よく受験戦争といいますが、戦争という言葉を使うくらい大変なものでしょうか?
学生は勉強するものであり、その上で様々な活動をするものと思ってました。
さすがに幼稚園とかの”お受験”はどうだろうと思いますが・・・。
私は今大学生ですが、私の感覚では受験のとき(高校を含めて)
戦争というような感覚は無かったように思います。
戦争をするがごとく勉強していた人もいなかったように思います。
この質問には関係ないコトですけど、ゆとり教育だって絶対におかしいと思います。
皆さんはどうお考えでしょうか?

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A 回答 (10件)

僕は、無理に目標(進学、就職)を与える事がいけないと思います。

戦争になるかどうかは個人の能力と希望によりますが、大半は大変でもないでしょう。中学生は高校生(学生)になることを目標として与えられます。学校でよかった事は友達ができる事ですが、200人の学年で友達は何人いましたか?同じ学校に友達は何人いましたか?先生と呼べる先生は何人いましたか?僕は大切な友達15人と先生0です。(中学)(ネタになる教師はいますが)今思うと、40人の学校で15人の友達、もしくは、15人の学校で15人の友達は無理だったのかなぁと思います。今の授業時間に対して授業時間半分、授業内容選択、学校拘束時間なし、他学校との交流多数。高校進学率40%、高校を通らず大学に行く人多数。中卒生多数。小学校授業時間半分。小学校改善点、山ほど。
 重要な点はアレですよ、学校が休みになると大半の人が喜びます。そして、学校が好きな人は休みでも学校にきます。あと、運動部のあり方がかなりひどい。あんなのは、中国の纏足(てんそく)むりやり小さい靴はかして、骨格を変えてしまうようなやり方です。
 
 愚痴:ぼくはそんな教育を受けて怒ってます。高専を中退しましたが、親はこうです。「どうやって生きていくんだ」僕はこう考えます「社会のあり方も変わる、お金のあり方も変わる、その点は問題ない。今すぐにでもあなたが、僕が見えなくても見守ると言う「態度」をとってくれるならば。」
 一世代で思考は大きく「進化」するものです。現在の社会は子どもに干渉しすぎです。ゆとり教育より「開放教育」にするべきだと思います。そうしないと稚拙さが大人になっても残り、そのため我欲的で、自立心のない、決まった社会でしか生きてゆけない、受容力の小さい、社会性の低い社会人を生み出します。はっきり「最近の大人は心が狭い。」あれで、よく教育ゴチャゴチャいいますね、まずみんなで背広着るのはやめなさい、人は外見で仕事をするんじゃありません。そんなものがないと人と向き会えんのですか?礼儀?あなたたちのは体裁であって礼ではありません。心の狭いもの同士だから、ほっとくとそわそわして仕方ないから、あんなものにはめられるんです。あなたたちの忘年会だとか、低俗な習慣を貫く態度というのは、皆で同じ流行を追う若者よりひどいです。なぜならあなたたちのは流れもしてないからだ。何故か考えますか?もっといろんな人と付き合える心をみにつけなさい。今までした事ないことをする努力をしなさい。クーラーがんがんつけるな、若い子をエロイ目で見るな!なにがモラルだ。社会を引っ張っているのはほんの一握りじゃァないか、何故か考えなさい、あなたたちは未熟なのです。あなたが50歳なら20歳のわたしはあなたより100年はなれた思考です。時代も流れているからです。そんな思考じゃぁ50年のrealityも「カラカラに渇いたダニの死骸」程度の役割しか果たしません。喘息ですワ。
生活に困らなかったら今の仕事を続けますか?お金のない生活は考えられますか?インターネット?そんなものは別にどうでもいいです。適応するんが大事なんじゃないんです。認知する事が大切です。わからなぁ~い♪ですまさない。
 家族のない生活は考えられますか?子どもが先にいなくなる事だって十二分に考えられます。「家族のため一点張り」にならないように。その事で自分を安定させようとしない事!心配しなくても親でなくなることはありません。あとぎこちなく太って、昼間からカラオケいって、姿見たら生活が一発でわかるような臭気がでてます。はっきり言ってやめてくれって感じです。理想だけ持っててもあかんのです。妄想か知らんけど、、、。ええかげんかんべんしてください。子育てするのにいやいやな顔しないで下さい。家事?もっとよく考えなさい。働きゃいいのと違います。
目細くしてわらって、ほんとに見えてるんですか?
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受験戦争…


おそらく今はそこまで大変ではないと思いますが、
バブルの頃はかなり大変だったようです。

これもマスコミ等が使う言葉なので
あまり気にしなくていいと思います。
受験戦争=大学に入るのに必死な事
というイメージがわくための言葉だと思っています。

よく芸能人の恋愛に「熱愛」
とうい言葉が書かれます。
本当に熱愛かどうかなんてわからないけれど
熱愛というとわかりやすいんですよ。

言葉の定義が変だなぁというのはありますね。
けれどわかりやすいという事で、許してあげましょう。

ちなみにゆとり教育、おかしいですね。
私も反対派です。
食わず嫌いはどうかなぁと思いますし、
食べてみたらおいしいじゃん!!というのもあります。
あとは嫌いな科目、つまり嫌な科目もこなす努力は必要ですね。
いずれ雑学として身に付くわけだから、大切だと思います。
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勉強させたいんだと思います


