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三国志のコミックスを読んでいるのですが、何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。
そこで気になったのですが、当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??
また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所と考えてよろしいのでしょうか?
どなたか詳しい方に教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。

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A 回答 (3件)

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??



現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それすら両陣営ともやや盛った数なので十万に届いていたかどうか。

>何十〜100万の兵
この数は当時の人にとってはSFファンタジー設定でした。
近代の戦争でやっと兵数「数十万」規模の戦闘が記録に登場します。古代と現代の人間の数がこれだけ違うことを考えれば、十万~100万の兵数がいかに思い切った架空設定であったか理解できるはずです。
あり得ない数で架空のお話を創って当時の観客を驚かせたのでしょう。なんでも派手なほうがエンターテイメントとして客を呼べますからね。

なお小説やコミックの『三国志』は三国時代以降に民間で演じられた舞台劇をもとにしたフィクションです。
小説家やマンガ作家の中にも現実を全く学ばずに書いている人が多いですから、あまり本気に受け取らないことです。


>また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所

他の方が回答されている通りです。
日本的に言えば「都市」「街」です。
城を攻略することはすなわち街を攻略することになります。
「●●城が陥落した」という表現があれば、日本では「江戸が陥落した(江戸城ではなく)」というイメージになります。
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この回答へのお礼

やはり「盛った」数であったんですね笑
戦記というものに信憑性があまりないことは想像していましたが、まさか赤壁の戦いが両軍合わせてその程度とは驚きです。
コミックスの中では数十万を率いていた群雄や将兵がほぼ全滅で逃げ帰ったなんていう戦いがいくつも登場するので、不思議に感じていましたが納得できました。

お礼日時:2017/03/21 15:00

そこで気になったのですが、当時の中華にはどれほどの人口が


いたのでしょうか??
 ↑
数千万ぐらいだ、と言われています。
当時の兵力が500万ぐらいで、それから算定して
2000万前後だ、という説が有力です。

当時の法令の記録によると、当時の一戸の平均人数は大体5人、
その5人のうち2人を「卒」とした、とある。
これで計算すると七カ国の戸数合計は265万戸、人口1325万人となる。
当時の中国には、七大国以外にも、衛や宋などの小国があり、
また、中国の西南部・南部にも相当数の人口が存在したと推定されるので、
戦国時代の中国の全人口は約2千万人前後と推定される。
http://www.geocities.jp/cato1963/jinkou996.html





また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」
で描かれているような民間人も暮らすような場所と
考えてよろしいのでしょうか?
   ↑
その通りです。
当時は軍隊のような強盗が跋扈しており、非常に
物騒な時代でしたので、城郭都市になりました。

つまり、都市=城 だったのです。
これは、西洋も同じです。

日本は平和だったので、そういう城郭都市には
なりませんでした。
ここからここまで、江戸、という具合に、地図上で
線を引いただけの都市でした。
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この回答へのお礼

都市=城にならなければならない治安というのは恐ろしい世の中ですね〜
となると戦争中の民間人は城内に隠れたままだったのか、逆に戦場となるなら城外へ逃げていったのかどうかも気になってきます。

お礼日時:2017/03/21 14:55

たしか、乱世前に約5000万人から三国志の終わりころには500万人と1/10になった、という大雑把な数字を見た記憶があります。

ただし500万人は、乱世で農地を放棄して行方が分からなくなったりして減った分もあるので、実質の人数が1/10になったわけではないとか。

ちなみに当時の日本(未統一)は200万人くらいと見られていたと思います。
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この回答へのお礼

やはり正確な数字となると難しいものなんですね。

お礼日時:2017/03/21 14:49

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Qうろ覚えな戦国武将の名言をスッキリさせたい

ずっと思い出したくても思い出せずにいる名言・格言的な言葉を探しています。
うろ覚え過ぎて検索にかからずずっと悶々としているので、心当たりの方にご教示いただきたいです。

おそらく上杉謙信か景勝、あるいはその関係者の言葉だったような気がします。
なんとなく以下のようなフレーズでした。
--------------------------
人生で3度死にかけた。
一度目は○○の合戦。
二度目は〜
三度目は〜〜
--------------------------
3つのうちのひとつは会津征伐だったような気がします。
誰かに宛てた文の一節だったような気もしますが、正確な文面が全然思い出せなくて、これだけの情報から、なにか思い当たる言葉をご存じの方いらっしゃいませんか?

