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▼ (大澤真幸:名前は 魔術的) ~~~~~~~~

1. だが 〈私〉とは何か? よく考えてみると 〈私〉としての
〈私〉 〈私〉そのものは いかようにも規定しえない空虚であるこ
とが分かる。

 ☆ ( bragellone の問い) なぜ 《空虚》か?

2. たとえば〈私〉は 教師である と言うことはでき 教師とは
何かという内容を規定することもできるが それらのことは 〈私〉
そのものではもちろんない。[・・・] しかし 〈私〉であるというこ
とは どの特定の述語とも等置しえないし これらの述語の総体の内
に還元することもできない。このような意味で 〈私〉であるという
こと この〈私〉が存在しているということは 原理的に規定できな
い。〈私〉は何者としての内実ももたない空虚だという意味で まさ
に「透明な存在」なのである。

 ☆ ウソだ! なぜなら 《わたし》とみづからを指して呼んでい
  るその現実があり その主体である存在がいるのだから。

  《わたしはわたしである》 この自同律でよいのだ。ほかに わ
  たしが現実であることを証明するものは要らない。


3. 名前が 〈私〉のこのような〔☆ 空虚で透明な存在としての〕
局面を受け継ぐ。名前が指示しているのは この「〈私〉である」と
いうことなのである。

 ☆ どういうことか?

4. 名前は 何者としての規定にも解消できないものとして とにか
く この〈私〉が存在しているということ このことを指示しているの
だ。

 ☆ ん? わたしは《空虚》であるゆえ そのわたしの名前は《何者
  としての規定にも解消できないもの》を指示している? わたしは
  《透明な存在》であるゆえ その《存在している》ことをわたしの
  名前〔《真幸》なら《真幸》〕が指示している? 

5.[・・・] だが 同時に 名前は 特殊な魔術的とも言える効果を
ももつ。述べたように 〈私〉ということそれ自体は 空虚で透明であ
る。この点で 〈私〉は無である。

 ☆ 分からない!

6. だが 名前を与えた瞬間に その空虚で透明な無が 何者かとし
て存在しうる何かに転換する(かのように見える)のだ。

 ☆ ほんまかいな? むしろ わたしにとって《わたし》という言葉 
  のほうが 固有名詞であると考えられるのではないか? 固有名詞
  が定まれば その存在は 空虚でも無でもない。はずだ。 
  《大澤真幸》という固有名詞は むしろ理論じょうは 《わたし》
  を示す代名詞なのだ。

7. 名前は 空虚=無として規定されうる「何か」を存在させる効果
をもつわけだ。たとえば 〈私〉が「真幸」という名前を与えられば 
何者かでもなかった〈私〉が 「真幸であるもの」に転換する。[・・・] 
要するに 名前は 規定不能な空虚を未規定な存在へ 透明な存在を不
透明な実体へと転換して見せるわけだ。

(大澤真幸:『現代宗教意識論』2010  pp.298-301)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 分かりません。解説をお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 言葉で表わそうとした自己が 《識別》のためではないと言うのは
    言わば絶対値として自己を捉えこれを自覚するといった意味を念頭
    においています。

    ほかの人びとはひとまづ措いておいて おのれをおのれとして知っ
    たということを表わすのが 《自己に固有の自己認識ないし自覚》
    だと捉えます。

    その意味で わたしにとって固有の自称は 《わたし》である。

    そのわたしでは 誰もがそのように自称していては 識別しえなく
    なるので 何の何某といった名前をつけて呼ぶこととしている。

    というふうに考えています。したがって 文法では 固有名詞と代
    名詞の規定が いま言った見方とは逆になっています。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/03/26 00:06
  • つづき(1)

    ★ 個々人にとっては、[私]=「私」は常に成り立っています。ただし、
    [私(A)]=[私(B)]が成り立たないのは自明ですね。
    ☆ それは 人格――おもには各々の自由意志がそれとして独立してい
    ること――として自明です。A にも B にも《[私]=「私」は常に成り立
    っています》。しかも 自由意志の専属性を傷つけません。

