一番にアダルトが読むべき源氏物語の
タイトルの箇所は、何の巻のどの辺に
ありますか
全文が手元にありますので分かるよう
に前後の引用などをしてください

愉しみたいと思います、よろしく。

A 回答 (3件)

すみません、勘違いです。



葵の4分の4あたりです
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この回答へのお礼

今はシェイクスピアのソネットに忙しく
彼は殿方がお好きとか......

あとで葵の巻の原文を味読させていただきます。

お礼日時:2017/02/01 21:16

巻九  葵  第三章 紫の君の物語 新手枕の物語


これを見当にして探してみる。ただし、ほとんど期待外れだよ。これを原文で探すくらいなら相当の読解力の持ち主。
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/modern09.html# …
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この回答へのお礼

ありがとうございます
原文読解力はそれなりにあります
エロ源氏は期待していません

色の道を追いたいです。

お礼日時:2017/02/01 21:13

若紫

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この回答へのお礼

を四分して、前から1/4、2/4、3/4、
4/4のどのあたりか教えていただけますか

不精をして申し訳ございません。

お礼日時:2017/02/01 07:31

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Aベストアンサー

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夕顔の巻のなかに出てくる
「咲く花に うつるて名は つつめども 折らで過ぎうき 今朝の朝顔」
という源氏の歌についてなのですが、文法的にどのような解釈の仕方が正しいのでしょうか?
今朝の朝顔、という部分を踏まえて、
源氏の心がうつるのは

御息所から中将へなのか
それとも御息所から夕顔へなのか・・・・

文法的にだといまいちわかりません。
どなたかお分かりの方、
こうじゃないかなーと言う意見でも結構です。
お願いします。

Aベストアンサー

>「今朝の朝顔」と言う点を踏まえながら、御息所から中将に心がうつる、
>という解釈になることの、文法的理由付けを知りたいのです。

 御息所→中将、の心のうごきは、歌そのものから読みとることは不可能です。歌からはっきりわかるのは「Bさんに《も》心が動かされるなあ」という内容だけで、その背後に「Aさんがいる」ということも「移るてふ名」から推測されるだけです。それをこの歌の詠まれたときの事情と結びつけて考えると、物語のなかでの「Aさん」「Bさん」そして「移るてふ名」をほしいままにする人がだれであるか、これも推測できるわけです。和歌そのものの解釈としては、ここには一切固有名詞はありません。「朝顔」も暗喩です。「心がうつる、という解釈になることの、文法的理由付け」をあえてあげれば(御息所から中将へ、ではなく、AさんからBさんへという一般名詞での「心がうつる」ですが)、それは「移るてふ名」でしょう。「移る」は一方から一方へと移動すること。名はただの名ではなく色恋の浮名です。前後の状況から、「一方」が御息所、「一方」が中将であることはほぼ間違いありませんが、それは推測にすぎません。和歌というのは抽象的なもので、その場その場において具体的な意味づけを得ていくものですので、和歌だけで「だれとだれが恋仲」ということはなかなか言えない。せいぜいそれは「わたしとあなた」くらいの人称代名詞でしかないのです。
 ちなみに正確に言うと、これは心うつりではありません。御息所のような高貴な人のもとに通うには、手引きをしてくれる女房をつくっておくのが便利です。そこで御息所に使える女房の一人と情をかわして、色仕掛けで主人のところへ案内させているわけです(たくさん男がかよう女の人だと、「わたしはAの君のかかり、あなたはB中将のかかり」とこういう女房がいっぱいいる)。中将もおそらく源氏の君とそういう関係であるか、あるいはそういう関係になろうとして源氏の君が口説いているわけです。しかし中将のような女房と源氏の君のような男では身分違いですから、もともと手引きをする女房のほうにも、男のほうにも、相手と真剣に恋をするつもりはありません。男は女房の主人に通うための方便、色仕掛けの袖の下のつもりであり、女房のほうは「役得」という考えかたで、割りきって関係を結ぶわけです。だから心がわりもなにも、もともとそんな真剣な関係ではない。
 この場面でいうと、中将と源氏の君に以前から関係があるという仮定で見れば、女房に案内されて女主人と相逢うて朝帰りする男が、「ごめんごめん、ご主人ばっかりじゃなくて君にもサービスしてあげなきゃならないんだけど、今日は遅くなっちゃったし(暗に御息所の愛情がはげしすぎることを言っている)、また今度ね。君がかわいくないからってわけじゃないんだよ。ほら、寝起きの顔がこんなに魅力的な君に手もふれずに帰るなんて……、ぼくだって悔しいんだよ」と冗談交じりに挨拶しているわけです。もし以前からの関係はないとすれば「ご主人さまだけじゃなくて、君とも仲良くなりたいけど、今日は遅くなっちゃったし……」ということ。むろん、愛情としては、御息所に対するそれと、中将へのそれはまったく別のものです。後者はほんの挨拶代りの、あるいは御息所に通うための「必要経費」のようなもので、おそらく源氏の君にとってはまじめな愛情ですらありません。しかし源氏の君のような高貴な男から、冗談交じりにでもこういうふうに機嫌をとってもらえるというのは、当時の女房にとっては最高の栄誉であるわけですから、「ほんの挨拶代り」でも彼女たちは充分満足なのです(まじめな愛情の対象としては、たとえば源氏の君のお供なんかと仲良くなって結婚するわけです)。しかもそのことを自分でよく知っているから、源氏の君はわざわざこういう冗談を言って中将を喜ばせるわけでしょう。ここで源氏の君が「うつるてふ名」などとまじめくさっているのは、ひとつには和歌の表現上そうしないとしまらないから、ひとつにはそれが女の人に対する挨拶としての礼儀だから(いくら実際は「挨拶代り」でも面と向かって言われると腹が立つ)です。
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>「今朝の朝顔」と言う点を踏まえながら、御息所から中将に心がうつる、
>という解釈になることの、文法的理由付けを知りたいのです。

