罪と罰ってなんで評価されているんですか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

ロシア語 名前」に関するQ&A: ロシア語で名前

A 回答 (2件)

あのロシア語の名前。


全然頭に入って来ないですよね?
何回でも読めるって言ってる人、一回では理解出来なかったんじゃ無いの?
って、思ってます。
    • good
    • 0

頭脳明晰ではあるが貧しい元大学生ラスコーリニコフが、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論をもとに、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てるも、殺害の現場に偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。

この思いがけぬ殺人に、ラスコーリニコフの罪の意識が増長し、苦悩する。しかし、ラスコーリニコフよりも惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャの、家族のためにつくす徹底された自己犠牲の生き方に心をうたれ、最後には自首する。人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズムが描かれた小説である。
・・・・とWikiに書かれていますが、登場人物の心の葛藤を如実に表す小説です。時代背景とともに、幅の広がる小説ですからね。
同じ感じで、<アンナ・カレニーナ>や<老人と海>もオススメです。
戦場の恋、や老人の孤独な感情が、克明に描写されています。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q罪と罰について

「罪と罰」という小説を読みました。しかし、文章が難しくなかなか理解するにいたりませんでした。そこで、手塚治虫氏のかいた、漫画の「罪と罰」も読みました。そこで思いました。これなら私にもすじが理解できると。

しかし、この、手塚治虫氏の「罪と罰」はドストエフスキーの「罪と罰」をわかりやすく、内容を要約して書かれているものと解釈してよいものなのでしょうか?教えてください。

Aベストアンサー

「分かりやすくした」ものであるのは確かですが、少なからぬ脚色が加えられているため、「内容を要約した」ものといってよいかは微妙なところです。いずれにせよ名作であることに変わりはありませんが。

手塚版『罪と罰』は純粋な意味での「漫画化」というよりも、「翻案」といった方が正確だろうと私は思います。

あの大作を逐語訳的に漫画化すると途方もないページ数になってしまいますので、脇筋はだいぶ省略してありますし、登場人物の設定も原作とは少し異なるところがあります(スヴィドリガイロフの思想とか)。ラスコーリニコフが自分の犯罪の拠所とする理論の説明も、まとめ方はかなり大胆です。

とりわけ大きな違いは金貸しアリョーナの妹リザヴェータが登場しない点、スヴィドリガイロフが武装蜂起を起こしている最中にラスコーリニコフが自首する場面をラストシーンにしている点でしょう(原作にはそのような蜂起の場面はなく、シベリアへ流刑になってからのラスコーリニコフのことについて少し触れてから終わる)。ラスコーリニコフを侮辱するためソーニャに盗みの嫌疑を着せたルージンの悪巧みを暴くのも、原作ではスヴィドリガイロフではなくレベジャートニコフだったような気がします(たぶん)。

このように登場人物の数を減らす工夫をしているのは、手塚治虫が大学時代に『罪と罰』を舞台化した学生演劇に出演したさいの演出が影響しているのではないかと私は推測しています(役者の人数は限られているため、長編小説の戯曲化ではそうした脚色がしばしば行なわれる)。ちなみにそのとき手塚治虫が演じた役は第一発見者で最初の容疑者になったペンキ屋です。舞台の上にやぐらを組んで階段をつけ、上の階と下の階を表現したため、高所恐怖症の手塚治虫は上へ登っていくのに大変苦労したというエピソードが残っています。あの斬新な見開き4連縦長コマというレイアウトも、このときの経験を反映したものではないか……というのも単なる私の推測ですが。

「分かりやすくした」ものであるのは確かですが、少なからぬ脚色が加えられているため、「内容を要約した」ものといってよいかは微妙なところです。いずれにせよ名作であることに変わりはありませんが。

手塚版『罪と罰』は純粋な意味での「漫画化」というよりも、「翻案」といった方が正確だろうと私は思います。

あの大作を逐語訳的に漫画化すると途方もないページ数になってしまいますので、脇筋はだいぶ省略してありますし、登場人物の設定も原作とは少し異なるところがあります(スヴィドリガイロフの...続きを読む

Q太宰治がいった、罪と罰は対義語ではないか?

以下は『人間失格』での一節なのですが、

もしもドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えてたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ

→ その後、主人公の絶望シーンへ。シノニム(同義)←→アント。

僕は「罪と罰」は、普通に同義語だと思ってたのですが。だって罪のないところに罰は、在ってはならない。在るとすれば、それは間違った罰、つまり冤罪になる。濡れ衣。

確かに罪は、犯罪者に利益をもたらす。
一方、罰は、犯罪者に損害をもたらす。
   けどその損益は対応してる。お互いが当然の報いでつながる。
無罪の人が受ける「罰」は、存在しない。
無罪の人が受ける、損害は、ただの事故だと思う。
   そして損害という事実を、「罰」と呼ぶか「事故」と呼ぶかは、
人間の主観に過ぎない。
   で要するに、罪と罰は、普通の主観上、互いに対応する、兄弟みたいな同義語じゃないですか。

太宰治が、「わかりかけた」仮説?罪と罰の対義語説?ってどんな可能性がありうるのでしょう?ただの悲劇の主人公の言い逃れ?
自分は罪を犯してきたのに、まだ罰を受けていない?
自分は罪を犯してないのに、なぜ罰を受けるんだ!
絶対に相通ぜざるもの、ドストの青みどろ…って?

