現在、日本は世界でも有数の平均寿命を誇る国で100歳以上の方も多くおられますが、現在明治時ダウ生まれだとすると明治時代が1868年から1912年の7月までなので、最低でも104歳以上ということになりますが、現在親が江戸時代生まれの方というのはおられるのでしょうか?100歳以上でも110歳以上はかなり少なくなりますが、1868年までを江戸時代とみるならば、110歳以上の方で両親が高齢出産という場合は親が江戸時代生まれというのは現在のおいてはあり得ますか?それとも、当時は出産年齢が早かったので、養子縁組とかでもない限り親が江戸時代生まれということはないですか?

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A 回答 (2件)

今存命されてる方が130歳程度なら可能性としては有るかも知れませんね、


例えば慶応の終わりくらいに親が生まれた方ならギリ、

明治の20年前後に産まれた方ならかろうじて戸籍も有るでしょうしね、

其の方が取得しようと思えば謄本も取得できますから、

120歳以上の最低条件が必須では無いでしょうか?。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/03/01 15:20

日本では


149歳は存在しないです
実質の
江戸時代生まれはいないですね
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Q江戸時代の藩の領地地図

江戸時代の全藩の領地地図を教えてください。
細かいのでお願いします。(飛び地など)
あと、天領も出していただけるとありがたいです。

Aベストアンサー

無理です
あなたが考えている以上に細かいので
一つの地域に
Aさんの田んぼはポコポコ藩領
Bさんの田んぼはニョロニョロ藩領
になている地域があります。

一石しか無い場所ってのがあるんですよ
今風でいう一坪地主
それを地図にしていくのは無理です
そもそも地図があった訳ではなく、言い伝えで私の家はXX藩領だったというレベルでしかないからです

Q江戸時代の日本は世界七帝国の一つ。

大黒屋光太夫への聞き取りなどをまとめた『北槎聞略』には、光太夫がペテルブルクで聞いた情報として「日本は世界の七帝国の一つ」というくだりがあるそうです。
七帝国として、ロシア、中国、トルコ、神聖ローマ帝国、ムガール帝国等の名があげられています。
ロシアが当時の日本を「帝国」と認識していた根拠は何でしょうか。
発信元は、オランダでしょうか。
また、帝国と認識していたのであれば、当然、元首は誰ということになると思います。
誰を日本の元首だと思っていたのですか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

下記など少しは参考になるかも知れません。

〇「国号に見る「日本」の自己意識 (日本像を探る)/前野みち子」
『言語文化研究叢書. v.5/名古屋大学大学院国際言語文化研究科/2006』(27-62頁)
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/8151

<17~21/36>(43-47頁)
西洋側の呼称としての「日本帝国」
<21~24/36>(47-50頁)
「王国」か「帝国」か

〇「歴史にみるロシアと日本の出会い:日本の漂流民とロシアの対応/平川新」
『東北アジア研究 2号/東北大学東北アジア研究センター/19980331』
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/41022

ほか関連URL
・「前近代の外交と国家:国家の役割を考える/平川新」
『近世史サマーフォーラムの記録/近世史サマーフォーラム2009実行委員会/2010-03-03』
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/48766
・「スペインの対日戦略と家康・政宗の外交/平川新」
『国史談話会雑誌 巻50/東北大学文学研究科日本史研究室/2010-03-31』
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/48951
・「慶長遣欧使節と徳川の外交/平川新」
『『仙台市史』特別編 巻8 慶長遣欧使節/仙台市史編さん委員会/2010-03-31』
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/48950

なお、一つの御質問に際し論文8本等を読破される探求心旺盛な
kouki-koureisya 様のことですから、上記なども既読の場合は、
笑って許して下さい^^

下記など少しは参考になるかも知れません。

〇「国号に見る「日本」の自己意識 (日本像を探る)/前野みち子」
『言語文化研究叢書. v.5/名古屋大学大学院国際言語文化研究科/2006』(27-62頁)
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/8151

<17~21/36>(43-47頁)
西洋側の呼称としての「日本帝国」
<21~24/36>(47-50頁)
「王国」か「帝国」か

〇「歴史にみるロシアと日本の出会い:日本の漂流民とロシアの対応/平川新」
『東北アジア研究 2号/東北大学東北アジア研究センター/19980331』
http://ir...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q安土桃山時代の日本は世界有数の金持ち国家だったのではないでしょうか。

