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聖書を高校時代に読みました。新約ですが。

それから新興宗教 エホバと統一教会でも随分読みました。

今も読んでいますが こんなに力を持った書が こんなに曖昧で喩えだらけでは

誤解を生むだけです。

カトリックとプロテスタントの違いからして解釈の違いです。

エホバと統一教会では解釈は全然違います。モルモン教も違います。

バラバラになった解釈を一つのキリスト教に戻さないと分裂は進むばかりです

聖書を書き直してはどうでしょうか 書き加えてはどうでしょうか

書き直したり書き加えてはならないとイエスが言ったでしょうか?

書いたのはヨハネです。ヨハネが間違っていたのです。

あのグロテスクな黙示録を書いたヨハネがキリスト教を台無しにしているのです。

あなたはどう思いますか?

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A 回答 (12件中1~10件)

あなたの意図とは違うかもしれませんが。


肉の欲望とはつまり性欲でしょうか?性欲やエゴが満たされることの方が、霊の真理や(神の?)愛を知ることよりも大切だと私は思います。人間の生理を否定するような教えは間違っています。欲望や我儘の暴走することは制止されるべきでしょうが、欲求は満たされるべきものです。権威付けられた言葉によってその欲求を抑圧したり、高級そうな言葉によって本来的な欲求から目を逸らさせることは、かえって歪な人間を形作ります。人間はそう難しいものではないのではないでしょうか。もっと自分の心根に素直になれば、どんな教えが自分のためになり、どんな教えが自分を騙すのか、分別できると思います。
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この回答へのお礼

Thank you

そうですね。無理やり欲求を押さえ込むのは考えものですね。

キリスト教聖書も性的にもうちょっと大らかでいいかもしれません

そういう意味でも書き換えが必要だと思いますどうもありがとうございます。

お礼日時:2017/02/09 09:59

まず、聖書の(聖)の意味を


知らないといけないですよね。

聖は、耳、口、王である。

人はもみあげという牙を持ち
耳という口を持っています。

聖書にでてくる
蛇が関係しているんです。

聖書は誰無知で産まれる
赤子の為の思考判断
テストの一つです。

貴方がまだ
三次元思考であるのか?
どうかを、試すように
文章を描いているのです。

爬虫類脳で人は
自我を持ち
色のある世界を見て
物質世界で立体空間に生き
言葉を記憶し選び
相手を認識し思い浮かべます。

物や形に囚われてはなりません
そのデザインは何故?
その形なのか?
創造主のメッセージを
受け取らないといけないのです。

そしてそれを
分かちあい
教えていきなさい
光としての生き方の
素晴らしさを伝えていきなさいと
イエスは願っているのです。

泣き叫びながら
血だらけになりながら
女性器という蛇の口から
地に降ろされる赤子の他の
安らぎと祈りの環境の場は

自然豊かなこの星なんです。
それを邪魔する社会でなりたって
います。
善行は願ったり
祈るだけでは何も変わりません。
行動しなきゃ意味がないのです。

あなた方、の脳に囁く
蛇の生き方の危険性を認め
自然のあらゆる創造物から
生き方を学び
ルシファーに
勝たなければなりません

蛇の毒はあなたの生活の
至るところにあるのですから。

文章を何故?横で
人は書くのか?
蛇の腹の裏を
見ればわかるでしょう。

光として生きるとは?
蛇は光を嫌うのです。
なのに人々は蛇の性器を
持って欲望を成し遂げようとして
いますね。憐れみ。罪の性質。
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この回答へのお礼

何か関係付けが多いですねえ。

聖書と言ってもそれは日本での名前であって、元のバイブルの訳に過ぎませんからねえ

聖と言う字にそれ程の意味があるとは思えませんが。

蛇の腹に至ってはキモい話ですねえ。

お礼日時:2017/02/09 09:51

キリスト教は弱者の宗教で、ルサンチマン(怨恨感情)に基づいているようですから、廃止して、宗教は仏教と神道に限定するのが良いのではないでしょうか?



