1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことに
よって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。

2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形にな
る。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。

3. 神は 精神だと言う。概念だと言う。
――けれども 精神も概念もは 人間のもの。自然本性としてそなわったも
の。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経
験事象であるのか。



人びとはどうして神のことが分からないのか?

質問者からの補足コメント

  • ★ ~~~~~~~
     >(あ) 神は 《絶対》である。(自同律として)。

    を、あなた自身が真であるとするなら、
    「神がいない事を真とする」事を追求しないといけませんね。
    ~~~~~~~~
    ☆ わたしたちの心〔を超えた心〕なる非思考の庭(=信仰)において
    人は 普遍神(それは 霊ですが)をいだきます。

    そしてその普遍神は 説としては 有神論としてかまたは無神論として
    実際には持たれます。非知ゆえ どちらも互いに同等です。

    ★ だから、あらゆる回答を全て否で返してしまい話がかみ合わなくな
    り独りよがりの結論に達するのです。 / まぁそれもあなたの考えでは神
    の仕業なのですね
    ☆ 哲学としての真なる命題を問い求めています。回答者にしても ま
    ったく同じ姿勢であるっちゃうの?

    No.32の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/02/19 06:43
  • 次の試論を参考にしてみてください。

    【Q:信仰としての《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9161091.html

    【Q:神とは何か?】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9137113.html

    【Q:《神は有る》のみや《神は無い》のみはアホバカ教】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9456638.html

    ほかにも少なからず問うています。

      補足日時:2017/02/19 12:26
  • ひちゃちさんに――そのお考えは わたしとは異なっていますが――
    これからのためにエールを贈る意味で BAとしました。

    No.24の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/02/23 13:01

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A 回答 (36件中1~10件)

遅くなりました・・・すいません^_^



悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

だから、すべての人のあらゆる行為や考え方を否定せず、ただ見守ります

その人が、悪事を働く場合も、否定をしません・・・なぜなら、その人が良い行いをする為には、正反対の悪い事とは、なんなのか・・・という経験も必要だからです

だから、神は最終的には、良い人を支持するのでしょうが、途中経過としては、悪の経験も必要だと考えます

正義を知る為には、悪を知る必要があります

ちょっと、違ういいかたをすれば、例えば、よく思うのですが、私は、いつも、ワガママな人とかに、あった場合、イライラしてしまいます

そして、自分を人として、ダメな奴だな〜〜と自己嫌悪におちいります

でも、そんなダメな奴でも、天国に行って、いい人のなかにいれば、それなりに、徳がある人の様な振る舞いはするだろうと思います

しかし、天国の様な場所では、悪い人がいませんから、こんな私でも、徳のある人の様な、振る舞いをしますが、この世に戻って、イライラする人に会えば、また自己嫌悪するような、行動を起こします

つまり、私には、自己嫌悪する様な、要素があるにもかかわらず、それを出させる対象物がなければ、その状態には、なりません

言い方を変えれば、その人に、悪の心があっても、それを引き出す 要因が無ければ、その人は、悪の心を出せません

では、悪の心を持ったまま、それに気づかずに、過ごすのと、悪の心をしっかり認識する為に、悪の経験をするのと・・・どちらが、良いのでしようか?

もし、不本意ながら、自分の悪をしっかりと受け止めたい場合は、悪の経験も必要になります

だから、神は、悪も否定しません、
よく、神と聞いて、慈悲あふれる神を想像する方は、神の半分しか理解していない といわれます

だから、悪を望んでいる訳ではないですが、否定している、訳ではありません・・・どちらも、成長する為に必要な要素なのです・・・
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ううーん。
★ 神には、望みはひとつしかありません / ・・・それば、すべてを
経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!
☆ ううーん。わたしの神とは違いますね。

わたしは そんな神は要りません。こちらから願い下げです。


★ その人が、悪事を働く場合も、否定をしません
☆ 神はそうなのかも知れませんが われわれ人間には 《やましさ
反応》があります。

よくないこと――基本としては おのれのであれ・他人(ひと)ので
あれ その心と意志とを踏みにじること――を自分の心に思ったり・
ましてやそれを実行しようとしたりするなら わたしは 胸の動悸が
高まり顔を赤らめ 舌がしどろもどろになります。

