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 解任…真実は分かりません。でも、容疑者が「罪を認めて刑に服したいと思っているのに弁護士が勝手なことを言うから解任した」という話をそのまま受け入れることができずに腹を立てています。私個人の意見で恐縮なのですが、宅間守容疑者について未だに許す気持ちにはなれずにいます。それは「人権至上主義者」があれやこれやと申し述べる以前の問題で、「本当に、あの宅間がそう言ったのか」という驚きが先行しているのです。
 私個人は宅間容疑者を、金輪際許す気はありません。彼は自分の罪を認め「極刑」に服すべきだと思うのです。でも一方で、「え? なんで? 何であの鬼畜が自分の罪を認めたの?」と、思いもかけぬ展開になって驚いてもいるのです。思いはそれぞれに輻輳し、今のところ「警察発表」に過ぎませんが、もしそれが宅間容疑者の本意ではなく捏造されたものであったとするなら…。警察発表が信用できるものであったならここまで異を唱えることもなかったでしょうに、最近の杜撰な「警察発表」があるがために今ひとつ信用できないままでいます・・・と言うより何が本当なんだが分からずにいます。宅間守容疑者は本当に自分の意志で弁護士を解任したのでしょうか? 何の罪もない子供を殺傷しておきながら、「俺は罪を悔いてる。だから死刑にしてくれ」と叫ぶだけで自分の罪を購おうとしている宅間守容疑者とは、本当に一体何者なのでしょうか? 自分の子供が被害者でなくとも、私は自分の命に替えても宅間容疑者を刺しに行くだろうと思いました(少々物騒 (^_^;))本当に幼い命のご冥福を祈るのみです・・・。

A 回答 (21件中1~10件)

管理人さんからのご指摘があったとのことですので、今回は手短に。



>上記のわたしの私的な例でいえば、「例えそれが真実でも、言ってもどうしようもない事は、伝えないのが、大人の人間関係だよ」と、わたしの周りの誰もが言います。わたしもそう思います。

確かに、自己満足に過ぎないこともあるかと思います。その真実を明かされる相手の気持ちなどもあるかと思います。ですが、桶川のストーカー殺人の全容は、「真実を明かそう」と言う気持ちがなければ、警察の失態や被害者の本当の素顔が明かされることはありませんでした。諸刃の剣ですが、間違った使い方をしないように考えていくことが、やはり私には大事だと思います。伝えられたほうの気持ち等など考慮しないといけない点は、もちろんあります。それでも、私にとってはやはり「真実が一番正しい」です。隠すことが大事なときもあるのかもしれません。でも、やはり私はそう思うんです。

>実はこのつぶやきがどういう文脈から発せられたものかよく分からないのですよ。

人の気持ちのありようには、どんなものも影響は与えても、決定することはできないということが言いたかったんです。罪を行わないという気持ち・謝罪しようと思う気持ち・罰しようとする気持ち。悲しんでいる訳でも、斜に構えている訳でもなく、本当に純粋にそう「思った」としか言いようがないのですが、当たり前のことなんですけど、「人の気持ち」「心のあり方」それ自体が、ホントに難しいものだなぁって。

最後になりますが、masatoshi-mさんをはじめ、とても貴重なご意見を聞かせていただきましてありがとうございます。言葉足らずなところもあったかと思うんですが、有意義なお話ができたことをありがたく思っています。最後は、時間もなく、尻すぼみになってしまい申し訳ありません。それでは。。。

この回答への補足

 今回の皆様とのやり取りを通じて私自身かなり救われ、癒されたようなところも少なからずあるような気がしております。事件から遥か遠い位置にいたはずの私ですら無意識に、知らぬ間に、こんなに傷ついていたのかと思うと、事件の近くにおられた人たちの心の傷は如何ばかりかと、またもや切なくなり、怒りが込み上げてきます。
 今回の私の質問にご回答をお寄せ下さった皆様に深く篤く御礼申し上げます。また何かあったときにはこれに懲りずにお付き合いをお願いしたいと思っておりますが、多くの方から「もう勘弁してくれ」と言われそうな気も…(^_^;)

 今回お寄せ下さったご回答はすべて私には良回答でした。それでも敢えて二つだけを選び取らなければならないのですから、く、く、苦しい…。なにとぞ私の《独断と偏見》をお赦しくださいますように…・
皆様、またどこかで。

追伸
管理者様へ…「教えて!goo」の趣旨を充分把握できず、管理部の皆様に
思わぬご迷惑をお掛けしてしまったことをここに深くお詫び致します。
以後このようなことのないよう、注意したいと思います。
まことに申し訳ありませんでした。

補足日時:2001/07/09 18:25
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この回答へのお礼

管理者様から「2、3日以内で締め切れ」との要請がなければ
もう暫くnaechinさんのご意見をお伺いし、
今後の参考にさせて頂きたかったのですが、最早時間切れとなってしまいました。あれこれとお聞きしたい点も整理していたのですが、
それも今や皆反故となってしまいました。
またadelaideさんとのやり取りは非常に興味深く拝見させて戴いており、
機会があれば私なりの考えも表明させて戴こうと考えていたのですが、
最早手遅れのような…。
管理者様から「一部の人たちの議論のようになっている」
とのご指摘を受けましたが、
質問者の私がこうした意見のやり取りの中から回答らしきもの、
その手がかりとなるようなものを発見しつつあることまではご理解戴けなかったようです。でも「教えて!goo]の趣旨は趣旨。管理者様のご命令に従います。
残念ですが今回のこのnaechinさんへのお礼文と、
ご回答をお寄せ戴いたすべての皆様へのお礼文を最後に補足欄に書き込みまして、私のこのスレッドを終了致したいと存じます。
naechinさん、本当に何度もお付き合い戴き、深く感謝申し上げます。
naechinさんとは「人が人を裁くことのおごり」について
少しばかり意見を交わし合いましたが、事件への思いや、法曹界の抱える問題・
矛盾についての見解はそう大差ないことを理解し合うことができ、
また確かな人生観の確立も伺えることができ、
ホントに充実した(私だけ?(^_^;))対話ができたと感謝しております。
また「人が人を裁くことはおごり」という言葉が良心的な裁判官の口から出ていたことも教えて戴けました。
そしてそれを聞いて私は「さもありなん」と深く深く納得できたのでした。
思考方法が官僚的、事務的になり、犯罪者を高みから裁くだけのような、
血の通わない《一部のばか判事》(←これはnaechinさんの言葉。(^_^;))には生じ得ない《葛藤》《懊悩》だからです。
その善良な判事はこの言葉を《判事心得・その一》として
長く後生の判事たちに伝えてゆくべきでした。
「但し、これを口外することは万死に値する」と言い添えて…。

adelaideさんとnaechinさんの論点を、まことに僭越ながら、私なりに簡単にまとめさせて頂くと
つまりは以下のようになるのではないかと存じます。

adelaideさん
 時に《真実》は残酷過ぎたり重過ぎたりして子供の心(時には大人の心ですらも)では支え切れない。従ってその辺りのコントロールはやはり我々大人たち(配慮すべき周囲の人たち)のすべき仕事だ。

naechinさん
 いや《真実》こそが人間を鍛える。仮にその真実が子供(時には大人)にとって重過ぎるものであっても、その重さに耐える方法、考え方を教えてやることこそが真の教育なのではないか。

簡単にまとめ過ぎましたが、勿論論点は他にもいっぱいあって、
私もこの整理の仕方にかなりの不安を覚えています。
ですので、私の能力で拾えるところは極力拾いながらコメントさせて頂きます。
(でももうそれも少なめにしておきますね)

《真実》とともにその受け止め方をしっかり伝授できるならほんとに素晴らしいでしょうね。
そして事実それは親の責務であり、大人たちの義務でありましょう。
ですが現実を見渡したとき、即ち現実社会に即して言うなら、
あまりに親の責務を果たしていない親が多過ぎるし、
あまりに大人の義務を放棄している大人たちが多過ぎます。
そして仮に《真実の正しい受け止め方》を伝授したところで、
それが本当に正しい伝授の仕方なのか、
それが意図するところで正しく子供たちに捉えてもらえるのか、
という問題も生じて来るように思います。
一つの事実に多様な側面があるように、《真実》の姿もまた極めて多様で、
その把握の仕方は一筋縄ではいきません。
考え出せば何が一体《真実》なのか、
ということすら分からなくなりかねないほどです。
そうした意味では下手なタイミングで真実を語ることは非常に危険なことになりかねません。

>確かにそうかもしれません。ですが、必要な過程というのは一体、いつどこで発生するのかは、誰にも分かりえないことです。

分かり得ないからこそ慎重になる。
しかし、「それでも私はそこをチャンスだと捉えて踏み込む」というのがnaechinさんのお考えですね。
こういう種類の話は「何が間違いで、何が正しい」という判断はできません。
「善悪の彼岸」にあるものであり、
強いて言うならお互い意見の相違を認め合うことが大切なのでしょう。
その意味でそれぞれの見解の相違は正邪善悪を超えて認められ合うべきだと思います。
ここで問われるべき唯一大切なことは、
その信念に基づいて責任を持ってadelaideさんが、
そしてnaechinさんや私が親として大人としての責務を果たして行く
ということでしょうから…。
 私は皆目見当のつかないときには敢えて踏み込みません。
いくらかでも想像でき、予想ができるときなら別ですが、経験値に即して、
まるで判断できないときには一歩踏み込むことに慎重になり、臆病になります。
対象となるのは《生きて動く心であり、予想もつかないほどに微妙な心》だからです。
そして踏み込めない私は取り敢えずショックの度合いを減らす手立てから考えるでしょう。それが或いは「かつら」となるかもしれません。

>「おばあちゃんが一生懸命ガンと戦っている」というのがおきざりにされてしまっているような気がします。

これはとても大切なことを指摘なさっています。
「人は病気にかかるのであり、つらい厳しい思いをしてそれと闘うのだ。
悲しいことだけども、それでも頑張っているのだ」という姿を
子供たちに伝えることは大切なことです。
我々の子供の頃は多くの死を「家の中」で見かけたものです。
病院という建物によって隔離された「死」ではありませんでした。
死は日常であり、非日常的空間の中に収まっていたものではなかったのです。
残念ながらこうした経験が現代の社会では《隔離》されていますので、
子供たちも実感として《死》は《生》の延長上にある、
《生の一つの形》として了解ができにくくなっているようです。
こうした闘病の真実の姿はしかし直接的な映像としておばあちゃんの、
闘病による禿頭を見せずとも可能なはずだし、
いきなり病気の真の姿に迫るようなことをする必要がないなら、
ショックを和らげる方法を取ることもあり得るだろうと思います。
このことはnaechinさんも

>このたとえ話にしても、おばあちゃんのお孫さんに対する愛情の一環だと思いますし、行為自体を責める気もさらさらありません。

と全面的にお認めになっていらっしゃるとおりですね。
しかし繰り返しになって恐縮ですが、naechinさんは更に一歩踏み込み
「髪の毛の抜けた頭」とともに真実に迫れ、とお考えになり、
adelaideさんは「いや、禿頭を隠し、極力ショックを和らげる方向で」と
お考えになる。そのどちらが正しいかなんて判断できませんし、
する必要もありませんね。
大切なのはそれぞれの方法にそれぞれが責任をとることです。
しかしこの例え話の背後にはもっと本質的な現代社会の抱える問題点が控えている。即ち、「情報規制」…。
お二人ともこの点について意見を一にしていらっしゃいます。
即ち「情報の垂れ流しは甚だ困るし、迷惑だ」と…。
vitamin-powerさんも同様のご意見を寄せられていますが、
当然の事ながら「垂れ流しでよい」と考えている大人は、
それによって儲けようとしている者以外、皆無でしょう。
制限があるのは当然だし、また制限されているのが実状でもあります。
そして制限されて尚今の現実があるということです。
じゃあこれ以上の制限は無理なのか、これが制限の限界なのかと言えば、
頷く以外ないでしょう。これがいっぱいいっぱいです。
「儲けられるなら何でもする」という誘惑は余程強烈で、
人間的良心を軽く凌駕してしまうということなのでしょう。
足ることを知らなくなった、野に放たれた欲望は、
奇っ怪な笑い声をあげながら歪な形に膨れ上がっていくのです。
これもまた人間の真実の姿の一部として受け入れなければなりません。
その上で我々は一体何ができるでしょうか。
それこそadelaideさんやnaechinさん、vitamin-powerさんが何度もお寄せ下さった回答そのものの中にあると思うのです。
各人、方法に多少の違いこそあれ、やはり自ら人生や社会に責任を取ろうとお考えになっていらっしゃる方々ばかりですし、
その覚悟の表れとしてご回答の文章をお寄せ下さいました。
少なくとも私にはそう読み取れました。

