(あ) あらまし:
赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのでは
ありません。

人間が人間を赦すことができない。また 赦さないことができな
い。つまりその能力を持ち合わせていない。のではないでしょう
か。

あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 行為をではなく
人間そのものを赦す権利も資格も ない。のではないでしょうか。

(い) 標語は:

《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から
            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ

(う) 説明のおぎないです。

1. 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められ
る。集団としても 個人それぞれの意志ないし存在関係にもとづ
く。

2. 《赦す・赦さない》は それを表現の自由において口に出
そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。
(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。

3. この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会
的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から
おのれの心のなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の
考えがはたらく領域がある。それとは別に 社会の取り決めもあ
り 一般にそれに従う側面をも持つ)。

4. 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行
為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なさ
れている。(あるか無いかは 他人が・または人間が決められな
い)。

5. (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がな
いような加害行為――たとえば いぢめ――に関してあてはめる
と分かりやすい。

6. ということは結論から言って社会は すでに初めからその
成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして加
害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているとい
うこと。

7. つまり効力とは別に ひとりの人間において・その存在そ
のものにおいて――心に決めた判断をも超えて――社会は対策を
備えていると思われること。個人の内における処理にもとづいて
こそ 社会的な法的処理がなされ得ると想定されているのではな
いか。

8. しかもその・一般に自分のであれ他人のであれ人間の意志
と心とを踏みにじるという不法行為に対して われわれ人間は 
赦す・赦さないといった判断を現実に持つのであるが 《人間を》
赦す・赦さないにはなじまない。

9. もし人間が 意志の行為としての不法行為をではなく そ
うではなく人間そのものをゆるしたり・ゆるさなかったりするこ
とが出来るとするのなら それは おのおの自己の主観の内にお
いて〔のみ〕おこなわれ得てそこで完結している。

☆ この結論は 煮詰まっていず・抽象的で分かりにくいかと思
いますが 検証し みなさんの見解においてさらに展開していた
だけるとさいわいです。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

人それぞれの経験、考え方で色々あると思いますので、私の経験、それから伴う考え方になるのをお許し下さい。

私は太宰治にかなり影響を受け
、死を美学と捉え、死でもって自己を肯定すると考えていました。そんな私を変えたのが、自分のこどもです。私の遺伝子を持ちながら、異なる存在。私の想定を覆す存在。ずっと頭でっかちだった私が変わりました。こどもも一人の人間として育て、尊重しました。以前の死を美学と捉えていた私を、生きろ、必要だと自分の存在を認めてくれました。そんな些細なことだったんです。自己を肯定できるようになったのは。お望みの回答になってないかと思いますが、答えは案外身近にあります。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ううーん。

まづは ご回答をありがとうございます。

そして 《三人目》かどうかの相対的な見方を超える自己肯定と言います
か 自己到来したご自身に成られて よかったですね。

その上でですが おっしゃっている内容がなおまだ分かりづらいように思
います。

はっきり言って こうですか?

わたし(=質問者)は まだ自己を肯定できるようになっていないので
この質問のような《ひとについてのゆるし》の見方を持つのだ。・・・
ということでしょうか?

おそらく わたしの見るところ 次の点に見方の分かれ目があるのではな
いか?

つまり わたしの考えでは:
★ 自己を肯定できるようになっていること
☆ と 《人は人間として 犯罪者である人間の存在をゆるす・ゆるさな
いには馴染まない》と考えることとは 両立し得ますよ。併存できますよ。




次の質問をちょうどいまわたしは掲げています。それを見ていただければ
どういうことか分かると思うのですが。
【Q:《わたしがわたしである》わたしがわたしする】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9673982.html

不案内ですが 字数制限にて。



なお――ちょっと触れるだけにとどめなければなりませんが―― わたし
は 死の美学には到りませんでしたが 萎縮という抵抗の姿勢を――少し
太宰治のごとくにかどうなのか――採らざるを得なかった時期を経て来て
います。

お礼日時:2017/03/20 15:12

自分が、人に必要とされる、または存在価値があると思えるならば、自ずと答えは見えて来るのではないかと思います。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ううーん。何だかむつかしく感じるのですが。

それでも解釈を持とうとするならば 理論と実際とは違うといったこと
なのでしょうか?