Aベストアンサー

政宗ですか。あるかもしれませんね。
でも彼は何度も殺されかけてますからねえ・・・。

秀吉に殺されそうになっただけで3回ありますから,
それをさしているのかもしれません。

1回目 小田原参戦が遅かったとき
2回目 葛西大崎一揆の裏で百姓を扇動したとき
3回目 秀次切腹の後,一緒に謀反を図ったと疑われたとき

会津を責めたこともありますが,死にそうにはなっていません。
人取橋の戦いでは死にそうな目に合っていますが。

大河ドラマの中に似たようなセリフがありましたが,よく覚えていません。
「わしは運が良い。〇〇や△△で命を落としかけたが・・・」
みたいなのがあったのですが,確認できませんでした。

もうちょっと調べてみます。

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
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各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

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そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
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その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

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農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
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いま三国志のコミックスを読んでいます。そこで不思議に思ったのが、なぜ「帝」はいつの時代も権威を保持し続けることができているのでしょうか??
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それでは民衆の支持が得られないから?帝を擁すれば官軍として振る舞えるから?神のような存在に手をあげること自体思いつかない社会だったから?
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Aベストアンサー

三国志といえば、後漢の皇帝の権威がすっかり失われて、いろんな人たちが好き勝手に権力争いをして朝廷を牛耳り、やがて皇帝の地位を奪われるという展開になってるはずで、なぜ質問者さまがそのような結論に至ったのか理解に苦しみます。後漢から帝位を奪った曹氏の魏も、臣下の司馬氏の晋にとってかわられ、その晋(西晋)が北方遊牧民族の匈奴出身の劉淵に滅ぼされた後は、さまざまな異民族が皇帝を称して建てた国が乱立し短期間で興亡を繰り返す、五胡十六国時代に突入します。「帝」がいつの時代も権威を保持し続けている、とは到底いえません。

Q日本史に出てくる人物で一番の卑怯者とは

日本史に出てくる人物で一番の卑怯者を挙げるなら誰を挙げますか?

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徳川慶喜。

己の命令で部下が戦っているのに、
さっさと逃げだし、大政奉還。

この時、家康以来の金扇の馬印は置き忘れたが
お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた。

その後は、金が無く苦しむ部下を見捨てて
趣味三昧で、天寿を全う。

Q真珠湾攻撃の3日前に電話で予告してたら勝てました?

3日前に日本政府から米政府に
「よくもボクチンの大日本帝国を馬鹿にしてくれたな?戦争で勝負つけてやる!500機の爆撃航空団を送ってやる!」
と伝えていたら真珠湾でどんな感じに終わったと思いますか?

Aベストアンサー

1940年の重慶爆撃の際、その護衛として13機の新規開発されたばかりの零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が襲撃し、アメリカの援助で中国が保持していた27機の戦闘機を全滅させたことはご存知ですか?

当時のアメリカの認識としては、日本には引き込み足の戦闘機はないというものでした。つまり、高速で飛べる戦闘機はなく、しかも2000キロ以上飛行することができる(海外の戦闘機は800キロ程度)なんてありえないと、中国軍の27機が全滅したのにも関わらず、その情報は無視されました。

ですから、500機の爆撃航空団を送るという情報が入っても信じないでしょう。

また、真珠湾攻撃は、敵国であるアメリカに事前にキャッチされていました。

ただ、その際の日本の攻撃について、
①戦艦で来た場合、哨戒機による発見が容易であって、砲撃する前に爆撃機で撃滅できるとされていました。
②潜水艦で来た場合、真珠湾の海底は平均12メートルと浅く、容易に潜水艦を見つけることができますので、来るとしても、攻撃力の弱い特殊潜水艇だとされていました。
③空母で来た場合、爆撃機の投下する魚雷は20メートル以上潜り、海底が12メートルと浅い真珠湾では着底して爆発してしまうので、無理だとされていました。

ですから、これらの点からも信じないでしょう。

よって、結果は変わっていないと思いますよ。

1940年の重慶爆撃の際、その護衛として13機の新規開発されたばかりの零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が襲撃し、アメリカの援助で中国が保持していた27機の戦闘機を全滅させたことはご存知ですか?

当時のアメリカの認識としては、日本には引き込み足の戦闘機はないというものでした。つまり、高速で飛べる戦闘機はなく、しかも2000キロ以上飛行することができる(海外の戦闘機は800キロ程度)なんてありえないと、中国軍の27機が全滅したのにも関わらず、その情報は無視されました。

ですから、500機の爆撃航空団を送...続きを読む

Qもし前田利家があと10年健在だったら徳川の天下になっていたか?

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利家がいても、やはり翌年の関ヶ原の戦いは起きたでしょうか?