戦国時代、日本では金鉱山、銀鉱山が開発され、世界中に日本産の金銀が出回っていたと言われています(南米産の金銀と並ぶほどの流通量だったらしい)。

当時の金銀は世界各地で通用する通貨でしたから、膨大に産出される金銀を用いて交易をおこなっていた日本は、当時は世界有数の裕福な国家・地域だったと思いますがいかがでしょうか。

豊臣秀吉などは、当時南米を支配していたスペイン王フェリペ3世に匹敵するほどの富を持っていたように思いますが。

Aベストアンサー

銀に関してはスペイン銀のほうが圧倒的に多かったかと。

安土桃山時代ではなく戦国時代の前半なら、日本の銀は匹敵していたといっていいと思います。
16世紀半ばからアメリカ大陸での銀産出量が激増してしまったので。

Q【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩

【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩に同じ家紋の藩があるのはなぜですか?

しかも遠い地域の藩に同じ家紋がある理由を教えてください。

隣りの藩が同じ家紋はあり得るがなぜ遠い他の地に同じ家紋が点在しているのか。藩名も共通点がなく全然違う。

それと現在の各家庭には冠婚葬祭時に着る和服にそれぞれの家紋を持っている。

この現在の家紋は江戸時代の藩の家紋が引き継がれているのでしょうか?

今の家庭の家紋を見れば、江戸時代にどこの藩に仕えていたか分かる?

けど江戸時代の300藩の家紋に存在しない家紋を使っている家庭もある。

江戸時代に存在しなかった家紋が江戸時代以降に作られて自分の家族の家紋として使っているのも不思議です。

藩制はなくなり藩はないのに存在しない藩の家紋をわざわざ作って今も疑いなく使っている家庭は何者なのでしょう?

Aベストアンサー

まず江戸時代300藩とは言いますが、分家や一族も別々に数えて300藩ですから、同じ家紋を持つ藩が有っても当然です。
また、功績を立てた部下には主君から何かしらの家紋を下賜された武将もあり、また他家と差別化を図るために家紋をゴージャスにするなど色々とあったようです。

江戸時代では士農工商の身分制度で、武士以外は苗字を名乗るのは公式には禁じられていましたが、
家紋は特に規制されていなかったようですね。遊女・芸人でも使用したと言いますね。
もちろん葵の御紋は禁止だと思いますが…。

Q戦国時代おさげ、江戸時代日本髪

なぜ戦国時代の女性は髪形がおさげで江戸時代の女性は日本髪なのですか?

Aベストアンサー

NO1.です。

追伸: 

江戸時代女性の髪形を大きく変えるきっかけとなったのは、
慶応8年(1603)に出雲阿国(いずものおくに)が京都の四条河原で、杭を数本地面に討ちつけ、筵(むしろ)をかけただけの粗末な小屋で、阿国が茶屋へ通う伊達男に扮し、夫の(夫ではない、という説もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が茶屋の女将に扮しての踊りを交えた寸劇を披露しました。
この男女の入れ替わり、つまり、「性倒錯」が有名になり、連日「大入り満員」だったとか。
これを当時の京の人たちは「傾く(かぶく)=常識外れ、突拍子もない」と呼び、これが、しだいに「かぶき」と呼ばれるようになり、現代の「歌舞伎」の漢字があてはめられました。

この時に阿国が結った「髷」が「若衆髷(わかしゅまげ)」として有名になり、京から大坂、そして、江戸でも女性の間で大流行しました。

やがて、「島田髷」などが出現し、寛永年間(1624~)頃には「兵庫髷」という、頭の上で「輪」を一つ作ったような髪形が流行。
元禄年間(1688~)頃には「元禄島田髷」が流行。
明和年間(1764~)頃には、浮世絵に出てくるような「春信風島田髷(はるのぶふうしまだまげ)」が流行。
江戸時代後期~明治初期頃には、芝居の「お染久松」でお染が結った「おそめ髷」などが流行しました。

>>なぜ戦国時代の女性は髪形がおさげで江戸時代の女性は日本髪なのですか?

