親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

化け物のという意味。
日本には悪霊がわんさかと押し寄せている。
あまり、悪意や頭がおかしいことを考えていると憑依されて、人生狂うぞ。
冗談で言っているのではない。

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A 回答 (3件)

魑魅魍魎(ちみもうりょう)は自分にしか見えない、存在しない、という意味でも、化け物、とはすこし違うでしょう。


記憶は、海馬の働きであり、海馬と大脳との回路が狂うと。魑魅魍魎が現れる。と言われています。
神仏や悪霊も、愛だの幸せだのの妄想も、外から押し寄せている、ではなく。自分の体験記憶と大脳が、が作り出し、それが、自分の、心、精神、であると思い込み、自分が苦しむだけの、心、を作り出しているのです。
哲学とは何か? は、知恵、と何か。が始まりであり、第一義、だったのです。
 「在るものを、在るがままに見る者は、思惑愛好家、ではなく、愛知者、と呼ぶべき者達ではないかね」
とソクラテスが言った。とプラトンが書き残していますが。知を愛する、という言葉自体、東洋思想的には矛盾した表現でしょうが。その、愛知者、を哲学者と翻訳されていますが、哲学者とは、思惑愛好家に対して、哲学者、なのです。
西洋の歴史のなかで異常に突出して知能が高い、一体、ギリシャ哲学はどこから来たのか。が西洋思想の謎、とされていますが。答えは解っている、「光(知恵)は東方から」なのです。解っていても認めようとはしないだけなのです。
 アリストテレスの形而上学、定義する事によって、概念の統一を図り。キリスト教に取り入れられ、定義することによって、真理を決める。キリスト教形而上学となってしまい。
そのあまりの知恵のなさ、への反抗として、神がいなかった、としても、の物理学、が起こり、錬金術の延長としての化学と共に、化学技術を発達させた。そして、西洋思想には、知恵、がない、知恵は神の領域になっている、ことを忘れ。心の思想執着の思想が世界を蹂躙しているのです。
中学の国語の教科書、だったかに、西洋を回った、森鴎外の見聞録に。西洋には、敬礼するような人物はいたが、脱帽するような人物には、出会う事がなかった。みたいなことを書いていましたが、
東洋の知恵は、心を度外視して見る能力であり。心✕知恵=1=一定 として、心が小さくなれば、知恵がおおきくなる。と認識されるようなもの、なのです。ギリシャ哲学が古代インドのウパニシャッドに学び、愛知者がボーディン・サットヴァ(菩薩、悟りを求める者)の事であったなら。哲学者は知恵を愛する者、知恵に執着する者。ではなく、知恵を求める者。でなければならなかったのです。それ故にキリスト教の誕生、ユダヤ思想の復活。となったのかどうか。
心の時代、女性の時代。知恵のない時代、へとまっしぐらに進んでいる、堕ちているようにも見えます。
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この回答へのお礼

海馬と大脳との回路が狂うと。魑魅魍魎が現れる。と言われています。と、ありますがどうして狂うのかを考えたことがありますか。

自分の、心、精神、であると思い込み、自分が苦しむだけの、心、を作り出しているのです。と、ありますが仏教にかぶれて思い込んでいるのですか。どうでしょう?

「光(知恵)は東方から」なのです。と、ありますがこれは興味深い。私は解を求めてかねがね詮索しています。

哲学者は知恵を愛する者、知恵に執着する者。ではなく、知恵を求める者。でなければならなかったのです。と、ありますがおおむね正しい。

心の時代、女性の時代。知恵のない時代、へとまっしぐらに進んでいる、堕ちているようにも見えます。と、ありますが私もそう見えています。


以上は、つまらない問答です。知識、思考が飛び飛びになっている。整理したほうがよろしいかと思いますが、あなたの勝手でしょう。

お礼日時:2017/03/03 13:01

「日本には悪霊がわんさかと押し寄せている。


  ↑
「日本には」と言う表現から、「悪霊」は、海外から渡来するんでしょうね。
つまり、「外国から悪いものが、渡来してくる。」と考えると、
「どこから?」と言う疑問が沸き、「悪霊」と言う事から、
「日本に悪さをしたい国」と考えると、中国、南北朝鮮、と言う事
でしょうかね。

結局、日本は、スパイ天国で、中国、南北朝鮮から、悪いスパイが
多数、押し寄せている、と言う意味でしょうか?