そういっとけば 勉強させるだろうって
親や先生やメディアのいろいろな言葉を聞いてると
そう思います
ゆとり教育って言うのも その親とかが 騒ぎ過ぎて
親たちが今度はそれを政府のせいにしたから出した
形だけにちょこちょこって何かした
痛み止めみたいな物だと思います
でも 親などに受験戦争の思想は根付いていて 政府的にウハウハでしょ
でも 子供は情報の反乱に振り惑わされて 学力低下は叫ばれてるけどね
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戦争という感覚もなく、自分の興味の赴くまま、


自分の自主性に委ねながら勉強が出来てきた人は
とても幸せだと思いますし、また、いい勉強をしたのだと
思います。
学校で色々な事を知りたい。たくさんの発見をしたい。
そういう期待はきっと誰しもが抱くとは思います。
ですけど、そういう期待に応えてあげることも出来ず、
もしくはそういう方向性の追求を視野から外し、
「エリートと呼ばれる為」の号令のもと、訳なんて
分からずともとにかく他人よりも一歩二歩前に出ないと
という勉強のあり方は、私から言わせてもらえば「戦争」以外の
何者でもありません。そういう事も必要な事ではありますけど、
何を求めてそこに向うのかすら見つめさせる事が出来ないのでは、
戦場で善悪の判断もさせずに「ただ殺しときゃいんだ!」というのと
私は大差を感じません。
そこで「ゆとり教育」なんですよね。本当なら・・・。
でも、ゆとり教育という言葉が間違っているのではないと思うんです。
その理解に問題があります。「多すぎ単元を少なく削減する」必要性が
どこにあるのでしょうか? 「少なくして生まれた時間」は何に
使えば良いのでしょうか? そこの方針が全く抜け落ちている
気がしてなりません。そのようにお感じになりませんか?
何故円周率は3でなければならないのか。
出来たゆとりで、何故円周率は3.14・・・となるのか、それを
みんなで考えていく為に「ゆとり教育」はあるべきだったんです。
私は「おまえらはバカばっかりだからこんな事ぐらいしか覚えられ
ねえだろう。」と言い放っている行為に見えて、腹が立ちます。
彼らがどれほど高次元の疑問を抱くのか、どれほど大変なテーマを
知りたがっているのか、現場を知らなすぎるにも程があります。

そういう曖昧な方針の下で、ただ負い抜け追い越せを演じる子供達、
今はこれしか出来ないんだと情熱を押し殺して「言いから覚えろ!」
に徹しつづける先生方、決して本意ではないのに人を蹴落とす人間に
「今だけはなって欲しい」と願ってしまう親御さん方、
こういう環境の中で推し進められる今の受験のあり方は、やはり戦争
と呼べる一面があるようにも思えるんです。 どの様にお感じですか?
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 私はあまり両親から勉強しろとは言われないで育ちました。

普通に勉強し、普通に受験したので受験戦争なんて感覚はありませんでした。塾には行ったことはありますが、予備校には行ったことがありません。私にとって高校までの勉強は、わからないことがあるとくやしいので勉強していたという感じです。ですので他人との競争という感覚はまったくありませんでした。点数を取るために勉強するわけじゃないのですから。でもそうなってしまった人にとっては戦争だったかもしれません。
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あなたの考える学校の存在理由とは?他の価値観の人とはどのようなギャップがあると思いますか?




学校の存在理由は二つあると思います。
1:授業・講義などを受け、勉強するところである。
2:同世代が集まるコミュニティーである。

1については以前からおっしゃっていましたが、2に関しても広く認められています。
部活動やサークル活動はどうでしょう。大抵の学校では推奨されています。授業の、言い換えれば受験のための活動でしょうか?大学受験自体には遠足は必要ないです。

>学校を勉強以外の面で”自分の可能性を見つける場所”として考えている人たち

というのは2番目の役割に期待しているのでしょう。が、もしかして1番目を軽視する逃げの姿勢にも見えているのかもしれません。でも、そう言いながらもそれなりに単位をとって卒業していく学生は1番目を軽くは見ていないことになりませんか?本当に軽く見ている人間は確実に留年もしくは中退していきます。それが良い結果になるか悪い結果になるかは本人次第かと思っています。
で、僕自身に関しては、いろんな人に迷惑をかけ良いことも悪いこともたくさんあったけど、おおむね有意義な留年生活を楽しんでいる、っていうところです。たまには「こんなんでいいのかな」って考えたりもしますが。

