しばらく前に頼朝の伝記を探したことがあるのですが、けっこう所蔵冊数がある筈のウチの県立図書館でもこれというものが見つかりませんでした。
こんなに有名な人なのに?と思うととても不思議です。
吉川弘文館の人物叢書にもまだ登場していないですよね。源頼政や源頼光よりは先に頼朝だろう!と思うのですが、何故ないんだろう……。でも人物叢書では平清盛も平成11年の発行ですから、有名な人ほどまとめにくい、という側面はあるかもしれません。

それはそれとして、頼朝の人生を辿る、という視点で見た場合、基本大前提といいますか、王道の本をご存知ありませんか?小説以外の、一応学者さんの本でお願いします。頼朝といえばこの人!という学者さんの名前でも結構です。出来れば1990年以降に発行されたものが希望です。

ちなみに
「頼朝の精神史」(山本幸司・講談社選書メチエ)
は読んでいます。

よろしくお願いします。

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A 回答 (1件)

学者さんの本になると、1958年発行ですが、



「源頼朝」(永原慶二 著 ・岩波新書)

が少々難しいですが、ベターだと思います。
絶版だと思うので、図書館でリクエストするしかないですね(私は古本屋で偶然購入できましたが(1992年第26冊発行の物))。

ただ、源頼朝については“王道の本”というものは無いと思っています(だから、過去の大河ドラマで源義経・平清盛・北条政子が主人公になったドラマはあっても源頼朝を主人公にしたドラマがない)。
歴史的事実にしても、源頼朝個人の性格についても、諸説入り混じっています。いろんな関連本を読むことをおすすめします。
例えば、昨年発行された、
歴史小説「平家」(池宮彰一郎 著 ・角川書店)
には、頼朝助命の真の嘆願者について意外な人物を挙げていますし、頼朝の性格について‘悋気’という表現まで使っています。
研究書?「源氏と日本国王」(岡野友彦 著 ・講談社現代新書)
には、他人の学説とはいえ、池禅尼と北条氏は縁戚関係にあって頼朝の身柄は保護されていた、という信じがたい学説など、さまざまな興味深いことが書かれています。

長くなりましたが、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

やー、回答いただいて嬉しいです(^o^)。つかないだろうと思っていたので。

しかし、この本は図書館でチェック済みでした(^_^;)。
古いのは他にもなんぼかあるんですけれど、新しいのがないですよね。あってもいいだろう!という立場にいると思うのだが……不思議です。諸説入り乱れているとして、その諸説を検証したものがあってもいいのに。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/24 21:39

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最近源頼朝の画像が違うって言ってますが、徳川家康も例の画像を頼朝と思ってたのですか?結構昔から間違えてたのでしょ?

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
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頼政は、源氏といっても頼朝の血筋の河内源氏ではなく、摂津源氏の棟梁(一族の長)でした。
摂津源氏は多田姓を名乗る者が多いのですが、清和源氏の始祖である頼光の嫡流で、本来は、こちらが本流と言っても良い家系です。
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どうやら、彼は所領をもっていたようです。問題はそれらの所領が古文書の散逸により詳細が不明であることです。
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詳細は下記のURLを参照ください。
関東御領

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%BE%A1%E9%A0%98


平家没官領
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E6%B2%A1%E5%AE%98%E9%A0%98

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       苗字  氏   諱
北条時政  北条  平   時政
安達泰盛  安達  藤原  泰盛
源 義経  ?    源   義経
平 清盛  ?    平   清盛

Aベストアンサー

苗字(名字)は所領や屋敷の場所などを自称するうちに家名として定着したものですから、法律や権力者の命令によって全国一斉に名乗るのが義務付けられた、というようなものではありません。苗字が定着しても、明治5年までは公式な名称は氏であり、苗字は通称にすぎません。

また、本人が名乗ったかどうかは定かではありませんが、歴史学者の角田文衛は、源頼朝の一族を鎌倉家、平清盛の一族を六波羅家と称した上て、源平合戦という表現は誤解を招くと力説しています。

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こんにちは

頼朝の流人時代は、所領もなく、乳母の関係者、母親の実家の熱田大宮司家、家人の一部、そして監視役の伊豆の武士(在庁官人)の伊東氏・北条氏などが面倒を見ていたとされます。ただ、流人時代の生活については、史料が少なく、後代の『吾妻鑑』などに断片的に記述された記事によることが主になっています。

