痔になりやすい生活習慣とは?

歴史上の人物で最も優れた戦略をたてた人物と最も優れた戦術者を教えてください。
(一人一人の意見を教えてください。)

質問者からの補足コメント

  • もちろん決めつけられないことはわかっています。

      補足日時:2017/02/26 20:14

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A 回答 (5件)

戦略は、ある意味では小西行長ではないかなと思ってます。


当時の秀吉を騙し、周りの味方を騙し、相手の国まで騙し…とうとう秀吉にバレて激怒させてしまいましたが当時の文章を読むと本当に頑張ったなといたわってやりたい気持ちになります(笑)
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戦略はビスマルクかな。


ヨーロッパの勢力図を10年、20年で書き換えて、ビスマルク体制を作った。

戦術はガリバルディ。
1年ほどでイタリアの統一が一気に進んでしまった。
それこそ戦略家たちの想定を飛び越えたものだったんでしょうね。
こんなに早くイタリア全土の統一なんてできると思ってなかったことでしょう。
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この回答へのお礼

OK

そこまでビスマルクのことは知りませんがかれについての本をよんだことがありたしかにかれは自分の想像していたままにオーストラリア、プロシア、フランスがうごき次々とわなにかかっていきましたよね。

あとガリバルディも、まだ戦車など速く動ける兵器がない時代によく出来ましたよね。

お礼日時:2017/02/27 15:40

山本五十六

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この回答へのお礼

僕も大好きです。しかしなぜ座り込んで死んでいたのかなぞですよね。
戦争に反対だったけれどみずから引き金を引いたのは辛かったでしょうね。

お礼日時:2017/02/26 21:45

戦術家はともかく戦略家は・・・あなたの期待する回答ではありません。


    
最も優れた戦略家は田中角栄ではないかと。
(期待する回答ではないですね)

今の新幹線網の構想を描いたのは田中角栄氏です。
http://toyokeizai.net/articles/-/156568
高速道路建設にも繋がる道路特定財源を立法化し、地方の隅々まで舗装道路を建設出来る仕組みを作ったのも氏です。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/tanaka1.htm
   
この2つだけで今の日本全国というスケールで交通インフラは整ったでしょう。
まだまだ他にも数え切れない程のエピソードがありますが、これだけ壮大な構想を描く事ができたのは「最も優れた戦略家」ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

それな

経済な面では確かにすごい戦略家ですよね。今の日本があるのも彼がいたからと言ってもいいですよね。
(戦後のはなし)

お礼日時:2017/02/26 20:45

由井正雪が、自分はこの二人より偉いんだぞと言って、張孔堂と名乗ったそうで、そのうちの一人、張良。

漢楚が天下を争っていた時、戦力的にも地理的にも、楚が圧倒的に有利だった状況から逆転した駆け引きを評価して。
 その張良が参考にしたのが、太公望の書という伝説から、太公望を戦術家ナンバー1に。
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この回答へのお礼

Thank you

伝説がほんとであれば呂尚は確かに最強の戦術家ですね。

お礼日時:2017/02/26 20:59

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ヒトラーはどれほど馬鹿だったのですか。

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総統閣下は馬鹿では無いです 、当時のアメリカのニューディール政策に相当する国家公共事業を、一人で考案しました。

労働者の待遇を良くする為、劣悪だった職場の衛生管理を整え、仕事に対しての余暇を充実させました。

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色々な方向から総統閣下の事を調べると、必ずしも愚か者では無いと解るはずです、なにせノーベル平和賞にノミネートされたぐらいですから。

Q三国志のコミックスを読んでいるのですが、何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦

三国志のコミックスを読んでいるのですが、何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。
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また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所と考えてよろしいのでしょうか?
どなたか詳しい方に教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それすら両陣営ともやや盛った数なので十万に届いていたかどうか。

>何十〜100万の兵
この数は当時の人にとってはSFファンタジー設定でした。
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あり得ない数で架空のお話を創って当時の観客を驚かせたのでしょう。なんでも派手なほうがエンターテイメントとして客を呼べますからね。

なお小説やコミックの『三国志』は三国時代以降に民間で演じられた舞台劇をもとにしたフィクションです。
小説家やマンガ作家の中にも現実を全く学ばずに書いている人が多いですから、あまり本気に受け取らないことです。


>また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所

他の方が回答されている通りです。
日本的に言えば「都市」「街」です。
城を攻略することはすなわち街を攻略することになります。
「●●城が陥落した」という表現があれば、日本では「江戸が陥落した(江戸城ではなく)」というイメージになります。

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それす...続きを読む

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その合意内容は、その地域の文化的、歴史的な慣習で養われる事が大半です。


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日本史に出てくる人物で一番の卑怯者を挙げるなら誰を挙げますか?