>人の持つ残虐性を見つめた上で、それを抑止する能力を育てていかなければいけないです。それがない限り、所詮、上辺だけの成長で、そんな成長は、ちょっとしたことでメッキは剥がれ落ちます。意味がないですね。

 これは意見そのものには全く異論はないですね。
それはおそらくadelaideさんも同じお気持ちではないかと思うのです。
やはり人間の残虐性は事実として過去も存在してきたし、今も存在しているし、
これから先も永遠に存在し続けるであろうからです。
この事実から目を背ける訳にはいかない。
しかしそれを抑止する能力を育てていくのにはそれに相応しい時期というのが人間にはあるのではないかとadelaideさんは、真実を暴かれる側の切ない気持ち(癌と闘病しているおばあちゃん)も忖度しつつ、疑義を挟んでおられるわけです。
どちらかと言えば私もその意見に賛成です。
繰り返しますが、賛成だからといってこれが正しいのだと言っているわけではありませんし、また言えるはずもありません。
強いて言うなら《責任感を伴った人生観》を確立しあった者同士の、
その人生観の相違だということでしょう。
そういう人生観を確立して、その上でお互い、自分自身の人生を引き受けている。
また引き受ける覚悟が問われているだけです。

>桶川のストーカー殺人の全容は、「真実を明かそう」と言う気持ちがなければ、警察の失態や被害者の本当の素顔が明かされることはありませんでした。

この辺りに来るとどうやらadelaideさんとnaechinさんの《真実》という言葉のニュアンスがかなり違ってきているように思われます(「いや、おんなじだ」ということならごめんなさい。(^_^;)…m(__)m) 
真実を追求することはお二人とも大切なことだと仰ってるわけで、
しかしながら「それを伝えるべき相手を見間違えてはいけない」というのがadelaideさん。「いや事件の繰り返しを防ぐべく、なるべく多くの人が事件の真相を知ることが大切だ」というのがnaechinさんです。
とすると、ここら辺りはど~も議論がすれ違っていて、
噛み合ってないよーな…(^_^;)。
済みません。これでスレッドを締め切りますので、
お二人とも異論があるかもしれませんが、
私の勝手な決め付けをお赦しくださいませ。(汗汗汗…(^_^;))

>最後になりますが、masatoshi-mさんをはじめ、とても貴重なご意見を聞かせていただきましてありがとうございます。

naechinさん、こちらこそ本当に長い間お付き合い戴き、有難うございました。naechinさんにも感謝し切れない思いでいっぱいです。
naechinさんの、そのテンポアップな軽快でリズミカルな文章も心地よいものでした。

>言葉足らずなところもあったかと思うんですが、有意義なお話ができたことをありがたく思っています。

《言葉足らずの思い》は皆さん共有されている思いだろうと愚考しております。長々と書き込んで来た私ですらそうですので・・・(^_^;) 
感謝しなければならないのは私の方です。

>最後は、時間もなく、尻すぼみになってしまい申し訳ありません。

いえいえ、これだけお付き合い頂けたのですからもう充分です。
また「尻すぼみ」はお互い様です。(^_^;) 
今はただ、《永きに亘ったお付き合い》に深く感謝するのみです。
naechinさん、本当に有難うございました。

それでは管理者様とのお約束どおり今夜午前1時にポイントを発行して締め切りとさせて頂きます。(これにて私めは一旦失礼して、今からたんとたまってしまった仕事をば…(^_^;))
と、ここまで書いてきて管理者様よりメールがありました。
そうでした。うっかりしておりました。9日午前1時とは今日の夜のことではなく
昨夜のことでした。私の考えていたの日時では10日の午前1時ということになります。失礼しました。これから1時間後に必ず締め切らせて頂きます。
管理者様、あと1時間のご猶予を。m(__)m

お礼日時:2001/07/09 18:20

こんにちは!


No.17の回答を、ご質問に対する直接的な回答ではないとの事で、削除となってしまった「バツイチ」のadelaideです!
(管理者様、申し訳ありませんでした。ご指摘の通りです)

>実は管理者様側から、「一部の人たちによる議論のような感じになってきているから早く締め切れ」とのお達しを受けております。「貴方の方で締め切らなければ管理部の方で勝手に締め切らせてもらう」とも。ですのでもうすぐこのスレッドは締め切らせて頂こうと考えております。皆様方にはお付き合い戴き本当に感謝しております。特に何度も足をお運びいただいた、adelaideさん、naechinさん、そしてvitamin-powerさんには感謝しても感謝し切れません。意見の交換を通じてこそ得られた多くの識見、考え方、判断、立場を知ることができました。改めて御礼申し上げます。

とのことで、少々残念ですが、皆様、お別れですね。
わたし個人としては、確かに参加者の少ない議論形式になってしまってはいましたが、「教えて!goo」の名前の通り、皆様のご回答から、色々な視点に立ってのお考えを拝見でき、まさしく「教えて」頂いた事がたくさんありました。
今回の宅間容疑者が起した悲惨な事件にまつわるあらゆる視点からの考えは、基本的には相通じていたと感じられます。
皆様のご意見ひとつひとつが納得のいくものであり、しかしながら・・・と細かい点での相違する部分を確認しあっていたような感があります。


「わたしの回答に対するmasatoshi-mさんのお礼文から」
>>最近、仏教に興味を持ち始めたわたしとしては、殺されてしまった子供たちの魂は、極楽浄土で幸せに暮らし、宅間容疑者のことを許してあげていて欲しいと思います。仏になるということは、全てを許せると言う事で、それはまた成仏でもあるからです。(これは、わたしの理想論です)

>私も本来「人間は神の子仏の子」だと信じています。その意味で、adelaideさんの仰ることは理解できます。ですが、昨日報道されていましたが、同じマンションに住む家族ぐるみの付き合いをしていたという主婦が友人の赤ちゃんを殺した事件があって、その殺された方のお母さんがインタビューに応じておられましたね。「私は一生彼女を許さない」と…。

もしわたしがそのお母さんの立場でしたら、同じ事を考え、言っていたと思います。それが当然であり、それでいいのだと思います。ただ、その気持ちとの戦いは一生を通じて持ち続ける事になるのだと思います。
生きて行くと言う事は四苦八苦だと言いますよね。
確かに、そのお母さんのお立場で考えると、人生は厳しいですね。


>>被害者の主体性は、ご遺族によって守られていると思えます。

>ということならば、やはり今回殺された小学生たちも宅間容疑者を許すことはないのではないでしょうか。許せることが仏になることならば、死んだあとも仏にだけはなりたくないと思っているのではないでしょうか。

それは、極楽浄土へ行けない事=成仏できない事ですよね。
あんな残忍な殺され方をして、一方的に命を奪われ、なおも成仏できない=心安らかに過ごせないなどという事は、あまりにも可哀想過ぎます。
わたし個人としては、殺された彼等は、許すとか許さないといった拘りの存在しない浄土にいる訳ですから、そんなことは決してないと思います。
娑婆で生きる人間の拘りなだけだと思います。
(仏教徒でない方は、それぞれの信仰される宗教で置き換えて、良き方向にお考え下さい)


>>肉親である被害者の感情を代弁できるのは、唯一ご遺族のみに許される事だと思えます。

>その被害者のご遺族が「一生許さない」と仰っているのです。それがそのまま被害者の感情でしょう。この理屈から言うならそう考えるのが一番理に叶っています。

上記のあらたなわたしの意見ですと、矛盾してしまうのですが、これもまた、娑婆に生きるご遺族と、わたしたちを含む他の人間達の問題で、第三者の人間にとっては、「被害者の子供達は、きっとこういう気持ちだったと思う」と発言する事は、悪意が無くても、無責任な推測にしか過ぎず、同様に推測だとしても、被害者の子供達の気持ちを発言できる「権利」があるのは、唯一、ご遺族のみではないでしょうか?という考えです。
(・・・何だか上手く説明できていないかもしれませんね。)

それから
「naechinさんのご回答」に対して
突き詰めれば、
>真実が一番、人を動かします
というこの一言に、わたしは拘っていたんですね。

実は、わたしは最近、とても大切な存在の人を亡くしまして、精神的に、薬を服用する必要のある状態になっています。(かなり軽度だとは思うのですが・・・)
先日、亡くなった人の四十九日が過ぎたばかりのある日、友人が、噂話で聞いた20年以上も前の彼にとってマイナスな事を、わたしの耳にわざわざ入れるのです。
その友人の言い分は、「自分が知ってしまった事実だから、だまっている事は今後のわたしたちの友人関係によくないし、自分もだまっていることはつらい」というものでした。
しかし、その情報は、亡くなった人とわたしの人間関係を根底からも覆すような内容でしたので、わたしは違った状況で、精神的な状態がまた悪くなってしまいました。
20年も前の事で、人の噂話で、まして当人が亡くなっている、答の出ない事を、いくら真実(噂話としての真実で、実際の真実は永遠にわかりません)とはいえ、人の耳に入れるという事がおきた現実。
自分が亡くなった人の立場になって考えると、自分が死んでも、尚、誰かがどこかで自分に関するマイナスな事を話しているなんて、この世は本当に、魑魅魍魎が跋扈する恐ろしい所だとも思えました。
でも、結局、仮にわたしが亡くなった人の立場だとすれば、他の誰かが自分のことをどういう風に言おうと、残った彼がわたしの人となりを考え、信じていてくれればそれでいいのではないかと確信し、現在気持ちは落ち着いています。
前置きが長くなりました。
真実をそのまま伝えると言う事は、時に、自己満足にしか過ぎない事があります。
そして、naechinさんの前回のご回答の文面からのみ捉えさせていただくと、真実を知らされ、それを受けとめる立場の人間のみに焦点をあてられていると感じますが、人には誰にでも、他の人に知られたくない真実があり、あの癌と戦っているおばあさんの立場で考えると、おばあさんは自分の髪が抜けてしまった事は、人には知られたくないんですね。
真実を明かにされてしまった立場の人の感情というものもあるのです。

その点は、これまでのご回答の文面から、naechinさんはご理解なさっている方だと思って居ります。
ただ、今回の事件を含め、明かされたくない真実を明かされてしまった人の立場を考えると、昨今の報道その他を含む社会情勢の中で、
「真実が一番、人を動かします」と断言して頂きたくなかったのです。

上記のわたしの私的な例でいえば、「例えそれが真実でも、言ってもどうしようもない事は、伝えないのが、大人の人間関係だよ」と、わたしの周りの誰もが言います。わたしもそう思います。

もしわたしが、宅間容疑者や宮崎勤容疑者に子供を殺された母親の立場でしたら、例え事件後、どんなに時間が経過し、どんなに貴重な犯罪心理学の書物だとしても、自分の子供が刃物で刺し殺された事件の詳細などは、他人に対して明らかにして欲しくはないと思えます。