「悪意や頭がおかしいことを考えていると憑依されて、人生狂うぞ。」
  ↑
油断したり、緊張を解いたりすると、こう言った悪いスパイに
弱みを突かれ、手先にされるぞ。
そうしたら、人生、狂ってしまうぞ。

そんな意味なんでしょうか。
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この回答へのお礼

理解できませんが、今の時代ではご高説なのでしょう。恐れ入ります。

お礼日時:2017/03/03 12:53

それが大手町にある巨大新聞社内に巣くっていて、裏で何にでも口出ししている。


NPBと言う組織をも私物化しているしね。
だからそれに取り憑かれた人達は偉そうにしている。
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この回答へのお礼

理解できませんが、今の時代ではご高説なのでしょう。恐れ入ります。

お礼日時:2017/03/03 12:52

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Q対岸の火事(は消してはいけない)、、、?

哲学のカテゴリーでご活躍の諸兄にお考えを伺いたく、質問いたします。

「対岸の火事」に対して、人はどのように対処するべきでしょうか。

1.対岸の火事は、傍観するしかないし、傍観するべきである。
2.対岸の火事であっても、傍観はいけないし、彼岸に渡って消火活動をするべきだ。
3.対岸の火事といってもその規模により、彼岸で済むなら傍観、(CO2やPM2.5などで)此方にも害が及ぶと予想されるなら防衛的な消火活動をするべきである。

哲学の問として成立するのかどうかよくわかりませんけど、諸兄のお考えをお聞かせください。

Aベストアンサー

1。

起こってしまったものは仕方がない。

缶ビール2本持参して見物だ。

Q人びとはなぜ神のことが分からないのか

1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことに
よって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。

2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形にな
る。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。

3. 神は 精神だと言う。概念だと言う。
――けれども 精神も概念もは 人間のもの。自然本性としてそなわったも
の。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経
験事象であるのか。



人びとはどうして神のことが分からないのか?

Aベストアンサー

遅くなりました・・・すいません^_^

悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

だから、すべての人のあらゆる行為や考え方を否定せず、ただ見守ります

その人が、悪事を働く場合も、否定をしません・・・なぜなら、その人が良い行いをする為には、正反対の悪い事とは、なんなのか・・・という経験も必要だからです

だから、神は最終的には、良い人を支持するのでしょうが、途中経過としては、悪の経験も必要だと考えます

正義を知る為には、悪を知る必要があります

ちょっと、違ういいかたをすれば、例えば、よく思うのですが、私は、いつも、ワガママな人とかに、あった場合、イライラしてしまいます

そして、自分を人として、ダメな奴だな〜〜と自己嫌悪におちいります

でも、そんなダメな奴でも、天国に行って、いい人のなかにいれば、それなりに、徳がある人の様な振る舞いはするだろうと思います

しかし、天国の様な場所では、悪い人がいませんから、こんな私でも、徳のある人の様な、振る舞いをしますが、この世に戻って、イライラする人に会えば、また自己嫌悪するような、行動を起こします

つまり、私には、自己嫌悪する様な、要素があるにもかかわらず、それを出させる対象物がなければ、その状態には、なりません

言い方を変えれば、その人に、悪の心があっても、それを引き出す 要因が無ければ、その人は、悪の心を出せません

では、悪の心を持ったまま、それに気づかずに、過ごすのと、悪の心をしっかり認識する為に、悪の経験をするのと・・・どちらが、良いのでしようか?