>伝わりにくい文面で申し訳無いです。

気になさらないでください。こういった問題は、議論の中で質問者や回答者の意図がわかればいいだけの話です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
お礼、遅くなってすいません!
学校の存在理由に関しては、難しいですよね。
自分または教師や他人が、こうだ、と思っても絶対的に正しくないと思います。
ただ、ある程度は共通認識があってもいいと思います。
私が考えるに、まず勉強あっての学校だと思います。
その上で課外活動をしたり、同世代が集まるコミュニティーになったりするものだと。
つまり存在理由は、知識的・体力(技術)的な向上を目指す場ではないかと考えました。

社会適応能力や精神的な向上を期待するなら、学校(授業)で教わるものではなくて、それ以外の場所でもいいハズです。

以前(2年以上前)友達と受験戦争や勉強について口論したことがあり、それでここで色んな人の回答をみてみようと思ったわけです。
特に、昔学生であった方々の意見は貴重だと思います。

お礼日時:2001/07/02 16:34

大学在学中です。

留年もしっかりたっぷり(?)しています。
受験勉強は、親からやれと怒られながらもほとんどしていませんでした。

学生の本分は勉強すること、とよく聞きますが、それを望んで学生をしている人はどれだけいるでしょうか?すべての人が勉強がしたいから高校に行っていますか?逆に、すべての中学生や高校生に自分の進みたい道を決めさせますか?
これは現実的ではありませんね。なんせ、大学を卒業してもなかなか決めれるもんじゃありません。

「お受験」に関しては、マスコミがおかしく取り上げただけなような気がしますが、どうでしょう。地方に住んでいるせいもありますが、実際にしている人は聞いたことがありません。

戦争かどうかなんていうのは、実は当の本人にはまったく関係ないことだったりしませんか?違うと思い他の道に行く人は戦争には巻き込まれなかったと思い、つらいがやらねばならないと思う人は戦争と感じないのでは。「受験戦争」の無意味さは、今の僕らの世代にはすでにわかっているように思います。
でも、留年生には「巻き込まれた」と感じてしまう人は多いかもしれません。実際にどうかは別ですが。(笑)

今一つ質問の中心が見えにくくはありましたが、教育について真面目に考えていらっしゃることはわかります。教育について考えるにはまず、自分自身が他の人の色々な考え方にふれていかないとだめかな、と漠然と感じていますが。

あー、算数で電卓を使うのは、ありゃいけません。算数は数学的考え方を教えるためにあるわけで、電卓なんてのは教えられなくても誰でも使えるように作ってあるもんです。あんなのは時間の無駄です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
a1107rさんのおっしゃるとうり、すべての人が勉強したいからという理由で
学校に行っているわけないのは経験上わかります。
学校を勉強以外の面で”自分の可能性を見つける場所”として
考えている人たちが沢山いるのもわかります。
ただ、私の考える学校の存在理由と、かなり価値観のギャップが激しい人が
いるので、この場で質問してみようと思いました。
伝わりにくい文面で申し訳無いです。
わかっているつもりでも文章にすると指が止まってしまう。。。

もうすこし、色々な人の質問や回答、そしてHPを見てまわって
自分の考えをきちんと伝えられるようになってきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/30 00:09

ぼくはもう定年に近づいている中年なんですが、ぼくの中学入学から受験は結構激しかったですよ。

とくにぼくは田舎の小学生だったので、何人かが都会の私立に入るために、5年生ぐらいから小学校の良い先生にお願いして、5-6人で夜勉強しました。都会にもまだ塾がなかった頃です。でも”戦争”という雰囲気は大学入学からですね。
ぼくの子供は、中学入学から”戦争”でしたが・・・。

ところで、よく受験戦争が悪者にされますが、アメリカでもハーバード大学を狙う人は、予備校に行ってますよ。ただ違うのは、一つだけ何でも良いから自分の得意なもので受験してもよいことです。たとえばコンピュータとか日本語とか、受験科目になくてもよいことです。

それから欧米では、エリートを育てることを非常に意識してます。ハーバードもそうですが、オックスフォードとかソルボンヌとか。日本もぼくの親父の時代(明治生まれ)には、旧制高校とか帝国大学があって、その卒業生は”エリート”だったそうですよ。それに較べいまの日本はエリートが育たなくなってしまって、それが首相でも平凡になってしまった原因だという人がいます。とくに留学した人はそう感じるようです。

なにが言いたいかといいますと、受験は昔も今も、外国でもあるのに、なぜ日本では本当の傑出した「エリート」が輩出しないかということなんです。特に今は受験”戦争”と言われるほど激しいのに、ますますエリートが輩出しなくなっている。これは最低ですよね。受験を改革することが目的でなくて、本物のエリートが生まれるような教育改革が必要なんじゃないでしょうか。

感想になってしまってすいません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私は、受験戦争はおおいに奨励されるべきだと思います。
それにしても小学生からっていうのはすごいですね!
昔の学生と今の学生を比較したら、もしかしたら学力に大変なギャップがあるのかもしれないですね。

エリート、昔にさかのぼればのぼるほど、ものすごい人が沢山いますよね。
哲学者でありながら数学者とか物理学者とか・・・。
私は若輩者でエリートでもないのであまり大きなコトはいえません。
でも、まさに教育改革は必要だと思っています。
ゆとり教育なんて教育機関の方々は一体何を考えているんでしょうか。