つまり 理論としては 趣旨説明の内容が分からないでもないとしても 
実際には別の現実があるのだ。というところなのでしょうか?



★ 自分が、人に必要とされる、または存在価値があると思えるならば
☆ という条件が 理論を超えて実際の現実でありうるのだと。

社会的にすでに事実問題として《自分は 人びとに必要とされており
基本的に言って存在価値がある。また そう自分が自分について思えて
いる》。こうであるならば 不法行為に対してだけではなくその犯人た
る人間じしんについても 《ゆるす・ゆるさない》という意志行為をお
こなうことが出来るし 実際にあり得る・・・という見解でしょうか?



そうですね。もし いまの解釈の線でよいとしての話ですが。

つまり 反論します。

そもそも 人間について:
★ 存在価値がある
☆ か無いかは 分からないし決められない。のではないですか?

もちろん 現象として個人個人に見解があって その有る無しを決めて
いる場合もあるでしょう。しかしそれは 哲学として・理論として受け
容れられますか?

つまり その現実性は 理論を劣ったものとして捉えてよいほどの根拠
には成っているか? 成っていない。のではないでしょうか?



★ 人から必要とされている
☆ かどうか。これは ひょっとすると 案外はっきりと多くの人びと
にとって決まっているぢゃないかと見る場合があるのかも分かりません。

ですが 果たして そうでしょうか?

むろんやはり現象としては 大いにそういう話はあり得ますし 否定も
排除も出来ませんが しかしそれを同じく哲学は・理論として そのま
ま受け容れてよい・・・とは考えられないのではないですか?

つまり 無理です。無理ではなく有理だとなる場合というのは 世の中
から 哲学とか思索にかんする一切のいとなみが 無価値だと見なされ
たときでしょうね。どうでしょうか?

仮りに詭弁を用いるなら:《人から必要とされていない》とすれば そ
のような存在として じつは必要とされている。と見るのが 哲学でし
ょうね。ほとんど証明抜きですが。《関係の絶対性》でしょうか。

お礼日時:2017/03/20 14:35

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q《罪》とは何か? 《赦される》とはどういうことか?

 ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだりを載せています。

 ▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
 36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。

 37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
 38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

 39: イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、

    「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
   どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」

 と思った。
 40: そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
 41: イエスはお話しになった。

    「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百
   デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
 42: 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳
   消しにしてやった。
    二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

 43: シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
   イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
 44: そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。

    「この人を見ないか。
    わたしがあなたの家に入ったとき、
    あなたは足を洗う水もくれなかったが、
    この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
 45:  あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、
    この人はわたしが入って来てから、
    わたしの足に接吻してやまなかった。
 46:  あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、
    この人は足に香油を塗ってくれた。
 47:  だから、言っておく。
     この人が多くの罪を赦されたことは、
     わたしに示した愛の大きさで分かる。
     赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 48: そして、イエスは女に、

     「あなたの罪は赦された」

   と言われた。
 49: 同席の人たちは、

     「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」

   と考え始めた。
 50: イエスは女に、

     「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

   と言われた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これでひとつの完結した話だと思われます。
 さて 問いです。

 1. ここで何が起こったのでしょう?

 2. 罪とは 何でしょう。

 3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
   ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のことだ解かれています。
 ⇒○ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%A5%B3

 4. 《姦淫》とは どういうマチガイでしょう?

 5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・何を赦したのでしょう?

 6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言もしゃべらなかったようだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいにしたりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか?

 7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実となった。のだろうか。

 8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう行為の中身がそうなのか?
  それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように?
  
 9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・その主観の内ですべてが起こっているかに見える。すべては 自作自演の物語なのであろうか。そう見てよいのか?

 10.  ひとは ほかの人とカカワリを持っているのか いないのか。マジワリなどは ないのか? この罪にしろすべては 主観の内なる自己完結することに終わる夢物語であるのか?

 ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだりを載せています。

 ▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
 36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。

 37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
 38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足...続きを読む

Aベストアンサー

これでひとつの完結した話だと思われます。
 さて 問いです。

 1. ここで何が起こったのでしょう?

  A.イエスが女の罪を赦した。

 2. 罪とは 何でしょう。

  A.人間の思考の産物。決まりを造れば従えない者が出る。

 3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
   ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のことだ解かれています。
 ⇒○ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE% …

  A.不明。

 4. 《姦淫》とは どういうマチガイでしょう?

  A.一般的には結婚しない(するつもりのない)男女の性的交わり。邪淫。

 5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・何を赦したのでしょう?

  A.キリスト教的解釈では、罪は元々ない。なので正確には罪もないから赦すも赦さないもないんだけど、勝手に罪を犯したと思っているので、赦す、という表現にした。

 6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言もしゃべらなかったようだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいにしたりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか?

  A.預言者であるイエスさんが来る、と聞いたので、自分の罪を赦してもらおうと思い、そういう行動をしたのではないか。愛のある行動を実際にしたので、イエスは「もういいんだよ」という意味でいったのだと思う。

 7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実となった。のだろうか。

  A.大筋その通りでしょう

 8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう行為の中身がそうなのか?
  それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように?
  
  A.前出ですが、聖書では・・・アダムが深い眠りに入った・・・その後の記述で目覚めたと書かれていないので、すべて夢の中のお話。アダムが見た夢の中で起きた出来事は神様は知る芳もない。何が起ころうと夢である。だからどんなことをしてもある意味罪じゃない。(だからって何をしても良いってわけじゃない)赦すもなにもない。神は寝ているアダムの夢の中身を知らない。できるのは「ゆっくり起こすこと」だけ。

  
 9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・その主観の内ですべてが起こっているかに見える。すべては 自作自演の物語なのであろうか。そう見てよいのか?

  A.そういう見方もある。

 10.  ひとは ほかの人とカカワリを持っているのか いないのか。マジワリなどは ないのか? この罪にしろすべては 主観の内なる自己完結することに終わる夢物語であるのか?

  A.そういう見方もある。非常に的を突いた良いクエスチヨン。

これでひとつの完結した話だと思われます。
 さて 問いです。

 1. ここで何が起こったのでしょう?

  A.イエスが女の罪を赦した。

 2. 罪とは 何でしょう。

  A.人間の思考の産物。決まりを造れば従えない者が出る。

 3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
   ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のことだ解かれています。
 ⇒○ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE% …

  A.不明。

 4. 《姦淫》とは ...続きを読む

Q《罪》とは何なのか? 《赦される》とはいったい どういうことか?

ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだり
の話を載せています。

▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエ
スはその家に入って食事の席に着かれた。

37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事
の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分
の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

39: イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、

    「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
    どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」

  と思った。
40: そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」
と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41: イエスはお話しになった。

    「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百
    デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42:   二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳
    消しにしてやった。
     二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

43: シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
   イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44: そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。

    「この人を見ないか。
    わたしがあなたの家に入ったとき、
    あなたは足を洗う水もくれなかったが、
    この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45:  あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、
    この人はわたしが入って来てから、
    わたしの足に接吻してやまなかった。
46:  あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、
    この人は足に香油を塗ってくれた。
47:  だから、言っておく。
     この人が多くの罪を赦されたことは、
     わたしに示した愛の大きさで分かる。
     赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

48: そして、イエスは女に、

     「あなたの罪は赦された」

   と言われた。
49: 同席の人たちは、

     「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」

   と考え始めた。
50: イエスは女に、

     「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

   と言われた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これでひとつの完結した話だと思われます。
さて 問いです。

1. ここで何が起こったのでしょう?

2. 罪とは 何でしょう。

3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のこと
だ解かれています。
△ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%A5%B3

4. 《姦淫》とは どういうマチガヒでしょう?

5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・
何を赦したのでしょう?