もし、不本意ながら、自分の悪をしっかりと受け止めたい場合は、悪の経験も必要になります

だから、神は、悪も否定しません、
よく、神と聞いて、慈悲あふれる神を想像する方は、神の半分しか理解していない といわれます

だから、悪を望んでいる訳ではないですが、否定している、訳ではありません・・・どちらも、成長する為に必要な要素なのです・・・

遅くなりました・・・すいません^_^

悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

だから、すべての人のあらゆる行為や考え方を否定せず、た...続きを読む

Q神についての勘違いが なぜあとを絶たないか?

このような問いかけをすると 問い求めやすいかも分かりません。


A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般
をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。

C. 同じく 教義を信じるという間違い。
――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的
な能力とその行為成果であるに過ぎない。オシヘは 神秘の部分をふくむ
けれど けっきょくは経験思想であり 倫理規範である。やはり 精神主
義的な人間信仰ないし《信念の人》主義となってしまう。

D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい
る間違い。
――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像と思
考の産物である。《人間の能力》信仰となる。



ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いではないか。
 
偶像は 神本体の仮りのシルシです。正解へとみちびく補助線です。

オシヘが 偶像なのです。仮りの表現としての偶像です。神を指し示すた
めのシルシです。

人びとは 指の先を見るのではなく 指を見ている。

いかに?

このような問いかけをすると 問い求めやすいかも分かりません。


A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般
をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。

C. 同じく 教義を信じるという間違い。
――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆ...続きを読む

Aベストアンサー

「神=究極の実在」は人間にとって非経験事象であるから、分かるはずのないものである。
しかし、宗教では「神」「仏性」などがそれであるとして、これを信ぜよとしている。
それが、正しい「神=究極の実在」であるはずがない。間違いである。
間違ったものを信ずれば、幸せにはなれない。
だから宗教は間違いである。

簡単に言えばこういうことであると理解しました。

であるならば、次のことが言えると思います。

「直観知=ヒラメキ」によって、「神=究極の実在」を覚知してしまうことが「ない」と
言いきれないだろう、ということ。
それは、「神」は「梵我一如」で自分の中にあり、ヒラメキや良心などから「一端」にせ
よその存在を常に感じることが可能であるから、完全に「非経験事象」とは言えないと思
うからです。
また、生まれ持った資質、努力の量と質によって、自分の中にある「神」の全体像を感じ
取ることは全く可能なことに思えます。

要するに、「神」は完全な非経験事象ではないから、「分かるはずのないもの」(とお考え
ならば)とは言えない、ということです。


>オシへは言葉で表されています。ゆえに考えるものであり、信ずる(無条件で受け容れる)
ものではない。

これは、信仰の微妙で難しい点をご指摘している気もします。
信ずべきものを正しく信じているか、です。
言葉や仏像やキリストの像などの「イメージ」によって惑わされていないか?聖職者自身も
含めて。
教義というものは本来、信者を正しい信仰に導くためのものであるはずですが(だから常に
研究を怠ってはならないのですが)不勉強により、逆に教義が独り歩きしてしまうというこ
とが、残念ながら往々にしてあると思います。

長くなりましたので、今回はここまで。

「神=究極の実在」は人間にとって非経験事象であるから、分かるはずのないものである。
しかし、宗教では「神」「仏性」などがそれであるとして、これを信ぜよとしている。
それが、正しい「神=究極の実在」であるはずがない。間違いである。
間違ったものを信ずれば、幸せにはなれない。
だから宗教は間違いである。

簡単に言えばこういうことであると理解しました。

であるならば、次のことが言えると思います。

「直観知=ヒラメキ」によって、「神=究極の実在」を覚知してしまうことが「ない」と
言いきれな...続きを読む

Qなるべく、人に分りやすい表現で

哲学カテは面白いですね。

でも、難しい言葉や表現を好んで使う人が少なくありません。
お子様の頃に”お勉強がよくできた人”ほど難しい言葉を使いたがります。

でも、もっと分りやすい言葉や表現の方が多くの人に伝わると思うのですが、いががでしょうか!