戦国時代は、戦に明け暮れており、ファッションの流行はなく、ただ単に髪を伸ばしていましたが、江戸時代に入ると「安定した生活」ができるようになり、また、金銭の流通も盛んになり、ファッションにも「余裕」ができて、色々な髪型が流行しました。

NO1.です。

追伸: 

江戸時代女性の髪形を大きく変えるきっかけとなったのは、
慶応8年(1603)に出雲阿国(いずものおくに)が京都の四条河原で、杭を数本地面に討ちつけ、筵(むしろ)をかけただけの粗末な小屋で、阿国が茶屋へ通う伊達男に扮し、夫の(夫ではない、という説もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が茶屋の女将に扮しての踊りを交えた寸劇を披露しました。
この男女の入れ替わり、つまり、「性倒錯」が有名になり、連日「大入り満員」だったとか。
これを当時の京の人...続きを読む

Q江戸時代の「藩」の呼び方について

我々が歴史を勉強するとき「○○藩」と呼ぶ「藩」ですけれど、これは後世の学者がそう名づけたとのことで、江戸時代には「藩」と呼ばれていなかったと聞きました。

それでは江戸時代には藩のことを何と呼んでいたのでしょうか?ご存知のかたおりましたらお教えください。

Aベストアンサー

藩の字は中国から伝わり、室町時代には使われましたが、現在の盛岡藩のような使われ方はしませんでした。
徳川幕府は大名は将軍から領地、住民を貸与されている形をとりましたので、土地につながる藩の字を避けたのでしょう。
徳島藩内といわず、松平阿波守領内といいます。
徳島藩士でなく松平阿波守家臣(家来、家中)です。    徳島藩邸でなく松平阿波守(様、御)屋敷です。    松平阿波守邸ともいわれました。
ただ非公式には一般名として、藩主、藩士、主藩、支藩は使われることも少しはあったようです。   

これが崩れたのは江戸末期になり、藩士が大名の家来の意識が薄れ、土地の侍の意識が高まったからです。
幕末になり長州藩士桂小五郎などと名乗る人がふえ、藩、藩士の言葉が普及し、明治維新で大名領を藩名、のちに県名に変えることになりました。

以上は武士の話で庶民の間では、公式名でない、水戸様、加賀様というようなことも普通でした。

Q日本の全ての時代で江戸時代が最も栄養状態が悪い理由

平和で、しかも国民の8割が農業または漁業に従事していたのに「日本のすべての時代の中で最も小柄だった」と書かれている。江戸時代の日本人の栄養状態が戦国時代や平安時代より悪かったのはなぜでしょうか。
過去質問によると江戸時代は国防上の理由で馬車など車輪を使った乗り物の製造や利用は制限され、船も大きなものは作れなかったようですが、農業・魚業には何か制限や制約はありましたか。
何割までと定めたルールは現実には守られず、武士・支配階級が収穫された農作物を好きなだけ年貢として搾取していた実態などが実はあるのでしょうか?
教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代の平均身長が低かったということは言えそうですが、それが栄養状態が悪かったためだと、いう理由づけは寡聞にして知りません。

日本人の平均身長が時代によって伸びたり縮んだりしていたことは推定されています。
人骨や鎧の寸法から、鎌倉時代は全般に大柄だったと言われています。
平安時代は比較的小柄だったようです。(何分にもサンプル数が少な過ぎます)
鎌倉時代よりも江戸時代のほうが栄養状態が悪かったという史実は確認されていません。
戦国時代末期から江戸時代前期にかけて人口が増大しています。
栄養状態が悪い状況下で長期間に渡って人口が増加するということは考えにくいのではないのでしょうか。

頭蓋骨の形も上から見て丸くなったり楕円型に長くなっているそうです。
人骨や烏帽子などから鎌倉時代の人達は、楕円型に長かったようです。
このようなことからすると、鎌倉時代の人達は欧米人に近い体型だったようです。
江戸時代は丸かったそうです。
小柄で丸顔で鼻ぺちゃが江戸っ子の平均的な人相だったようです。
面長な花魁がもてるわけです。