 御息所→中将、の心のうごきは、歌そのものから読みとることは不可能です。歌からはっきりわかるのは「Bさんに《も》心が動かされるなあ」という内容だけで、その背後に「Aさんがいる」ということも「移るてふ名」から推測されるだけです。それをこの歌の詠まれたときの事情と結びつけて考えると、物語のなかでの「Aさん」「Bさん」そして「移るてふ名」をほしいままに...続きを読む

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源氏物語*若紫巻で「わが御車に乗せ奉りたまうて、みづからは引き入りて奉れり。」という文句があります。ここの「わが」は誰のことを指しますか。また「奉り給う」は「二重敬語」と思いますが、別々誰に対する敬意でしょうか。よかったら、詳しいだけ現代日本語に訳してください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 すみません。No.1です。

> 新編日本古典文学全集(小学館)の該当部の訳は
> 「大臣は、ご自分のお車に君をお乗せ申して、ご自身は後ろの席にお乗りになる。」
> です。

と古典文学全集の訳を引用しましたが、「お乗せ申して」だと「たまう」の訳が出ていませんので、「お乗せ申しなさって」とでもした方が正確です。

 それから「引き入りて奉れり」(No.1の回答では「引き入れて」と間違えて入力してしまっています。)の「引き入り」は「引き下がる」という意味の動詞で古典文学全集では「前ではなく後ろに引き下がって」ということで「後ろの座席に」と訳していますが、訳者によっては「光源氏に対して引き下がった態度をとって」と解釈して「遠慮して」のように訳してある場合もあるようです。
 「奉る」は普通は「差し上げる」といった意味の謙譲動詞ですが、「飲む」「食う」「着る」「乗る」の動作を表している場合は尊敬語です。したがって「お乗りになる」という訳になります。

 あわてて回答して、質問者さまを混乱させてしまったかもしれません。きちんと調べて回答すればよかったと反省しています。

 すみません。No.1です。

> 新編日本古典文学全集(小学館)の該当部の訳は
> 「大臣は、ご自分のお車に君をお乗せ申して、ご自身は後ろの席にお乗りになる。」
> です。

と古典文学全集の訳を引用しましたが、「お乗せ申して」だと「たまう」の訳が出ていませんので、「お乗せ申しなさって」とでもした方が正確です。

 それから「引き入りて奉れり」(No.1の回答では「引き入れて」と間違えて入力してしまっています。)の「引き入り」は「引き下がる」という意味の動詞で古典文学全集では「前ではなく後...続きを読む

Q源氏物語と平家物語比較

こんばんは。社会人になって古典に目覚めだしたものです。
私は恥ずかしいことに、中学校くらいまで、源氏物語は源平の戦い、
の源側を書き綴ったものと思い込んでいました。作品を知ったら、
拍子抜けしました。一方は小説、一方は軍記、、。

ところで、上記二大作品について中国人にどちらが日本では評価されているか、と聞かれました。私と同じように考えていたそうです。読者層では前者のような気がしますが、
それぞれのジャンルが異なるので、単純比較できません。

そこで、人格形成、という点ではどちらがより影響の度合いが高いか、という観点で比較してみたらどうかと思いました、ちょっと強引な基準設定ですが、、そう仮定すると、「平家」を選んでしまいます。