このヤマシサ反応が起きます。いわゆる《良心》としても説明される
ことです。

この良心は 証明抜きで言いますが ひとつの考え方として 神から
来ている。生まれたときからの自然本性においてそなわっている。と
考えます。

悪もしくは罪は わたしは・そしてわたしの思うに神は のぞんでは
いない。こう思っています。

悪ないし罪とは 先ほどの基本の定義をかんたんに言いかえるなら
ウソをつき・イツハリをおこなうことです。

そしてこのウソ・イツハリは――ヤマシサ反応をとおして―― われに
とって良くないことだというのは これも生まれつき《身と心》とで知
っている。こう考えます。

悪に対しては 子どもでいること。ただし 考え方においては 大人に
なること。――これでよいはずです。

あいにくだったかもわかりません。

お礼日時:2017/02/18 07:39

あらら、「とほほ」ですか。

。。
私が ”perish” を使っている真意は私以外にはわかりませし、お答えもしません。(あっ神なら解るのかな?)

>ん? 英語としての意味のほかに 何かよい意味がある?
あなたが勝手に ”意味だけ” で理解しようとしているだけです。
”perish”の意味は知りえるもののみしかわかりませんよね?
それ以外の人は”perish”をどう感じているのでしょうか?
文字の並び・見た目の形・音として聞いた時の感覚などで受ける印象は万別です。

1つの事に固着しているから「とほほ」になるんです。

”perish” の英語としての意を本当に表現したいなら皆さんに理解していただけるように日本語で書きます。
他国語へ変えている時点で何かしらの意を感じて欲しいものです。
だから
>"哲学" で議論を展開している人がそんな言葉で済まして良いのでしょうか?
と言わせていただきました。

ふぅ~、こんな些細な「人の心」が事が解らないのに「神」ですか?
残念、、、残念です。
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この回答へのお礼

とほほ^2 です。すみません。


ご回答をありがとうございます。


いつかおしえてもよいとお思いになったときには おしえてください。

お礼日時:2017/02/19 15:09

ん?


あなたは、”perish” の ”英語としての意味” だけで ”芳しくない” とおっしゃっているのでしょうか?
"哲学" で議論を展開している人がそんな言葉で済まして良いのでしょうか?
所詮あなたも ”人間の作りし言葉の表面” だけで物事を理解しているだけなのですね。
残念でなりません。
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この回答へのお礼

ん? 英語としての意味のほかに 何かよい意味がある?

ううーむ。

分かんなかったなぁ。つまり いまも分かりません。とほほ。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/02/19 14:39

神は 《神は有る》なる表現も 《神は無い》なる表現をも 許容する。



どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。
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この回答へのお礼

おおおお!

ええ。そうだと思っています。

【Q:《神は有る》のみや《神は無い》のみはアホバカ教】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9456638.html

こういった・ちょっと挑発的な表現の質問も問うています。どうでしょう。

どちらか一方《のみ》では 人間の浅はかさであると。相対世界をしか見
ていない。と。



ご回答をありがとうございます。



☆ 《ペリッシュ》というお名前は――言いたいことを言いますが―― 
あまり芳しくないのでは?

お礼日時:2017/02/19 14:20

№11です。



哲学・思想の間違いが人類に不幸をもたらしている。
その、哲学・思想はかつては宗教から生まれてきた。現代においては理論物理学を中心とし
た科学から、新たに生まれてきている。それも正しいとは思えない。
だから、間違った哲学を排し、より良い哲学を確立してゆくべきである。そのためには闘わ
ざるを得ない。

このような目的で哲学をされているのでしたら、大いに賛同します。
殊に信仰の対象というものは根源的ですから。

神=想定するところの究極の実在は、「絶対」と想定されることの論拠として、「相対」的
であると想定される我々人間が自由にわがままにしていられるからである、という論理はう
~む、未熟な私には正当といえるのかどうか分かりません。
しかし、私の中では「ひとまず」そうしておいていいと考えました。