    《[私]=「私」》という自己確認は人格の問題でもありますが この人
    格ということにも 公理としてのごとく大前提があると見られます。同
    じ種であるということ。それゆえ おのおのにとっては固有の名称であ
    ることになっています。一般性と個別性が地続きでつながっています。

    ★ 「私」では 個々を識別できません。(他者を「私」と呼ぶことは
    無いと言う事です)あくまで、そういう意味です。
    ☆ それでしたら 絶対値としての自己確認のわたしと 両立します。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/03/26 13:04
  • つづき(2)

    ★ レヴィナスは、死を絶対的他者としていますから、うんぬん
    ☆ そうなんですか。わたしは:
    ★ 経験としては、外延とは言えるでしょう。
    ☆ に与します。

    ★ 死=神となるロジックは、ここでは解説されていませんね。
    ☆ ええ たぶん。その代わりに 人間の理性で《死を 積極的な実在
    へと転換する》といったふうに《想像し操作し 酒鬼薔薇聖斗が自分の
    神をこしらえたように自分でつくる》という作業を前提しているように
    見られます。

    ★ 絶対的他者を神と置き換えれば、大澤氏のロジックになります。
    ☆ これは 普遍的ですね。《絶対》を前提とするかぎり。


    ★ レヴィナスは、「非ー知」、「超越的な場」などの想定で、神学に
    切り込んでいますから、これを紐解くのも興味深いかもしれません。
    ☆ そうなんですか。解説本で食指がうごかなかった切りになっていま
    す。ありがとうございます。

      補足日時:2017/03/26 13:22
  • 入力の間違いをただします。

    ☆☆ (№2お礼欄) ~~~~~

     ▼ (大澤) 死そのものは 本体 レヴィナスも述べているように

    ~~~~~~~~~~
    ☆ すなわち おわびして訂正します。:

     ○ 本来
     x 本体

      補足日時:2017/03/26 14:39
  • 任意に引きます。

    ▼ (大澤:《顔》) ~~~~
    要するに 〈他者〉は 〈私〉が知覚するとき 言わばその知覚の
    裏側において この知覚から撤退していく負の知覚という形式で 
    顕現するのである。

    このような 志向作用が自らの陰画として自らが原理的に到達でき
    ないもう一つの志向作用を示してしまうメカニズムのことを 私は
    ――事物を捉える通常の志向作用が呈する「自己への求心化」の傾
    向と対立させて――遠心化作用と呼んできた。( p.245 )


    顔において表情を知覚する場面をとりあげてみよう。
    顔の表情を知覚するということは まさにその顔を知覚する作用と
    同権的な――しかしこの知覚には決して捉えきれないという意味で
    はこの知覚とは絶対的に異なる――もう一つの知覚が顔に所属して
    いることを直観することである。[・・・]( p.244 )
    ~~~~~

      補足日時:2017/03/26 23:51
  • ▼(大澤)
    「意味」の体系としての〈虚構〉は それ自身としては 常に〔☆ 虚構でな
    い《リアルで生(なま)の世界》へと〕還元されうる不安定なものでしかない。
    しかし それは[・・・]世界が秩序をもち 確たる現実性(リアリティー)を
    帯びるためにはどうしても必要だ。

    したがって 〈虚構〉としての世界とリアルな生(なま)の世界との間の隔差
    を無化することなく 保持することを可能にするメカニズムがなくてはならな
    いはずだ。

    それは どのようにして与えられるのか? 論証を省略して 基本的な構図だ
    けを述べておけば 〈虚構〉が生(なま)の世界との関係で生み出す欠如は 
    (〈他者〉の)魂の還元できない欠如を独特な仕方で利用することによって 
    保持されるのである。( p.250 ~)

    (つづく)

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/03/29 10:39
  • ▼(大澤 つづき)
    〈虚構〉の世界とリアルな生(なま)の世界との間の隔差を保持するためには
    前者を後者の上に吊るし上げておくことができるような 固定された「フック」
    が必要になる。〈虚構〉は そのフックに引っかけられることによって 生
    (なま)の現象の世界へと崩落しないですむわけだ。