私もほとんど読んでいませんが、、「平家」に惹かれています。
平家琵琶の演奏を聴くとなおさら没頭しそうです。

Aベストアンサー

基本的にはどちらも修養の書とは言えない性格を持っていると思いますし、NO.2の方がおっしゃるように結論は好みの問題に帰するほかはないとも思われます。また「人格形成」という言葉から、いかに若年層に益するかということがテーマのような印象を受けたりもするのですが、敢てそれらのことを棚上げしてお題目にお答えすれば、私の軍配は平家に上がります。

「平家物語ほど運命という問題をとりあげた古典も少ないだろう」(石母田正『平家物語』)

大きな歴史のうねりの中に活写される人物群像を眺めるだけで謙虚な気持ちになるということもありますが、何よりもまず頻出する「死の語り」が平家を推す最大の理由です。

「常々、彼(司馬遷)は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起らないのだという一種の確信のようなものを有っていた。これは長い間史実を扱っている中(うち)に自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、という風にである。」(中島敦『李陵』)

これと同じことは「死」についても言えると思います。(ちょっと断っておきますが、ここでいう「死」とは、間近に迫まる避けられない死を意識したときの人間の態度や身の処し方のことです。ぽっくり死ぬとか苦しんで死ぬとかいう死に方の意味ではありません)
よく「死に様(ざま)にはその人の生き様が容赦なく現れる」などと言いますよね。確かにガンの闘病記や終末期医療に携わる人たちの本から、死を間近にひかえた患者さんたちのありようを窺うと、なるほどと実感される言葉なのですが、平家を読んでいてもやはり同様の印象を受けることができます。

もちろん平家は史書ではなく叙事詩に分類される古典ですから、「作者」が(死を記録するのではなく)死に様を描くことによって人物を色付けているとも言えるでしょう。また作者が此岸や彼岸にうるさい中世の人間であってみれば、そう考えるほうが自然だとも言えそうです。
しかしそれならばなおのこと、侍や悪僧の死に際にみられる人間模様がこの古典の読みどころとして際立ってくるのではないかと思います。
言うまでもなく、作者は死に様にその人物像を集約しようと努めるはず、だからです。

「人間は刻々に死につつあるので、別に、死という特定のものがあるわけではない。刻々の死を終える時があるだけだ。従って、刻々の死を意義あらしめるためには、刻々の生を、最善を尽くして生きねばならない。それを全うした者にのみ、よき“終わり”がめぐまれる」(新潮45・編『生きるための死に方』・野口晴哉という整体の先生の言葉)

もともと生き様が反映されやすい死に様、そして作者(小林秀雄風に言えば「個人を越えた名手」)が健筆にいっそう力を込めたであろう死に際、それが頻出する古典が平家物語である、というのがお題目を念頭に置いた上での私の見方です。
この観点から結論を述べますと、様々な死のあり方(文学的に気取れば「運命のうねり」とでも言いましょうか)を通して、その対極でもあり背中合わせでもある自己の生き様に目を向ける習慣を獲得することが、おしゃるところの「人格形成」に通じるといえば通じるのかなあと考えます。
そのようなわけで平家かなと。


ちなみに私が真っ先に思い浮かべる死に際は「先帝御入水」における平知盛の次の振舞いです。

さる程に、源氏の兵(つわもの)ども、平家の船に乗り移りければ、水手楫取(すゐしゆかんどり・=船頭水夫)ども、或いは射殺され、或いは斬り殺されて、船を直すに及ばず、船底に皆倒れ臥しにけり。新中納言知盛の卿、小船に乗つて、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて、「世の中は今はかうと覚え候。見苦しきものどもをば、皆海へ入れて、船の掃除召され候へ」とて、掃いたり、拭(のご)うたり、塵拾ひ、艫舳(ともへ)に走り廻つて、手づから掃除し給ひけり。女房たち、「やや、中納言殿、軍(いくさ)の様はいかにやいかに」と問ひ給へば、「ただ今、珍しき東男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ」とて、からからと笑はれければ、「何でふただ今の戯(たはぶれ)ぞや」とて、声々に喚(おめ)き叫び給ひけり。【角川文庫版より】

文字通り修羅場なわけですが、このぎりぎりの場面での船内清掃とは妙な行動ではあります。しかし一方で、遺体の清めや死装束・死化粧の施し、あるいはまた、末期ガンを告知された人がするであろう身辺整理、そういったことを想起させる行動ではないでしょうか。
清めた船が「御所の御船」ですから、そんな寓意が込められているのかもしれませんね。
ともかくも、死を、一族の滅亡を目の前にした男が、修羅場でとっさにみせた「死に支度」に武将としての品格を感じさせ、印象的です。