僕は「罪と罰」も「人間失格」も両方読みましたが、どんな解釈ができるのでしょう?長く考えてみたいので、締め切りも遅めにします。ご協力ねがう。

以下は『人間失格』での一節なのですが、

もしもドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えてたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ

→ その後、主人公の絶望シーンへ。シノニム(同義)←→アント。

僕は「罪と罰」は、普通に同義語だと思ってたのですが。だって罪のないところに罰は、在ってはならない。在るとすれば、それは間違った罰、つ...続きを読む

Aベストアンサー

「罪」の問題は、『人間失格』のなかでも根本的な問題としてあります。

『人間失格』は何を描いた話かというと、罪を負った人間は許されるのか、ということになるでしょう。
罪を負った者は、主人公(大庭葉蔵)です。
そうして、その罪を咎める者、許す者が登場します。

その罪というのはいったいどのようなものなのか。
まず、この角度からもういちどこの作品を読み直してみます。
幼いうちから、葉蔵は自分を偽ってきたことを述べていきます。

それはどうしてか。
手記の冒頭に、こんな文章があります。

>「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」

これは重要な点です。
つまり主人公は生活者ではないのです。

太宰治の作品には『ヴィヨンの妻』や『斜陽』にも出てくるように、「生活者」対「芸術家」を二項対立させていく図式が見て取れます。
ここで葉蔵は「芸術家」であるのだけれど、幼い頃から自分をほかの人間と同じ「生活者」であるふりをしてきた、とある。
内心ではその一員でありたいと望みながら、芸術家である自分は、そのなかに入ることができない。そのくせ、自分を偽ってきた。その「偽り」が、主人公の考える自分自身の罪です。

だからこそ

> 果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。
> 「ワザ。ワザ」

と偽りを見破った竹一の存在を怖れるのです。
竹一は「咎める者」として登場する最初の人物です。
以下、生活者にはなれない主人公を咎める人物(すべて男性)がつぎつぎに登場してきます。

一方で生活者たちは、つぎつぎと罪を犯していきます。堀木、ヒラメ、画商。この罪は欲望を抱いた生活者の罪で、主人公の考えるような観念的な罪とは異なったものです。
このような欲望をもとより抱くことのない(主人公は空腹を知りません)主人公は、こうした罪とは異なった位相にある。

その二種類の「罪」を念頭に置いておいてください。

ドストエフスキーの『罪と罰』における「罪」は老婆殺しを当然指しています。

ラスコリニコフもまた、生活者ではなく、欲望のために罪を犯したのではない。
人間は凡人と偉人にわけられ、偉人は社会の道徳を超越する権利をもつ、と考えたからです。

葉蔵と一種パラレルな位置にあることはわかりますね。

> もしもドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?

罪と罰をシノニムとすると、「老婆殺し」と「罰」は同義語、つまり老婆を殺したから罰を受けた、と直接に結ばれます。
これはむしろ一般的な道徳観といえるでしょう。

「老婆殺し」が罰の対義語であるとはどういうことなのか。
葉蔵の問題意識に引きつけると、老婆殺し、すなわち生活者を殺すこととは、生活者の一員ではないことを自他共に認める、ということにもつながっていきます。
つまり、偽ることをやめることです。
それは、罰の対極にあることではないのか。
救済とは言えないのか。
偽らなければ、よいのか。
偽らなければ救済がえられるのか。

そのように考えている場面であることが読みとれます。

『人間失格』というテクストは構造がものすごくはっきりしているので、構造を取り上げながら細かく読んでいくと、大変におもしろいんですが、あんまり書くとわたしの問題意識になっちゃう。
だから、ここらへんでいったん切ります。

納得がいかない点、もっと知りたい点があればどうぞ。

「罪」の問題は、『人間失格』のなかでも根本的な問題としてあります。

『人間失格』は何を描いた話かというと、罪を負った人間は許されるのか、ということになるでしょう。
罪を負った者は、主人公(大庭葉蔵)です。
そうして、その罪を咎める者、許す者が登場します。

その罪というのはいったいどのようなものなのか。
まず、この角度からもういちどこの作品を読み直してみます。
幼いうちから、葉蔵は自分を偽ってきたことを述べていきます。

それはどうしてか。
手記の冒頭に、こんな文章があ...続きを読む

Q「罪と罰」の登場人物の名前について・ロシア人名

ドストエフスキー「罪と罰」を読みました。内容はともかくとして、文学としての一つの「特徴」が気になったので、架空人物の名付け方・ロシア人の姓名についてお尋ねします。罪と罰を読んだことない方でもけっこうです。

全体的に「堅苦しい言い回し」が多いという印象を受けました。ただ、それはロシア文学に限らず日本文学でも明治のものは難解ですし、「筆者がわざと難しい言い回しをして、読者の知的好奇心をくすぐっているのかな」
「ひょっとして、19世紀当時~20世紀初頭は、大衆文学とは言っても文芸誌・雑誌を買う人は限られていて、『くだけた言葉で書かれたものは価値がない。荘厳な言い回し・読解を必要とするブンガクテキ表現をする著作の方が、読者に対して読む価値のアルモノとしてのハクを示せる』と思っていた作家が多いのかな」
とすら思ってしまいます。