キリスト教徒による非戦闘員に対する原爆投下も忘れてはならないですね。
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この回答へのお礼

キリスト教は悔い改めるべきだったのです。

イエスは死ぬべきじゃなかった それを殺したこと、犠牲者を出したことを悔い改めるべきでした。

そうすれば十字軍や原爆投下もなかったでしょう。

犠牲に頼る宗教ではいけません。それを考えるべきでしょう。

お礼日時:2017/02/03 18:50

聖人だったら書き直したり書き加えたり、新編を書いたりしても良いんじゃないですか。

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この回答へのお礼

Thank you

私は聖人ではありませんが 聖書はもう役割を果たしました。コーランに頼るのでなければ

21世紀の聖書を書いた方が良いのではないかと思います。

肉の欲望やエゴよりも霊の真理や愛の方が大切なことは分かりました

それより進んだ新しい倫理、新しい価値、目的を記したいものです。

お礼日時:2017/02/03 18:47

聖書学(あるいは比較聖書学)というジャンルがありまして、


そもそもとして聖書の記載を信じるかどうかは別として、
むしろそういった宗派による記載の違いにこそ、
意味があったのだと考え、比較することによって分析をすすめる考え方を取ります。


なぜ、記載が違うのでしょうか?過去の人間がいい加減で適当だったから?
布教という苦行をわざわざ選択する信仰の徒のみなさんとしては
肝心かなめの聖書に対していい加減な態度を取るとは考えにくいですよね。

逆に表現方法を変える必要性がそこにはあった、あるいは
実際に福音書毎に年代の矛盾があるのですから、
誤った情報が伝わってしまう原因がそこにはあった、とみるべきでは
無いでしょうか。


たとえば。
言葉を選んだ過去の翻訳者は、その時代の、その地域にしか分からない
事情があったのかもしれません。

"太陽"が恵みの象徴である文化圏もあれば、
砂漠の民にとっては死の象徴となる。
ユニコーンという幻想の動物の存在が信じられていた時代もあれば、
科学的に否定されて以降、公会議で雄牛に書き換えることを承認する。
実は聖書は、こういった数々の変化をすでに遂げてきています。



言葉は生きているのです。
意味は同じに翻訳できたとしても、その言葉が与える印象は
用いられた時代と地域で、まったく異なりうるのです。

すなわち、その変化は人の営みそのものです。
ヨハネの過激な表現が気に入らないというのは現代日本人として非常によくわかりますが、
それでもなお、ヨハネはなぜ、あの時代にそういった表現を
取らなければならなかったのか。
これを考えれば、答えは自ずとでると思いますよ。



完全に余談ですが、聖書に比べれば近代に成立した、
イスラム教のコーラン(クルアーン)はこういった問題にすでに直面していて、
アラビア語以外の記載を公的に認めてなかったりします。
実際、これにも理由がきちんとあるわけです。

さらにいうと、ボクは無神論者、というより反神論者なんですけどねー。
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~~~~~~~~~~~~~~~~~



『トマスによる福音書』(トマスによるふくいんしょ)は、1945年にエジプトで見つかった『ナハマディ写本』群に含まれていた文書で、114の文からなるイエスの語録集である。本文中に使徒トマスによって書き記されたとあるので、この名がある。

なお、現行の新約聖書には含まれないという点では、外典である。



キリスト教グノーシス派の位置づけ[編集]
本福音書がマニ教徒による偽作と判断されたように、伝統的に、正統派教会は、「キリスト教グノーシス派は、オリエントやギリシアの思想・宗教などの「異教」の影響を受けた混交宗教であり、そこからキリスト教的要素を取り除けば、もはや独自の宗教として成立しない」と見なしてきた。現在でもこのような見解を採る学者がある。

しかし、ナグ・ハマディ写本群には、非キリスト教のグノーシス文書が多数含まれ、内容を精査すると、グノーシス主義は、キリスト教とは別個のものとして成立していることが分かる。よって、キリスト教グノーシス派は、グノーシス主義、ないしグノーシス主義的傾向の思想を信奉する者が、その独自の立場から、旧約聖書、およびイエスに関わる文献を採用し、解釈し、成立した教団であると言える。トマス福音書に関して言えば、オクシュリュンコス・パピルス(3世紀)より、コプト語版(4世紀後半)の方が、グノーシス化の傾向が強い。

さらには、ナグ・ハマディ写本の研究により、キリスト教グノーシス主義は、原始キリスト教の正統派の思想の形成に大きく影響したということが分かってきた。[要出典]