お礼日時:2001/06/28 19:09

こんにちは。


私の受験戦争?は、まさに戦争と呼べる?ものでした。
クラスメートとはテストの成績での競争相手であり、友人とはけ落とす対象でしかなかったような気がします。落後者も沢山いたし退学する人もいました。

学生は勉強が仕事・・・は私も同感です。しかし、丸暗記が仕事じゃないと思います。私たちの頃から今日に至るまで、勉強=丸暗記みたいな状態なのはとても悲しい事だと思います。かく言う私は、丸暗記が大キライだし出来なかったので、何とかの法則とかも必ず色々思考を重ねて自分で導き出すという勉強法を貫き、授業の早さに付いていけず落後しましたけど。

そういう意味で、今の学生は本来の仕事をさせてもらえてない存在だと思います。ある意味、教育行政を司る大人たちのおもちゃにされてるんじゃないか?って邪推しちゃいますね。

この回答への補足

すいません、お礼の場所にお礼を書くのをわすれてました。(^^;
補足の場所になっちゃいますが、すいません。
回答ありがとうざいます。

補足日時:2001/06/28 18:54
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この回答へのお礼

友人は蹴落とす対象・・・・・すごいですね!
少なくとも私の中・高校時代にはそのようなことはなかったように思います。
回答ありがとうございます。
私は、高校以上になると、落後者がバシバシでてくるのが
普通なのではないかと考えてます。
高校以上は本来、勉強したい人がいくべき場所ですから。
退学者は・・・仕方ないことなんでしょうか。
私なら一度入学したら石にかじりついても卒業しようとしますが。。。。。

丸暗記の件は私もそう思います!
ただ、丸暗記ではないですけど、暗記しなければならない個所はでてきますよね。
まあ考え方さえわかっていれば、暗記する事項は大抵参考書みることで解決しますからね。(周期律表とか。。)

お礼日時:2001/06/28 18:50

こんにちわ。


私は中学受験の為に塾通いを小学校4年からしていました。
「受験戦争」という言葉が似合いそうな体制での勉強でしたね。
高校受験や大学受験では個人の尊重のような物がしっかりと存在していますが、中学や小学校の受験では受験する学校を決めてるのは親だったりとあまり受験する人間の感情が尊重されるコトが少ないのでは?と思います。
私は6年生の頃にもう勉強がいやになってしまい、親しい友人の多くがそのまま上がる区立の中学へ結局いきました。しかしその中学がとても楽しかったので別に後悔はありません。でも親としては出来るだけ後々になって選択肢が広がる教育を受けさせたいと思うらしいです。
私は勉強が必要ないなんて思いませんが、学校は社会へ出るための準備だと思ってます。ある意味、学校の中って小さな社会ですし・・・
質問の意図を履き違えていたらすいません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
勉強は親がさせるものではなく、自分の意思でするものだと思います。
そういう意味で、まだ自我の確立があやふや(?)な小学・中学受験は
無意味なものなのかもしれません。
takataka1102さんの言いたいコトのわかります。
でも一つ言わせてください。
社会へ出るための準備って具体的になんですか?
勉強以外のところにもあるということでしょうか?
ちょっとその辺がわかりずらかったです。
理解力が乏しくて申し訳ありません。
ちなみに私の家庭では、勉強については全く強制されませんでした。
というより親に”なんでここはこーなるの?”と攻撃されまくり
だったのを覚えています。(^^;

お礼日時:2001/06/28 15:55

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Q団塊の世代が新人類を作り。 新人類がゆとり世代を作るまでは 仕方ないが。 ゆとり世代が悟り世代を教育

団塊の世代が新人類を作り。
新人類がゆとり世代を作るまでは 仕方ないが。
ゆとり世代が悟り世代を教育するのって 無理ないですか??

Aベストアンサー

団塊の世代 1947~1950年
新人類1961~1970
ゆとり世代 1987~2004年
さとり世代 1990年代うまれ

 産むのではなく教育して人格を作るのなら団塊の世代が新人類を作ることは可能ですが(笑)
新人類がゆとり世代を産むことは可能ですね(笑)私が家がそうですし。
ゆとり世代とさとり世代はほぼ同じ世代ですが、ゆとり世代の大卒の新任教師が高校生のさとり世代に教鞭をとることはもちろん可能です。数歳しか変わりませんし。

Q逆ゆとり教育ってどう思う?