「霊的啓示」と言われているものが、あくまで主観的なものに過ぎないということである内は
「究極の実在」は「非経験事象」として論を進めてゆく以外にないのでしょうが、限界がある
気がします。

この難題に対し、あなたがどのような論理で、どのような結論に至っているのかは興味深いと
ころです。少しずつ理解したいと思いました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 殊に信仰の対象というものは根源的ですから。
☆ Wow !!! まづこの命題が 基礎にあるとわたしも思います。理論としてもそして現実
の生活としてもだと考えます。たとえば:

◆ (ヘーゲル:法の哲学の講義録より) ~~~~
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 
どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 
この矛盾を持ちこたえることができるのが 
人格(* ――もしくはふつうに《人間存在》――)の高さである。
(『法の哲学』 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~~~


★ ~~~~~~~
哲学・思想の間違いが人類に不幸をもたらしている。
その、哲学・思想はかつては宗教から生まれてきた。現代においては理論物理学を中心とし
た科学から、新たに生まれてきている。それも正しいとは思えない。
だから、間違った哲学を排し、より良い哲学を確立してゆくべきである。そのためには闘わ
ざるを得ない。
~~~~~~~
☆ Thanks !! つい先日このあたらしい神論が普及すれば世界から宗教関連のテロは無用に
なるはずだとまじめに大法螺を吹きました。


★ ~~~~~~~
神=想定するところの究極の実在は、「絶対」と想定されることの論拠として、「相対」的
であると想定される我々人間が自由にわがままにしていられるからである、という論理はう
~む、未熟な私には正当といえるのかどうか分かりません。
しかし、私の中では「ひとまず」そうしておいていいと考えました。
~~~~~~~~~
☆ なるほど。たとえば 甘えですし きよらかなおそれを伴なった聖なる甘えです。それ
には 相手が有限な人間では 心許ないはずですから。先ほどのへーゲルの《無限 - 有限》
なる――矛盾を容れた――構造的な存在のあり方なのではと思います。


★ 「霊的啓示」と言われているものが、あくまで主観的なものに過ぎないということであ
る内は 「究極の実在」は「非経験事象」として論を進めてゆく以外にないのでしょうが、
限界がある気がします。 / この難題に対し,・・・
☆ ヘーゲルはうまいこと表現しちゃった!

《神》を人間の内に摂り込みました。つまり何のことはない 昔からの霊としての梵我一如。

お礼日時:2017/02/19 14:03

あっ、まだやってるの?


No21のお礼見たけど、
非経験の場に”神(普遍神)”を置く事自体がすでに”経験世界”ではないのでは?
経験しているから"神"と言う概念が生まれたわけで、非経験の場は全ての自称において”無”ですよね?
”無”と言う概念もないかな。

質問に戻して、
>(あ) 神は 《絶対》である。(自同律として)。
>人びとはなぜ神のことが分からないのか
多分あなたの《絶対》《真》という考えでは、素粒子の動き1つについても神が統治しているのでしょう。
0.1^n(n=∞)秒後のあらゆる事象も神は知りえているのでしょうし、神が操作しているのでしょう。
答えは出ていますよね。
神が絶対で、神の存在・神の真意を事を万人に認め知らしめたいのであれば、神は自分の力でそうさせているはずです。
でも、神を信じない者はいる。
と言う事は、神が望んでいないからです。
神が望んでいないモノを議論しても答えは出ないのです。

ついでに、
>(あ) 神は 《絶対》である。(自同律として)。
を、あなた自身が真であるとするなら、
「神がいない事を真とする」事を追求しないといけませんね。
だから、あらゆる回答を全て否で返してしまい話がかみ合わなくなり独りよがりの結論に達するのです。
まぁそれもあなたの考えでは神の仕業なのですね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 非経験の場に”神(普遍神)”を置く事自体がすでに”経験世界”では
ないのでは?
☆ 人間の言葉は シルシです。