このように時代によってサイクル的に変化する理由については未だに定説がありません。

江戸時代の農村は決して貧しくはありませんでした。
貧農史観というのは、明治政府が自己の正当化のために江戸時代を卑下中傷した結果です。
さらに、第二次世界大戦後の左翼系思想家が自虐的史観のなかで喧伝しました。
明治時代の方が農村は疲弊していました。
江戸時代の年貢の税率が一見高かったのは、帳簿上の数値の上でだけの話で、実行税率は低下しています。
困窮していたのは武家層です。
武家の財政は幕府、大名のみならず御家人にいたるまで破綻していました。
貧農史観のように農村が貧しかったというのは、郷土芸能が盛んになり伝承されてきた事実と辻褄があいません。
食うや食わずの人達が踊りや民謡にせいを出すとお考えでしょうか。
祭りの行事などを金をかけて200年も300年も伝承できたとお考えでしょうか。
武家が盆踊りをしたり村芝居をしたなどという話は寡聞にして知りません。
下記サイトをご参照ください。

石高 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/石高

江戸時代の百姓は本当に貧しかったか?
www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub226.htm

百姓の年貢負担は重くはなかった
www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-19.htm

下記のような書籍も出版されています。

貧農史観を見直す  佐藤常雄/大石慎三郎    講談社現代新書

農民一揆も左翼思想家がいう階級闘争ではありませんでした。
農村の内部というのはピラミッド構造をしていて農民どうしで経済力に著しい差がありました。
年貢徴収の実務は、富裕層の農民からなる名主(庄屋)を頂点とした自治組織が担っていました。
年貢も個人単位ではなく、村落単位で課税されていました。
低所得者層は年貢納入の義務からは外されていました。
むしろ富裕層の農民に対する低所得者層の農民の不満が蓄積された結果のものの方が多数を占めています。
なかには、なれあい一揆もありました。
下記サイトをご参照下さい

本百姓 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/本百姓

水呑百姓 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/水呑百姓

一揆の実態については下記のような書籍があります。

一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで 呉座勇一 洋泉社

こんなコメントがある書籍です。
一揆からイメージされる、権力(悪代官)に立ち向かう民衆(正義)という単純な勧善懲悪的なものではなくけん制、戦略、取引、なれ合い、デモンストレーション、平等性の演出とか、一揆の中にそういう生身の人間の様子が感じられたのは興味深かったです。

>江戸時代は国防上の理由で馬車など車輪を使った乗り物の製造や利用は制限され、船も大きなものは作れなかったようですが、農業・魚業には何か制限や制約はありましたか

馬車
車輪を使った移動手段は平安時代までは牛車がありました。市中専用でした。
車輪を使った移動方法というのは、大陸のように固い平坦地が続く地形では有効です。
山岳と起伏に富み、急峻な河川と沼沢地に囲まれた日本列島の地形では恐ろしく効率の悪い移動手段です。
日本中に隣の村落へ行くのに川を渡らずに行ける地域がどの程度あるとお考えでしょうか。
橋は台風などで年中行事のように流されます。水量の増減が激しいのが日本の河川の特徴です。
コンクリートのダムなど無い時代です。
同じように峠を越えることなく隣国へ行ける地域がどの程度あるとお考えでしょうか。
石の無い砂地だけの河原を持った河川がどれだけありますか。
馬車をひかせるよりも、背中に乗せた方がはるかに移動が自由です。
アスファルト道路も高速道路もない時代です。


軍船以外には特に規制はありませんでした。
下記に述べる理由により、交易船の難破沈没が多かったことから、リスク分散の観点と経済効率から700石~800石程度が主流で最大でも3000石のものが数隻あっただけです。
理由
(1)日本の沿岸海域は潮流が複雑であることは世界的にも有数のものです。
詳しくは下記サイトをご覧下さい

黒潮の組織的渦構造と沿岸水域環境との間の乱流論的プロセス
library.jsce.or.jp/jsce/open/00008/1996/43-0411.pdf

海洋スケールの渦現象
www.nagare.or.jp/download/noauth.html?dd=assets/files/downlo...