受験戦争は過当競争になってて、社会に与える悪影響の面が強いと思うんです。

海外では受験競争についての価値観もちと違うらしく、日本とは事情が違うみたいなんです。

恐らく成績良い者が先回りして学んでく環境が整ってるから、他人と比較して自分の才能の無さを痛感する機会、あきらめる機会が日本より多いからだと思うのですが・・・

 日本は、協調して並列競争してる分、努力が実る様な気がしてがむしゃらに努力できる環境があるのが、ある意味良い部分だと思うのですが、そういう環境では飲み込みの悪い不器用な人間が勉強に努力しすぎる傾向があると思います。

努力しすぎる人に限って、勉強以外にアイデンテティがなかったり、いじめにあってコミュ力に障害があって勉強で挽回しようとしたり・・・
でも、そういう人は結局、世渡りベタであるが故に、努力してない人よりも社会で苦労を経験してしまうような・・・・

最近、就活から挫折して自殺した人のTwitterを見ました。
貧乏ではないし、家族は誕生日にはプレゼントもくれる様な愛がある家庭ですが、結局、その人は人としての無力感に苛まれて生きてました。
楽がしたい、就職する事が全てないです。、勿論、そういう意識はその人にもありました。しかし、その事以上に、その人はこの世の楽しみ、生きるべき喜びに気付く事できなかった様に私には見えました。
死ぬまでは毎日、苦悩の叫びを100回以上、つぶやいてましたが、その時間が私には非常にもったいなかったったように思えたというか、

それで思ったのですが、学ぶ機会が、やはり重要なのではではないかと思いました。
生きてる喜びを学べたら理想なのですが、しかし、そういうのは思いつけませんでした。思いついたのは、対処療法的に授業の科目種類を増やしてくのが良いのではないか・・・という事です。

これはアイデンティティの問題で、科目が多ければ多いほど、得意分野を発見しやすいという事であり、そういう所から人としての自信を得られる機会が増えるのであれば、死を考える絶望機会よりも自分に希望を抱いて生きようとする機会も増えるんではなかろうかと。あんまり説得力がないと思いますが・・・

また、授業時間を増やす程、塾等で個人で勉強する機会が無くなり、学習格差も相対的に減ります。
結果的に受験競争に費やされる労量も減るのですが、これが世の中にプラスに働くと思うんです。
これもあまり根拠が無いのですが、会社が必要としてるのは結局、勉強する必要のあった不器用な人ではなく、勉強せずとも飲み込みの早い人であるからであり、そうある方が社会的にも合理的なのではなかろうかと。

受験競争が加熱してる国、例えば中国、日本に限って、気づけば人口の1割が欝化してるという現状がありますが、これが受験競争の歪が影で隠れてるんではなかろうかと。

また、私自身、「学校で、あれを学ばせてくれたら良かったのにー」と単純に思う事があります。

大人になった後に起こるであろう、さまざまな人としての失敗は、学校にて学ばせてくれていたら、避けられるものが多かったとも思うし、学べたら、それはそれで楽しいものと思うのです。

例えば中学の授業時間は一日6時間ですが、これを12時間以上の授業したら良いのではないかと思ったりしたりします。
遊びたいだろうし、親の手伝いとか、色々な問題で現実的ではないだろうとは思うのですが、社会にでたら一日14時間の残業労とか有りえる訳ですし、そういうのに受け入れられる様に、長時間授業で慣らしていくのは重要なんだと思います。

家に居ないのが当たり前の生活なら、もはや帰る家は必要ない訳で、いっそ、寮生活を義務付けるのも有りかなと思うし、そっちの方がある意味で虐待家庭の子供を助けられる訳だったりで、
長時間の集団生活でいじめ等の問題もはらんでるだろうけれど、だからこそ問題に対処、矯正できる機会に恵まれるだろうとか。

だらだら書きましたが、結局、私がしたい質問は、「私が気付いてない事柄は何か?」という事らしいです。
本来なら編集して判りやすい文章に纏めるべきでしたが、申し訳ない事に気力が無いので妥協させてください。

受験戦争は過当競争になってて、社会に与える悪影響の面が強いと思うんです。

海外では受験競争についての価値観もちと違うらしく、日本とは事情が違うみたいなんです。

恐らく成績良い者が先回りして学んでく環境が整ってるから、他人と比較して自分の才能の無さを痛感する機会、あきらめる機会が日本より多いからだと思うのですが・・・

 日本は、協調して並列競争してる分、努力が実る様な気がしてがむしゃらに努力できる環境があるのが、ある意味良い部分だと思うのですが、そういう環境では飲み込みの悪...続きを読む

Aベストアンサー

>受験戦争は過当競争になってて、社会に与える悪影響の面が強いと思うんです。

影響に関しては、短期的・長期的に構造が違うだろう
総合的に勘案すれば、当人を通して波及する影響は、プラスよりはマイナス部分が多いだろう
しかし、過当競争であることが問題ではなく、受験生自身の問題という現実もあろう。