シルシとして持ち使用することは 経験事象です。

シルシが指し示すものは 可知(既知と未知)および不可知なる対象は
やはり経験事象ですが 非知なる対象(つまり非対象)は 非経験の場
なるものです。

つまり 神という言葉も その言葉や概念やその表現行為としては 経
験事象ですが それが指し示すものは 非経験の場です。


★ 経験しているから"神"と言う概念が生まれたわけで、非経験の場は
全ての自称において”無”ですよね? ”無”と言う概念もないかな。
☆ 前半については いま先ほど説明しました。

後半については 非経験の場が《事象》なのかどうかは 分かりません。

そして 経験世界における《有る無し》を超えているからには そうい
う次元での存在または非存在です。

つまり 神を《有る》と言っても《無い》と言っても どちらも間違い
ではないという推理が成り立ちます。




★ 多分あなたの《絶対》《真》という考えでは、素粒子の動き1つに
ついても神が統治しているのでしょう。
☆ 《真理》が 《絶対》を言いかえたもの。《真》は 命題が妥当で
あることを示すものです。

神がすべてを《統治している》か? それは 《絶対》が《相対なる経
験世界》に対して持つ関係として・その中身として 推理されて来る事
態なのでしょうね。

真理が――しかしながら――相対的な存在である人間には必ずしも分か
るわけではないのと同じように その神による世界の統治についても
分かっているというものではないのでしょう。

★ 0.1^n(n=∞)秒後のあらゆる事象も神は知りえているのでしょうし、
神が操作しているのでしょう。 / 答えは出ていますよね。
☆ そう思ってもそしてそう発言しても そこまでのことは 表現の自
由のもとにあります。

そして その内容がただしいとしても ほかの人と共有することは む
つかしい。非知ゆえ 決まらない。

★ 神が絶対で、神の存在・神の真意を事を万人に認め知らしめたいの
であれば、神は自分の力でそうさせているはずです。
☆ そういった想像ないし推理が 自由です。

補足欄へ。

お礼日時:2017/02/19 06:35

>この論理に議論をかみ合わせて 反駁してくれませんか? おかしいですか?



正直なところbragelloneさんの示す図表も非経験の場というのも理解できないです
けどbragelloneさんが論理をどのように構築しているかは分かりました
神は《絶対》を真だとして、それに整合するように論理を展開してるのですよね?
神を《絶対》だとすると存在の有無は非知であるという結論になるから
神は存在するという前提を置けないと考えるわけですね

議論を噛み合わせて反駁するとすれば単純に神は《絶対》であるを真だとすると神は非知になり
神は存在するという暗黙の前提と矛盾するのですから神は《絶対》であるは偽であると言えるんじゃないですか?
あるいは神は《絶対》であるを真だとすると神は非知になり神は《絶対》であるが真か偽かも不明になり論理が破たんしてしまう
いずれにしても論理的には自己矛盾か破たんかのどちらかになると考えられます

また、別の反駁をすると
神は《絶対》を真だとして神は非知であるとすれば、神の存在の有無は真偽不明なのであって
神は存在するという前提を否定するものではないとも言えるでしょうが
少なくとも神は《絶対》を真として論理を展開するならば神は経験世界にしろ非経験の場にしろ議論をする上で神はいずれかの世界に存在していなければなりません
そうでなければ神は《絶対》という命題が成立しないからです

そう考えると神について論理的に考えることは無理があるように思えてきました
「神」「絶対」「非知」この三つの概念を合わせるとどうしたって真偽不明からの割り切れない議論になってしまうんじゃないでしょうか
やはり神についての議論は哲学ではなく信仰の問題に必然的になってしまうと思います

>人びとはどうして神のことが分からないのか?

bragelloneさん自身が神は非知であると言ってるじゃないですか
分かるとか分からないという言葉を当てはめること自体が間違いなんですよ
我々が神について考えるとき、つまり真偽不明の事柄について考えるとき信じるか信じないか
そのどちらかしかないんじゃないですかね
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この回答へのお礼