この場面、頼山陽の『日本外史』では漢文らしい簡潔さでこう記されています。

義経、乗輿の在る所を知り、軍を合せて疾(と)く攻む。知盛及ち帝船に赴く。諸嬪迎へて状を問ふ。知盛大に笑つて答へて曰く、「卿(けい)ら当(まさ)に東国男児を睹(み)るべきのみ」と。一船皆哭す。知盛手づから船中を掃除し、尽く汚穢物を棄つ。時子及ち帝を抱(いだ)き、相ひ約するに帯(おび)を以てし、剣璽(けんじ)を挟(さしはさ)み、出でて船首に立つ。帝時に八歳、時子に問うて曰く、「安(いづ)くに之(ゆ)くか」と。時子曰く、「虜(りよ)、矢を御船に集む。故に将(まさ)に他に徙(うつ)らんとするなり」と。遂に与(とも)に倶(とも)に海に投じて死す。【岩波文庫版より】

逆に饒舌な『源平盛衰記』ではこん感じです。

さる程に源氏の兵共、いとど力を得て平家の船に漕ぎ寄せ漕ぎ寄せ、乱れ乗る。遠きをば射、近きをば斬る。竪横散々に攻む。水手(かこ)・かんどり、櫓を捨て、梶を捨て、船を直すに及ばず、射伏せられ、切り伏せられ、船底に倒れ、水の底に入る。中納言は、女院・二殿などの乗り給へる御船に参られたりければ、女房達、「こはいかになり侍りぬるぞ」と宣ひければ、「今はともかくも申すに詞足らず。かねて思ひ儲けし事なり。めずらしき東男共をこそ御覧ぜんずらめ」とて打笑ひ給ふ。手(てづか)ら自ら船の掃除して、見苦しき者共海に取入れ、「ここ拭(のご)へ。かしこ払へ」など宣ふ。「さほどの事になり侍るなるに、閑(のどか)なる戯言かな」とて、女房達声々をめき叫び給ふ。【新人物往来社】

ついでにハーンの『耳なし芳一』から。

More than seven hundred years ago, at Dan-no-ura, in the Straits of Shimonoseki, was fought the last battle of the long contest between the Heike, or Taira clan, and the Genji, or Minamoto clan. There the Heike perished utterly, with their women and children, and their infant emperor likewise―now remembered as Antoku Tenno.

何か長いんですけど、三人しか回答してなのでご勘弁を。

基本的にはどちらも修養の書とは言えない性格を持っていると思いますし、NO.2の方がおっしゃるように結論は好みの問題に帰するほかはないとも思われます。また「人格形成」という言葉から、いかに若年層に益するかということがテーマのような印象を受けたりもするのですが、敢てそれらのことを棚上げしてお題目にお答えすれば、私の軍配は平家に上がります。

「平家物語ほど運命という問題をとりあげた古典も少ないだろう」(石母田正『平家物語』)

大きな歴史のうねりの中に活写される人物群像を眺めるだ...続きを読む

Q栄花物語と源氏物語の万葉集について

栄花物語 月の宴には、
昔、高野の女帝の御代、天平勝宝五年には、左大臣橘卿、諸卿大夫等集りて、万葉集を撰ばせたまふ
と孝謙天皇の勅撰とありますが、

源氏物語 梅枝には、
嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻
と嵯峨天皇が撰んだとも読めるようにあります。

このほぼ同時期に書かれた二つの物語の相違はどう解釈されているのでしょうかお教え下さい。

Aベストアンサー

>栄花物語と源氏物語の万葉集について

「栄花物語」の記述については一昔前は妄説の類いとして無視されていたのですが、近年「万葉集」19巻の成立に関して橘諸兄(左大臣橘卿)以下が大伴家持に命じて、19巻のもとになる資料を提出させたのではないかとの説が出ており、再評価されているのが現状です。なお、「万葉集」の詞書に年が書かれている和歌の中の最後の歌は、天平勝宝五年(752)の7年後の天平宝字3年(759)の因幡国庁での大伴家持の歌ということも関連します。
「源氏物語」のほうは、嵯峨天皇が古万葉集から抄出(書き抜き)させ、4巻にまとめたものと考えられています。もともと万葉集の原型の巻数については15巻説から数十巻説まであり、現在の20巻になるまでに紆余曲折があったと考えられ、また、一度に完成したのではないとの説が有力ですが、4巻は少なすぎ、後代の勅撰集が20巻というのも万葉集に倣ったとされていますから、「源氏物語」の文を万葉集の成立を記述したものとは考えられていません。

以上、参考程度に。


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