>海外では受験競争についての価値観もちと違うらしく、日本とは事情が違うみたいなんです。

東アジア諸国は全般的に同じ。日本と韓国は似ている。インド・シンガポールも日本に近い。ただし大学の相対価値が日本と諸外国では大きく異なる

>恐らく成績良い者が先回りして学んでく環境が整ってるから、他人と比較して自分の才能の無さを痛感する機会、あきらめる機会が日本より多いからだと思うのですが・・・

含蓄のある文章だと思える
「学んでゆく環境が整っているから」という指摘は、教育評論においては要諦とも言えるだろう
つまり、当人の能力以前の「学習環境」が重要という見解であろう。
その認識は正しいと思うので反駁はしないが、
その学習環境整備については、将来的には、全ての国民・住民が平等である状態が教育制度としては望ましいようには思う
予備校講師という立場で指摘させてもらうに、都市と地方での学習環境の較差は拡大している。
都市部では、成績の優秀な学生と悪い学生が二極化して奇妙な階層が出来つつあるように指摘される
一方、東北地方などの地方部では全員が総じて同じ成績水準であることから、都道府県別では地方の相対的優れている現実もある
できれば、学習環境の較差是正のためにネット・タブレット端末などの電子教材普及に努力したいが、ビジネスとしては厳しい模様。

> 日本は、協調して並列競争してる分、努力が実る様な気がしてがむしゃらに努力できる環境があるのが、ある意味良い部分だと思うのですが、そういう環境では飲み込みの悪い不器用な人間が勉強に努力しすぎる傾向があると思います。

指摘は否定しない。”努力しすぎる”というのは、否定的なニアンスだろうが、努力過程は無為にはならないだろう。
「合理的ではない」という論説であれば、否定できないが、当人の意思で行われている以上は、是非論の余地はないように思う
もっとも、”センスがない”という類の学生は存在する事実は否定しようがないが

>努力しすぎる人に限って、勉強以外にアイデンテティがなかったり、いじめにあってコミュ力に障害があって勉強で挽回しようとしたり・・・
でも、そういう人は結局、世渡りベタであるが故に、努力してない人よりも社会で苦労を経験してしまうような・・・・

一概には結果論は言えないだろう
世渡りが下手な人間は少なからず存在するのが必然である。
「パレート最適」という理論があるが、それで考えるのが最適な話とも言えるだろう


>最近、就活から挫折して自殺した人のTwitterを見ました。
貧乏ではないし、家族は誕生日にはプレゼントもくれる様な愛がある家庭ですが、結局、その人は人としての無力感に苛まれて生きてました。
楽がしたい、就職する事が全てないです。、勿論、そういう意識はその人にもありました。しかし、その事以上に、その人はこの世の楽しみ、生きるべき喜びに気付く事できなかった様に私には見えました。
死ぬまでは毎日、苦悩の叫びを100回以上、つぶやいてましたが、その時間が私には非常にもったいなかったったように思えたというか、

それで思ったのですが、学ぶ機会が、やはり重要なのではではないかと思いました。

重要ではある。「学ぶ機会」を得るためには、様々な分野にアンテナを張る必要性があって、大変なことではある
そういう意味では、学校のみならず、一歩外を出る教育にシフトした「ゆとり教育」の相対価値は高いだろう

>生きてる喜びを学べたら理想なのですが、しかし、そういうのは思いつけませんでした。思いついたのは、対処療法的に授業の科目種類を増やしてくのが良いのではないか・・・という事です。

仕事論でも言えることだが
”マイナスなことは仕事に没頭することで忘れる”という行動原理は多い
学生と勉強にも同じ関係がありえるだろう。学ぶ環境を強いられている状況によって、マイナスを忘却する・・ということだが

しかし、これは単なる現実逃避にすぎない。逃避して問題解決する事例ならば、有効だが
時間が解決しえない問題 に対しては、問題の先送りになる


>これはアイデンティティの問題で、科目が多ければ多いほど、得意分野を発見しやすいという事であり、そういう所から人としての自信を得られる機会が増えるのであれば、死を考える絶望機会よりも自分に希望を抱いて生きようとする機会も増えるんではなかろうかと。あんまり説得力がないと思いますが・・・

上記したようにゆとり教育は、学校外の「学ぶ機会」を創造し、多様化させる効果がある
そのような視点がないと「ゆとり教育」の評価は出来ない

>また、授業時間を増やす程、塾等で個人で勉強する機会が無くなり、学習格差も相対的に減ります。
結果的に受験競争に費やされる労量も減るのですが、これが世の中にプラスに働くと思うんです。
これもあまり根拠が無いのですが、会社が必要としてるのは結局、勉強する必要のあった不器用な人ではなく、勉強せずとも飲み込みの早い人であるからであり、そうある方が社会的にも合理的なのではなかろうかと。

方法論としてアリであろう
では、一方で家庭生活の時間・部活時間などの関係性は軽視してよいだろうか?
受験競争に浪費される社会資源の再分配先は当人が決定することだが、受験勉強よりも望ましい社会資源の再分配が可能だろうか?正直分からない
当人の自由意思で「学ぶ機会」を選択できるようにするのが望ましいのであり、そのためには、”学校教育の限界がある”ことを大前提にする必要性がある