6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言も
しゃべらなかったようなのだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいに
したりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。
――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか? と ふと思う。

7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが
心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実と
なった。のだろうか。

8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう
行為の中身がそうなのか?
それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように?
  
9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・
その主観の内ですべてが起こっているようにも見える。すべては 自作自演の物語なの
であろうかとさえ。知らず知らずのうちの自作自演・・・そう見てよいのか?

10. ひとは ほかの人とカカハリを持っているのか いないのか。マジハリなどは 
ないのか? この罪にしろ何にしろすべては 主観の内にあってあたかも自己完結する
ことに終わる夢物語であるのか?

ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだり
の話を載せています。

▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエ
スはその家に入って食事の席に着かれた。

37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事
の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらそ...続きを読む

Aベストアンサー

人間とは「なぜ生まれてきたのか」分からないまま現世に放りだされた孤児である。このような苦しげな状況にあるのはきっと自分のせいだ、きっとそうに違いないと思った結果、こころに芽を吹いたのがつまり罪である。
 ゆえに罪とは「道=生きてゆく理由、生まれた理由」を知らないことである。
 道を知らないかぎりは罪は許されることはない。ただに自己だけを恃みにしたところで、おのれへの不信感は生涯消えることはなかろう。人間キリストも、人間である以上は罪を背負っていたはずである。
 いやしき女が赦されたのは、自分の従うべき道=キリストを発見したからであり、あつく香油を塗りたくったのもキリストという存在がこの世にあることに感謝したのである。ただしこの女も完全に罪を許されたわけではない。自己が人間でありかぎり罪深いものであり、金貸しに多大な借金を作っていることに変わりないのである。
 この場合、自己への無知=道を知らぬこと=罪であると解釈するのがもっとも適当だろう。
 ただし、この女は聡明である。罪を多く背負うというのは、つまりは自己への無知をよりつよく意識しているということだからである。この世には、肉欲だけを心得て暴利をむさぼる豚のようなものも多い。彼らは罪を意識しない。自分がなぜ生まれてきたのか考えもしない。ゆえに、罪を感じることはない。
 一方、キリストという名の道を見つけて、自己の借金を帳消しにした(された)女は、自己の借財を事前に理解していたと解釈することができる。これはえらいことだ。あなたは他者とのかかわりを云々されているが、それは二の次である。自己だけで道を発見できればそれでもいい、他者が必要であるのならばそれでもいい、どちらにせよ、信仰という生活を見つけだし、おのれの生きる道を見つけ出したこの女は、偉大である。ゆえに赦されているのである。ただ赦されているという安心感は慢心を呼び起こすのだが。無限否定。

人間とは「なぜ生まれてきたのか」分からないまま現世に放りだされた孤児である。このような苦しげな状況にあるのはきっと自分のせいだ、きっとそうに違いないと思った結果、こころに芽を吹いたのがつまり罪である。
 ゆえに罪とは「道=生きてゆく理由、生まれた理由」を知らないことである。
 道を知らないかぎりは罪は許されることはない。ただに自己だけを恃みにしたところで、おのれへの不信感は生涯消えることはなかろう。人間キリストも、人間である以上は罪を背負っていたはずである。
 いやしき女が赦...続きを読む

Q《ゆづりあひ》は 《力への意志》を凌駕するか?

 《ゆづりあひ》は 《力への意志》を凌駕するか?

 (α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。

 (α‐1)  ユヅリアヒは 人間力である。

 これを検証したい。というのが この問いです。


 神崎繁によると ヨーロッパでは――ヨーロッパでも―― チカラを能動・受動のふたつの側面に分けて捉えたと言います。

 ○ 神崎繁:アリストテレスの子供たち――ヘーゲル・マルクス・ハイデガー―― in 神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編著:『西洋哲学史 III 《ポスト・モダン》のまえに』 2012  によります。

 次のように 《ちから》の内容・分析が捉えられています。かんたんに引いておきます。

 (β) プラトン『ソフィスト』:《働きかける力( dynamis tou poiein もしくは dynamis energetike, potentia activa )》と
  《働きかけられる力( dynamis tou paschein もしくは dynamis pathetike, potentia passiva )》

