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(あ) あらまし:
赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのでは
ありません。

人間が人間を赦すことができない。また 赦さないことができな
い。つまりその能力を持ち合わせていない。のではないでしょう
か。

あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 行為をではなく
人間そのものを赦す権利も資格も ない。のではないでしょうか。

(い) 標語は:

《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から
            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ

(う) 説明のおぎないです。

1. 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められ
る。集団としても 個人それぞれの意志ないし存在関係にもとづ
く。

2. 《赦す・赦さない》は それを表現の自由において口に出
そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。
(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。

3. この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会
的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から
おのれの心のなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の
考えがはたらく領域がある。それとは別に 社会の取り決めもあ
り 一般にそれに従う側面をも持つ)。

4. 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行
為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なさ
れている。(あるか無いかは 他人が・または人間が決められな
い)。

5. (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がな
いような加害行為――たとえば いぢめ――に関してあてはめる
と分かりやすい。

6. ということは結論から言って社会は すでに初めからその
成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして加
害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているとい
うこと。

7. つまり効力とは別に ひとりの人間において・その存在そ
のものにおいて――心に決めた判断をも超えて――社会は対策を
備えていると思われること。個人の内における処理にもとづいて
こそ 社会的な法的処理がなされ得ると想定されているのではな
いか。

8. しかもその・一般に自分のであれ他人のであれ人間の意志
と心とを踏みにじるという不法行為に対して われわれ人間は 
赦す・赦さないといった判断を現実に持つのであるが 《人間を》
赦す・赦さないにはなじまない。

9. もし人間が 意志の行為としての不法行為をではなく そ
うではなく人間そのものをゆるしたり・ゆるさなかったりするこ
とが出来るとするのなら それは おのおの自己の主観の内にお
いて〔のみ〕おこなわれ得てそこで完結している。

☆ この結論は 煮詰まっていず・抽象的で分かりにくいかと思
いますが 検証し みなさんの見解においてさらに展開していた
だけるとさいわいです。

A 回答 (2件)

人それぞれの経験、考え方で色々あると思いますので、私の経験、それから伴う考え方になるのをお許し下さい。

私は太宰治にかなり影響を受け
、死を美学と捉え、死でもって自己を肯定すると考えていました。そんな私を変えたのが、自分のこどもです。私の遺伝子を持ちながら、異なる存在。私の想定を覆す存在。ずっと頭でっかちだった私が変わりました。こどもも一人の人間として育て、尊重しました。以前の死を美学と捉えていた私を、生きろ、必要だと自分の存在を認めてくれました。そんな些細なことだったんです。自己を肯定できるようになったのは。お望みの回答になってないかと思いますが、答えは案外身近にあります。
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この回答へのお礼

ううーん。

まづは ご回答をありがとうございます。

そして 《三人目》かどうかの相対的な見方を超える自己肯定と言います
か 自己到来したご自身に成られて よかったですね。

その上でですが おっしゃっている内容がなおまだ分かりづらいように思
います。

はっきり言って こうですか?

わたし(=質問者)は まだ自己を肯定できるようになっていないので
この質問のような《ひとについてのゆるし》の見方を持つのだ。・・・
ということでしょうか?

おそらく わたしの見るところ 次の点に見方の分かれ目があるのではな
いか?

つまり わたしの考えでは:
★ 自己を肯定できるようになっていること
☆ と 《人は人間として 犯罪者である人間の存在をゆるす・ゆるさな
いには馴染まない》と考えることとは 両立し得ますよ。併存できますよ。




次の質問をちょうどいまわたしは掲げています。それを見ていただければ
どういうことか分かると思うのですが。
【Q:《わたしがわたしである》わたしがわたしする】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9673982.html

不案内ですが 字数制限にて。



なお――ちょっと触れるだけにとどめなければなりませんが―― わたし
は 死の美学には到りませんでしたが 萎縮という抵抗の姿勢を――少し
太宰治のごとくにかどうなのか――採らざるを得なかった時期を経て来て
います。

お礼日時:2017/03/20 15:12

自分が、人に必要とされる、または存在価値があると思えるならば、自ずと答えは見えて来るのではないかと思います。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ううーん。何だかむつかしく感じるのですが。

それでも解釈を持とうとするならば 理論と実際とは違うといったこと
なのでしょうか?

つまり 理論としては 趣旨説明の内容が分からないでもないとしても 
実際には別の現実があるのだ。というところなのでしょうか?



★ 自分が、人に必要とされる、または存在価値があると思えるならば
☆ という条件が 理論を超えて実際の現実でありうるのだと。

社会的にすでに事実問題として《自分は 人びとに必要とされており
基本的に言って存在価値がある。また そう自分が自分について思えて
いる》。こうであるならば 不法行為に対してだけではなくその犯人た
る人間じしんについても 《ゆるす・ゆるさない》という意志行為をお
こなうことが出来るし 実際にあり得る・・・という見解でしょうか?



そうですね。もし いまの解釈の線でよいとしての話ですが。

つまり 反論します。

そもそも 人間について:
★ 存在価値がある
☆ か無いかは 分からないし決められない。のではないですか?

もちろん 現象として個人個人に見解があって その有る無しを決めて
いる場合もあるでしょう。しかしそれは 哲学として・理論として受け
容れられますか?

つまり その現実性は 理論を劣ったものとして捉えてよいほどの根拠
には成っているか? 成っていない。のではないでしょうか?



★ 人から必要とされている
☆ かどうか。これは ひょっとすると 案外はっきりと多くの人びと
にとって決まっているぢゃないかと見る場合があるのかも分かりません。

ですが 果たして そうでしょうか?

むろんやはり現象としては 大いにそういう話はあり得ますし 否定も
排除も出来ませんが しかしそれを同じく哲学は・理論として そのま
ま受け容れてよい・・・とは考えられないのではないですか?

つまり 無理です。無理ではなく有理だとなる場合というのは 世の中
から 哲学とか思索にかんする一切のいとなみが 無価値だと見なされ
たときでしょうね。どうでしょうか?

仮りに詭弁を用いるなら:《人から必要とされていない》とすれば そ
のような存在として じつは必要とされている。と見るのが 哲学でし
ょうね。ほとんど証明抜きですが。《関係の絶対性》でしょうか。

お礼日時:2017/03/20 14:35

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