>受験競争が加熱してる国、例えば中国、日本に限って、気づけば人口の1割が欝化してるという現状がありますが、これが受験競争の歪が影で隠れてるんではなかろうかと。

受験戦争というよりも、学歴戦争ではなく生来の社会較差による問題だろう。教育論の範疇とは思えない

>また、私自身、「学校で、あれを学ばせてくれたら良かったのにー」と単純に思う事があります。
大人になった後に起こるであろう、さまざまな人としての失敗は、学校にて学ばせてくれていたら、避けられるものが多かったとも思うし、学べたら、それはそれで楽しいものと思うのです。

”失敗でしか人は学べない”・失敗だけを学べば良い
これは日本社会では否定されることが多い
特に政治思想として保守系の人々は、失敗経験を全否定することに躍起になる傾向がある
今後の失敗学の教育は期待できないが、当人が失敗から学べることは良いことであろう

>例えば中学の授業時間は一日6時間ですが、これを12時間以上の授業したら良いのではないかと思ったりしたりします。
遊びたいだろうし、親の手伝いとか、色々な問題で現実的ではないだろうとは思うのですが、社会にでたら一日14時間の残業労とか有りえる訳ですし、そういうのに受け入れられる様に、長時間授業で慣らしていくのは重要なんだと思います。

法的に不可能というしかない
法改正で対応するにも、家庭生活との折り合いが問題になる。
学校教育は、教育の一旦に過ぎず、教育全般を担う存在ではないことを踏まえて考えて欲しい

>家に居ないのが当たり前の生活なら、もはや帰る家は必要ない訳で、いっそ、寮生活を義務付けるのも有りかなと思うし、そっちの方がある意味で虐待家庭の子供を助けられる訳だったりで、
長時間の集団生活でいじめ等の問題もはらんでるだろうけれど、だからこそ問題に対処、矯正できる機会に恵まれるだろうとか。

見解は理解する
しかし、単純すぎるようには思われる

>だらだら書きましたが、結局、私がしたい質問は、「私が気付いてない事柄は何か?」という事らしいです。
本来なら編集して判りやすい文章に纏めるべきでしたが、申し訳ない事に気力が無いので妥協させてください。

”気づいていないこと”が要諦なので、回答できない
仮に、それを当方が示唆したとして、血肉にならないものだろう
教育の要諦は「気づき」であることを質問者は皮膚感覚で理解しているようだが、その気づきに至る過程は様々であって、正解はない・・と言える

>受験戦争は過当競争になってて、社会に与える悪影響の面が強いと思うんです。

影響に関しては、短期的・長期的に構造が違うだろう
総合的に勘案すれば、当人を通して波及する影響は、プラスよりはマイナス部分が多いだろう
しかし、過当競争であることが問題ではなく、受験生自身の問題という現実もあろう。

>海外では受験競争についての価値観もちと違うらしく、日本とは事情が違うみたいなんです。

東アジア諸国は全般的に同じ。日本と韓国は似ている。インド・シンガポールも日本に近い。ただし大学の相...続きを読む

Q日本人が死ななかった戦争は悲惨な戦争に該当しないのか

平和主義者の方々にとって悲惨な戦争とは日本人が死んだ戦闘行為のことであって、それ以外の真珠湾や日露戦争などは悲惨な戦争ではないのですか?
東京空爆や沖縄は「多くの日本人が亡くなったから」悲惨な戦争なんですか?
なぜ、日本の平和主義者は日本人種でなくとも同じ人間が多く死んだ真珠湾をスルーするのですか。

平和主義を世界に訴える場で堂々と人種差別がまかり通ってるのはなぜですか。

Aベストアンサー

・平和主義者の方々にとって悲惨な戦争とは日本人が死んだ戦闘行為のことであって

なら真珠湾や日露戦争は

間違いなく 悲惨な戦争だね

真珠湾の九軍神って、学校で先生に習ったでしょう

日本人種なんてないけど・・・・、真珠湾奇襲では日系人の戦死者も
いたぞ

日露戦争(にちろせんそう) 1904年(明治37)2月より翌05年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。日本は   12万の戦死、廃疾者を出し   戦費15億円を費やした。

Q私はゆとり教育の影響を大きく受けているのでしょうか

閲覧いただきありがとうございます。


ゆとり世代の二十代です。
7月26日に放送された、日本テレビ系列「コレってアリですか?」というのバラエティー番組で、

「ゆとり世代は失敗を恐れるため、マニュアルを必要とする」
「ゆとり世代は怒られ慣れていないため、少しのことでもへこむ」

などと放送され、私は上記の2つが当てはまりました。
マニュアルはあれば、相手に失礼の無い様振舞え、仕事に馴染むのも早いと思いますし、
私はゆとり世代でもありますが、いわゆる完璧主義者でもあるので、小さな失敗でも大きくへこむことが常です。

やはり、私はゆとり教育の影響を大きく受けているのでしょうか。
だとしたら、仕事などで話す相手に不快な思いを与えているのではないかと心配です。
また、ゆとり世代だと甘く思われるのも好ましくありません。
(この失敗を恐れる考えや他人を気にすること自体がゆとり独特の考え方なのかもしれません)