https://ja.wikipedia.org/wiki/トマスによる福音書


~~~~~~~~~~~~~~


聖書以外の福音書の読み比べとかも
興味あるけど今の私の状況では無理。

がんばってください。
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この回答へのお礼

ありがとう

『トマスによる福音書』には他の福音書と違う、顕著なものがあるのでしょうか?

調べれば分かるのでしょうねえ どうもありがとうございます。

お礼日時:2017/01/31 18:35

キリスト教の役目は終わっています


仏教も同じですが 教義の解釈や どれをもちいるかで
分裂 分列 分裂 です

キリスト教 興起 多くの人が救われました
文明の発展にも大いに寄与し 発展しました
しかし 中世以降 キリスト教の歴史即 暗黒の歴史です
もはや 現代では役に立たない 死んだ宗教と言えます

  http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm
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この回答へのお礼

死んだ宗教だから生き返らせようと言うのです。これは死にんが生き返るのとは違います。

今でもキリスト教は一部生きています。宗教改革、ルネッサンス、コペルニクス的転回です。

お礼日時:2017/01/31 16:59

こんなに力を持った書が こんなに曖昧で喩えだらけでは


誤解を生むだけです。
   ↑
曖昧だからこれだけ広がったのです。
これを心理学ではフリーサイズ効果といいます。
たとえ話だから、理解しやすいのです。
つまり、曖昧で喩えだらけなので、これだけ
の力を持つことができたのです。


カトリックとプロテスタントの違いからして解釈の違いです。
  ↑
それは建前です。
カトリックが堕落したので、プロテスタントが
出現したのです。
解釈云々は口実に過ぎません。


バラバラになった解釈を一つのキリスト教に
戻さないと分裂は進むばかりです
   ↑
ワタシはバラバラになった方が良いと思います。
統一すれば、またぞろカトリックのような堕落が始まります。
徳川幕府により統一された日本仏教が
葬式仏教になったようにです。


聖書を書き直してはどうでしょうか 書き加えてはどうでしょうか
   ↑
それをやったので、現在のように
分裂したのですが。
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この回答へのお礼

フリーサイズ効果はいいですが これだけ広まった以上 真実を明らかにしなければなりません。

解釈と事実は違うのです。何でも解釈で済ます日本の憲法じゃないのです。

今カトリックとプロテスタント どちらがイエスの意に沿ってるかも一概には言えません。

バラバラではキリスト教の体をなしません。イエスのぶどうの木に繋がらなくてはイエスの

計画は実現しないのです。

葬式仏教になったのは一部の仏教です。

聖書は書き換えられてはいません。解釈されただです。訳が変わっただけです。

お礼日時:2017/01/31 16:55

それは『ヨハネではない誰かの記した新しい聖書解釈』にしかなりません。

『バラバラになったキリスト教を統一する』ではなく『バラバラのキリスト教に、更に新しい一派が加わる』だけです。
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この回答へのお礼

新約聖書はヨハネだけが書いたのではありません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ等によって

書かれています。新しい一派 統一教会が加わりました。彼らはキリスト教の神霊を統一しようとしたのです。

私は聖書を書き換えるという聖書の進化を促しているのです。

お礼日時:2017/01/31 16:50

そうやって個人で聖書を書き換えてる人って特にアメリカには多いと思うぜw

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この回答へのお礼

ありがとう

自由の国アメリカには多そうですね。でも聖書を書き換えてはいけないと言うのも常識ですが。

書き換えるならアメリカ人などクリスチャンによって書き換えてもらいたいですね

宗教改革です。キリスト教を改革しないと世界は良くならない。

お礼日時:2017/01/31 16:27

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Q神についての勘違いが なぜあとを絶たないか?

このような問いかけをすると 問い求めやすいかも分かりません。


A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般
をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。

C. 同じく 教義を信じるという間違い。
――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的
な能力とその行為成果であるに過ぎない。オシヘは 神秘の部分をふくむ
けれど けっきょくは経験思想であり 倫理規範である。やはり 精神主
義的な人間信仰ないし《信念の人》主義となってしまう。

D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい
る間違い。
――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像と思
考の産物である。《人間の能力》信仰となる。



ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いではないか。
 
偶像は 神本体の仮りのシルシです。正解へとみちびく補助線です。

オシヘが 偶像なのです。仮りの表現としての偶像です。神を指し示すた
めのシルシです。

人びとは 指の先を見るのではなく 指を見ている。

いかに?

このような問いかけをすると 問い求めやすいかも分かりません。


A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般
をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。

C. 同じく 教義を信じるという間違い。
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「神=究極の実在」は人間にとって非経験事象であるから、分かるはずのないものである。