    そのフックをもたらすものこそ 魂をもつ〈他者〉なのである。厳密に言えば
    〈他者〉そのものではなく 世界から否定的に退却していく〈他者〉を それ
    自身 積極的な実在へと転換し そのことによって一個の超越的な実体に変容
    させたとき それが フックとしての機能を果たすのだ。

    超越的な実体へと変換した〈他者〉こそが (たとえば)神である。

    一度 「意味」の体系を吊るし上げるフックとしての超越的な〈他者〉が措定
    されれば 「魂」そのものも一種の「意味」として把握され・・・
    ( p.251 )

      補足日時:2017/03/29 10:45

  • また 同時に ――超越化された〈他者〉が「魂」をも一種の「意味」とし
    て把握する可能性を開いたことを考慮すれば―― そうした「意味」として
    の「魂」の存在に関する想像力が支えを失い 極端な場合には 酒鬼薔薇聖
    斗がまさに抱いたような 「魂」の存在をめぐる懐疑が導かれることになろ
    う。

    だが 酒鬼薔薇聖斗を二度目の殺害へとせきたて また実際に これを可能
    にした(と本人に思わせた)ことは何か?

    とりあえずは こんなふうに考えてみたらどうだろうか。少年Aは すでに
    世界の現実性が破裂するのを見てしまっていたのだ と。つまり 彼は 物
    の秩序がまやかしの〈虚構〉に過ぎず それは容易に変転きわまりない生(な
    ま)の現象の世界の方へと崩落しうるということを また人間がとても壊れ
    やすいことを すでに知ってしまっていたのだ と。

    こうした体験をもたらしたものこそ・・・(大地震)・・・

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/03/31 12:16

  • こうした体験をもたらしたものこそ この事件の二年前のあの大地震である。
    [・・・]
    先に 「意味」を付与された物は 現象的な変化に抗して恒常的な同一性を
    保ちうる と述べた。だが 震災のような全的な破壊を経てしまえば もは
    や住居は住居ではありえず[・・・]何よりも都市も都市ではありえなくなっ
    てしまう。

    それは 「意味」の〈虚構〉的な性格を暴き出すに十分な出来事であっただ
    ろう。この出来事に立ち会ったとき 少年の中で 「意味」の保証人として
    の(超越的な)〈他者〉の権威も 魂の自明性も 決定的なダメージを被っ
    たに違いない。

    もちろん震災そのものは 偶発的な出来事である。しかし 私は 酒鬼薔薇
    聖斗の引き起こした事件が 偶発的な悲劇に由来する と述べたいわけでは
    ない。むしろ逆である。・・・

      補足日時:2017/03/31 12:28

  • 偶発的な出来事を 述べてきたような連関の内に位置づけて体験したの
    だとすれば 少年の態度の方にこそ こうした体験を導かざるをえない
    必然性があったはずだ。

    そして 私の考えでは その少年の態度は 我々の〈現在〉を増幅して
    知覚可能な閾値の水準にまでもたらしてくれる反響板のようなものなの
    である。

    少年の否定的な神バモイドオキは 彼がB君を殺害したタンク山の頂上
    のケーブル・テレビのアンテナの位置に あるいはまた 彼が凶器を捨
    てた池に 降臨したのだと考えられる。

    それらの場所は 〈虚構〉の秩序によってコーティングされた 麗しい
    須磨区の住宅街の真っ只中にあって なぜか「意味」を充填されていな
    い空虚な間隙である。そうした空隙は 今や隠蔽されてしまった大震災
    の衝撃が露呈する場所でもあろう。

    「意味」の本源的な不可能性を象徴する神は こうした空隙にこそ顕現
    するのだ。(完)