皆さんはどうお考えでしょうか。
よろしければご回答お願いいたします。

Aベストアンサー

>「ゆとり世代は怒られ慣れていないため、少しのことでもへこむ」

これには少し疑問があります。
私の場合、親に虐待に近いスパルタ教育を施されました。
当然、叱られましたし怒られまくりました。
なのに、いざ叱られると物凄くヘコミます。
この事を考えると、叱られ慣れないから、へこむというのは理屈として合いません。

理屈として合うのは強迫観念なのだと感じます。
仮に教育の段階で『能力がないなら生きていけない!』という強い刷り込みを与えられていたとします。
叱られる事が能力が無い自分を自覚するキッカケになるなら、その結果として生きていけないという不安を抱えヘコミます。

もし、ゆとり教育の影響があったとすれば、授業時間が減った事に悲観して、親が子供を塾に通わせる等でプレッシャーを与えて、『能力がないなら生きていけない!』と思わせた事が原因かもしれません。
でも、それはゆとりが教育が無かったとしても同じ事かもしれないです。
社会不安がある限り、プレッシャーを与えるでしょうから・・・

これが40~50歳世代の人だったら、『能力がないなら生きていけない!』という刷り込みは、とても少なかったと思います。
その世代は子供時点では不況は訪れて無いですから、社会不安も今よりも小さいです。
不安が無い世代に育てられれば、その分、プレッシャーそのものも少ないから『能力がないなら生きていけない!』という刷り込みも少ないです。

ゆとり問題は、親が不況を体験した事で、それを教訓として子供に教育してしまった事にあると思います。
そしてその事を殆どの人が気付いていないのが、問題をより一層大げさにさせていると感じます。

いずれにせよ、へこみ体質とは共存するしか道は無いですから、一緒に頑張りましょう。

>「ゆとり世代は怒られ慣れていないため、少しのことでもへこむ」

これには少し疑問があります。
私の場合、親に虐待に近いスパルタ教育を施されました。
当然、叱られましたし怒られまくりました。
なのに、いざ叱られると物凄くヘコミます。
この事を考えると、叱られ慣れないから、へこむというのは理屈として合いません。

理屈として合うのは強迫観念なのだと感じます。
仮に教育の段階で『能力がないなら生きていけない!』という強い刷り込みを与えられていたとします。
叱られる事が能力が無い自分を自...続きを読む

Qゆとり教育と内申書

ゆとり教育と内申書の関係を教えてください。

ゆとり教育によく使われる批判的な例えは運動会でおててつないでゴールであり、現実の社会が競争であることを教えないと続くわけです。

現代のゆとり教育の前の世代は内申書に縛られた時代でした。
実力がありながら先生に従順であることへの反発から不利な評価を受けるものが多数いました。
内申書は先生の心象で成績を調節してしまう、お手てつないでと同じシステムのような気がします。
しかし逆に内申書の重みが軽くなることとゆとり教育を関連付ける考え方もあります。

ゆとり教育と内申書重視は同じ向きのベクトルでしょうか反対でしょうか。

さらに愛国心教育は本質的には競争とは反対でゆとり教育と同じ向きのベクトルではないかと思います。

(本質問はゆとり教育、内申書、愛国心教育を賛成するものでも反対するものでもありません。)

Aベストアンサー

ゆとり教育って 「総合的学習」が象徴と思います。

総合的学習を いわゆる教科とよばれるものを越えたもの(学際的な科目)と捉えれば、その評価はできると考えます。

でも、文部科学省(当時は文部省?)は、お題目ばかりだし 教員の多くもそれを指導できるだけの能力を持ち合わせていないと考えます。
(物事を総合的に考え・発展させるには、大人でもなかなかできないことです。それを、こども達に指導して行くには 教員はかなりの指導能力を有していなくてはならないと考えられる。文科省は、そのような現場指導力をどのように高めるのかを具体的に考えずお題目を唱えるだけです。)

つまり How が検討もつかないのに、理想的Whatを施行してしまったのでしょうね!

現実のゆとり教育は、何を指導しているのか 教育目標が見えて居ないと考えます。

愛国心教育も、愛国心(具体的に何をさすのかわかりませんが)をもつ人でなければ教育できんでしょう。
愛国心が「他の国との競争」を教えるものかもしれませんし・・。

=================
ゆとり教育は 何をやっているか わからない状況。
愛国心教育は 愛国心が明確になっていない。
そして、双方とも それを教えるための教育を受け、資格を与え、採用した人たちが 生徒を指導していない。
状況ですので、明確な回答を出すには 混沌としすぎているような気が致します。

ゆとり教育って 「総合的学習」が象徴と思います。

総合的学習を いわゆる教科とよばれるものを越えたもの(学際的な科目)と捉えれば、その評価はできると考えます。

でも、文部科学省(当時は文部省?)は、お題目ばかりだし 教員の多くもそれを指導できるだけの能力を持ち合わせていないと考えます。
(物事を総合的に考え・発展させるには、大人でもなかなかできないことです。それを、こども達に指導して行くには 教員はかなりの指導能力を有していなくてはならないと考えられる。文科省は、そのよう...続きを読む


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