたい 好きな作品だったのかもです。】異教徒が南蛮からはいり 【すがる人間 助けを求める人間】仏教 自分で鍛錬して切り開く精神からすると 殴り倒したくなるほど 情けなく。そんな 思いかもしれません!!キリスト教も【コリントの13章】では よい事を言ってます
それは 自分が水になる事で 救い等求めてません。
これからの 社会は 年金も雇用も期待等でてきませんし 【自分自信】が 仏教とキリスト教を上手く取り入れないといけない…と感じます。

お礼日時:2017/01/24 04:58

1. 信仰と宗教とを分けて考えます。



2. 個人にとっての――その主観内面における固有の時間というような
――信仰とそして 一般に集団にとってのすでに〔なお主観でもありなが
らも〕おのが固有の時を外に出て倫理的な指針や規範となったオシヘをい
だく宗教 このふたつを分けて捉えます。

3. 《宣教というおろかな手段》とパウロも言うように ケーリュグマ
は 信仰の神を伝える基本のつとめと そしてやはり宗教としてのオシヘ
を広めるといった別物の行動とがあります。

4. オシヘは一般にすでに人間の言葉で表現されていますから その内
容を思想・哲学としてみなで考え合って行けばよい。民主的で自由な批判
を互いにおこなう。

5. 『沈黙』は 今般の映画作品は宣伝・紹介の番組を見ただけですが
問題が必ずしも 神学の議論やほかの宗教のオシヘとの比較検討にあるの
ではなく――なぜなら 神論や倫理についての議論は〔経験合理的に成し
得るかぎりで〕すでにほぼ終えているほどである なので――そうではな
く おそらく日本という社会ないし日本人という人間のあり方をどう認識
するかに〔問題が〕ある。と思われます。

6. オシヘは言うまでもなくそれだけではなく神という主題についても 
すべてを相対化して捉えるといった国民性 これが問題とされている。

7. じつは この相対化の方程式は 経験思想としてのオシヘなる内容
については そのまま当てはめても構わない。構わないどころか そうす
るものです。経験思想なのですから。

8. ところがそれと同時に 問題のありかは 神が絶対性なるものとし
て――人類にとってふつうに自然の捉え方として一般に――想定されてい
るものだというところでしょう。

9. つまり 絶対性なるものも なんの顧慮もなく相対化されてしまう。
・・・ここに日本人の思考の習性・ナラハシがあると考えられ そのこと
が問われるようです。

10. 遠藤は この日本人に見られる相対化なる方程式は 思考の習性
として譬えて言えば地獄であり 具体的には人びとの意志や発言がすぐさ
ま大した考慮を払われなくなってしまう泥沼であり 底なし沼であると言
っています。



11. ここまでとしますが 話題としては《踏み絵》を取り上げるとし
ますと これなどは ひと言で言ってじつは 屁の河童です。当時は 大
きな意味を持つと人びとは錯覚したかも知れませんが ぜんぶご破算で捉
えるしかないでしょう。

12. オシヘが 経験思想(つまり相対性なるもの)であるように 何
らかの絵や像も まったくの相対的なものである。この踏み絵のような現
象についてこそ 相対化――つまり のっぺらぼうの原理――を当てはめ
てよいのです。諸行無常というわけです。(そう言わないのが ブディス
トらの阿呆です)。

13. 人びとの持つ相対化の方程式――つまり そういうクセのことで
す――が 絶対性をも相対化し その神の足を引っ張って世の中という底
なし沼の中に沈めるというナラハシの問題。これが 見ものでしょう。作
品をとおしての考えどころでしょう。
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この回答へのお礼

問答みたいで よう理解できませんが。 個人的には 【神様 神様と すがる人間がいて】日本人的には 【こいつらは 阿保か? たかだか この絵さへも 踏めぬのか?】と いらだつ 押し問答みたいにも 見えます。

お礼日時:2017/01/23 19:35

宗教は、論理的な根拠も、科学的な証拠もなく、


信心だけで成立しているので、異なる宗教は
相容れる事なく、また並立する事もない。
互いに相手が悪く、妥協する方法もないのだ。
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この回答へのお礼

素晴らしい即決!

お礼日時:2017/01/22 20:05

NO2です。

追記します。

お礼、ありがとうございます。

しかし、血まみれの宗教に付いては、ノーコメントですか?

さて、

「沈黙」:遠藤周作原作の映画のことですか?
気が付きませんでした。

遠藤はキリスト教徒なので、1冊も読んでいません。
当然、映画も全く興味が有りません。

しかし、神と契約し、悪魔と契約する。
自分の信者さえ、契約でしか判断できない神とは、何でしょうかね?

愛を説きながら、信者を信用しない。
どこが、全能なんだか?

そんなもの信じる人の気が知れない。

再度、独断と偏見で。
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この回答へのお礼

どこらかの 宗教信者さんですか? 自分がポジティブになれる宗教なら どこでも良くありませんか?^_^

お礼日時:2017/01/22 19:48

キリスト教布教が悪い訳でもないけど


  ↑
十分に悪いですよ。
現地を支配するために、キリスト教を布教
させたわけです。

そもそも、キリスト教を外国に布教させようと
したのは、ルターの宗教改革により、プロテスタント
が登場し、カトリックの信者が減ったのが原因です。

信者を増やすために、国家と協力して、アジア
アフリカ、中南米などに布教したのです。

戦国時代に来日したイエズス会もカトリックです。
だから、欧米以外のキリスト教にはカトリックが
多いのです。

その結果、植民地の人間は奴隷化され、
資源などを強奪されました。




何が違いますか??
  ↑
イスラムとキリストは、兄弟宗教です。
あがめる神様は同じ神様です。
解釈が異なるだけです。

対立しているのは、十字軍がイスラム圏を
侵略したのが発端です。

仏教には神はいません。
神がいないから、人間自ら修行し悟るのを
理念としています。
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この回答へのお礼

確かに 今必要なのは 神でなく 自分自身に問うことかも…ね^_^

お礼日時:2017/01/22 19:35

仏教は、農耕民族の精神で、仏様がいっぱい。


互助の精神。

キリスト教、イスラム教、共に狩猟民族の精神。
他の部族を征服して、他の神を否定する。
血を見る宗教。

根本的に異なる。
唯一神教は、綺麗ごとを言っても、征服の野蛮な宗教。
どれだけの人間を殺してきたか。

独断と偏見で。
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この回答へのお礼

なるほど。 確かに仏教は心。キリスト教は神。てか人が死んだら 天国や仏壇に祈るのは 類似!!でも 自分の響き 生きる糧になれば どちらにも 良いネタはあります!?コリントの13章も良いですから^_^

お礼日時:2017/01/22 19:18

> 何が違いますか??



内道と外道の差。

神を建ててしまうと、全ての現象は神の仕業となるが、内道である仏教は自身の生命の中に
原因を見て行く。
この差は大きいよ。
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この回答へのお礼

まぁ 神に救いを求める事 と 自身が修行して苦行 する事は理解してるけど。 今の世の中にも 似ていて 会社に頼るか? 自身を強くするか?^_^

お礼日時:2017/01/22 18:34

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