長い回答になりました。私的な部分は、決して被害者意識に陥っているとは思って居りませんが、話半分程度でお読みいただければ幸いです。ただの例え話です。

皆様、たくさんのご意見を拝見させて頂き、本当にありがとうございました。
心からお礼申し上げます。
本当に「教えて」頂く事ばかりで、貴重な体験でした。
masatoshi-mさん、素晴らしいご質問をありがとうございました。
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この回答へのお礼

adelaideさん、収束に向かうに相応しい、
美しい文章のご回答をお寄せ下さり、まことに有難うございました。
adelaideさんからは合計6(7?(^_^;))回も
ご回答をお寄せ戴いたことになりますが、
回を追うに連れて文章の姿が美しくなってきていたことに、
実は驚いています。
もともと勢いのあるしっかりした文章だとは思っていましたが、
凛とした美しさを感じ始めたのは実は3度目のご回答辺りからでした。
そして最後に寄せられたこの文章。
一読心洗われるような思いのする、美しい文章でした。
正直、息を呑みました。
山深い渓谷で清流のせせらぎの音に耳を澄ませているような、
そんな雰囲気を漂わせた文章。もうそれだけで満足です。
今回は私もいちいち噛みつく(?)(笑)ようなマネはしませんね。
長いお付き合いに深く感謝を申し述べるのみです。本当に、有難うございました。そしてまたどこかでお会いしたいものです。

>masatoshi-mさん、素晴らしいご質問をありがとうございました。

adelaideさん、こちらこそ本当に本当に有難うございました。
お礼の気持ちは言い尽くせませんが、
そしてこうまで長いお付き合いをさせて頂くと、
名残惜しさが後ろ髪を思い切り引いたりもするのですが、やはりお別れです。
しつこいようですが、繰り返します。有難うございました。
この質問は管理者様のご要求どおり、2、3日以内、
即ち9日午前1時をもって締め切らせていただきます。
皆様へのお礼は改めまして補足の欄にでも書かせて頂きとう存じます。
それでは取り敢えず、今回はこれで…。

お礼日時:2001/07/07 19:17

前回わかったような事をながながと書いてしまいましたが、やはり自分で読み返して見てもおかしな点がありました。

推敲不足で申し訳ありません。
刑罰が罪の重さを図る尺度ではない、というのは、masatoshi-mさんの御指摘の通り、明らかに間違いですね。適正かどうかは別の問題として、尺度であることは明白でした。
贖罪の気持ちが芽生え、心から反省するのに必要な期間という意味で、刑罰の重さはそれを正しく示してはいないのではないか、という事が言いたかったのでした。

被害者当人の気持ちと御遺族の気持ち、という点については、エスカレートし過ぎました。
言葉は悪いですが、遺族の所有物という側面も確かにあるのであり、大切なものを不当に侵害された被害者としての立場も大いに尊重されるべきだと思います。

それから、masatoshi-mさんの御質問の主旨、というものが、少し解ったような気なったのですよ。
改心して罪深さに気がついて良心の呵責に死ぬ程苦しんで涙を流して謝る事の方が、何の反省もなく事務的に法の裁きに従うだけよりは本人が苦しいはずで、被害者側にとっても望ましいのではないか、という立場でしか考える事が出来ませんでした。
しかしながら「お前なんか人間に戻ってくるな!」という気分もあるな、と気付いた次第です。更生なんか促してやる必要はない、「人間」に戻る資格なんかない、という感情。

私は確信犯的な少年犯罪や暴走族の傍若無人な振る舞いを見る度にそのような事を感じてます。彼等の被害者は少なくないでしょうし、直接的、間接的な殺人も多く報道されています。普通の人間であれば、法がどうあろうと備わった道徳観や倫理観で自制できるものだと思います。「若いうちは無茶をして、結婚したら落ち着く」「いつまでもバカやってられない」などと、ある程度の年齢になったら普通の人間の顔をして社会に生息し、たまには自慢げに「昔はかなりワルかった」などというのは許されて良いのかという気分になります。
昔の悪たれ小僧とは質が違うと思います。組織的で残虐で程度を知らない。過激な事を自慢するようなムード。彼等を更生させてやる必要があるのか、被害者は、亡くなった人はどうなる、という理不尽さを感じます。
masatoshi-mさんのお気持ちも、これと同じベクトル上にあるのではないかと思ったのですが、違ってたらごめんなさい。

少年犯罪を例に上げた事で、また論点が広がってしまうのではないかと心配しております。
私の個人的な思いですし、発言の意図は少年法の問題点などではないことを確認しておきたいと思います。

情報公開とか臭いものにフタ、という事については、結論から言えば制限が必要、ということになります。
子供も大人も、皆ストレスに耐えかねているのか、今や人気のVシネマや少年・青年マンガなどは暴力だらけです。レンタルビデオの邦画コーナーはヤクザ物であふれ、マンガの主人公も暴走族であったりヤクザであったりで、設定も突飛ではなく、ある程度リアリティーの感じられるものが大流行です。娯楽は暴力とセックスに席巻されている感があると思います。
大人も子供も、みんな非社会的な行動に憧れている部分があるのではないでしょうか。その類いのものでカタルシスが得られるのなら、欲求が抑圧されていると言えるような気がします。
人間性を欠いた者、自制する力のない者、独善的な者、理解の足りない者、ドロップアウトを決意した者などは、こういう反社会的な事に容易に導かれる情報の中にあると思います。

表現の自由や商業主義の真実(売れるものを売る)などから、実現は非常に困難だと思いますが、暴力や反社会性などを子供の憧れにしてはいけないと思います。それが共通認識になれば、表向きはともかく、暴走族は尊敬され、社会に反抗する事はカッコイイという事になってしまうのではないでしょうか。
まあ、大人が喜んでみているビデオがヤクザ映画ばかりでは話になりませんが。

最後に、私の気持ちはあいかわらず「宅間容疑者に謝ってほしい」です。遠い世界の、映画の中の出来事のような受け止め方だからなのかもしれません。私のバイクを盗んで改造してうるさく走り回る暴走族のようにもっと身近に感じられれば 、masatoshi-mさんに心から共感するのではないかと思います。

この回答への補足

 ああ、vitamin-powerさん、有難うございます。今夜はもう眠いので、改めて明日お礼を書かせていただきます。私の心情をお汲み取り頂き、有難うございます。では改めまして、明日…。

補足日時:2001/07/06 02:22
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この回答へのお礼

>刑罰が罪の重さを図る尺度ではない、と
いうのは、masatoshi-mさんの御指摘の通り、明らかに間違いですね。適正かどうかは別の問題として、尺度であることは明白でした。

この件に関しては私も書いた後で悩みました。言葉の揚げ足を取るような書き方じゃなかったのかと…
vitamin-powerさんも

>贖罪の気持ちが芽生え、心から反省するのに必要な期間という意味で、刑罰の重さはそれを正しく示してはいないのではないか、という事が言いたかったのでした。

とお書きになっていらっしゃるとおり、
私にもそういう文脈であろうことは理解できたからです(その場ですぐではなく、あとから読み返してみて)。済みませんでした。

>被害者当人の気持ちと御遺族の気持ち、という点については、エスカレートし過ぎました。

ええ、これはさすがに私もコメントのつけようがありませんでした。(^_^;)
あとからnaechinさんが

>被害者当人の感情と言うのが分からない限り、ここはどうにもこうにもしようがないと思います。所有物と言う感情ではないと思いますが、「自己満足」でしか、もしかしたらないのかもしれませんね。そこは、何とも言える所ではないと思います。ですが、そこは「遺族」というのが一番「被害者に近しい存在」と言うところでとらなければ、「遺族の感情を考慮して」と言うのも生まれなくなってしまいますので、本人の気持ちを聞けない以上は正解かどうかの答えはでないですよね。

とのコメントが付されていましたが、まぁ、その辺りで…。(笑)

>それから、masatoshi-mさんの御質問の主旨、というものが、少し解ったような気なったのですよ。

これは正直、嬉しく読ませて頂きました。

>しかしながら「お前なんか人間に戻ってくるな!」という気分もあるな、と気付いた次第です。更生なんか促してやる必要はない、「人間」に戻る資格なんかない、という感情。

そうですね。vitamin-powerさんが書いて下さったような思いが私を領していました。ご遺族の皆さんに「ああ、奴は人間じゃないのですよ。ケダモノなのです。人間の皮を被っているだけです。どうかそう思って諦めてください。同じ人間のする所業かと思えば怒りも頂点に達するでしょうが、同じ人間などではありません。どうか、ケダモノに襲われたと思って…」そんな思いでした。勿論何の慰めにもなっていませんが、その事件の悲惨さ、遣り切れなさが、せめてそのように考えることでいくらかでも癒されるのではないかと…。いや、本当に癒されるかどうかはまた別問題です。飽くまで勝手な私の思い込みです。ああいう事件を起こす人間が我々と同じ人間だとは認めたくなかったわけです。人間なら謝罪もするだろうが人間でないなら謝罪などしない。幼女連続殺人の宮崎勤被告が未だに謝罪の言葉を口にしていないというニュースを聞いて実は独り密かに納得し、安心しています。どうしてああいうすさんだ犯罪を犯せる奴らに人間らしい謝罪の心など…。「更生して立ち直ってほしい」と思うには《限度》を超え過ぎているのです。

>昔の悪たれ小僧とは質が違うと思います。

そうですね。暴走族によるむごい人殺しの事件も多発しました。彼らに対する私の思いもvitamin-powerさんと全く同じです。程度が低過ぎます。

>少年犯罪を例に上げた事で、また論点が広がってしまうのではないかと心配しております。

いえ、どうぞご心配なく。論点は広げません。実は管理者様側から、「一部の人たちによる議論のような感じになってきているから早く締め切れ」とのお達しを受けております。「貴方の方で締め切らなければ管理部の方で勝手に締め切らせてもらう」とも。ですのでもうすぐこのスレッドは締め切らせて頂こうと考えております。皆様方にはお付き合い戴き本当に感謝しております。特に何度も足をお運びいただいた、adelaideさん、naechinさん、そしてvitamin-powerさんには感謝しても感謝し切れません。意見の交換を通じてこそ得られた多くの識見、考え方、判断、立場を知ることができました。改めて御礼申し上げます。

管理者様、お約束どおりあと少しで締め切りますので、今しばらくお待ちください。もう収束に向かいたいと思います。

>情報公開とか臭いものにフタ、という事については、結論から言えば制限が必要、ということになります。
 
以降の文章に関しましては、adelaideさんnaechinさんの「意見の交換」に絡んでいる話題となりますので、私も改めて意見をまとめてここに書き込みたいと存じます。と言っても、ここ一両日中にしないと締め切られてしまいますが…。

細かいところでは必ずしも意見の一致は見られないかもしれませんが、私は、その豊かな良識に裏打ちされたvitamin-powerさんの見識に触れられたことに深く感謝しております。度々のご回答、本当に有難うございました。

お礼日時:2001/07/07 00:22

masatoshi-mさんにもご同意をいただきましたので、私の方もこれで心置きなく(笑)、お話させていただきますね。



>「くさいものに蓋」と「モノを規制する事」は、全く異質の事だと思います。
例えば、「くさいものに蓋」は、子供たちを人として扱わないような偏差値教育であり、「モノを規制する事」は、営利目的で節操のないモノを生産し続ける隠れたる犯罪者達への規制という事です。

この辺は、私の「垂れ流しがいいこととは思わない」ということと同じだと思います。ただ、全てが「営利目的」なのか?そして、垂れ流されている以上、そこを規制するのは難しいです。下手をすると「情報保護法」や「言葉狩り」と同じレベルになってしまう危惧もあることもある以上、抑止することは、かなり難しい作業ですし、感情論にも成りかねません。その上で、対処法の検討を私は考える方が前向きだと思います。