Aベストアンサー

そもそも多くの人に伝えたくないんでしょうね
己の知性を誇示するための手段として難しい言葉を不必要に使っているのだと私は思ってます
だからむしろ理解されることを望んでいない
簡単に理解されてしまったらそれは知性の証明にならないから
その行為が行き着くところまで行き着くと自分独自の言葉を多用して誰にも理解されないような質問文ができあがる
こうなると哲学という名を借りた単なる自己表現ですな
人から理解はされたくないが承認はされたい
その矛盾を孕んだ欲求のはけ口として哲学カテがうってつけなんでしょう

Q過剰な自画自賛?

少し前から気になっていたのですが、日本文化を称賛する論調が多すぎると思います。
外国人タレントが文句を言ったりしています。
日本人である私も、食傷気味。

これって、どういう現象なのでしょうか?

Aベストアンサー

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)にかけてと同じ現象。歴史は繰り返す。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-2065-3

日本人の気質は奥ゆかしい(はたして本当にそうかはともかく)のに、自画自賛を大声で主張する行為は相容れなくて、行き過ぎると気持ち悪く感じます。


No.2さんの「自信喪失の裏返し」は成る程なと思いました。世界第2位の経済大国との自負も、2010年あたりに国内総生産(GDP)が中国に抜かれて世界3位になってしまいましたからね。日本メーカーの製品の多くも今では海外の工場で作ってますし、中国メーカーの製品も物によってはですがかつての安かろう悪かろうを脱してますし、日本の有名家電メーカーなどが中国や台湾の会社に買収されたりしてますからね。

日本に良い所が色々あるのはテレビで何度も繰り返し言われなくても分かってるし、他国の良い所を賞賛したり、見習ったりする姿勢が低下していかないか心配です。

ドイツの脱・原発の選択に日本も続こうというような風潮も少し前は多少あったのになぁ……

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)にかけてと同じ現象。歴史は繰り返す。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-2065-3

日本人の気質は奥ゆかしい(はたして本当にそうかはともかく)のに、自画自賛を大声で主張する行為は相容れなくて、行き過ぎると気持ち悪く感じます。


No.2さんの「自信喪失の裏返し」は成る程なと思いました。世界第2位の経済大国との自負も、2010年あたりに国内総生産(GDP)が中国に抜かれて世界3位になってしまいましたからね。日本メーカーの製品の多くも今では...続きを読む

Q時代は変わったね(ずいぶん前からだけど)

少し前にテレビで若い女の子が、王貞治の言葉(確か努力についてのことだった)を
あっさりと否定していたことがあり、少し驚いたことがありました。

最近の若い人が作る歌を何気なく聞いていると、「夢ばっかり言わないでね」とか
「努力はたいてい報われない」なんてセリフがよくあります。

それが、けしからん、なんてここでは言いませんが、「夢」「希望」「努力」「忍耐」
などの、かつて日本人が美徳とした価値観を否定(回避?)する思潮は、そのかわりにど
ういう価値観を持っているのだと思いますか?

Aベストアンサー

こんにちは。
世間の10代~20歳前後の子供たち、二極化してるような感じはあります。
表現の世界とか、勝負の世界とか、努力や忍耐で掴みたいものがある子らには孤独な面もあるでしょうね。孤独というか、孤立というか。
いつの時代でもそうならざるをえないものですが、特に今は孤立が際立ちますから。
そういうスタンスを認める空気が、あるところにはあるわけですが、一方で、黙々と努力する泥臭いような孤立状態を、ださい、イケてない、なんか感じ悪い、なんか別世界、的な価値観で見ている、群れて繋がる子たちがたくさん居ますね。彼らも、肩書きを手に入れた成功者のことは大好きなんですけどね。
実力主義、成果主義な物の見方だけは植えつけられているのだけれど、時間も手間もかかり、意志を貫く必要のある事柄について、あんまりわかっていないんじゃないかなあ、と思います。大人が、そういう姿やそういう世界を見せてこなかったツケだと思います。

Q人間失格?