あしさい888さん ご回答をありがとうございます。

★ 神を《絶対》だとすると存在の有無は非知であるという結論になるから
神は存在するという前提を置けないと考えるわけですね
☆ そうです。そして じつは 別の考え方もあり得ます。

《存在》という言葉を 経験世界における有る無しとは別の次元での《存在》
としてあらわすという場合です。

絶対としての存在と 相対としての存在とです。

(このように 人間の言葉による表現というのは いくらでもという程に理屈
をこねくることができるようです。脱線気味ですが)。

★ 神は《絶対》であるを真だとすると
☆ じつは その解釈は誤解です。わたしが言ったのは:

  神は絶対である。という自同律をすでに仮りに前提とする。

です。その想定を仮説して そのあと理論が 経験世界とそこにおける経験合
理性に照らして不都合はないかと検証するということです。

そして 《真理》というのは 《絶対》や《無限》と同じように 神について
付与する属性のひとつです。概念説明のためです。

真理とは 不可変的な真実です。真実とは 経験合理性(や人間の良心)に照
らして妥当であることです。つまり 絶対の真実が 真理です。

★ 神の存在の有無は真偽不明
☆ 微妙に論理の筋が違って来ていると思います。真偽不明なのではありませ
ん。

神の存在については――非知であることにおいて 経験的な存在(有る無し)
を超えているからには―― その経験的な言葉で表わそうとするなら 有ると
も無いとも(つまり 存在するとも・しないとも)どちらとでも言える。とい
う結論になるはずです。

神は有るか 神は無いか いづれか好きなほうをえらんで表現すればよい。と
なるはずです。

★ 神は非知であると言ってるじゃないですか
☆ つまり《人間にとってその認識能力等から考えるに 認識し得るかし得な
いか そのことが認識も思考も出来ないナゾ》として 分かっているのです。

この分かっていることは 真ですよ。

仮説法(アブダクション)によっていますから 初めの想定(仮説)がそのあ
との派生する理論と合わせて われわれ人間の理性と良心から見て世界の認識
じょう不都合がないとすれば ひとまづ真だとされます。

お礼日時:2017/02/19 00:18

お礼でのご意見ありがとうございます。


私はこのように考えますね。人に真理だと信じ込ませるためには、証明して見せなければなりません。本人がどんなことを信じようと勝手ですが、それが神だと言い張るには何かわからないそのものが神であることを万人が納得できる証明が必要なはずです。古代から我々の中には神についてのイメージが出来上がっています。そのイメージされる神なのだと信じるそのものを証明し得ない限り、他に告げること
ができることではないでしょう。己個人の内面にそっとしまっておくべきことなのではないかと思うのです。
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    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人に真理だと信じ込ませるためには、証明して見せなければなり
ません。
☆ いえ。――まったく率直に考えを述べますが 《真理》も じつ
は 神の属性であり その概念説明に用いられる用語です。

つまり 《非知》です。それが何であるか。分かるか分からないかが
分からないナゾの何ものかであると。

ですから 《証明》のしようがありません。

人間の能力で証明し得たとすれば それは 認識し得るからには 経
験事象です。神は 経験世界を超えています。

もちろん この絶対なる神としての真理と そしてふつうに経験事象
についての主観真実(およびその共同化)を仮りに真理と言う場合と
があります。

非知なる普遍神とそしてその分身(ないし依り代)としての神々とが
あるように 非知なる真理とそしてその部分的な相対的な真実として
の――表現上の――真理とがあります。

★ 本人がどんなことを信じようと勝手ですが、それが神だと言い張
るには何かわからないそのものが神であることを万人が納得できる証
明が必要なはずです。
☆ その証明の問題もすでに同じであるとお分かりだと思います。

★ 古代から我々の中には神についてのイメージが出来上がっていま
す。そのイメージされる神なのだと信じるそのものを証明し得ない限
り、他に告げることができることではないでしょう。己個人の内面に
そっとしまっておくべきことなのではないかと思うのです。
☆ あくまで表現の自由は 無条件です。