それにしても罪と罰を読む上でつらかったのは、私に全くなじみのない姓名が多かったことです。ロジオン、ロージャ、この2つが同じ人物を指すことまでは受け容れられますが(英語圏でもリチャードがディックになったりしますものね)、場面ごとどころか、同じ場面の中でさえ、ロージャ、ラスコーリニコフ、ロジオン・ロマーノヴィチ、ところころ呼び名が変わるのには四苦八苦しました。
私は本作が初めて触れたロシア文学ですが、
          ロマーノヴィチ  ・ラスコーリニコフ と
          アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコワ と
アヴドーチャ   ・ロマーノヴナ
が親子兄妹の血縁関係だ、ということに慣れるにも時間かかりました。

本作を読むに当たり、インターネットで補助検索をして、
イワン(A)  ・イワノヴィッチ(B)・イワノフ(C)
というルールは見付けましたので、
ゴルバチョフ、フルシチョフ、カラシニコフ、カラマーゾフ、
ロシア人名の語尾がみんな似通っていることには納得した次第です。
女性の場合はたぶん
エカテリン(A)  ・イワノヴナ(B’)・イワノワ(C’)
となりますよね?

■まず、
アヴドーチャ   ・ロマーノヴナ
には 「・ラスコーリニコワ」(C)がないのは、未婚女性だからですか?

■ドゥーニャ、ドゥーネチカは アヴドーチャ の愛称(英語でいうニックネーム)ですか?
でも英語の場合は人によってなんていう愛称で呼んでもらうか一つに決まっている、と聞いたことがあります。
例えばエリザベスという本名の登場人物を、呼ぶ人によって エリー、エリザ、リサ、ベス、ベティ とばらばらに読んでいる文学作品に、僕は出会ったことがありません。大将、兄さん、あのバカ、といった役柄によって呼び名が変わることはあったとしても、ニックネームを2つも持っているのは、「ロシア特有なんだろうか」と素朴に疑問に思いました。中国における 阿備 や 美美 のように、未成年や特に女の子の場合には、
  気分によって よし子ちゃん、よっちゃん、と呼び分け
たりするものなのでしょうか。
さっきまで ソーニャ、と呼んでいた人が、急にソーネチカ、と呼んだりすると、
ソーニャとソーネチカのどちらがより親しい言い方なのかわからない私としては、とまどい続けるばかりです。ソフィア、と呼びかけるのは、たいへん距離感のある言い方でしょうか(ドゥーニャ、ドゥーネチカも同様)。

■医師や弁護士が登場しますが、(少なくとも19世紀ロシアにおいては)英語でいうDr.のような尊称はあまり一般的でなかったのでしょうか。
ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンのことを「ピョートル・ペトローヴィチ、」と呼び捨てにして話しかけている人物の多いことが気になります。
「ピョートル・ペトローヴィチさん、」
「ピョートル・ペトローヴィチ先生、」
という呼びかけをしていないのは、訳者の癖でしょうか。

■また逆に、ルージンと結婚しようとしているドゥーニャでさえ、「ピョートル・ペトローヴィチ、」とほぼフルネームで呼んでいるのが気になります。ピョートルの愛称って一度も出てきていませんよね? ルームメイトでさえ。

■ドゥーニャはスヴィドリガイロフのことは、
「スヴィドリガイロフはなんて言ったの?」
「スヴィドリガイロフさんの話はおやめになってください」
と、さんを付けたり付けなかったりしています。これは原文にミスターやムッシュやヘルみたいなのがあったりなかったり、ということなのか、訳者の癖ということなのか、どちらなのでしょうか。この「さん」を付けるかどうかやフルネームで呼ぶかどうかで心理的距離感がわかったりしますか?


ここから一番聞きたいことです。
■なぜ一つの作品で、ペトローヴィチやイヴァーノヴナという、同じ姓の登場人物が3人も4人も登場するのですか?
三国志でも夏侯淵・夏候惇とか孫権・孫堅・孫権みたいな、読んでて嫌になりそうなややこしい名前が存在しますが、あれは歴史小説として捉えれば、罪と罰とは少し違う気がします。架空小説ならばなるべく「個性が生きるように」人物設定するのが自然であって、一つの作品に
X・ペトローヴィチ
Y・ペトローヴィチ
Z・ペトローヴィチ
を登場させるのは、ダメな作家のやることだと思うのですが(血縁でない限り)。前述の通り「ヴィチ」が息子を意味することまでは理解しました。日本でいえば「佐藤さん」のようにありふれた名前、ということでしょうか。しかし、
伊藤
佐藤
近藤
という架空の名前を人物相関図に当てはめていくときに、「もう少し違う名前にしよう」と思いませんか? ましてペトローヴィチは「一字一句違わない」ですし。
ダ・ヴィンチ、デカプリオ みたいに、AとB をセットで呼ぶことに慣れてしまっているのでしょうか。ゾシーモフはずっと「ゾシーモフだけ」で呼ばれているから気の毒ですが。

洗礼名という日本にはない慣習のことを考えると、欧米人の個人名(ファーストネーム)が日本ほどバリエーションに富んでいないことは理解できます。特に ペトロ はありふれた名前なんでしょうね。
ペトロ(ピーター)やイワン(ジョン)がありふれているからペトローヴィチやイヴァーノヴナがありふれている、
ということまでは理解ができます。