>そして、やがて剥がれ落ちるメッキではなく、ゴールドやプラチナのハートを持つ人間に成長するには、人それぞれの成長時期があり、必要な過程もあります。

確かにそうかもしれません。ですが、必要な過程というのは一体、いつどこで発生するのかは、誰にも分かりえないことです。このたとえ話にしても、おばあちゃんのお孫さんに対する愛情の一環だと思いますし、行為自体を責める気もさらさらありません。ですが、そこで見えなかったものはどうなるのでしょうか?極端な例え話で恐縮ですが(子供が恐怖でひきつけを起こすと仮定しますね。)、おばあちゃんのお見舞いに行って、おばあちゃんではひきつけを起こさずとも、他の治療中の方を見てしまった場合はどうなるのでしょうか?もちろん、「自分のおばあちゃんである」というのも理由の一つになるでしょうが、そこで見なくても、何かの拍子で見てしまった場合はどうなるのでしょう?「嫌な顔をしちゃダメよ」というのもおかしな話で、そこにあるのは「おばあちゃんが一生懸命ガンと戦っている」というのがおきざりにされてしまっているような気がします。

変な話、いいタイミングな訳です。そこできちんと説明することによって、受け取るものもあるはずです。皆、大人になると忘れてしまいがちですが、子供はそんなにバカじゃありません。表現方法を知らないだけで、色んな事を考えています。「子供だから」ではないです。「子供だからこそ」です。ハンセン病・エイズ・身体障害者。。。諸々、結局すべて「無知からきている偏見」です。発育過程においてと言っても、小学生は小学生なりに色んな事を考えているし、それこそ強者ではなく、私にすれば子供を見くびりすぎだと思います。

あえて真実を告げないことも優しさかもしれません。もちろん、がん告知の問題とも通じることがあると思いますしね。でも、実際に起こってしまっていることに関しては、なるべく前向きに真実を見つめつづけなければ、結局曲解してしまう結果にもつながってしまうと思います。

後、vitamin-powerさんのご意見に関して。。。

確かに、抑止力としてのものでしかないように思います。それすら、怪しいですが。。。ただ、死刑囚に関しては、そうとも言えないかもしれないです。実際、罪に対しての懺悔などをする人もいるようですね。そうでない人ももちろんいますが。そういう意味では、罪に対する刑というのでは、一番、本来(?)の役割を果たしているのかもしれませんね。

>遺族の代弁者ではあっても被害者当人の感情を代弁しているのかどうかはわからない、と感じます。
当人の気持ちをそっちのけで、大事な人を失った残された人たちの気持ちばかりを考えていると、亡くなった人は彼等の所有物のようで主体性が認められていないようにも思います。

被害者当人の感情と言うのが分からない限り、ここはどうにもこうにもしようがないと思います。所有物と言う感情ではないと思いますが、「自己満足」でしか、もしかしたらないのかもしれませんね。そこは、何とも言える所ではないと思います。ですが、そこは「遺族」というのが一番「被害者に近しい存在」と言うところでとらなければ、「遺族の感情を考慮して」と言うのも生まれなくなってしまいますので、本人の気持ちを聞けない以上は正解かどうかの答えはでないですよね。

改心・謝罪と言ったものが、心の問題である以上、本人以外、どうしようもないことです。手助けは出来ても、変えることは、本人以外の誰にもできない。当たり前のことなんですが、ロボトミー手術をする訳にもいかない以上、更正施設での「心の対処」を、牧師さんとかだけじゃなくて、もうちょっと具体的にやらないと意味がないんですよね。それでも、無理かも。。。こればっかりは、法も宗教も哲学も何にも意味がないんですよね。だとしたら、刑罰って無意味になっちゃうんでしょうかねぇ。。。

この回答への補足

>masatoshi-mさんにもご同意をいただきましたので、私の方もこれで心置きなく(笑)、お話させていただきますね。

ええ、ええ、どうぞ心置きなくお話し下さい。
で、今私、お話に加わる時間やお礼を書く時間がないのですね。(し、し、仕事が(^_^;)・・・)
後日改めてゆっくりとお礼を書かせていただきます。
申し訳ありません。m(__)m
ではでは。(あ、adelaideさんとのご意見の交換、なかなか鋭い切り口になっているようですね。)

補足日時:2001/07/05 19:46
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この回答へのお礼

 naechinさんのご意見は今のところほとんどadelaideさんとの《意見交換》のような形になっていますので、私の方からのコメントは敢えて差し控えさせていただきますね。両者なかなか鋭いところでの意見交換だと感心しながら読ませて戴いています。これはどちらが正解ということではありませんね。真摯に人生の真実を求めようとして取った人生へのスタンスの相違に過ぎない。そしてお二人ともそのことを充分理解していらっしゃるから、意見の交換が実りある豊かなものとなっている。どの辺りに話が落ち着くのか、実は私も楽しみにしているのです。どうぞこのまま意見の交換をお続けになってください。私も話の展開をじっと見守りたいと思います。
で、ひとつだけよろしいでしょうか?

>こればっかりは、法も宗教も哲学も何にも意味がないんですよね。だとしたら、刑罰って無意味になっちゃうんでしょうかねぇ。。。

実はこのつぶやきがどういう文脈から発せられたものかよく分からないのですよ。
まぁ、それ以前の文章にその答があるのだとは思うのですが、私には今ひとつ読み取れないのです。表現は悪いのですが、何だか非常にアナ-キーなニヒリズムが漂っているようで、どうにも腑に落ちないのです。まことに申し訳ありませんが、どういう文脈からのつぶやきなのかご教示ください。或いはこれはnaechinさんの「犯罪」というものに対する「悲しみの表現」かとも思ったりするのですが、憶測の域を出ません。よろしくお願いします。
お付き合いに感謝いたします。有難うございました。

お礼日時:2001/07/06 02:16

こんばんは


masatoshi-mさんの、このページをプリントアウトし、更に帰宅時の通勤電車の中で読み返そうと思っていたところ、何と、A4紙で27ページにもなってしまい、今、少々、息切れしています。
で、早速、vitamin-powerさんのご回答については殆ど「なるほど・・・」と納得ができ、感心と言うか、敬服すら感じるご意見だというのがわたしの感想です。

もう30年程昔の事件だったかと思いますが、群馬県を中心に、ベレー帽をかぶり、言葉巧みに女性を誘い、複数人の若い女性を殺害した某死刑囚(死刑執行済み)は、死刑執行の最後の最後まで、ののしりの言葉を発していたと聞きます。
まあ、事実かどうかはわかりませんが、そういう人間は有り得ないとも限らず、その話を聞かせてくれた知人は「悪魔とは、ああいう人間の事をいうのでしょう」と感想をもらしていました。
また、確か「無知の涙」というタイトルの本をはじめ、複数の著書を獄中で著わしながらも数年前に死刑を執行された某死刑囚もいましたが、特に彼には死刑反対の支援団体まで存在していたと記憶します。
両死刑囚には、犯罪を犯した後の、人としての精神的な変化に大きな差があった訳ですが、しかし、犯した罪は事実なのですよね。
「復讐の鬼と化す」という表現がありますが、家族を殺された、ました今回の宅間容疑者の事件のように、何ら関りのない子供たちを殺した犯罪者に対しては、現在のご遺族の精神状態は、まさしく「復讐の鬼と化したい」お気持ちだと推測されます。

わたしは、プロフェッショナルとスペシャリストという言葉が好きです。
何か、自分の感情や状況に左右されず、適確な仕事を淡々とこなして行くイメージがある為です。どんな分野でもプロフェッショナルであるスペシャリストは高額な報酬を受けとる権利があり、そういった視点から思うに、裁判官や弁護士は、それらしい仕事をして欲しいと願っています。
また、死刑執行の許可を認める判を押す覚悟のない人には、法務大臣はやってほしくありません。
そして彼らには、一般の人々が真に「復讐の鬼」となってしまわないように、罪に対する罰を与えて欲しいと思うのです。
それは、あまりにも不幸ですから・・・。

>宅間容疑者に謝って欲しいかどうか、という事では、「線香を上げさせて下さい」という加害者の訪問を受けた時の遺族や関係者の心情そのものですよね。かけがえのないものを奪われた怒りや憎しみは消し去りようのない共通ものではあるでしょうが、それでも許す遺族があるとすれば、殺された当人の供養になるのかどうか、当人は「ごめんなさい」といって欲しいと思っているのかどうか、という事で判断した結果によるものだと思います。

最近、仏教に興味を持ち始めたわたしとしては、殺されてしまった子供たちの魂は、極楽浄土で幸せに暮らし、宅間容疑者のことを許してあげていて欲しいと思います。仏になるということは、全てを許せると言う事で、それはまた成仏でもあるからです。(これは、わたしの理想論です)

>犯罪者の処遇についてどうこう言っているのは、遺族の代弁者ではあっても被害者当人の感情を代弁しているのかどうかはわからない、と感じます。
当人の気持ちをそっちのけで、大事な人を失った残された人たちの気持ちばかりを考えていると、亡くなった人は彼等の所有物のようで主体性が認められていないようにも思います。

確かに、死んでしまった被害者の感情はわかりませんから、他人であるわたし達はの意見は、ご遺族の代弁に過ぎないでしょう。
けれど、亡くなった人はご遺族の所有物ではありませんが、肉親である被害者の感情を代弁できるのは、唯一ご遺族のみに許される事だと思えます。被害者の主体性は、ご遺族によって守られていると思えます。

それから、わたしに恥じらいの気持ちをもたらして下さったNo.15のnaechinさんへの更なる反論です。

>モノを規制することが(垂れ流し自体がいいことだとも思いませんが)、抑止力にもならないし、「くさいものに蓋」にしかなりません。実際、今時の子供の残虐性は、くさいものに蓋をした結果だとしか思えません。理想論かもしれませんが、自分で考え学ぶことを教わらなかった結果に他ならない限り、それを隠すことは問題です。秋葉原のゲームだって、抑圧された結果ですよ。何故、抑圧されるのか?そこを考えない限り、少年法を変えようと、ゆとりの教育をしようと、本末転倒です。

「くさいものに蓋」と「モノを規制する事」は、全く異質の事だと思います。
例えば、「くさいものに蓋」は、子供たちを人として扱わないような偏差値教育であり、「モノを規制する事」は、営利目的で節操のないモノを生産し続ける隠れたる犯罪者達への規制という事です。

>>世の中は、全て真実だけを伝えれば良いと言うわけではないではありませんか?

>真実が一番、人を動かします。上から見える「綺麗なこと」に飽き飽きした結果が「今」です。汚かろうと何だろうと真実が一番、目に見えて分かりやすい結果です。人の持つ残虐性を見つめた上で、それを抑止する能力を育てていかなければいけないです。それがない限り、所詮、上辺だけの成長で、そんな成長は、ちょっとしたことでメッキは剥がれ落ちます。意味がないですね。

これは、強者の理論のように感じます。
例え話しばかりで申し訳無いのですが、わたしの親友の叔母さんが癌の放射線治療を受け、副作用で頭髪が殆ど抜け落ちてしまいました。そして同じ病棟で同じ経験をなさった方のアドバイスによると、幼い孫が、頭髪の抜け落ちたおばあちゃんと対面し、ショックでひきつけを起してしまったそうです。そのアドバイスから、かつらを買い、幼いお孫さんには真実を見せていないそうです。
前もって親が「あなたがびっくりしたら、おばあちゃんが可哀想だから、おばあちゃんの頭がつるつるでも、驚いた顔をしてはいけませんよ」という、おばあちゃんへの精神的な「残虐性」を禁じ諭したところで、はたしてその子供はひきつけを起さなかったでしょうか?
「残虐性」は、何も残虐行為のみではありません。
そして、やがて剥がれ落ちるメッキではなく、ゴールドやプラチナのハートを持つ人間に成長するには、人それぞれの成長時期があり、必要な過程もあります。

真実が、人を一番動かすのも事実かもしれませんが、また、あえて真実を伝えないという事も、人間の心の面から考えれば、とても大切な事だと思います。
そして、それは「嘘」ではなく、「くさいものに蓋」でもありません。

夜もだいぶ更けました。
今夜はもう寝ます。ちょっと疲れました(ぜいぜい・・・)。
よろしければ、ご意見、お願い致します。
付き合ってらんねーよっ!なんて冷たい事は言わないでちょ。