ただし おれは神と見たぞと言っても――つまり 自由に言えるわけ
ですが―― そこまでのことだとなります。

ほかの人とそのことを共有することは出来ません。出来たらそれは
概念認識としての内容についてのみです。《神》なら神という言葉を
共有し得たという程度までです。

神についてのナゾ――非知なる対象・またはむしろ非対象――は そ
んな秘密が潜んでいます。

お礼日時:2017/02/18 22:08

いえ、私は、観察し、感じた事実をその様に表現しているつもりですが・・・批判的な表現はしていないつもりですが・・・その様に感じさせたのであれば、お詫びいたします



この様な事ばかり、言っている人間なので、友達が少ないのですよ^_^

貴方との対話は、非常に興味深いと感じています・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしは 《勝手に》相手の見解について異なった考えを持つとき
には 批判をしますよ。

悪がいやだからです。

自由を愛するからです。

それをダメだと言う神なら こちらからおさらばです。




これから出かけます。午前中いっぱいです。

お礼日時:2017/02/18 09:00

いえいえ・・・神の在り方はひとつですが、それを解釈することは、人それぞれの解釈の仕方になります・・・元々、人自体がそうデザインされてますので・・・神は、偉大で大きな存在ですので、一人の人間が、神のすべてを理解するのは不可能です・・・だから、解釈の仕方も、人によって、偏ります・・・過去に置いて、その偏りを理解 もしくは、寛大に考えれなかった人同士が、争い、戦争をも引き起こしています・・・同じ神を信じる身でありながらです・・・実に悲しい経験です



私達は、他人に対して、寛大で優しくなければなりません

他人の行為を、批判せずに受け入れなければなりません

ときには愚かに見える行いも、貴重な経験のひとつとして、成長の過程において必要なもので、今、まさに、その人は、その経験をする時だから、しています

だから、その人の自由を妨げる事はしてはいけません・・・ただ見守るのみです

その人の、一見愚かなる行為は、必ず誰かの糧となります

そうして、お互いに協力しあって、共に神の方向へと、向かっていきます

つまり、自分に敵対するものは、自分の今回の経験を、ともに創りあう、同士なのです

生まれる前に、そう約束しあって、ともに生まれてきています・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

つまり このQ&Aの場は 情報交換としてやり取りがなされます。
そしてふつう一般には 対話です。

対話なら 互いに自由に自分の考えを述べ 互いに自由に相手の思
想内容を批判しあいます。互いに さらに高いところにおける相互
理解を得ようとしてのことです。

そのように あなたも自己表現なさっています。

批判はしないと言いつつ わたしの思想内容についても――正当に
も――批判をおこなっています。異なった見解を明らかにしている
からには それは――正当にも――批判です。

ということではないのですか?

お礼日時:2017/02/18 08:40
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Q《神》は 補助線である。その神という言葉が かんなび山や磐座と同じく《依り代》である。

1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するものは 
あるか?

2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か
らない。

3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カ
ミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》として
のあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。

5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので
あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。

6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその
中でも 創造者としての神を立てている。

7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無
神論である。

8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分から
ないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。

9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによっ
て(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。

10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言
葉で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。

11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面にお
いて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合う
ことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態
としてあり得て―― 信仰とよばれる。

11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ
の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の
庭》として ひとの自然本性の内にあると想定される。

11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン
(霊我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼
びならわしている。

12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と
して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対立
していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん 
無神論となる。

12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内
容とする信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》
と証明しなければならない。

13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ
理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなもの
である。

14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心なる
《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足
りている。(と推測される)。

ご教授ください。

1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するものは 
あるか?