でも架空小説なら、「田中」という登場人物は一人だけに抑えることができるでしょう?
アメリカの映画でも、ジョンが3人も4人も出てくる作品を、見たことありません。まして、血縁関係もない「ジョンソン氏」が3人も出てくるなんて、狂ってると感じます。

■やたらめったら、相手をフルネーム(ファースト+ミドル)で呼ぼうとすることについて、これは当時のロシアで一般的だったのですか? 今のロシアでもそうですか?
つまり、池上さん、や、あなた、や先生、と呼びかけるよりは、池上アキラ、と呼びかける方が、より相手に敬意を込めた表現なのでしょうか? 一連の会話の中で何度も何度もフルネームで呼ぶのが気になります。
それとも、これは「文学特有の」わざと堅苦しい言い方をして、読者に印象付けようという、ドストエフスキーの「テクニック」ですか?
それも、よくあったテクですか、それとも彼固有ですか?

以上、長くて恐縮ですが一つずつでも良いので、よろしくお願いします。

ドストエフスキー「罪と罰」を読みました。内容はともかくとして、文学としての一つの「特徴」が気になったので、架空人物の名付け方・ロシア人の姓名についてお尋ねします。罪と罰を読んだことない方でもけっこうです。

全体的に「堅苦しい言い回し」が多いという印象を受けました。ただ、それはロシア文学に限らず日本文学でも明治のものは難解ですし、「筆者がわざと難しい言い回しをして、読者の知的好奇心をくすぐっているのかな」
「ひょっとして、19世紀当時~20世紀初頭は、大衆文学とは言っても文芸...続きを読む

Aベストアンサー

どうやら24時間以上たっても回答が付いていないようですのでお答えいたします。
たぶん外国語カテゴリーのほうがより多くの回答を望めたかもしれません。
かく言う私も決してロシア文化に明るいわけではありませんので、回答は部分的なものになります。ご了承願います。

まず、
〔男性〕 イワン(A)  ・イワノヴィッチ(B)・イワノフ(C)
〔女性〕 エカテリン(A)  ・イワノヴナ(B’)・イワノワ(C’)
のうちで
Aが「個人名(その名前の持ち主本人に与えられた名前)」、
BおよびB’が「父称(ふしょう、その名前の持ち主の父親の名前に由来する呼び名)」
CおよびC’が「姓(いわゆる苗字に相当)」
であることを理解してください。
父称は東アジア(日本含む)や西欧の多くの国では馴染みのない習慣ですが、「○○の息子(娘)」を意味する呼び方であり、
古くは、実の親子関係であることや、家系を示すために使われたといわれます。
(アイスランド語では現在でもこの利用法に基づき父称が用いられていて、何世代にもわたって使われる「苗字」は使われません。)
ロシア語などスラブ語圏ではもともと「姓」はなく、父称が姓の役割を果たしていたそうですが
(つまり古くは、上記例でいえば「A・B」だけの形だった)、
近代になって、この「父称」の使用を保ったまま新たに「姓」を使用するようになりました(「A・B・C」の形になった)。
ここ、ロシア人の人名を理解するうえで、大事なポイントです。

>アヴドーチャ   ・ロマーノヴナ
>には 「・ラスコーリニコワ」(C)がないのは、未婚女性だからですか?
これは当方には分からないので割愛させてください。

>ドゥーニャ、ドゥーネチカは アヴドーチャ の愛称(英語でいうニックネーム)ですか?
はい、そうです。
ただ、英語でいうニックネームは正式な名前として用いられることがあるのに対し、
ロシア語の愛称形はあくまで愛称であり、正式な個人名としては用いられません。
使い方ですが、
>気分によって よし子ちゃん、よっちゃん、と呼び分けたりするものなのでしょうか。
そのとおりです。但し、日本語でも「よし子さん」のことをそんなに軽々しく「よっちゃん」と呼んだりしないのと同様、
よほど親密な相手でないと「ソフィア」のことを「ソーネチカ」と呼んだりはしないようです。
(「ソフィア」の愛称形のひとつが「ソーニャ」ですが、「ソ-ネチカ」はその更にずっと砕けた呼び方です。「親称」ともいいます)
ちなみに「ソフィア」とだけ呼ぶと、まるで親が子供に向かってお説教でも始めるかのような雰囲気になってしまいます。

>ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンのことを「ピョートル・ペトローヴィチ、」と呼び捨てにして話しかけている人物の多いことが気になります。
これは呼び捨てではなく、当時のロシアの習慣としてはこのように「個人名+父称」で呼ぶのがいちばん正式で、礼儀にかなった呼び方だったのです。
日本人の感覚だとどうしても呼び捨てに思えてしまうのは致し方ないのですが、「○○さんの息子(娘)の△△さん」というふうに呼んでいるわけであり、日本語の「山田太郎さん」「鈴木花子さん」といった「苗字+名前+敬称」の感覚にいちばん近いともいえるでしょう。
『罪と罰』の主人公を「ロディオン・ロマーノヴィチ」と呼んだのなら、それは「ロマンさんの息子のロディオンさん」と呼んでいるわけですね。