この回答への補足

 すみません、今まとまった時間が取れそうにありませんので、お礼はあとから改めてゆっくり書かせていただきます。naechinさんからのご意見も到着しているようですので、恐れ入りますが、ご意見の交換をなさっていてください。

>付き合ってらんねーよっ!なんて冷たい事は言わないでちょ。

絶対に付き合わせて頂きます(笑)。
ではでは。

補足日時:2001/07/05 19:36
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この回答へのお礼

え~、adelaideさんとnaechinさんのやり取りではありますが、私も少し参加させてください。(いえ、邪魔をする気はありません(^_^;).
)

>「悪魔とは、ああいう人間の事をいうのでしょう」と感想をもらしていました。

世の中には時折この「悪魔」が出現するのですね。それは我々の想像を絶するほどの、物凄い「悪意」を秘めた「悪魔」なのです。ふとしたはずみで犯罪を犯してしまうような人間もいれば、心を病んで、まさに心神喪失のような状況で犯罪を犯してしまう人もいる。かと思えば心の闇が深すぎて、殆ど「狂気」そのものと化して大罪を犯す人もいる。正常な生活を営む精神状態を維持しながら全くの利己的欲望を果たすために罪を犯す人もいます。保険金の三浦某や毒入りカレーのますみ被告などがそうでしょう。今宵もまた「悪魔」4人が裁きを受けていたようです。3歳になる男の子を継母、祖父母、曽祖父の4人で、寄ってたかって虐待死させたというものです。これらを「悪魔」「鬼」と呼ばずして誰を「悪魔」「鬼」と呼ぶのでしょう。「お前は本当の子供じゃない。お前のお母さんはお前を捨てて出て行ったんだ」それを俯いて聞いていた坊やは「僕の本当のお母さんを連れてきてよ」と一言。この坊やの3年間の人生とは一体何だったのでしょう。《鬼の心》を満足させるために遣わされた神の使者だったのでしょうか(ああ、ついこういう皮肉のひとつも呟いてみたくなります)。虐待の現場を想像すると胸が潰れます。坊やの気持ちを思うと居ても立ってもいられなくなります。この坊やとは何の関係もない立場に居る私でさえ、この坊やの仇を討ってやりたくなります。仮にあの鬼どもが私の目の前に居て、私の手に銃が握られているなら、申し訳ないが私は何のためらいもなく鬼どもを撃ち殺すでしょう。私も彼らと同じ《鬼》となりますが、そんなことは少しも構いません。「坊やがそれで満足するのか」と反問されれば、「それは分からない。永遠に分からない」と答えるしかありません。事実分からないのですから…。でも私は鬼どもを何のためらいもなく撃ち殺します。ただそれをできる条件が整っていないからしないに過ぎません。ということで、とても私には裁判官など務まらない。

>両死刑囚には、犯罪を犯した後の、人としての精神的な変化に大きな差があった訳ですが、しかし、犯した罪は事実なのですよね。

そのとおりですね。永山被告の立ち直りを見ているとそれは素晴らしいものがあった。「だから殺すな」と支援団体は訴えた。いや、それでも彼は断罪されるべきだったと私は思います。adelaideさんが仰るとおり、「犯した罪は事実」なのですから。これが仮に許されるなら、憎い人間を何人も抹殺したあとに「いや俺が悪かった。今は心から悔いている。だから許してほしい」と迫真の演技で切り抜けることも可能だということになる。犯した罪が消えるようなことがあってはならない。罪は罪として、それに相応しい罰を受けなくてはならない。

>最近、仏教に興味を持ち始めたわたしとしては、殺されてしまった子供たちの魂は、極楽浄土で幸せに暮らし、宅間容疑者のことを許してあげていて欲しいと思います。仏になるということは、全てを許せると言う事で、それはまた成仏でもあるからです。(これは、わたしの理想論です)

私も本来「人間は神の子仏の子」だと信じています。その意味で、adelaideさんの仰ることは理解できます。ですが、昨日報道されていましたが、同じマンションに住む家族ぐるみの付き合いをしていたという主婦が友人の赤ちゃんを殺した事件があって、その殺された方のお母さんがインタビューに応じておられましたね。「私は一生彼女を許さない」と…。

>被害者の主体性は、ご遺族によって守られていると思えます。

ということならば、やはり今回殺された小学生たちも宅間容疑者を許すことはないのではないでしょうか。許せることが仏になることならば、死んだあとも仏にだけはなりたくないと思っているのではないでしょうか。

>肉親である被害者の感情を代弁できるのは、唯一ご遺族のみに許される事だと思えます。

その被害者のご遺族が「一生許さない」と仰っているのです。それがそのまま被害者の感情でしょう。この理屈から言うならそう考えるのが一番理に叶っています。

これから先のadelaideさんのご文章に関しましては暫くコメントを差し控えさせていただくことにします。と言うのも、ここから先はnaechinさんとの意見交換といった色合いが濃く、今のところ、私の出る幕ではないかなとも思うからです。でも、コメントすべきときが来ればコメントさせていただきたいと思います。

adelaideさん、いろいろ書き込んできましたが、本質的なところでは私はadelaideさんと思いを一つにしていると思うのです。私の今回のお礼は、従ってadelaideさんへの反論ではありません。いくらか疑義を呈したようなところはあるかもしれませんが、それでも反論の気持ちはまるでありません。ご回答に深く感謝いたします。有難うございました。それではまた・・・

お礼日時:2001/07/06 01:19

とてもハイレベルな刑法論議になっているようで、私などはお呼びでないのは承知の上ですが、私の自己満足の為に少しだけ発言させて下さい。



法律で定める刑罰というのは、抑制効果に主眼をおいているのだと思うのです。「こんな事をしたらこんな目にあわせるぞ」という脅迫の効果です。だから、実際に犯してしまった犯罪に対する処罰として効果があるのかどうか、という視点からは疑問を感じるところもあるのです。
逮捕された犯罪者の側から言えば、買った商品の代金の支払いが当然なように、定められただけの刑罰を受けるのは当然と考え、受け入れて刑期を消化するだけの事です。改心や謝罪は副次的に生まれる可能性を残すのみでしょう。

つまりは、刑罰は犯罪者の更正についても確実性が低く、ましてや被害者感情などとは遠いところにあるものだと思うわけです。

宅間容疑者に謝って欲しいかどうか、という事では、「線香を上げさせて下さい」という加害者の訪問を受けた時の遺族や関係者の心情そのものですよね。かけがえのないものを奪われた怒りや憎しみは消し去りようのない共通ものではあるでしょうが、それでも許す遺族があるとすれば、殺された当人の供養になるのかどうか、当人は「ごめんなさい」といって欲しいと思っているのかどうか、という事で判断した結果によるものだと思います。
犯罪者の処遇についてどうこう言っているのは、遺族の代弁者ではあっても被害者当人の感情を代弁しているのかどうかはわからない、と感じます。
当人の気持ちをそっちのけで、大事な人を失った残された人たちの気持ちばかりを考えていると、亡くなった人は彼等の所有物のようで主体性が認められていないようにも思います。

宅間が心から反省し、罪深さを思い知って、被害者の霊前に頭を下げて詫びる事が小さな魂の供養の為に必要と感じる状況も出現しないとも限らないのではないでしょうか。
今の時点では、謝罪の文句は単なる発声にすぎないでしょうが、心の底から絞り出される謝罪の言葉であれば、時間の経過を経たのちに受け入れても良いと考える方もおられるように思います。

うまく表現出来ませんでしたが、刑罰というものが罪の重さをはかる尺度ではないのではないか、というような思いから色々と発言させて頂きました。
傷害で肉体的ハンデを負わされたりした場合、加害者の刑期が2年なら許せないけど10年なら満足、というものでもないでしょう。ハムラビ法典の復讐法でも解決できない問題だと思います。加害者の懺悔、心からの詫び、謝罪というものは、軽んじてはいけないカタルシスのひとつだと思います。人ではない何かによって殺されたにしても、そのような鬼畜にも罪深さをなんとか自覚させてやりたい、という思いもあるものだと思います。
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この回答へのお礼

これはこれは我らが郷土の星、vitamin-powerさんではありませんか。仕事が忙しくて
お返事を書くのが遅くなりました。申し訳ありません。

>法律で定める刑罰というのは、抑制効果に主眼をおいているのだと思うのです。「こんな事をしたらこんな目にあわせるぞ」という脅迫の効果です。

《脅迫の効果》というのはある意味そのとおりでしょうね。でもそれは普通の精神状況で安定している普通人、一般人において言えることでしょうね。宅間容疑者のように心を深く病んでしまっている人間に通じる理屈ではないでしょう。人間というのは決して立派な道徳的生き物ではない。時に烈しく憎んだり、嫉妬したり、殺してやりたいと思ったりと、負の感情に翻弄されやすい生き物ではあります。しかし殺してやりたいと思うことと実際に殺してしまうこととはまるで別次元のことです。両者の間にはかなりの懸隔がある。また犯罪を犯してしまうことによって負わなくてはならない様々な負債を考えると、普通、人は大きな犯罪を犯しはしないものです。また、vitamin-powerさんご指摘のとおり、《刑罰に服さなければならない》という恐れが抑止効果を発揮して、犯罪の形成を防ぐのです。それでも人は罪を犯す。「犯さざるを得ないようになっているのか(できているのか)」と思われるぐらい、罪を犯す人は犯してしまう。

>だから、実際に犯してしまった犯罪に対する処罰として効果があるのかどうか、という視点からは疑問を感じるところもあるのです。
 
さて問題はここです。実に素朴にして明快なる問題提議だと思います。vitamin-powerさんに限らず、多くの人がそういう思いを持たれているのではないかと存じます。そして当然ながら、そうした疑問は

>つまりは、刑罰は犯罪者の更正についても確実性が低く、ましてや被害者感情などとは遠いところにあるものだと思うわけです。

という結論を導き出すであろうと思うのです。
ああ、ここで一言誤解がないように申し述べておきますね。私は基本的に《ひとつの考え方》としてvitamin-powerさんのようなご意見はよく理解できるのです。従って私が書いていることはvitamin-powerさんに対する攻撃でもなければ、その論理の破綻を突こうというのでもありません(と言うより、破綻などどこにもありません)。vitamin-powerさんのご意見を元にして様々なる考え方の敷衍化を図ろうとしているに過ぎません。済みません、少々お付き合いください・・・ m(__)m
本論に戻ります。
こうした思いはまさに

>唐突に子供の命を奪われた理不尽さはどうしようもなく、たとえ加害者をどんなに痛めつけたところで空しいばかりだと思います。

とNo4の回答に寄せられたvitamin-powerさんのお言葉と軌を一にしています。
そうなのです。たとえどんなに犯人を痛めつけたところで愛する我が子が帰ってくる訳じゃなし、《空しい》思いばかりが募るだけなのです。確かに愛する妻とまだ見ぬ我が子を殺されたブラピは犯人を撃ち殺しはしましたが、彼の心の中に渦巻いていた思いは「悲しみ」であり「切なさ」であり「憎しみ」であり「後悔」であり、そして「空しさ」であったろうと想像されるのです。犯人を撃ち殺したところで愛する妻が、そしてまだ見ぬ子が生き返ってくれるはずもないと思いつつも、銃口を犯人に向けざるを得なかった。《空しさ》の感情が彼を領していたことは犯人射殺後にパトカーに乗せられて護送されようとしていた最後のシーンでブラピの表情によって見事に表現されていました。
およそ事件の被害者は空しさを受け止め、空しさを生きる、その選択肢が多くを占めているのではないかと思うのです。今度の事件の被害者のご両親たちにも、確かに明るく弾ける笑いに包まれる人生の瞬間も数多く訪れるでしょうが、その後の人生の9割以上が「空しさ」との闘い、「空しさ」との同居になるのではないでしょうか。
たとえ犯人がどのような法的制裁を受けようが、本質的なところでは自分たち(ここではご両親たち)とは「関係ない」とさえ言えるほどです。そういう意味合いにおいて私もNo13の回答のお礼の中に