一たび黒潮の外へ流されればあとは太平洋があるだけです。
生きて帰れる保証はありません。まして積荷の保証は不可能です。

夏季には南方海上で発生した台風が来襲します。
季節の変わり目には長期間にわたって前線が停滞します。(梅雨前線、秋雨前線)
天気予報技術が未発達な状態で、天候の急変、風向きの急変、突風などの予測は人間の勘以外に頼るものがありません。

(2)海外への渡航が制限されていた結果、大型外洋船の需要がありませんでした。
(3)港湾設備が未発達であったことから、喫水の深い船は接岸できませんでした。
これらの理由により下記のような独特の構造の船が発達しました。
洋式帆船と和船の違いは下記のサイトをご覧下さい

洋船と和船のちがい - 日本財団 図書館
nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01046/contents/003.htm

大きな船を作る技術が無かったわけではありません。作れなかったのではなく作る必要がなかったためです。
伊達政宗が1613年に派遣した慶長遣欧使節団が太平洋を渡るのに使った洋式帆船サン・フアン・バウティスタ号は日本人の船大工が作ったものです。伊達藩での使用が終了した後はヨーロッパへ回航されて長く現地で使われていました。

車両にせよ船にせよ国防上の理由などというものは何処にもありません。

>農業・魚業には何か制限や制約はありましたか
特別なものはありません。
当時の海も川も池も沼も清潔でした。農薬だのなんだのと化学薬品が混じることはありませんでえした。
江戸だろうが大阪だろうが街の傍の海へ入れば魚介類はいくらでもとれました。
時には江戸湾(現東京湾)でクジラが採れることもありました。
潮干狩りは子女の季節の楽しみの一つでした。
内陸の池や川にはどじょうもたにしも潤沢にいました。子供でも採れます。
ただし、クール宅急便がありませんし、家に冷蔵庫もなかったので、内陸部で海の魚の刺身を食べるのは難しかったです。
ただし、干物は潤沢に出回っていました。
川魚はどこでもいくらでも採れました。

大阪と松前を往復していた北前船の主要な荷物は身欠きにしんでした。
食べるだけではなく綿の肥料にも使われていました。
現在でも関西ではぼうだら(干だら)は正月には欠かせない食材です。
関西料理の出汁は昆布です。昆布も鱈も鰊も大阪湾では取れません。
物流の発達した江戸時代が、それ以前の時代よりも食材が不足していたなどという史実は寡聞にして知りません。

>武士・支配階級が収穫された農作物を好きなだけ年貢として搾取していた実態などが実はあるのでしょうか?
このようなバカ侍は希少価値がありました。
武家というのは米がすべての生活の基本です。
武家は米を金に換えて生活していました。
自分の生活を支えている農民を虐待する意味はどこにもありません。
農民が自領から逃散(逃亡)されてしまえば、翌日から飢え死にするのを待つだけになります。
この逃散という手段は結構つかわれました。
逃げ込んだ隣の大名は労働力が増加して新田の開発が促進できることから喜んで迎え入れました。
下記書籍に詳し書かれています。

逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦  宮崎 克則  (中公新書) [新書]

以上がざっとした説明です。
なにかご質問があれば、補足をお願いします。、

江戸時代の平均身長が低かったということは言えそうですが、それが栄養状態が悪かったためだと、いう理由づけは寡聞にして知りません。

日本人の平均身長が時代によって伸びたり縮んだりしていたことは推定されています。
人骨や鎧の寸法から、鎌倉時代は全般に大柄だったと言われています。
平安時代は比較的小柄だったようです。(何分にもサンプル数が少な過ぎます)
鎌倉時代よりも江戸時代のほうが栄養状態が悪かったという史実は確認されていません。
戦国時代末期から江戸時代前期にかけて人口が増大して...続きを読む

Q江戸時代 幕府や藩について

江戸時代 幕府や藩について
幕府や藩は、一揆や打ちこわしに対し、どのような対処をしたのですか?
また、そもそも藩って何ですか。

Aベストアンサー

 藩の統治は大名の権限なので、幕府が直接、口を出すことではなかったと思います。現に、改易になった諸藩の記録をみても、百姓一揆が原因とされているのは、徳川15代を通じて1件だけのようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%98%93

 それでは、百姓一揆の発生件数はというと、記録に残されているだけで、およそ3,000件にのぼります。多くの場合、領主は条件をのんで事件を解決し、あとで首謀者を呼び出して処罰するのが通例のようです。しかし、幕末になると一揆が激増し、武力ではとても抑えられなくなりました。

 藩とは、幕府の小型版といえばいいでしょうか。幕府自体、700万石の大大名でした。なお、藩という名称は、明治以後に一般に用いられるようになりました。

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。


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