>やたらめったら、相手をフルネーム(ファースト+ミドル)で呼ぼうとすることについて、これは当時のロシアで一般的だったのですか? 今のロシアでもそうですか?
さすがに現代ではやや堅苦しい呼び方になってきているようですが、公式な場や公的書類などでは今でも用いますし、年配の人や社会的立場の高い人に対する呼びかけにも用いられているようです。礼儀を重んずる人なら当然のように父称を付けて相手を呼ぶでしょうね。
ですからテクニックでもなんでもなく、ちゃんとした礼儀正しい表現です。ゴーゴリもトルストイも、それどころかショーロホフやソルジェニーツィンだって用いていますよ。
ちなみに「名前+父称」はフルネームではありません。これに姓が加わってはじめてフルネームになります。


>なぜ一つの作品で、ペトローヴィチやイヴァーノヴナという、同じ姓の登場人物が3人も4人も登場するのですか?
上記のように、ペトローヴィチやイヴァーノヴナは姓ではなく「父称」です。
つまり父親の名前がピョートルであったりイヴァンであったりしたために(いずれもありふれた名前だという点はご指摘の通りです)
ペトローヴィチなりイヴァーノヴナなりの父称が息子や娘についているわけです。
これらの父称が、『罪と罰』の中で、一見、登場人物たちの姓のように見える理由ですが、当方もよく理解していません。
作者(ドストイェーフスキー)が作中人物たちのうち重要度が低いものにたいしてはわざわざ姓を設定しなかったのか、
それとも身分がそれほど高くない人物はこの時代(19世紀半ば)「姓」を持っていなかったのか。
いずれかだとは思うのですが、当方もあいにく存じません。
『罪と罰』にペトローヴィチが何人か登場するのは、作者がその「ペトローヴィチさんたち」の個性をあえて目立たないようにしたとも考えられます。ラスコーリニコフやソーニャの印象が高まりますから。
(どうでもいい話ですが、作中でいちばん私の印象に残っている人物は、ロージャ君を除けば、飲んだくれのマルメラードフおじさんです。)


ロシア人の名前に関する資料として分かりやすく説明しているサイトを貼っておきます。
http://rossia.web.fc2.com/sp/fio/index.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1386887598

どうやら24時間以上たっても回答が付いていないようですのでお答えいたします。
たぶん外国語カテゴリーのほうがより多くの回答を望めたかもしれません。
かく言う私も決してロシア文化に明るいわけではありませんので、回答は部分的なものになります。ご了承願います。

まず、
〔男性〕 イワン(A)  ・イワノヴィッチ(B)・イワノフ(C)
〔女性〕 エカテリン(A)  ・イワノヴナ(B’)・イワノワ(C’)
のうちで
Aが「個人名(その名前の持ち主本人に与えられた名前)」、
BおよびB’が「父称...続きを読む

Q「罪と罰」を読んだことある方 助けてください

ドストエフスキー「罪と罰」を読みました。
集英社ギャラリー版 小泉猛訳です。

マルメラードフの死出の場面で
奥さんのカチェリーナ・イヴァーノヴナ(以下K)と、
その大家のアマーリヤ・イヴァーノヴナ(以下A)が口論します。
●● 引用1 ●●

A「わたし、前に一度、あなたに言いました、
あなた、わたしのこと決して
 アマリ・リュドヴィーゴヴナ 
と呼んではいけないこと。
わたし、
 アマリ・イワン
です!」

K「あなたはアマリ・イワンじゃない、
 アマーリヤ・リュドヴィーゴヴナ 
です。それに私たちはあなたにおべっかなんか使いませんからね、
いつ何時だってあなたをアマーリヤ・リュドヴィーゴヴナと呼びますよ。
でも、
  なんであなたがその名前を嫌うのか、わたしには何としてもわかりゃしないわ。」

●●●●●●●●

一方後日の法要の饗宴の席では、
●● 引用2 ●●

なんとも我慢のできなくなったカチェリーナ・イヴァーノヴナは、大声で

K アマーリヤ・イヴァーノヴナにはファーテル(父親)なんてまるでいなかったのかも知れない。だいたいアマーリヤ・イヴァーノヴナなぞ、ぺテルブルグに流れ込んで来た飲んだくれのフィンランド女で、昔は料理女(女中奉公)でもしていたのだろう、いや、まごまごすればもっとひどいこと(暮らし)をしていたのかも知れない

と『歯に衣着せず言ってのけた』。
アマーリヤ・イヴァーノヴナは真っ赤になって

A カチェリーナ・イヴァーノヴナの方こそ「たぶん丸切りファーテルなかったけれど、自分にはファーテル・アウス・ベルリンあった。
こんな長いフロック着て、いつもプーフ(プフー)、プーフ、プーフやっていた」

とやり返した。
カチェリーナ・イヴァーノヴナは、いかにも相手を軽蔑し切った顔をして、

K 自分の生まれは誰もが知っている、現に自分の父は大佐だったと症状にも活字で書いてある、
ところがアマーリヤ・イヴァーノヴナの父親なぞ(仮に父親と名の付く者があったとすればの話だが)、恐らく
ぺテルブルグに流れ込んで来たフィンランド人で、牛乳売りでもしていたのに違いない、
いややっぱり、父親などまるでなかったと考えた方が確かだろう、
何しろアマーリヤの父称は何というのか、
イヴァーノヴナ なのか リュドヴィーゴヴナ なのか、
未だにわかっていないではないか。

ここでとうとう、アマーリヤ・イヴァーノヴナは拳でテーブルを叩きながら、声を張り上げた。

A 自分は アマリ・イワン で、リュドヴィーゴヴナ ではない、
自分のファーテルは「ヨハン(Johann?)と言って市長してた」。

●●●●●●●●
(()内は別の訳者による訳。)

というように、Aがドイツ系ではなくフィンランド系ではないか、という中傷合戦にまで発展しています。
そこでいくつか質問です。

●Q1
Aは
  アマーリヤ・イヴァーノヴナ(か フョードロヴナ か リュドヴィーゴヴナ)・リッペヴェフゼル
というフルネームだと思いますが、
初出でフョードロヴナなのに後から別の父称で呼ばれるのはなぜです? 父称が人生途中で変わって複数持つことなんてあります?