>そして、それは《法》によっては決して満足もしなければ癒されもしないのです。
 
と書かせていただいたのでした。
で、そろそろこの話については終わりにしたいので私なりの意見を書かせて戴いて決着をつけたいと思います。そういう被害者の味わう空しさとは別に、と言うより、どんなことをしても「空しさが募るだけだ」という被害者側の諦念とは別に、犯人は罪に応じた法的制裁を厳しく受けるべきなのです。仮に審判が《極刑》と下され、その極刑が被害者の心を慰めることがなかったとしても、犯人は淡々と処罰されるべきだし、自身の犯した罪を購うべきなのです。その過程で改悛の情が表れるなら尚いいことだし(但し、一部の凶悪犯にはどんなことがあっても「謝ってほしくない」という思いが私にはあるのです。今回の宅間容疑者もその一人です)
、たとい表れなかったとしてもそれはそれで構わない。最低限、法に則った刑罰に服すことが為されるのなら、それで充分です。

>宅間容疑者に謝って欲しいかどうか、という事では、「線香を上げさせて下さい」という加害者の訪問を受けた時の遺族や関係者の心情そのものですよね。かけがえのないものを奪われた怒りや憎しみは消し去りようのない共通ものではあるでしょうが、それでも許す遺族があるとすれば、殺された当人の供養になるのかどうか、当人は「ごめんなさい」といって欲しいと思っているのかどうか、という事で判断した結果によるものだと思います。

vitamin-powerさんの仰るとおりでしょうね。私もそう思います。そうは思いますが、悲しすぎるし、切なすぎますね。こうしたご遺族の《判断》に、だらしなくも私は涙が溢れてしようがないのです。(今また深夜で少々お酒が入っており、再び少しばかりおセンチな気分になっております。どうぞお赦しください。)

>犯罪者の処遇についてどうこう言っているのは、遺族の代弁者ではあっても被害者当人の感情を代弁しているのかどうかはわからない、と感じます。

ん? vitamin-powerさんたら、またそんな《禁じ手》を(笑)。そんなこと仰ってたんじゃー、話は前へ進まなくなっちゃうじゃ~ないですか。ん~、だからこのご意見に関しては静かに退散っと…。(^_^;)

>当人の気持ちをそっちのけで、大事な人を失った残された人たちの気持ちばかりを考えていると、亡くなった人は彼等の所有物のようで主体性が認められていないようにも思います。

ん~と、ん~と、やっぱり引き続き静かに退散しよっと…。(^_^;)

>宅間が心から反省し、罪深さを思い知って、被害者の霊前に頭を下げて詫びる事が小さな魂の供養の為に必要と感じる状況も出現しないとも限らないのではないでしょうか。

むむっ、この辺りから再び・・・(笑)
vitamin-powerさん、これはvitamin-powerさんへの反論でも反目でもありませんのでその積もりでお聞きください。
私は宅間容疑者に反省してほしくない。まして「心から」など…。《我が身の罪深さを思い知る》…そういう事態にだけはなってほしくない、というのがこの質問をあげたそもそもの出発点でした。そして、私のように考えている人もいるだろう、或いは真っ向から反対する人もいるだろう、世の中の人はどう考えているのだ、それが知りたい、そんな思いで質問を立ち上げたのでした。しかし質問の仕方があまりに要を得なかったがために、そのことに対する回答は僅かしか得られませんでした。これは偏に私自身の責任で、以後質問の焦点をはっきりさせた上でここに質問をあげようと深く反省した次第です。

>心の底から絞り出される謝罪の言葉であれば、時間の経過を経たのちに受け入れても良いと考える方もおられるように思います。

ああそうなんですか。うん、そうでしょう、そうかもしれない。でも彼に《心の底から》なんて…そもそも「心」なんて…。

>刑罰というものが罪の重さをはかる尺度ではないのではないか、というような思いから色々と発言させて頂きました。

飽くまでこれは《ひとつの尺度》に過ぎないでしょう。でも《尺度ではない》とは思いません。

最後あたりのvitamin-powerさんのご文章にもう一言二言コメントをお付けしたいのですが、正直、今少々疲れています。またチャンスがあれば元気なときに。
vitamin-powerさん、ご回答お寄せくださいまして有難うございました。その豊かな良識による《ひとつの判断》に癒されたことを告白して感謝の言葉に代えさせて戴きます。

お礼日時:2001/07/04 01:56

まずは、masatoshi-mさんのご質問なのに直接の回答でないことを、またもや書いてしまいまして、すみません。

まだ書けそうだったので、adelaideさんの回答への私の反論を(しつこいですね。これも、すみません。)書かせていただきます。

>でも、そういう事をしながらも成長と共に命の大切さ、尊さを学び感じて大人と--中略--で「理想論」のように、わたしには感じられます。

そうですね。学び取らないといけないんです。残虐なものは、正直、今からの時代、どこからでも取得できますし、あふれています。アメリカなどでは、残虐なものを幼児期に見せないように、規制をかけています。でも、その結果はどうでしょう?何の意味も持ってないです。実際、adelaideさんのご指摘のように暴力的な映像を見せた後、子供の攻撃性は上がっているという心理実験の結果もあります。でも、攻撃性なんて、実際は誰でも持っているものです。誰かを殺したい程憎むことも、少なくとも私はありました。でも、それを実際に行動に移さないのは何故か?そちらの方が大事なことです。

モノを規制することが(垂れ流し自体がいいことだとも思いませんが)、抑止力にもならないし、「くさいものに蓋」にしかなりません。実際、今時の子供の残虐性は、くさいものに蓋をした結果だとしか思えません。理想論かもしれませんが、自分で考え学ぶことを教わらなかった結果に他ならない限り、それを隠すことは問題です。秋葉原のゲームだって、抑圧された結果ですよ。何故、抑圧されるのか?そこを考えない限り、少年法を変えようと、ゆとりの教育をしようと、本末転倒です。

>世の中は、全て真実だけを伝えれば良いと言うわけではないではありませんか?

真実が一番、人を動かします。上から見える「綺麗なこと」に飽き飽きした結果が「今」です。汚かろうと何だろうと真実が一番、目に見えて分かりやすい結果です。人の持つ残虐性を見つめた上で、それを抑止する能力を育てていかなければいけないです。それがない限り、所詮、上辺だけの成長で、そんな成長は、ちょっとしたことでメッキは剥がれ落ちます。意味がないですね。

まぁ、でも、adelaideさんの謂わんとされてることも分かるのですが、私自身は上記のような理由で、抑制されることを良しとは思わないんです。

この回答への補足

>まずは、masatoshi-mさんのご質問なのに直接の回答でないことを、またもや書いてしまいまして、すみません。

いえいえ、私の気持ちは下に書いておきましたのでお読みください。
そして、どうぞお話をお続けください。
私のお礼はまた改めて後日書かせていただきたいと存じます。
ではでは。

補足日時:2001/07/03 01:31
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この回答へのお礼

申し訳ありません。この補足欄をお借りして最終答弁(?…笑)を。
今日もまた死刑判決を受けた少年犯罪が裁かれていたようですが・・・

 「犯罪は時代を映す鏡」だと言われますが、
もしその言い方が当たっているとするなら、
今の時代は何と得体の知れない、理解不能な、のっぺらぼうな時代でしょう。
犯罪からその犯罪者の顔がまるで見えてこない。
一体人間の顔をしているのかさえ疑いたくなるような犯罪の鬼畜ぶりです。
「心が痛む」なんてものじゃない。
その犯罪を見ている我々の方が気が狂いそうになる。
一体全体どのような環境のもとで育てば、
何の罪もない幼子(おさなご)を刃物で切りつけたり、
床に叩きつけたりできるようになると言うのでしょう。
どんな憎しみを持てば「一家皆殺し」などという残虐非道の罪を犯せるのか…。
考えあぐねた末に私はひとつの悲しい結論に到達しました。
「彼らは人間ではない」という結論です。
「人間ではない」という表現が過激に過ぎて、人権派の人たちを刺激するなら、
彼らは病人だからと言い換えても構いません。(言葉尻を捕えないで…)
普通の病ではない。人間の姿形をしているだけの、甚だしく心を病んだ、
一生独房に繋いで隔離しておかなくてはならないほどに
心を病ませてしまった人たちなのです。彼ら犯罪者にすれば我々人間は、
大人も子供も含めて、単に息をしながら小うるさく動き回ってるだけの、
さほど守るべき価値のない「動物」に過ぎず、
刃物で切りつければ真っ赤な体液を流してうめきながら動かなくなっていく
「物」なのです。普通に「人間の心」を訴えて分かる相手ではない。
分かるなら何の罪もない幼子を刃物で刺すことなど、絶対にできない。
金輪際、できるはずがない。
 犯罪は時代の闇を切り取りながら、社会の片隅に生き続けています。
取り返しのつかない罪を犯してしまった以上、
その人の人生も取り返しのつかないものであるべきでしょう。
他者の「人間の尊厳」を蹂躙した以上、
自分の「人間の尊厳」が踏み躙られても文句を言ってはいけないと思うのです。
身内を殺されて、十年やそこらで出てこられたら遺族の立場はありません。
それこそ「人権侵害」も甚だしい。
犯人について言えば、こんな言い方をすれば誤解されるかもしれませんが、
彼らもある意味で「犠牲者」なのだと思います。
かわいそうに、せっかく人間として生まれてきたのに、
《人間の心》を持てない冷血鬼畜。親鸞だったか誰だったか、
記憶が定かでないのですが、かつて
「罪を犯さないで済んでいるそのこと自体を有難いと思え」
と言った高僧がいました。全くそのとおりだと思います。
犯罪を犯したくて犯している奴ら(こういう奴らこそ極刑に処すべきなのです)
は論外ですが、犯罪を犯したくなくとも犯してしまわざるを得ないような立場の人間
もいます。ですが、それにしても日本における罪人の裁き方というのはその人の
更生というものに重点が置かれ過ぎてはいないでしょうか。
成る程、人は過ちを犯すものですが、
過ちから立ち直って真人間に更生することも可能です。
可能性に満ちた人間にチャンスを与えるのは当然かもしれません。
しかしながら、では犯罪者によって全ての可能性を断ち切られた被害者は
どうなるのでしょうか。「死んでしまったものはしようがない」
と片付けられてしまうのか。「それよりも生きている人間の今後を考えよ」とでも…。
私はこれは違うと思うのです。
確かに貧困や病気や無知やその他の苦しみが原因で犯される罪というものがあります。
adelaideさんも話題に乗せておられた、連続殺人の罪で問われた永山則夫死刑囚は、
悔いて「無知の涙」という手記を残しました。
世間はそこで改めて「無知ゆえの犯罪」というものに目を向けました。
「彼個人を責めるのはおかしい」という風潮も生みました。
でも、それでも彼の犯した罪は許されてはならないと私は思います。
「彼は自分の犯した罪を充分悔いているではないか。
彼に更生のチャンスを与えようではないか」そんな人間的温もりのある、
立派なことを言う人たちがいました。
だが、殺された人たちの無念や遺族の悲しみを思うとき、
私はやはりこの日本に「死刑制度」が存続されていてよかったと思う者です。
彼も罪を犯したくて犯したのではなかったのかもしれない。
だが、《犯した罪》は償われなくてはならない。
この世には彼と似たような境遇に置かれていた人たちもいたはずだ。
しかし彼は罪を犯し、その他大勢の人々は罪を犯さなかった。
彼が特別に極悪非道の犯罪者だったというわけではないでしょう。
また、罪を犯さずに済んだ人々が特別に自制心が強かったというわけでもないでしょう。
皆、五分五分、です。「一歩間違えば…」という危機は誰でも常に孕んでいる。
その意味ではやはり「罪を憎んで人を憎まず」と言った古人は正しかったのでしょう。
これら全てを考え抜いたとしても、
私はやはり尚、永山則夫は《自らの死をもって罪を贖うべき》であったと思います。
犯罪者から真人間へと更生し得た後に訪れたであろう彼の悲しみ、彼の寂しさ、そして後悔。
それは敢えて私の心の中にしまいこみましょう。
しまいこみはするが、罪は罪。きっちりけじめをつけてもらわなくては
「人の道」は成り立ちません。永山則夫個人を憎むことはしない。
だが同じように、永山則夫の犯した罪を許すこともできはしないのです。
罪は永山則夫個人の命とともに滅んでほしいのです。
(犯人が処刑されたとて尚、彼の犯した罪は消えはしない。遺族の悲しみが続く限り、
罪は永遠に消えはしないのです。)
「更生の機会を」と言うのなら、それと同じ熱意をもって、
「ならば、咎なくして殺された人たちにも生き返る機会を」と訴えたい。
それが叶わぬのなら、「彼の更生の機会」も叶わぬものであってほしい。
遺族の感情を思えば私が何も特別おかしなことを言っているというわけではないでしょう。
万が一おかしなことを言っているとするならば、それは私が狂人であるか、
世の中が狂ってしまっているかのどちらかなのです。
その二つの可能性のどちらも私は否定しません。否定はしないが、涙が溢れます。
そして最後に私たちに残されるのは「祈り」しかないようにも思えるのです。
 旧聞に属しますが、佐賀の高校生によるバスジャックで最愛の母親を亡くした
遺族の長男の方の発言をニュースで知りました。
彼は恐らく最愛の母親を殺した犯人への憎しみの極致を味わったはずです。
憎んで憎んで憎しみ抜いて、心騒いで騒ぎ抜いて…、そしてやがて訪れた静かな時間。
彼に訪れた時間がどのようなものであったのか、
当人ではない私に知り得ようはずもないのですが、私は思うのです、
彼は犯人を赦そうとした、のだと。
いかように自分個人が犯人を憎もうとも最愛の母は戻ってきはしない。
憎い、犯人をこの手で殺したい、その時彼はそんなことを考え、
実行しようとしている自分と犯人とどの程度の差があるのかと思ったのではなかったか…。
「人間の弱さ」を受け入れなければ「赦す気持ち」にはなれない。
とめどなく、滂沱として溢れ落ちる涙を流し続けた人間にしか分からない
「澄んだ心境」なのかもしれません。「罪を憎んで人を憎まず」を地で行っている。
これは人間の精神が深いところで起こす奇蹟なのかもしれず、もっと言うなら、
神が人間に与え給うた「恩寵」なのかもしれません。
ひどく傷ついた人間の魂を救うのは、
「落ち着いた、静かで、穏やかで、相手を赦そうとする愛の心」だけなのかもしれません。
…私はだが、未だに「眼には眼を」という報復精神から脱しきれないままでいます。小説でも書いて荒ぶる魂の癒しをしなくては、とも考えているのですが…。