しかし、宗教では「神」「仏性」などがそれであるとして、これを信ぜよとしている。
それが、正しい「神=究極の実在」であるはずがない。間違いである。
間違ったものを信ずれば、幸せにはなれない。
だから宗教は間違いである。

簡単に言えばこういうことであると理解しました。

であるならば、次のことが言えると思います。

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言いきれないだろう、ということ。
それは、「神」は「梵我一如」で自分の中にあり、ヒラメキや良心などから「一端」にせ
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うからです。
また、生まれ持った資質、努力の量と質によって、自分の中にある「神」の全体像を感じ
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要するに、「神」は完全な非経験事象ではないから、「分かるはずのないもの」(とお考え
ならば)とは言えない、ということです。


>オシへは言葉で表されています。ゆえに考えるものであり、信ずる(無条件で受け容れる)
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長くなりましたので、今回はここまで。

「神=究極の実在」は人間にとって非経験事象であるから、分かるはずのないものである。
しかし、宗教では「神」「仏性」などがそれであるとして、これを信ぜよとしている。
それが、正しい「神=究極の実在」であるはずがない。間違いである。
間違ったものを信ずれば、幸せにはなれない。
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簡単に言えばこういうことであると理解しました。

であるならば、次のことが言えると思います。

「直観知=ヒラメキ」によって、「神=究極の実在」を覚知してしまうことが「ない」と
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Q人びとはなぜ神のことが分からないのか

1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことに
よって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。

2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形にな
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3. 神は 精神だと言う。概念だと言う。
――けれども 精神も概念もは 人間のもの。自然本性としてそなわったも
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験事象であるのか。



人びとはどうして神のことが分からないのか?

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遅くなりました・・・すいません^_^

悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

だから、すべての人のあらゆる行為や考え方を否定せず、ただ見守ります

その人が、悪事を働く場合も、否定をしません・・・なぜなら、その人が良い行いをする為には、正反対の悪い事とは、なんなのか・・・という経験も必要だからです

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ちょっと、違ういいかたをすれば、例えば、よく思うのですが、私は、いつも、ワガママな人とかに、あった場合、イライラしてしまいます

そして、自分を人として、ダメな奴だな〜〜と自己嫌悪におちいります

でも、そんなダメな奴でも、天国に行って、いい人のなかにいれば、それなりに、徳がある人の様な振る舞いはするだろうと思います

しかし、天国の様な場所では、悪い人がいませんから、こんな私でも、徳のある人の様な、振る舞いをしますが、この世に戻って、イライラする人に会えば、また自己嫌悪するような、行動を起こします

つまり、私には、自己嫌悪する様な、要素があるにもかかわらず、それを出させる対象物がなければ、その状態には、なりません

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だから、神は、悪も否定しません、
よく、神と聞いて、慈悲あふれる神を想像する方は、神の半分しか理解していない といわれます

だから、悪を望んでいる訳ではないですが、否定している、訳ではありません・・・どちらも、成長する為に必要な要素なのです・・・

遅くなりました・・・すいません^_^

悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

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Qなるべく、人に分りやすい表現で

哲学カテは面白いですね。

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Q底無しのばかばっかしぢゃん このところの書き込みは

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いかに。

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ハサミとバカは使いよう。

これいかにぃ〜♪

中身がからっぽ、平気さ、ぷぅ〜

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創発、カオス、皆歓迎♪

無への不安もないバカさぁ〜

Q動物愛護のためのベジタリアンについて質問です。 僕の学校の友達にベジタリアンがいて、彼は肉食は動物虐

動物愛護のためのベジタリアンについて質問です。

僕の学校の友達にベジタリアンがいて、彼は肉食は動物虐待だと言います。

僕はその考えに強い嫌悪感を覚え、色々と反論をしたのですが、彼に説得されたり倫理学の本などを読んだりするにつれて、段々と彼の主張が正しいのかもしれないと思うようになってきました。

これから百年も経ないうちに今行われている畜産は、黒人差別と同じように人類の負の歴史として語られるようになると彼は言います。

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Aベストアンサー