2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か
らない。

3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カ
ミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》として
のあり方であ...続きを読む

Aベストアンサー

今回の印象を簡単に言ってみます。

源泉と大海。
湧き水は澄んできれいですが、大海に行着く迄の道中で様々なモノを身に付けてしまいます。
大海に着けば着いたで漠とし過ぎていて、そこから逃れる、の一手は気化、蒸して天に帰るしかありません。

この問いは気化現象の様に思いました。

Q《霊あるいは神》は 《非知》だと言っているのに まだ納得しないのだろうか

人間の認識の対象となるのは あくまでこの経験世界における経験事象である。

有る無しや因果関係において認識する。つまり 経験合理性という物指しである。

認識の対象は 認識しうるか認識し得ないかで分かれる。

認識し得るものは 可知であり これはさらに 既知と未知とに分かれる。

認識し得ないもの――すなわち 概念や推論の対象として存在すると捉えている
けれど そのものについては認識し得ないと証明し得た場合――これは 不可知
である。

ところが これら可知および不可知のいづれでもないものが 想定される。
言いかえると 認識し得るかし得ないかが 認識し得ないものである。

これは とうぜん 経験世界を超えている。と想定される。
つまり 《非経験の場》である。
《特異点》が それに近い。ただし まったくの別である。後者は 経験事象だ。

そして 認識し得るかし得ないかが認識し得ないというのは 《非知》である。

これが 神であり霊である。



そんな想定などは要らないのではないか? 
と言っても すでに人間は・そしてどの民族も人類は 《かみ》という言葉を持
ってしまっている。これについて哲学は 何であるかを定義するつとめがある。
非知だと定義したまでである。

人間の認識の対象となるのは あくまでこの経験世界における経験事象である。

有る無しや因果関係において認識する。つまり 経験合理性という物指しである。

認識の対象は 認識しうるか認識し得ないかで分かれる。

認識し得るものは 可知であり これはさらに 既知と未知とに分かれる。

認識し得ないもの――すなわち 概念や推論の対象として存在すると捉えている
けれど そのものについては認識し得ないと証明し得た場合――これは 不可知
である。

ところが これら可知および不可知のいづ...続きを読む

Aベストアンサー

>宗教関連によるテロは無用になりましょう

すごいですね!
言ってることはよく理解できないですけどいくつかの使われている言葉から推測するに
世の中には色々な宗教があるけれど、神は神なのだから
神を宗教ごとに区別することないって考え方なのだと見受けました

そしてその考え方の根拠としていずれの宗教の神も非知であるということを挙げていますね
私にはここが論理的におかしいと感じるのですが
というのも例えばバルタン星人もプレデターも宇宙から来たのだから宇宙人だと言うことはできても
だからバルタン星人もプレデターも等しいとは言えないじゃないですか
同様に神は非知だからといってキリスト教の神と仏教の神が同じとは言えないんじゃないですか?

Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q《神即自然》は 《一切衆生 悉有仏性》と同じか

 スピノザの言う

   《神すなわち自然( Deus sive Natura )》

 は ゴータマ・ブッダがついぞ言葉としては表わし得なかったところを一般大衆がおぎなったと考えられるその命題としての

   《一切衆生 悉有仏性》

 と同じか?
 どう同じで どう違うか? 




 たたき台は ありません。学び中の見切り発車です。それでも質問者ながら(またはそれゆえに)ツッコミだけは入れます。

 1. 《神とはすなわち自然である》の自然とは、《植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと》。らしい
 ▲ ヰキぺ:バールーフ・デ・スピノザ § 2.2 存在論・認識論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6  

 2. 《衆生》は 有情とも呼ばれ 生命あるものすべてのこと。らしい。

 3. 《ブッダター(仏性)》は アートマンと同じく霊としての存在であろう。神もむろん《自然》であるというとき その存在は 目に見えるものではなく・心の目にさえ見えるものではなく ナゾの何ものかとしての霊であるはずだ。

 4. スピノザでは 神を《実体 Substantia 》として何やら面倒な議論があるようです。《思惟するもの Res Cogitans 》とは そもそも第一に神のことであるのだとか。それをつうじてこそ自然としての人間も考えることを成す。

 ▲ (前掲ヰキぺ) ~~~~~
 神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。
 ~~~~~~~~~~~~

 5. 心身平行論
 ▲ 身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。

 6. ▲ ~~~~~
 その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、

 7. ▲ ~~~~~~
 この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。

 すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。
 両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。
 ~~~~~~~~~~~