 

お礼日時:2001/07/11 02:11

こんばんは!


すっぽんの(ようにくわえ付いたら離さないしつこさの?)adelaideです。
masatoshi-mさんが、もうすぐこのご質問を締切ってしまわれるというので、あせって書いています。
「セブン」、ご覧下さってありがとうございました。ブラピに代ってお礼申し上げます。
ご感想をお聞かせ下さると言うことでしたので、それを拝見してから再度投稿させていただこうと思って居りました。

わたしが「セブン」を「後味の悪い映画」と表現したのは、たぶん皆さんも同様だと思いますが、あの荒野でのシーンの前あたりから、嫌な予感というか、不安を感じていて、それが的中してしまった為、「ああ、やっぱり・・・」という気持ちが強く、また犯人が何の罪もない奥さんとお腹の中の赤ちゃんを殺した事に対する強い怒りもあり、また突き詰めれば、いつ自分が刑事としてではなく被害者の家族としてのブラピの立場、もしくは被害者そのものになってしまうかもしれないという恐怖感もある為です。
あの映画の見事さは、被害者の首が入っているであろうダンボール箱の中を映さず、老刑事とブラピの表情とで状況の残忍さを表現している所だと思います。

さて、前回、naechinさん(その節は、大変失礼を致しました。赤面)から、わたしの「『FBI関連の本』に載っているようなことは知らなくても良いことだと思う」という発言に対してご反論を頂きました。
わたしは、あの本を、犯罪者の心理を著わす資料として読んだつもりです。
けれど、わたしは犯罪心理学を学問として学ぶ身の人間ではありませんし、どんなにつらくても、真実を知っておきたいという被害者の遺族の立場でもありません。
わたしにとっては、異常性格者が犯した残忍な犯罪という事実以外の何者でもありませんでした。そこから得るものなど無かったのです。ですから、途中でページを閉じてしまったのです。
人間は誰しも多かれ少なかれ残虐性は持っています。子供の頃、虫や爬虫類などの小さな生き物の足をもいで殺してしまったり、標本にしたりといった感じの経験は誰でもありますよね?
でも、そういう事をしながらも成長と共に命の大切さ、尊さを学び感じて大人となって行く訳です。それが精神の生き物である人間ゆえの成長過程とも思えます。
しかし、そういう風に、命の大切さなどを学べずに肉体のみ成長して行く人間が増えているから、今回の宅間容疑者のような事件が起きるのだと思います。
naechinさんのご意見は、ごもっともだと思います。けれど、それはまた、あくまで「理想論」のように、わたしには感じられます。
naechinさんのようなきちんとしたお考えをお持ちになり、お子さんに接していらっしゃる方々が、どのくらいいらっしゃるとお思いになりますか?
まあ、答など無いのですが、「死ね」とか「殺してやる」といった類の言葉がごくごく普通の子供達の日常会話の中に平然と入っているそうですから、確率はかなり低いと思います。

また、東京の某有名電気店街にあるPC用アダルト向けゲームソフトの店内には、かなりの数の、まともに人と目を合わせて会話をする事のできないような成人男性が訪れているそうです。(わたしの男友達は、同じ男でもその雰囲気の薄気味悪さに我慢ができず、すぐに出て来てしまったそうです)
聞けば、ゲームの内容は、相当に酷いものとの事。

こんな社会状況の中で、あの本が、優れた心理学の教材として役立つ確率の方が高いのか、人間のもつ悪い性質の部分に異常な影響を与えてしまう確率の方が高いのかといえば、間違いなく、後者の方だと、わたしは思います。

極端な例えかもしれませんが、幼い子供達に「赤ちゃんはどうしてできるの?」と質問をされたら、きちんとした講義はなさるかもしれませんが、実際に子供達の目の前でセックスをするビデオを見せたり、実演なさったりはしませんよね?

人間には、それぞれの時期があり、まだ自分の価値観すら定まっていない子供達、未成年者、そして年齢的には成人したとはいえ、幼稚性すら感じさせる宅間容疑者のような人間などの、「あれはあくまで犯罪心理学の本」だと認識する事ができるまで成長をしていない人間には、あの本の内容のような事実は、「知る必要のない事実」だと思うのです。
世の中は、全て真実だけを伝えれば良いと言うわけではないではありませんか?

何だか、masatoshi-mさんのページなのに、ごめんなさい。
でも、言い争いではなく、討論がお好きな(?)masatoshi-mさんでしたら、きっとこの回答をお読みになりながら、討論に参加して下さっている事と思います。

masatoshi-mさんが、もうすぐこのご質問を締切られるとの事ですので、naechinさんが「異議あり!」だとしたら、フェアではないなぁ・・・とも思えます。
でも、ああいう類の書物や雑誌やビデオやテレビ番組等が、世の中の犯罪に与えている影響は想像以上に大きいと思い、あえて何回目かの回答をさせていただきました。

でも、フェアじゃないのは、嫌だなぁ~。すみません、困りましたね。
とはいえ、とりあえず、masatoshi-mさん、貴方のおかげで色々なご意見を拝見でき、とても勉強になりました。どうもありがとうございました。
(naechinさんもありがとうございます)
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この回答へのお礼

え~、ポイントを発行して締め切ろうと思ってやって参りましたところ、
更に2件もの新着回答が…。 (^_^;)
私も慌ててお二人のご意見を読ませていただいたのですが、何か
発展的、創造的ご意見が交わされているようですので、
もう暫く、というか話が落ち着くところに落ち着くまで
締め切りを延ばそうかと思っています。
幸いお二人とも「大人」で、感情的な議論はカケラもなさそうですので
安心して読むことができます。私も途中で少し参加させてください。
あ、私も大人ですから、感情的にはならないと思います。(笑)
というより、話自体がはなっから論争ではなく、意見のズレの
補足のしあい、といった趣を呈していますので、
どうか管理人さん、このスレッドをお消しにならないでください。 m(__)m
何度か消された経験のある私にはどうも「トラウマ」らしきものが…(^_^;)
で、今のところ私はお呼びでないようですので、黙ってお二人の意見の交換を
眺めさせていただきたいと存じます。(意見を求められたら、その時に発言
したいと存じます) 

>「セブン」、ご覧下さってありがとうございました。ブラピに代ってお礼申し上げます。

いえいえ、大変いい映画をご紹介戴き、感謝しております。
ブラピの演技は見事でした。ブラピのもので他に何かいい映画があったら
ご紹介ください。(って、おいおい)

>何だか、masatoshi-mさんのページなのに、ごめんなさい。

いいえ、とんでもない。意見の交換で自分の考えが深まったり
整理できたりするのはとてもいいことです。
adelaideさんとnaechinさんはなかなか鋭いところでお話を進めていらっしゃる
ようですので、暫く第三者として勉強させていただきます。

>でも、言い争いではなく、討論がお好きな(?)masatoshi-mさんでしたら、きっとこの回答をお読みになりながら、討論に参加して下さっている事と思います。

ええ、お察しのとおりです。口は出しませんが、参加させて戴いてます。
でも「討論が好き」というより、意見を交換し合って、より深い考えに至る
ことを望んでいるんですよ。相手の言葉の揚げ足を取るような論争だけは
避けたいですね。幸いこのサイトは大人の方が多いようで、みょうちくりんな
議論のための議論はあまり見かけません。

>でも、フェアじゃないのは、嫌だなぁ~。すみません、困りましたね。

で、で、ですから、もう暫く開けときます、はい。(笑)
創造的、発展的なご意見をお交わし合いくださいますよう。

お礼日時:2001/07/03 01:30

長文の回答ありがとうございました。

正直言って、納得できない部分もあったりするのですが、まず、根底にあるのは、あの事件(他の事件でも同じですね。)の理不尽さへの怒りだし、繰り返したらダメっていうのは同じだと思いました。

法曹界には、まだまだ色々な問題点が私たち素人から見ても、多いように思います。改善されていくような情況になるといいですね。結局、どちらが言っていることも、この問題点の抱える矛盾のせいだとも思いますので。

この回答への補足

この場をお借りして皆様に御礼を…。

 adelaideさんからご紹介戴いた「セブン」と「リップ・スティック」
を見てこのスレッドを閉じる予定にしておりましたが、
昨日の日曜にレンタルビデオで見ましたので、
予定どおり少し感想を書き込んでこのスレッドを閉じさせていただきたい
と存じます。ただし、「リップ・スティック」は置いてありませんでした。
1976年作品ということで、何処にでもは置いていないらしいです。
でも、いつか機会を見つけて見てみたいと思います。
 さて、「セブン」ですが、
最後に犯人をブラピが撃つ瞬間のシーンは迫力があって見事でした。
いや、演技者、俳優としての見事さです。
ただの二枚目俳優かと思っていたのですが、あの演技力は只者ではありませんね。あの苦悩にゆがむ表情の見事さに惹かれてそのシーンだけを5回も6回も
見てしまいました。まだレンタル期間が5日間ほどありますので、
時間があればあの《世紀の名演技》を繰り返し見たいと思います。
 最後にブラピが犯人を撃つシーン。
このシーンがこの映画のモティーフのすべてであり、
この映画を成立させているすべてでしょう。
《後味》に関して言えば本当に人それぞれだろうと思います。
adelaideさんは「後味の悪い思い」をなさったということですね。

>ブラッド・ピットが行った行為を誰に罰する権利があるというのでしょうか?