Aベストアンサー

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指揮する器量と人望があること、北政所の信任が厚いこと、家康の本領が畿内から遠いこと、さらには傅役として秀頼を擁する「公儀」の正当性を有することから、いかに家康といえども兵力の少ない伏見城にいては大坂城の利家に合戦を仕掛けるのは難しいでしょう。

ただ、利家には野心がなく大博打もしないので、自分から合戦を仕掛けるとは思えない。
秀頼を擁しないという意味で、いざとなれば公儀になれないから、上杉征伐などの無茶振りもできない。
そのため両者にらみ合いの異常な緊張感が続く中、伏見にいては不利な家康が江戸に帰国する。
そのままにらみ合いが数年続いた後、利家が下手に出る外交を行い家康が形の上で帰順する…
そんな展開を想像します。

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利家健在中に合戦にならなければ、利家死去のとき秀頼は15歳前後に成長している。
それから「関ヶ原」になるかどうか…

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指...続きを読む

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宋美齢は親中派のフランクリン・ルーズベルト大統領やその妻
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日中戦争から第二次世界大戦に至るアメリカの対日政策に
大きな影響を与えたといわれる。
(wikより抜粋)

日本は宋三姉妹に負けたようなものだ、と評する
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フランクリン・ルーズベルトはオランダ出身で、「有色人種への差別が格別に強かった」と、ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸で会談した英国のロナルド・キャンベル公使は本国に書き送っている。キャンベルが、この会談の席上、ルーズベルトから打ち明けられたのが「劣等アジア人種」の品種改良計画だった。

「インド系、あるいはユーラシア系とアジア人種を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」

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Aベストアンサー

王の上位者が皇帝。

神聖ローマ帝国の場合は帝国を構成する各国を支配する王などから選挙で選ばれて帝国全体の統治者となったのが皇帝。

>あと、神聖ローマ帝国のオットー1世は『王』ということで良いのですよね。そうすると、皇帝は誰だったのですか?
オットー1世が東フランク王国の王でドイツ帝国の皇帝。

日本で言えば殿様(王)と徳川将軍(皇帝)の様な関係。

Q命懸けの決闘をやるメリットは何ですか?

剣道の試合みたいに防具を着て竹刀で打ち合うならスポーツです。
宮本武蔵が高条件で自分を雇ってくれる王様にアピールするために決闘相手を募るのも分かります。
それ以外です。
相手とあらかじめ打ち合わせして奇跡的な名勝負をやって周囲から賞賛を得ようとするのでなく、勝利したらお金をもらえる状況でもなくて、戦争中でもない、
武器を使わない事を約束した上の殴り合いだったり、ギブアップしたら即座に絶対強者が止めてくれるわけではない、
ギブするときにはもう決定的な重症で助からない可能性も高い刀や剣や銃を使う決闘です。
挑んだり受けるメリットは何ですか?
受けた直後に冷静になって、やっぱりこっちが悪いです負けでいいです御免なさいの実例は歴史上に少ないのでしょうか?

Aベストアンサー

決闘と言うのは、両者が話し合いでは解決できない問題の最終解決方法が決闘です。

「力が強い者は何でも正義と言う倫理」と、「決闘で勝った者がその問題解決を行えるという倫理」との違いは、「力が強い者は何でも正義と言う倫理」は、ルール無用。勝てば何をやってもよいと言う方法で行われ、その組織が存在する限り永遠に紛争は終わりません。どちらかが滅ぶまで続きます。


「決闘で勝った者がその問題解決を行えるという倫理」は、両者が争っている争点の最終解決方法として、両者が合意したルール(その文化圏で慣習的に認められた仁義が基準となる場合が多い。例え「命を掛けた決闘」でも飛び道具や投げナイフは駄目とか。)で決闘を行います。その決闘の後は、その問題解決を行う権利は勝者にあると言うのが決まっただけで、人としての勝敗が決まったわけではなく、その後はこの問題は過去のモノとし、建設的な未来志向で互いの関係を構築する(命を掛けた決闘でも、決闘によって死なれた人の仲間がその報復を行う事は野蛮とする)。

このような目的でやられるのが決闘です。



その合意内容は、その地域の文化的、歴史的な慣習で養われる事が大半です。


「命を懸ける決闘のメリット」ですが、決闘とは個人の問題なので、その状況によりますので漠然とした答えになりますが、「命を懸ける決闘のメリット」は、話し合いでは解決できない、どちらかが死ぬしか問題解決が無い。しかもその殺し方は闇討ち、暗殺などでは駄目で、正々堂々と決闘による勝負が必要である。そのような背景があるからこそ「命を懸ける決闘」を両者ともに合意しているのだと思います。


それで、そのメリットですが、勝者はその問題を解決する事ができます。

決闘と言うのは、両者が話し合いでは解決できない問題の最終解決方法が決闘です。

「力が強い者は何でも正義と言う倫理」と、「決闘で勝った者がその問題解決を行えるという倫理」との違いは、「力が強い者は何でも正義と言う倫理」は、ルール無用。勝てば何をやってもよいと言う方法で行われ、その組織が存在する限り永遠に紛争は終わりません。どちらかが滅ぶまで続きます。


「決闘で勝った者がその問題解決を行えるという倫理」は、両者が争っている争点の最終解決方法として、両者が合意したルール(その文...続きを読む


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