 ・このうち後者を承けての系譜:
 (γ) アリストテレス『形而上学』第九巻:《働きを受ける力( dynamis tou pathein )》
    ( pathein = paschein )

 ・ただちに時間を飛びますが 
 (δ) コナトゥス という概念をめぐる主題の取り方もあるようです。

 (ε) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》
     =邦訳:《担いの実り豊かさ》

 ・ちなみにこのとき 神につなげる見方も出されているとか。
 (ζ) レヰナス:《絶対的な受動性》をさらに想定しつつ:
     《受容性( réceptivité )ならざる純粋な受動性( passivité )》
     《いかなる受動性よりも受動的な受動性》

 


 このとき
 (α‐2) ユヅルは どういう人間の持つチカラでありその発揮であるか?

 を解明したい。
 そのための事例をふたつ提出します。

 (α‐3) ▲(ヰキぺ:葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A

 天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とした。
 そのため、何人かの神を出雲に使わした。
 大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ オホクニヌシは スサノヲの子孫です。そのイヅモの国を アマテラスの国にゆづりました。
 このユヅルちからは

   (δ) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》
       =邦訳:《担いの実り豊かさ》

 というチカラではないのか? 

          *

 (α‐4) ○ オホケ・ヲケ兄弟のかたき討ちの物語 ~~~~~
  昔昔の話ですが。

  その昔 やまとの国では 市長(もしくは国王)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広げられていました。
 次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケルによって 暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子たちは 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて 身を長らえることにしました。

 ところが オシハの筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ ともに 続いて 首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。

 雄略ワカタケルは もう死んでいました。
 弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で そのみづからに首長の位を譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せと指示しました。
 兄の仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して 戻ると その旨を 伝えました。弟も これを了承しました。