●Q2
読む方としてもアマーリヤ・リッペヴェフゼルと呼ばれていた人が100ページ以上後で久しぶりに登場した時にアマーリヤ・イヴァーノヴナと呼ばれたりすると、同一人物だとわかりにくいです。台詞部分ではファースト・ミドルで呼ぶことが多いのはなんとなくわかりましたが、台詞以外でファースト・ミドルとファースト・ファミリーなどの表記ゆれがあるのは、訳者の癖ですか? (別の訳ではファーストのみに統一している物もありました。)
それとも作者が読者を飽きさせず脳を刺激するようにころころ呼び名を変える演出をほどこしたのですか?

●Q3
Aの配偶者は一度も登場せず、Aが大家として「女主人」とも表現されていますが、旦那さんは既に死亡している、と考えるのが妥当でしょうか。

●Q4
Aがリュドヴィーゴヴナという父称を頑なに嫌う理由がわかりません。
これは、Kが「なんであなたがその名前を嫌うのか、わたしには何としてもわかりゃしないわ。」と言っている通り、
Aの本名はリュドヴィーゴヴナだということを周囲は皆認知しているのに、それを本人が拒む理由をKも周囲も誰もわからず、従って読者にもわかるはずがない、ということでしょうか。

3つともヴナと付いてはいますが、イヴァーノヴナがよりドイツ系的だということで本人が好んでいるのでしょうか。

●Q5
それとも
フョードル と リュドヴィーゴ と イワン(ヨハン) という3人の父親候補の男性がいて、
 家庭の貧しさが故に養子(奉公)に出されたか、
 妾・愛人の子で認知してもらえなかったか(いわゆるシングルマザー)、
 Aの母親がリュドヴィーゴと再婚したので、世間的にはリュドヴィーゴの子として育てられてきたけれど、リュドヴィーゴと離婚した後、「あなたの本当の父親は実は、イワンというそれはそれは立派な人だったのよ」という秘密を母親が教え込んだのか、

とにかく「実の親と育ての親が違う」という、古今東西を問わず普遍的な「出自の悩み」を抱える役を作者が与えたのでしょうか。
そんな「ドラマティックな背景」でもない限り、
リュドヴィーゴヴナという名を他人(K)は知っているのにA本人は嫌がっている、という理由がちんぷんかんぷんです。

●Q6
「料理女(女中奉公)でもしていたのだろう、いや、まごまごすればもっとひどいこと(暮らし)をしていたのかも知れない」
というKのAに対する中傷は、
  ひどいこと = 売春
を匂わせている、と考えたら考え過ぎでしょうか?
「今は他人から家賃を取り立てるような女主人という良い身分についているが、どんなことをして成り上がってきたのかわかったもんじゃない。どうせ、あんたの母親は売春婦で、父親のわからないあんたもひょっとしたら売春婦をしてたんでしょ!」
と言っているのでは?

●Q7
「仮に父親と名の付く者があったとすれば」
という括弧書きが、Aの母親は売春婦だったかも知れない、と私が考える根拠です。
だって生物学的に父親がいないなんてあり得ないのに、わざわざ、
「Aには父親がいないに違いないと考えた方が確かだろう」
というKの主観が書いてあるのは、そういうことなのかなと思いました。

●Q8
移民なので偽名を多数使っているのでしょうか。

●Q9
この19世紀半ば当時、ロシアから見て、
ドイツ人は「多くが、商人や法律家などロシアに来て金銭面で成功している人々や知識人」という、尊敬とやっかみの対象だったのでしょうか?
ロシア人がドイツ人を下に見ず、むしろそのハングリーな勢いを恐れていたからこそ、ドイツ語なまりのロシア語などを馬鹿にしていたのでしょうか?

一方、当時のロシア人は、フィンランド人やポーランド人を、同じ移民は移民でもドイツ系とは明らかに違う馬鹿にした扱いをしていましたか?
またこうした文学の背景には、バルト海の玄関口である首都ぺテルブルグという地理も色濃く影響していますか?