まず、なぜ頼朝が死罪ではなく流罪になったかということですが、従来の説では清盛の父の正盛の後妻の池禅尼の助命嘆願だけが言われていました。これは、平家の都落ちに平頼盛以下の池一門は同行せず、後に頼朝に対面していること(『吾妻鑑』など)によっても裏付けられます。池禅尼に加えて、現在、頼朝の生母の実家である熱田大宮司家の一族の子女が、後白河院と上西門院の近臣や女房として仕えていたことの影響(上横手雅敬・元木泰雄)との説があります。さらに、源頼政が伊豆の知行国主であることの影響から、配流地が伊豆に決定したのでは(五味文彦)と言われています。
*上西門院=統子内親王。鳥羽天皇と待賢門院との間の皇女で、後白河天皇准母。なお、頼朝の生母の由良御前(熱田大宮司藤原季範のむすめ)は、上西門院の女房であったとの説あり。また、姉妹には上西門院と待賢門院の女房がいた(『尊卑文脈』)とされています。
次に、伊豆までの道中ですが、長田資経が一族の長田資家を従者として付けてくれたことが知られています。この長田資経ですが、因幡国高庭郡の郡司であったようですが、頼朝との関係は分かっていません。平氏の家人で、平治の乱に参加し、捕虜になった頼朝を見て、憐憫の情を催したようですが、少年期(数え13歳)の頼朝は、人を引き付ける魅力があったということなのかもしれません。
さらに、熱田大宮司家では、由良御前の弟の祐範が、従者を1名付けたことが知られています。ただ、熱田大宮司家では、祖父の熱田大宮司藤原季範・母の由良御前は平治の乱当時には死去しており、また、季範の長子であったと思われる範忠は、頼朝の同母弟*希義を駿河で捕らえ、平氏に引き渡しています。季範と範忠の関係は悪く、季範は熱田大宮司の職を五男とされる範雅に譲っています(後に範忠が就任)。同じ大宮司家でも、範忠と由良御前・祐範・範雅は母を異にしているようで、それが行動の差になって表れているように思われます。特に由良御前と祐範は、祐範の行動などから、同母の兄弟であると考えられます。
*希義=土佐国へ流刑になり、後に挙兵しますが敗死します。

流刑地である伊豆に着いた頼朝ですが、頼朝には生活を支える領地はなかったとされます。これに関して、Wikiの関連記事である「関東御領」の記述の、「(*関東御領の)起源は、鎌倉幕府成立以前に源氏(源頼朝)が本家・領家として所有していた荘園群や国衙領である。これに平氏滅亡の際、平氏一門が持っていた荘園(平家没官領)を組み入れて継承した。」の部分は、紛らわしい表現で、「鎌倉幕府成立以前に源氏(源頼朝)が本家・領家として所有していた荘園群や国衙領」は、平治の乱後、平氏により没官されており、頼朝が流人時代には存在せず、平家の所領に組み込まれ、後に平家没官領の形で回収され(石井進・『国史大辞典』)、流人時代の頼朝には所領が無かったことになります。
流人時代の頼朝を支えたのは、まず、熱田大宮司家の祐範です。祐範は月に一度使者を頼朝のもとに派遣したとされています。当時は子の面倒は、母方がみる例が多いので、使者を遣わしただけではなく、なにくれの生活の面倒もみたのではないでしょうか。

次は、乳母のグループです。頼朝の乳母としては、摩々尼、山内尼・寒川尼・比企尼の四人が知られています。これもWikiは山内尼=摩々尼説ですが、摩々局が母、摩々尼が娘で、土肥氏の一族の女性であり、山内尼は山内首藤俊通の妻で、俊綱の母の女性で、山内尼と摩々尼は別人説が主流となっています。
さて、この乳母の中で頼朝の流人時代の生活の面倒をみたとされているのは、比企尼で、彼女は夫の比企掃部允と共に武蔵国の比企郡に下り、その後頼朝の挙兵までの*20年間面倒をみたとされています。
さらに、比企尼の長女の婿の安達盛長は、流人時代の頼朝の従者として側近に仕えたとされます。
また、どの乳母なのかは不明ですが、頼朝の乳母の妹の子である三善康信(*後の問注所執事)は、月に三度京都の情報を頼朝に送り届けたとされます。康信の情報が、頼朝の挙兵に影響を与えたともされています。
*20年間面倒をみた=能員姨母、号比企尼、当初為武衛乳母、而永暦元年御遠行于豆州之時、在忠節余、以武蔵国比企郡為請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋、廿年之間、奉訪御世途(『吾妻鑑』寿永元年10月17日の条)