 という話です。

 後日談も添えます。
 暗殺された野原の近くに 或る老婆(置き目の媼(おうな))が住んでいて じつは 暗殺の現場と その後 イチノヘノオシハが埋められるところを 見ていて その場所を覚えていたそうです。
 じっさい 果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさ。
 ▲(ヰキぺ:顕宗(ヲケ)天皇)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AE%97%E5%A4%A9%E7%9A%87
 ~~~~~~~~~~~~~~

 必ずしも定義づけも理論化もしていないのですが:

  (α‐1‐1)  ユヅリアヒは 人間力ではないか?

 自由なご見解をお寄せください。

 《ゆづりあひ》は 《力への意志》を凌駕するか?

 (α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。

 (α‐1)  ユヅリアヒは 人間力である。

 これを検証したい。というのが この問いです。


 神崎繁によると ヨーロッパでは――ヨーロッパでも―― チカラを能動・受動のふたつの側面に分けて捉えたと言います。

 ○ 神崎繁:アリストテレスの子供たち――ヘーゲル・マルクス・ハイデガー―― in 神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編著:『西洋哲学史 III 《ポスト・モダン》のまえに』 2012  によ...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんはです。
この問題をどのように考えたらよいのか、手がかりがみつからないので、
まず、眠り猫の《譲り合い》についての理系的な考えをご紹介します。

1 無益な争いを避ける説
 動物界においては、争いによって身体が傷つくことは、その個体の生死に関わる。それを防ぐため

2 見返り・打算説
 「今回はお前に譲ってやったから、次回は俺が」と見返りを期待するタイプ
 チンパンジーなどでは、ボス的な存在がみずからの地位保全のために、序列が低いオスのチンパンジーに食べ物などを与えることが知られている
 要するに、give and take!!

3 共感由来説
 人間は、他人の喜怒哀楽といった心的状態や心的空間を共有できる能力を有している。他人が喜んでいるのを見ると、理由は不明であるけれど、なぜか自分も幸せな気分になったりする。悲しみなどの感情についても同様なことが言える。こうした能力が大脳。もしくは心の機能の一つとして備わっている。モノなどを与える、譲り合うという行為は、こうした心の作用に由来する

眠り猫による、《与える》、《譲り合う》心、行為の分析です。
もちろん、母親が自身の子供にモノなどを与えるといった本能的なものや、教育・制度・宗教的ドグマなどによる自発意思による寄進・お布施などという《簒奪型?》のものも考えられます。
母親から子供へのモノなどの供給は、動物的なものに由来しますし、親から子供へと一方的なものであり、また、適応範囲が親と子供の間と狭いので除外しました。
後者についても、あまりに人工的・制度的なものなので、除外しました。

この三点の見方から、大国主の国譲りを見てみます。
一見すると、1の無益な争いを避ける類型に見えますが、大国主は国譲りの代わりに、自身が奉られる壮大な社を要求しています。この取引がそれに見合うものかどうかは疑わしいですが、
2の《give and take》の関係が成立してはいませんか。
個人的には、この国譲りに、3の共感は、まったく感じられません。
さらに、古事記の記述を見る限りにおいて、兄神の悪だくみによって殺されるなど、大国主は非常に弱い神です。心やさしい神かもしれませんが、戦闘・武力という点においては、非常に弱い。だから、剣・武力そのもの象徴化であるタケミカヅチに屈せざるを得なかった。
ここは、そう読むべきなのではないでしょうか。
つまり、大国主は、《力への意志》の前に屈し、国を《譲った》となりましませんか。


問題は、オケ・ヲケbrothers間の《譲り合い》です。
bragelonneさんのように素直でなく、
屈折した一面を有する眠り猫は、この物語に中国古典と儒教の影響と同時に何か政治的なものが感じられてなりません。

父親と兄の仇をとるために、墓を暴き、死者に鞭を打った伍子胥(ごししょ)の伝説をご存知でしょうか。《死屍に鞭打つ》、《臥薪嘗胆》などの有名な格言が生まれた伝説です。

 伍子胥
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8D%E5%AD%90%E8%83%A5

平王 → 雄略天皇
兄  → オケ
伍子胥→ ヲケ
司馬遷の史記によると、伍子胥の兄は平王によって殺されてしまいますが、儒教的な思想の持ち主でオケに似ています。
それに対して、伍子胥は情熱と信念の人。己れの信じる正義のためならば、儒教的な道徳など何のその。人に何と陰口を叩かれようと、復讐はしっかりと遂げる。
実は、ヲケもそうなんですよ。
古事記には、
オケ・ヲケborthersが都から逃げるとき、豚飼いの老人に大切な食料を奪われてしまいます。その時、二人は、「食料は惜しくないけれど、お前さんはダレよ」とその老人の名前を聞き出します。そして、ヲケは天皇に即位すると、この老人を見つけ出し、殺してしまいます。それだけで飽き足らず、その一族の人間すべての膝の筋を切って、しっかりと復讐を遂げる
というエピソードが載っています。
このエピソードからは、《譲り合い》の精神などはヒトカケラもみいだすことができません。弱かったから食料を奪われた。そして、天皇になり、力を得たから復讐をするという《弱肉強食》の掟があるだけです。
ここにおいても、《譲り合い》は《力への意志》、《権力への意志》に屈してはいるのではないでしょうか。

もっとも、オケとヲケの間では、天皇への即位に関して《譲り合い》が行われています。これが1、2、3のどの類型に該当するのか、眠り猫は、判断を付けかねます。