万感の思いを込めてお気持ちの優しいadelaideさんはおっしゃってますが、
「誰に彼の行為を罰する権利があるのか」も何も、
少々気持ちの冷たい私(?(^_^;))などは、「犯人、撃つべし」
と思ってしまいます。確かに近代法は私刑を禁じています。
でも人間の感情の原点に「目には目を、歯には歯を」
(これは「それ以上のことをしてはいけない」というのが根本精神らしいですね)という《復讐の念》が拭い難く存在しているのは事実だと思うのです。
そして、それは《法》によっては決して満足もしなければ癒されもしないのです。
 
 法を遵守すべき立場の刑事。そして、それがゆえの烈しい葛藤。
その内側の思いを表現してあまりある思いがブラピの表情に出ていました。
私の記憶にも長くとどまるであろう《名演技》でした。
 他にもいくつかadelaideさんからご紹介戴いた書籍もありますので、これは是非先で時間を見つけて読んでみたいと思います。
adelaideさん、いろいろと有難うございました。
 なおこのスレッドは今晩の午前1時をもって閉じさせていただきます。
かなり恣意的なポイント発行になるかもしれませんがその時はお許し下さい。
皆さん、お付き合い戴き、本当に有難うございました。
またどこかでお目にかかりたいと存じます。

補足日時:2001/07/02 17:00
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この回答へのお礼

>長文の回答ありがとうございました。

って、私の質問スレッドなのに、
何だか私の方が回答者にまわったりなんかして、面白いですねー。(^_^;) 
いえいえ、どういたしまして。私も、naechinさんと根本的に
意見が食い違っているとは思っていません。
《事件》への「根っこにある思い」は同じだと思います。
お付き合い戴き、有難うございました。 

お礼日時:2001/07/02 16:25

adelaideさんへ



>・・・タイプしていて、赤面すべきなのか、ナイチンゲールを尊敬する方ととるべきなのか迷っています

(笑)
単純に名前と「~ちゃん」と同じレベルで「~ちん」をつけてるだけです。

で、少し反論がありますので、再度回答させていただきます。

>ああいう事は「知らなくてもいい事」だとわたしは思います。

知らなくてもいい事ではないです。猟奇殺人を犯してしまうほとんどの人間は、幼少時の人格形成に問題があります。例外も、もちろんあります。例えば、女性受刑者のほとんどが幼少時に親に虐待を受けているのです。これは、一般の被虐待者の割合に比べると、特出した数らしいです。あの本の本来の目的は、犯罪者の心の部分を探るための本です。「見られませんでした」ということは、逆にそういったものをお考えにならなずに、虐殺したその行為のみに焦点を当てているからだと私は受け取ってしまいました。

一時期発売されていた「マーダーケースブック」でも同じです。あの本でも、事件の行為のみでなく、その犯人の生い立ちが追いかけられていました。一見、普通の人間の中に何が潜んでいるのか?神戸の少年事件の「少年A~あなたを産んで」も読みましたけど、あの母親の何が悪かったかなんて、指摘できる人はなかなかいないと思います。でも、読みながら親子で話をしてみたりすれば、同じ年頃の子の心の動きを少しは感じることができるかもしれません。影響の受け方を変えてやるのが本来親の務めであって、隠すことではないと思います。

ゲームでも「リセットできるから」「暴力的だから」では、論理のすりかえです。本でもゲームでも全て同じです。本来であれば、健全な反応に持っていってやることが必要なのであって、隠せば、アングラに回るだけです。フィルターの薄い子供であるからこそ、必要なのは隠すことではなく、話すことです。そして、その子自身の考えをもたせることです。

masatoshi-mさんへ

>人が人を裁いているのではない、一国の治安を維持するために
「犯罪者」を「法」が裁いているのです。
疲労困憊したからと言って、キザな言葉に酔っていてほしくはないものです。

本当に、「犯罪者」を「法」が裁くだけならば、裁判者や裁判官の存在意義はなんですか?コンピュータで、実際にあった事象だけを当てはめて、「叙情酌量」なんてつけずに、黒か白か判断することは可能ですよ?この「叙情酌量」の余地というのが判事の「人間性」に関わってくるんです。ですから、「きざな言葉」と片付けるには、重すぎる問題だと思います。

「謝って欲しいかどうか?」
欲しいとかそういう問題じゃなく、謝らないといけないだと思います。謝罪をした所で何も戻ってはきませんが、「意味もなく殺された事実」「殺しても何とも思ってない事実」は、遺族にとっては、言葉にできないと思います。謝るものを許さないことで、気持ちの整理も少しずつつけていくこともできるでしょうが、「謝りもしない」では、どこにも気持ちをぶつけられないからです。

この回答への補足

済みません、仕事に追われていて返事が遅くなりました。
え~、反論がおありだということですので、
少しだけお付き合いをさせて頂きます…。

>本当に、「犯罪者」を「法」が裁くだけならば、裁判者や裁判官の存在意義はなんですか?コンピュータで、実際にあった事象だけを当てはめて、「叙情酌量」>(情状酌量ですね)なんてつけずに、黒か白か判断することは可能ですよ?この「叙情酌量」(情状酌量)の余地というのが判事の「人間性」に関わってくるんです。

裁判官の存在意義…犯された罪に対し、
現行の法に照らして厳正にして適正な判決を下すこと。
そして判決後に、できれば審判を受けるものを審判を下すものとして
温かく戒め、導く言葉をかけてやれるなら最高でしょう。
その意味でコンピュータでは裁判官は務まりません。
でも、犯罪がどの程度の刑に相当するのか、
それを判断するための参考程度のデータを得るために
コンピュータを使うのも悪くはないと思います。

裁判官の仕事は飽くまで罪を裁き、適正な判決を下すことです。
罪を抱えているのは人間ですから罪を裁くというのは
ひいては罪を犯した人間を裁くということです。
その意味で「人が人を裁けるのか」などと訳の分からない言葉が
出てくる余地はあるのでしょう。
 
 繰り返しになりますが、《法が罪を裁く》のです。
この原則をはみ出すと無法国家となってしまいます。
また「人が人を裁く」のなら、魔女裁判や東京裁判と同等か
それ以下になってしまいます。裁判官もそれは重々分かっているはずです。
だのになぜ「人が人を裁けるのか」という、論理のすり替え、
いや《すり替え》どころか《論理の破綻》さえ感じるような言葉が
大手を振って世間を闊歩し始めるのか。
極端な話、もしも裁判という司法行為の次元で
「人が人を裁けるのか」という論理(?)が罷り通るなら、
「犯罪者は従って裁くことはできない。野放しにしておけ」
ということになります。(あ、naechinさんがそういうことを仰っている
のではないことは充分承知しております。
飽くまで《理屈》として話していますので、念の為) 
 例えばこれは子供のしつけや生徒の教育に当たらなければならない親が教師が、
「俺だって子供時分は悪いことばかりしていたもんな。
えらそーに子供を教育したりはできないよなー」と思って
「人が人を教育できるのか」と開き直られることにも似ています。
例えが少しおかしいように感じられるかもしれませんが、
「人が人を裁けるのか」という言葉が帯びている思想を分析すれば
少しもずれた例えではありませんね。
即ち「神の身ならぬ、不完全極まりない人間が、同じ人間を裁けるのか」と、
つまりはこういうことでしょうから…。
裏返して言えば「完全でない人間以外、人は裁けない」
(極端な言い方になって誤解を生みそうな表現ですが、
純粋に理屈だけで突き詰めればこういうことでしょう。)
ならばかつて不良だった親や教師が照れて
「俺はお前にしつけできるほど立派な人間じゃないからなー。」と、
教育放棄するのと何ら変わりはないのです。
ですが、親となり、教師となった以上、
当然のことですがそれでは困りますね。
どの程度の不良だったかは知らないが、
立場上の社会的責任というのは当然負わされるわけで、
よろよろとよろめきながらでも、フラフラとふらつきながらでも、
ぐっと踏みとどまって、親や教師として子供たちに伝えるべき人間としての価値観や道徳観を伝えていかなくてはならないのです。
「いや、若い時に不良だったんだから、
子供たちをエラそうに教育する資格はない」というのであれば、
多くの学校、家庭で教育やしつけが一挙に崩壊してしまいそうな気が…(^_^;) 
開き直って言う訳じゃありませんが、
教育もしつけも、それを施す側が《自分のことは棚に上げ》ないと不可能でしょう。
悪い事をした子供を叱っている父親のそばで父親の母(祖母)が、
「何エラそーなこと言ってるの。あんたも小さい頃同じようなこと
してたじゃない」と言えばそこで教育やしつけは崩壊します。成り立ちません。
例えを説明することにかなりの字数を割いてしまいました。
話の本論ではありませんので、次に行きましょう。
 「人が人を裁けるのか」という言葉に滲み出る《思い》は
裁判官の心の中だけにじっとあり続けるべきでした。
それは裁判官がいかに重い責務を追わされ、
厳粛な行為に携わっているかということへの自覚を促し、
確立させるための、或いは必要な《葛藤の念》となり得るかもしれないからです。
私もこの言葉を《宗教的次元》でなら受け止めることが出来ます。
ですが、日常生活、社会生活を他の多くの人々と協力して成り立たせて行く
《生活次元》では受け入れることは不可能です。無法地帯は歓迎できません。
「人が人を裁けるのか」という《葛藤》が裁判官の心の中から
ひとつの《テーゼ》を装うようにして一般社会の中に紛れ込んで来たことは
やはり不幸でした。人間にはそれぞれの社会的立場に応じた《苦悩》
というものがあり、その《苦悩》は表に出されることなく、
内に秘められてこそ、その《社会的立場》をまっとうできると
信じているからです。責任ある立場に立たされた者が
《苦悩を表明すること》を我々は期待していません。
我々が期待しているのはただひとつ、《決断》なのです。
裁判官も犯罪を裁くスペシャリストとして
国家・国民からその全権を預かっています。
その社会的立場の有する責任の重さたるや、想像を絶するものがあると思います。そこに渦巻く苦悩懊悩も想像を絶しているでしょう。
 ですが、それは裁判官としての責務を果たす際に生じる苦悩懊悩であり、
やはりそれを口に出すのは間違っていると思うし、
口に出すならやはり私などは「何をキザなことを」と思ってしまうわけです。
そんなのありなら、すべての責任ある者の責任ある行動は望めなくなるし、
社会全体がだらしなくなってしまうのではないでしょうか。

>「謝って欲しいかどうか?」
欲しいとかそういう問題じゃなく、謝らないといけないだと思います。謝罪をした所で何も戻ってはきませんが、「意味もなく殺された事実」「殺しても何とも思ってない事実」は、遺族にとっては、言葉にできないと思います。謝るものを許さないことで、気持ちの整理も少しずつつけていくこともできるでしょうが、「謝りもしない」では、どこにも気持ちをぶつけられないからです。

なるほどなるほど、そういう考え方もありますね。
直接の遺族の身でない私に遺族の本当の気持ちなど分かるはずもないのですが、
また分からないからこそ「皆さんはどうですか」と
問いを立てさせていただいたのですが、naechinさんはそうお考えなのですね。
私は「謝罪をしてほしくない」という思いに変化はありませんが…。

以上、naechinさん反論に対する私のお答えと致します。
勿論これはnaechinさんと私との意見の交換であり、論争などではありません。
ですから、管理人さん、
このスレッドを消去してしまわないでくださいね~。(^_^;)…m(__)m

補足日時:2001/06/29 18:18
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