次に、家人と分類されるべきグループが存在します。
第一に上げられるのが、佐々木四兄弟です。近江源氏(宇多源氏)で、近江に所領を持っていた佐々木秀義は平治の乱で敗軍となり、所領を失います。その後、関東を通って、奥州に落ち延びる途中、相模の渋谷氏に引き留められ、そのまま居つくようになります。その子息の定綱・経高・盛綱・高綱は、流罪中の頼朝の家人として仕えたとされています。ただ、常時頼朝に近侍したわけでもないようです。
それ以外にも、伊豆や相模の武士が頼朝の下を訪れていたとの話もありますが、軍記物語などの話が多く、確実な資料とは言えない部分があります。
頼朝の日常生活ですが、法華経への信仰が知られています。父母や源氏一門の菩提を弔う毎日で、読経・暗誦・写経などをしていたようです。さらに、箱根権現・伊豆山(走湯)権現を信仰していたとされます。
それ以外には、弓が挙げられると思います。石橋山の戦いでは強弓により敵を射殺していますし、鎌倉に落ち着いたのちには、弓の故実を知る武士に故実を問うなどしています。当時の武士の表芸である弓と馬(弓馬の道)は、当然ですが鍛錬していたものと思われますし、狩などもしていたようです(物語作品にある話として)。
さて、伊豆国の知行国主は源頼政であることは前記しましたが、伊豆国の国守も頼政の嫡子の仲綱(その後は頼政次男頼兼など、知行国主として当然ですが頼政の影響下の人物が任命されています)であり、以仁王の挙兵の失敗で、この親子が敗死するまで、比較的自由な行動が許されていたとの見方もされています。流罪初期には伊豆国府に近い場所(一般に蛭が小島と言われています)にいたようですが、伊豆山権現や伊東氏の領内など、伊豆の国中を移動できたようです。しかし、知行国主が頼政から平時忠(*清盛の妻時子の弟。公家平氏)に変わり、流人生活は激変し、挙兵へ進むことになります。

頼朝の流人時代の生活については、史料が少なく、『吾妻鑑』の記録、それも当時のものではなく、頼朝が関東制圧後に、流人当時の関係者やその縁者についての記述に、断片的に記録されたものがほとんどです。それ以外は、『曽我物語』などの文学作品に出ているなどになります。上記は、『吾妻鑑』の記述にある事柄をもとにしましたが、一部は軍記物語なども参考としています。ともかく、わからないことが多いので、参考程度に。

こんにちは

頼朝の流人時代は、所領もなく、乳母の関係者、母親の実家の熱田大宮司家、家人の一部、そして監視役の伊豆の武士(在庁官人)の伊東氏・北条氏などが面倒を見ていたとされます。ただ、流人時代の生活については、史料が少なく、後代の『吾妻鑑』などに断片的に記述された記事によることが主になっています。

まず、なぜ頼朝が死罪ではなく流罪になったかということですが、従来の説では清盛の父の正盛の後妻の池禅尼の助命嘆願だけが言われていました。これは、平家の都落ちに平頼盛以下の池一門は...続きを読む

Q源頼光や四天王はなぜ土蜘蛛や鬼を退治したという伝説が残っているのですか?

源頼光や四天王(渡辺綱・坂田金時・卜部季武・碓井貞光)には
なぜ土蜘蛛や鬼を退治したという伝説が残っているのですか?

ご自身の推理でも結構ですので、お答えいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

たたら系の話は
宗像教授シリーズ < 漫画
これに さくっと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%B1%B1
ここにもあった。

多田鉱山は関係ないんじゃないかな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%91%91%E7%AB%A5%E5%AD%90
酒呑童子という盗賊征伐が、京都の西で大枝が大江山とくっつとともに、五行説での西方=金属で話がふくらんだんじゃないかな。

ちなみに桃太郎が 犬 猿 雉 なのは、十二支を方角に当て込むと西が、戌 申 酉 となっておりますので、西に行くにはこの三種となり、やはり鬼を退治してして「金=西」の宝を持って帰ってきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D


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