オケ・ヲケの神話を見るかぎりにおいて、お兄さんであるオケは結構、アタマが切れますよね。そして、弟のヲケの激しやすい性格を誰よりも知っていた。それゆえに、自分が天皇の座に即位したならば、兄弟間で争いが起きることを予想していたかもしれませんね。

こんばんはです。
この問題をどのように考えたらよいのか、手がかりがみつからないので、
まず、眠り猫の《譲り合い》についての理系的な考えをご紹介します。

1 無益な争いを避ける説
 動物界においては、争いによって身体が傷つくことは、その個体の生死に関わる。それを防ぐため

2 見返り・打算説
 「今回はお前に譲ってやったから、次回は俺が」と見返りを期待するタイプ
 チンパンジーなどでは、ボス的な存在がみずからの地位保全のために、序列が低いオスのチンパンジーに食べ物などを与えることが...続きを読む

Q《ゆづりあひ》のいきほひは 《力への意志》を凌駕するか?

(α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。

(α‐1)  ユヅリアヒは 人間力である。

これを検証したい。というのが この問いです。


神崎繁によると ヨーロッパでは――ヨーロッパでも―― チカラを能動・受動のふたつの側面
に分けて捉えたと言います。

○ 神崎繁:アリストテレスの子供たち――ヘーゲル・マルクス・ハイデガー―― in 神崎繁・
熊野純彦・鈴木泉編著:『西洋哲学史 III 《ポスト・モダン》のまえに』 2012  
によりますと:

次のように 《ちから》の内容・分析が捉えられています。かんたんに引いておきます。

(β) プラトン『ソフィスト』:
  《働きかける力( dynamis tou poiein ; dynamis energetike, potentia activa )》
 と
 《働きかけられる力( dynamis tou paschein ; dynamis pathetike, potentia passiva )》

 
このうち後者を承けての系譜:
 
(γ) アリストテレス『形而上学』第九巻:
   《働きを受ける力( dynamis tou pathein )》
     ( pathein = paschein )

ただちに時間を飛びますが:
 
(δ) コナトゥス という概念をめぐる主題の取り方もあるようです。

(ε) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》
        =邦訳:《担いの実り豊かさ》

ちなみにこのとき 神につなげる見方も出されているとか。

(ζ) レヰナス:《絶対的な受動性》をさらに想定しつつ:
     《受容性( réceptivité )ならざる純粋な受動性( passivité )》
     《いかなる受動性よりも受動的な受動性》

 


このとき:
(α‐2) ユヅルは どういう人間の持つチカラでありその発揮であるか?

を解明したい。
そのための事例をひとつ提出します。

(α‐3) ▲(ヰキぺ:葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A

§ 1  あらすじ
§ 1.1 古事記

天照大御神(アマテラスオホミカミ)ら高天原(タカマノハラ)にいた神々(天津神:アマツ
カミ)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とした。
そのため、何人かの神を出雲に使わした。
大國主神(オホクニヌシノカミ)の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみ
なかた)のもとに天津神である建御雷神(タケミカヅチノカミ)が降る(*)と、大国主神も自
身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。

(* いくらか編集しました)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ オホクニヌシは スサノヲの子孫です。そのイヅモの国を アマテラスの国にゆづりまし
た。このユヅルちからは:

(δ) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》
       =邦訳:《担いの実り豊かさ》

というチカラではないのか?

(α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。

(α‐1)  ユヅリアヒは 人間力である。

これを検証したい。というのが この問いです。


神崎繁によると ヨーロッパでは――ヨーロッパでも―― チカラを能動・受動のふたつの側面
に分けて捉えたと言います。

○ 神崎繁:アリストテレスの子供たち――ヘーゲル・マルクス・ハイデガー―― in 神崎繁・
熊野純彦・鈴木泉編著:『西洋哲学史 III 《ポスト・モダン》のまえに』 2012  
によりますと:

次のように 《ちから》の内容・分...続きを読む

Aベストアンサー

「同じ人間同士として協調したいという基本的な気持ちが
 まずは譲り合いという表出になる。

 それがうまくいかないときに力比べの必要性から
 力への意志が生まれる。

 さらにその力比べの過程を経る中で
 仲間内の協調を優先しようとするところに
 対外的に排他的な侵略的ベクトルが生じる。

 そして協調性を発揮するための懐の深さは
 ‘豊かさ‘によって左右される。

 つまり豊かであれば協調性の表出として
 譲り合いの精神を発揮しやすくなる。
 それは争いとは逆の平和な世の中の実現へとつながる。

 豊かさとは限界の越えにくさ。」

こんな風に考えてみました。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

おすすめ情報