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先祖が滋賀県の尼子という村に住んでいたからです
http://www.www2.harimaya.com/amago/index.html

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

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Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
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Qもし前田利家があと10年健在だったら徳川の天下になっていたか?

前田利家があと10年、1609年まで寿命があったら徳川家康は天下人になれたでしょうか?
利家がいても、やはり翌年の関ヶ原の戦いは起きたでしょうか?

Aベストアンサー

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指揮する器量と人望があること、北政所の信任が厚いこと、家康の本領が畿内から遠いこと、さらには傅役として秀頼を擁する「公儀」の正当性を有することから、いかに家康といえども兵力の少ない伏見城にいては大坂城の利家に合戦を仕掛けるのは難しいでしょう。

ただ、利家には野心がなく大博打もしないので、自分から合戦を仕掛けるとは思えない。
秀頼を擁しないという意味で、いざとなれば公儀になれないから、上杉征伐などの無茶振りもできない。
そのため両者にらみ合いの異常な緊張感が続く中、伏見にいては不利な家康が江戸に帰国する。
そのままにらみ合いが数年続いた後、利家が下手に出る外交を行い家康が形の上で帰順する…
そんな展開を想像します。

実際には緊張が最高に高まったところで利家が家康に会いに行くのですが、すでに余命幾ばくもなく、自分がいるうちに何とかしなければ、という使命感だったのではと思います。

利家健在中に合戦にならなければ、利家死去のとき秀頼は15歳前後に成長している。
それから「関ヶ原」になるかどうか…

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指...続きを読む

Qうろ覚えな戦国武将の名言をスッキリさせたい

ずっと思い出したくても思い出せずにいる名言・格言的な言葉を探しています。
うろ覚え過ぎて検索にかからずずっと悶々としているので、心当たりの方にご教示いただきたいです。

おそらく上杉謙信か景勝、あるいはその関係者の言葉だったような気がします。
なんとなく以下のようなフレーズでした。
--------------------------
人生で3度死にかけた。
一度目は○○の合戦。
二度目は〜
三度目は〜〜
--------------------------
3つのうちのひとつは会津征伐だったような気がします。
誰かに宛てた文の一節だったような気もしますが、正確な文面が全然思い出せなくて、これだけの情報から、なにか思い当たる言葉をご存じの方いらっしゃいませんか?

Aベストアンサー

政宗ですか。あるかもしれませんね。
でも彼は何度も殺されかけてますからねえ・・・。

秀吉に殺されそうになっただけで3回ありますから,
それをさしているのかもしれません。

1回目 小田原参戦が遅かったとき
2回目 葛西大崎一揆の裏で百姓を扇動したとき
3回目 秀次切腹の後,一緒に謀反を図ったと疑われたとき

会津を責めたこともありますが,死にそうにはなっていません。
人取橋の戦いでは死にそうな目に合っていますが。

大河ドラマの中に似たようなセリフがありましたが,よく覚えていません。
「わしは運が良い。〇〇や△△で命を落としかけたが・・・」
みたいなのがあったのですが,確認できませんでした。

もうちょっと調べてみます。

Qまじ質問です。アポロ11号でアームストロング船長が初めて月に降り立つ映像を撮影したのは誰ですか?

まじ質問です。アポロ11号でアームストロング船長が初めて月に降り立つ映像を撮影したのは誰ですか?

Aベストアンサー

>キャノンが世界初!ならありえますね。

キャノンが世界初でなければ、もっと可能性は高いですよね。
でも、NO10さんの言う通り、ピント固定方式であった可能性の方が高いでしょう。

日本でも固定焦点式のカメラが1986年頃から大衆向けに安価に売り出されています。
構想から大衆向けの商品になるまでに、10~15年位かかっても不思議はないと思いますよ。
NASAは国家威信をかけた事業であった筈ですから、費用は青天井だったと思います。


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