当時作者は、
「どうせおまえ(A)なんてドイツ系を名乗っているけど実際はフィンランドの血統だろ」
「フィンランド移民なんてせいぜい牛乳売りのような貧しい家庭の育ちだろ」
とフィンランドも牛乳売りも見下しているように見えます。
(まあ近年は差別に敏感ですが当時は「見下す」という意識はなかったのでしょうね。)

ポーランドについても同様です。ドイツ人は(流暢ではなくても)ロシア語を話しているのに、Aのもとに寄食(=居候?)しているポーランド人を初めとした3人は、ロシア語を話せない存在として描かれています。(ポーランドってゲルマン系よりスラブ系寄りじゃなかったでしょうか。ロシア語を習得しにくいんでしょうかね。)
「ドイツ人に比べて相対的に勤勉ではない」という当時の偏見があるのでしょうか。

●Q10
KとAが喧嘩別れする前までは表面上は仲良く付き合っていて(葬儀の手配を積極的に手伝うくらいですから)、
でもKはAのことを「ドイツ系を名乗っているけど実際はフィンランドの血統だろ」と内心見下げていたとすると、
文中で度々Aが

  この馬鹿なドイツ女
  でたらめ千万なドイツ女

と表現されていることとの整合性が取れない気がします。ドイツ女と呼ぶからには、それなりにドイツ育ちの訛りがあるということですよね。なのになぜ「ドイツのことを馬鹿にする」のではなく、「ドイツなんて嘘で、フィンランドだろ」というくだらない口撃をするのでしょう?
Kも内心、「Aがドイツ系なのは明らかだ。父親が市長だったというのも本当かも知れない。」ということを半分承知の上で、相手の出自をけなしているのですか?

●Q11
Aが多くの人に貸している家(4階以上の背の高い木造?アパート)は、
  コーゼル(錠前屋さん、お金持ちのドイツ人)の家
と呼ばれています。
ロージャやソーニャの家もまた貸しですね。

私はこの「また貸し」というシステムに驚きましたけど、ヨーロッパでは大家公認のよくある文化なのでしょうか?
コーゼル  = とてつもないお金持ちのオーナー
アマーリヤ = 小金持ちの「家主」、現代日本でいうところの管理人兼不動産屋
というイメージでしょうか?
ドイツ系どうしで縁があった、当時ドイツ人は成功者が多かった、という演出でしょうか。

●Q12
プーフは葉巻プカプカ、で良いですか。

長くて恐縮ですが、一つずつでも良いので、よろしくお願いします。

ドストエフスキー「罪と罰」を読みました。
集英社ギャラリー版 小泉猛訳です。

マルメラードフの死出の場面で
奥さんのカチェリーナ・イヴァーノヴナ(以下K)と、
その大家のアマーリヤ・イヴァーノヴナ(以下A)が口論します。
●● 引用1 ●●

A「わたし、前に一度、あなたに言いました、
あなた、わたしのこと決して
 アマリ・リュドヴィーゴヴナ 
と呼んではいけないこと。
わたし、
 アマリ・イワン
です!」

K「あなたはアマリ・イワンじゃない、
 アマーリヤ・リュドヴィーゴヴナ 
です。そ...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
外国語のカテゴリで質問されるほうが、お返事集まりやすいとは思いますが、、、
難しいことは、よくわかりませんけれど。

>●Q1
Aは
初出でフョードロヴナなのに後から別の父称で呼ばれるのは

>●Q2
読む方としてもアマーリヤ・リッペヴェフゼルと呼ばれていた人が100ページ以上後で久しぶりに登場した時にアマーリヤ・イヴァーノヴナと呼ばれたりすると、同一人物だとわかりにくい

英語でこの小説を説明するサイトをいくつか読みましたが、アマーリヤに関しては、父称が3つあることを、だれも疑いもせずにたんたんと書いていましたし、わたしも、読んでいてとくにへんだとは思いませんでした。たしかに、父称は揺れるのですけれど、しばらく間があいてまた登場する際には、大家の、とか、リッペヴェフゼル夫人のような書き方があるので、わたしは戸惑いはしませんでした。

推測ですが、この時代、名家に属しもしない、平民には、きちんとした姓がなかったのかもしれないし、まして父称だと、なにを名乗ろうが自由だったり、父親がわからない・あえてはっきりさせない・実の父とは違う父称を名乗る、なんて日常茶飯事だったのではないでしょうか。

また、演出上の効果というかはわかりませんけれど、このアマーリヤとカチェリーナの関係について、アマーリヤのよくわからない複数の父称、という存在が、彼女のだいご味というか、カチェリーナにとっては突っ込みどころで、そこをカチェリーナが突っ込むことじたいが読者にとっては面白い、と、物語に色を添えているのは確かです。

>●Q3
Aの配偶者は一度も登場せず、Aが大家として「女主人」とも表現されていますが、旦那さんは既に死亡している、と考えるのが妥当

未亡人かもしれないし、だれかの囲い者(だった)かもしれません。そもそも一度も結婚していないのかもしれません。女主人というのは、職業名かなとも思います。

>●Q4
Aがリュドヴィーゴヴナという父称を頑なに嫌う理由が
>●Q5


フョードル、イヴァン、リュドヴィーゴのうち、さき2つはあきらかにロシア風の名前であるに対し、リュドヴィーゴは、ヨーロッパのもっと西のほう、ロシアからすればかなり異国的な響きだと思います。アマーリヤは移民であることにコンプレックスをいだいているため、ロシア風の名前にこだわります。

上にも書きましたが、父親が不明の可能性はあると思います。また、親の職業というか彼女の出自については、庶子かもしれませんね。ただ、平民にしたらそれはドラマチックなことというよりむしろ日常的で恥ずかしいことなんではないでしょうか。だから隠したい、普通のロシア人にあこがれているので、イヴァンにこだわるんだと思います。

>●Q6
「料理女(女中奉公)でもしていたのだろう、いや、まごまごすればもっとひどいこと(暮らし)をしていたのかも知れない」
というKのAに対する中傷は、
  ひどいこと = 売春