ベジタリアンの栄養バランスの取り方が広く知られるようになれば日本でも広まると思う。最新の知見に基づく倫理が日本に回ってくるのはヨーロッパ、アメリカの数年~数十年おくれているのが常。

Q聖書の奇跡は物語か?嘘なのか?宇宙人の仕業か?

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あの当時なら死人を蘇らせたり生まれつきの病人を治したり出来るのは

人間ではなく宇宙人の仕業としか思えない。

天使とか聖霊とかは宇宙人の事か?

喩えを使って話すというが死んで3日後に復活すると言うのはどういう喩えか?

死んで復活するはずがない。

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神の正体 奇跡の実態は何か? ただの作り話か それとも信仰の試みか?

Aベストアンサー

クリスチャンというくくりはあまりにも幅広すぎますが
なかにはいまだにダーウィンの進化論を真剣に否定している宗派もあります。
キリスト教だけではなく、ユダヤ教、イスラム教など他の宗教も学んでみて下さい。
宗教というものの善と悪がよく見えてくると思います。

Q唯我独尊は治りませんか?

いろんなことを考えるのは自由ですね。
哲学についても同様です。

ただ、自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。
自分の考えも、他の人の考えも共に尊重していきたいものです。

孤独の中で考えていると、どうしても自分の考えだけが正しいという結論にたどり着いてしまいます。
そうなると、他人が馬鹿に思えてしまうようです。

どんな考えも自由ですが、他の違う考えにも耳を傾けたいものです。
そうでないと、誰にも理解されず、最終的には自分が疲弊していきます。

人生も半ばを過ぎると、唯我独尊はなかなか治らないものですか?

Aベストアンサー

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

先ず、それを認めることが重要です。

教育を受け、書を読み成長してきたのであれば、それは
先人の知恵を頂いてきた事でもあります。
このことを謙虚に認めないといけない、と思います。
認めて初めて、他者に耳を傾ける事が、出来る。

哲学も同じでしょう。
私は、哲学で、路傍の石ひとつも動かせるわけでもなかろうに、と
思っていますが、それでも、存在を全く否定している訳でもありません。

しかし、独善的な論理構成と結論には、悲哀を感じます。

そういう人は、自分が受けてきた教育や読破した書の価値が
理解できていない。
どのように自分の血となり肉となったか、の理解も出来ていない、と
思っています。

まあ、病気なんだと思っています。

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

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Q文化

文化とはなんでしょう?

また、私たちが今生きている文化を、できるだけ客観的に見ようとした場合、どんなもの
と言えるでしょうか?

Aベストアンサー

カルチャーと言うのなら 《あたまを耕すこと》なのでしょうね。

耕すのは 田返しだと言います。思いやおこないを内に還り見て
なお考え 考え直すといったことを捉えて名づけているのかも。

文化と言うのなら 世界認識を《文にする つまり 言葉によっ
て表現すること》なのでしょうね。

言葉をとおしてあたまの中でおこなうのは 思考ですから 同じ
ような発想で名づけているかも。

このときの《文》は 文字を介さない時代つまり無文字社会にあ
っても 成り立つと言うべきでしょうね。

おそらく この文化は なおまだひとりの人間のその主観として
の思考であり思想であるとは見られます。

ということは 文明ともなると この《明》はおそらく一個の主
観内容が互いに分かり合えたその相互理解のことを言っているよ
うに思われます。

広く普及すること。主観の共同化。

とすれば シヴィリゼーションというのも そのようにして世界
知の一部分についてだとしても 共同主観(コモンセンス)が成
り立ったときの《同時代人であることといった意味での共通の市
民性》を言っているのでしょう。

あるいは別様に解釈すれば 《互いにその存在をとうとび 自由
に話し合って行けるというような意味で大人になること》 これ
が文明であるかも分かりません。

《自由に話し合える》からと言って そこで互いに合意したこと
について あとで理由もなしに一方的に(つまり 話し合いをこ
ばんで)破棄するというのは 文明でもなければ人間の文化でも
ないはずです。このように たとえばとして:
★ 私たちが今生きている文化を、できるだけ客観的に見ようと
した場合
☆ には考えられます。

カルチャーと言うのなら 《あたまを耕すこと》なのでしょうね。

耕すのは 田返しだと言います。思いやおこないを内に還り見て
なお考え 考え直すといったことを捉えて名づけているのかも。

文化と言うのなら 世界認識を《文にする つまり 言葉によっ
て表現すること》なのでしょうね。

言葉をとおしてあたまの中でおこなうのは 思考ですから 同じ
ような発想で名づけているかも。

このときの《文》は 文字を介さない時代つまり無文字社会にあ
っても 成り立つと言うべきでしょうね。

おそらく こ...続きを読む

Q狂気とは

狂気について考察したいと考えています。

チェレンコフ光というのがありますよね。
これを制御するのは理性の極致だと思います。
なんにせよ強暴なエネルギーの制御は、人間が行う課題だと思います。

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これは狂気でしょうか。

Aベストアンサー

狂気の最たるもの

https://www.youtube.com/watch?v=LDxF80pyVDo&index=16&list=PLjRNMBifTNgxhiuFb3LEsZBH-g6obdoYg

Q経験よりも素晴らしいものはありますか?

つくづく経験の積み重ねの大切さを感じます。
経験によって、物事が分ってくることが多いからです。
皆さんはいかがおかんがえでしょうか。

Aベストアンサー

皆さんが言われているように、経験と思索の相互補完的関係が大事であると
思います。
どちらに重要性があるかといえば、経験のほうに軍配を上げたいと思います。

また、その経験よりも素晴らしいものというご質問ですので、「精神的若さ
(純粋さ)」とお答えしたいと思います。


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