優生思想を叫ぶような障害者殺しが裁判にかけられるようだ

どっちが人間失格なのか分からないが

実は私も障害者です。

私も人間失格なのだろうか。

症状が重くて仕事どころか福祉作業所やデイケアにも行けなくなった。

家で腹痛に苦しんでいると 自分は人間失格者なのでは という疑問が浮かんでくる

税金を使い仕事もできない。結婚もできず子供もない。何があるのだろうか?

障害者や認知症患者は役に立たないものなのだろうか

本音でどうですか 障害者は人間失格でしょうか?

聞くには ある本に「結局○○障害者は無意味な一生を終える」と書いてあったそうです。

Aベストアンサー

人間には合格がないので失格もありません。

Q底無しのばかばっかしぢゃん このところの書き込みは

中身がからっぽ。からっからっ。


いかに。

Aベストアンサー

ハサミとバカは使いよう。

これいかにぃ〜♪

中身がからっぽ、平気さ、ぷぅ〜

外見を叩いて、太鼓のつもりさぁー 

創発、カオス、皆歓迎♪

無への不安もないバカさぁ〜

Q唯我独尊は治りませんか?

いろんなことを考えるのは自由ですね。
哲学についても同様です。

ただ、自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。
自分の考えも、他の人の考えも共に尊重していきたいものです。

孤独の中で考えていると、どうしても自分の考えだけが正しいという結論にたどり着いてしまいます。
そうなると、他人が馬鹿に思えてしまうようです。

どんな考えも自由ですが、他の違う考えにも耳を傾けたいものです。
そうでないと、誰にも理解されず、最終的には自分が疲弊していきます。

人生も半ばを過ぎると、唯我独尊はなかなか治らないものですか?

Aベストアンサー

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

先ず、それを認めることが重要です。

教育を受け、書を読み成長してきたのであれば、それは
先人の知恵を頂いてきた事でもあります。
このことを謙虚に認めないといけない、と思います。
認めて初めて、他者に耳を傾ける事が、出来る。

哲学も同じでしょう。
私は、哲学で、路傍の石ひとつも動かせるわけでもなかろうに、と
思っていますが、それでも、存在を全く否定している訳でもありません。

しかし、独善的な論理構成と結論には、悲哀を感じます。

そういう人は、自分が受けてきた教育や読破した書の価値が
理解できていない。
どのように自分の血となり肉となったか、の理解も出来ていない、と
思っています。

まあ、病気なんだと思っています。

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

...続きを読む

Q《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教批判です――

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
     の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。

人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム。

3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム。
 
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。

4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。

農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
 
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
 
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。

7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。

ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。

8.
古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。

これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?

《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。

つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
 
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
 
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。

これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
 
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。

そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。

11. 
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。

信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。

マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
 
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
 
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。

いかに?

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき...続きを読む

Aベストアンサー

>恐ろしい信念の持ち主でおられる

これはお互い様でしょう。

>人間を解放へと向かう宗教は論理的には成り立たない

ということは、当然あなたの主張する「非知たる神論」から導き出される結論ですから、
私がそこに切り込んでゆかなければ、平行線のつまらない議論で終わることでしょう。

あなたの「神論」はいわゆる「神」を「非知」として、そこから組み上げた理論であろう
と思っています。
一方、私は大乗仏教の生命観を学んでいるものです(お判りでしょうが)。この二者がどう
かみ合うのか?いや、かみ合わせることができるのか?ここが、極めて面白いと思ってい
ます。
だから、なかなか時間が取れないながらも、対話を続けようとしています。

「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」「宗教」は
「人間学」とも言えると思います。


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