>●Q7
「仮に父親と名の付く者があったとすれば」

カチェリーナがここで売春を持ちだすと、彼女にとってはやぶへびでしょう。義理の娘が黄色い鑑札商売をしていて、彼女は食べていて、そこは突っ込まれたくないはずですから。だから、料理女よりもっと酷いとは、せいぜい物乞いとか、誰かに囲われて、同時に複数の男性と関係をもつような女性だったとかいいたかったのかなと思うんですが。でも、カチェリーナはもう常軌を逸していますので、アマーリヤの母親を売春婦とののしってもおかしくはないのかもしれません。

>●Q8
移民なので偽名を多数

移民なので違う名前を使いやすいというのはあるでしょう。


>●Q9
>●Q10

国力の強い国は憧れの対象です。文化芸術的に憧れがつよいのはフランスで、気取った会話にはよくフランス語がでてくるでしょう。それで、ドイツというのは、フランスほど高級な香りはしなくても、ロシアにとっては、強い国力の国という意味で、やはり憧れというか、周辺の強国だったのだろうと思います。国土も豊かですし。お書きの、勤勉とかそういう国民性についてはよくわからないのですが、ロシア人にとって、フランス・ドイツ>>>超えられない壁>>その他のヨーロッパの小さな国、たとえばポーランドやフィンランド、という図式はあったのだろうと思います。そして、移民で長くすめば、アマーリヤもわかっていたはずです。

アマーリヤとカチェリーナの喧嘩のくだりのわらわせるところは、どっちもどっち、底辺の2人が、互いに「わたしはおちぶれているかもしれないけど、こいつよりは上に違いない」と必死になって、じぶんの父親を自慢し、相手の父親をけなしあってるところです。

カチェリーナは、父が大佐で、こどものころはそれなりにお嬢さんだった。でも、駆け落ちしてから家族に縁を切られ、子連れで再婚した相手のマルメラードフは飲んだくれて官吏の仕事もろくにつとまらないまま死んでしまう。こんなはずじゃなかった、というつらさが、高いプライドと伴わない現実にたいするギャップとあいまって、ちかくにいるアマーリヤへの攻撃として出るのでしょう。

移民というのは、どの時代でもある程度、その国の人からは差別や蔑視の対象になりやすいものです。移民のなかでもランクがあって、ドイツはフィンランドやポーランドより上なのでしょう。だけどアマーリヤは日ごろから馬鹿にされてるのがくやしくて、ベルリンのお父さんは市長だったとかくやしまぎれに言うから、カチェリーナが、本当はドイツ人でもないんでしょ、フィンランドの牛乳売りでしょ、と続くわけです。

>●Q11

コーゼルはそれなりに小金持ちで、いわゆる町の商人くらいの地位があったのかもしれません。でも、アマーリヤはお考えの立場よりもっと貧しいんではないでしょうか。またがしって本来はやってはいけないことです。でも、そうでもしないとたべていけない人たちがいて、コーゼルのような大家はそれをわかっていたのだろうと思います。

>●Q12
プーフは葉巻プカプカ

おっしゃるとおりだと思います。

こんにちは。
外国語のカテゴリで質問されるほうが、お返事集まりやすいとは思いますが、、、
難しいことは、よくわかりませんけれど。

>●Q1
Aは
初出でフョードロヴナなのに後から別の父称で呼ばれるのは

>●Q2
読む方としてもアマーリヤ・リッペヴェフゼルと呼ばれていた人が100ページ以上後で久しぶりに登場した時にアマーリヤ・イヴァーノヴナと呼ばれたりすると、同一人物だとわかりにくい

英語でこの小説を説明するサイトをいくつか読みましたが、アマーリヤに関しては、父称が3つあることを、...続きを読む

Qシェイクスピア作品はなんで「文学」として評価されてるんですか?

シェイクスピアの作品はすべて劇の台本ですよね。
現代のものであれば、劇の台本と読むための文学作品は、区別されて
台本自体は、演劇という作品の準備にすぎない、として扱われると思うんですが

なんでシェイクスピアについては「文学」としての評価が与えられているんでしょうか。


…とまで書いたところで、シェイクスピアに限らず、劇の台本の形をとる作品っていっぱいあるじゃん、と気づきました。
そういうものってすべて、上演されることと、そのまま読まれること
両方を目的として書かれてるんでしょうか?

Aベストアンサー

戯曲作品について。
近年の戯曲作品には、上演を目的としたもの(これが本旨でしょう)と上演と購読とを狙ったもの、そして購読を狙ったものとがあるようです。
まあ、上演も行いそれだけでも読むに堪えるような御本(戯曲)と云うのは大変だろうとは思いますが、中には院本の体裁を取りながら一体これってどう云う演出を考えているのだろうかとか上演する事を考えているのだろうかと云うものもあります。

なお、沙翁の場合、邦人は邦訳で読むので解りがたいですが、原文は韻文となっているようです。従って韻文としての美しさもその一つとして文学として評価されているのでしょう。

もう一つは古典文学を現代の目で見てはいけないと云う事です。本邦の国劇や浄瑠璃本も演劇の上演の準備と云う点では同じではないでしょうか?

まあ、これが文学作品か否かの線引きは画然としたものがあるとは思えませんし、理学や数学のようの定義もないようですから。(主観が交じる事になる、…と感じるとか、…と思えるとか)


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

おすすめ情報