 8. ▼(ヰキぺ:仏性) ~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7

  § 1.1 歴史的な流れ

 仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。

 さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること(一切衆生悉有仏性 - いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。

  § 1.2 宗派による違い

 さらに日本の天台宗では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え(一切悉有仏性)までが、後世に生まれた。
 ~~~~~~~~~~~


 ご教授ください。

 スピノザの言う

   《神すなわち自然( Deus sive Natura )》

 は ゴータマ・ブッダがついぞ言葉としては表わし得なかったところを一般大衆がおぎなったと考えられるその命題としての

   《一切衆生 悉有仏性》

 と同じか?
 どう同じで どう違うか? 




 たたき台は ありません。学び中の見切り発車です。それでも質問者ながら(またはそれゆえに)ツッコミだけは入れます。

 1. 《神とはすなわち自然である》の自然とは、《植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと》。ら...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんはです。

直観的に、
どちらも《理神論》ではあるけれど、
スピノザの《神即自然》と大乗の《法界(の平等)思想》とは、本質的に異なる!!
ですね。

スピノザの主著「エチカ」は、持ってはいるのですけれども、全文を読んだことがないので間違っているかもしれませんが(無味乾燥なので、読書する気にならない!!)、
スピノザにおいては《宇宙は精妙なシステム》であって、しかも、ギリシア以来伝統の《全体と部分は異なる》という考え方が背景にあると思うのですよ。
しかし、大乗ブディズムにおいては、部分と全体とは基本的に同じ構造、《自己同一性》や《自己相似性》を持ったものであって、部分と全体とはまったく同じもの。大乗の《仏性》や《如来蔵》の思想は、この《法界》の《平等生》、《一味性》、《自己相似性》を背景として生まれていると思うのですよ。
スピノザと大乗ブディズムは、ともに《理神論》だから、結果的に同じであると考えるのは、あまりに安易なのではないでしょうか。

わかり易い例えでいうならば、
スピノザの宇宙は、時計。部分は、歯車やゼンマイ、ネジといった構成部品であって、全体である時計とその構成部品であるゼンマイや歯車といった部分とは異なる。
対する大乗仏教は、宇宙・法界とは、よく溶け合った塩水。そのどの部分をとって飲んでみても、塩辛さという味は変わらない、つまり、《一味平等》であって、全体と部分の差はない。
この両者の差は、大きいと思います。

スピノザの考え方は、一種の《機械論》だと思うのですよ。カタい決定論であって、運命論じゃないですかね。
スピノザの思想について、よく知らないので、踏み込んだ発言をするのはコワいのですが、
眠り猫は、そう思っています。

こんばんはです。

直観的に、
どちらも《理神論》ではあるけれど、
スピノザの《神即自然》と大乗の《法界(の平等)思想》とは、本質的に異なる!!
ですね。

スピノザの主著「エチカ」は、持ってはいるのですけれども、全文を読んだことがないので間違っているかもしれませんが(無味乾燥なので、読書する気にならない!!)、
スピノザにおいては《宇宙は精妙なシステム》であって、しかも、ギリシア以来伝統の《全体と部分は異なる》という考え方が背景にあると思うのですよ。
しかし、大乗ブディズムにおい...続きを読む

Q《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

 1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?

 2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。
 他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?

 3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。

 4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?
 《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?

 5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。
 受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。

 6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?




  ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~

   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。
 教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。


 ご見解をどうぞ。

 1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?

 2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。
 他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?

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Aベストアンサー

相対と絶対は言葉ではセットになっているが、相対でも絶対でもないものというのはあり得る。
それが何かと問われれば答えるのは難しいが、おそらく無数にあり得る。例えばカオスの内容物が計り知れず得体もしれないように、謎の何物かというのは、善悪はおろか、一切が謎であるのであるから、その性質を想定する主観を持った人間に、どのようなものであるかという想定は、一意に預けられる。
ここに、その主観の好き放題に謎の何者かを設定できる隙がある。


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