      補足日時:2017/03/31 12:37

A 回答 (29件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


現実の殺人者の導師とみなされる友人に関しては、現実の殺人者の犯行声明文にしか記載されていません。
そして、それが実在の人間かどうかもわからないです。(犯行声明文自体が虚構ならば、これも事実では無いのかもしれません)
ただし、現実の殺人者には、警察に証言を行った、実在の友人が存在したのは確かです。(引用した作文を警察に渡したとされる人物です)
また、その他の仲間も存在するし、小学校時代には、親友の少女も存在したようです。
したがって、状況としては、「透明な存在」では、無かったような感じがします。(現実の殺人者は、出版物において、名前を失って、単なる記号(報道された仮名)となったのは、逮捕後と記載しているようです)
ここで、質問の原点に立ち戻りましょう。
〈私〉=「私」が、固有名詞として成り立つかが、質問でしたね。
コギトの問題に還元されるでしょう。
大澤氏の空虚な「私」は、コギト以前の存在=〈在る〉(レヴィナスの〈在る〉と同義でしょう)を示しているのか、社会による名付け以前の〈私〉なのかが曖昧です。
これが、混乱を呼んでしまっています。
社会にとって、空虚なのか、それ自身が空虚なのかが判別できない事になります。(これは、コギトが存在しているのかが判別できないと言う事です)
そして、社会的に空虚な存在は、存在できないのかが、良くわかりません。(大澤氏の論では、あきらかに存在していますね)
コギトが存在者として存在しているならば、社会的な名付けは、それに関与しません。
社会からは、名付けしなければ、識別は不可能でしょう。(特定できないと意味です)
そういう意味では、名付けは、社会にとっては意味を持ちますが、コギトにとっては無関係です。
したがって、大澤氏の論において、コギトが存在しているならば、それはコギトにとって空虚では無く、あくまで社会=〈他〉にとって、現前しないかぎりは、空虚だと言う意味しか持ちません。(現前すれば、それは〈顔〉を持ちますから、名付けによらず、対格化が可能です)
つまり、名付けは、現前しないものを対格化する為の行為と言う意味しか持ちえません。
対格化された対象がそれ自体の意味を持つかはわかりませんが、個別識別子として、意味附属できる可能性を持つ対象とは、できます。
問題が、〈私〉が、社会に対して倫理的行動を取るかどうかだとしたら、社会から対格化されていると言う認識が必要かもしれないという問題設定はありうるでしょう。(ただし、倫理的なものが、内在しているとする立場からは、それは要請されません)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ (ただし、倫理的なものが、内在しているとする立場からは、それ
は要請されません)
☆ ええ。わたしは この立ち場でものを言っていたようです。

☆☆(№13お礼欄) ~~~~~
 ☆☆(№7お礼欄) ~~~~
 それならいっそのこと ひとりの人間が自身において《人間は社会性
 を帯びると見られる限りで 他者そのものではなくても他者とのカカ
 ハリをも潜在的に有する》と想定しておくなら 《空虚ないし内実》
 の問題はあまり大きな論点にはならないように思われます。
 ~~~~
 ☆ 《関係の絶対性》という言い方も 昔ありました。
~~~~~~~~~~
☆ そしてこの仮説における《人間・わたし》は 名づけ以前の存在で
す。どうお考えでしょうか。

そして このことは:
★ 社会からは、名付けしなければ、識別は不可能でしょう。(特定で
きないと意味です)
☆ と両立し得ます。




★ ただし、現実の殺人者には、警察に証言を行った、実在の友人が存
在したのは確かです。(引用した作文を警察に渡したとされる人物です)
☆ この観点・この事実は これからはしっかりと踏まえて行きたいと
思います。

(一般には 家族の者が・その証言が 引き合いに出されますね)。

ところで:
★ コギト
☆ は デカルトにかかわらせるとなると きわめてあいまいな概念で
あると このほんの二・三年前に知りました。

ちょうどきょうそのことについて触れる投稿をしました。

【Q:客観なんて飽くまで主観の内でしょ。他者なんて相対でしかない。
確からしさしかない。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9692421.html

☆ その回答№13です。デカルトは コギトの主体が 実際に生活し
ているわれではなく 形而上学的な・つまり霊としてのわれのことだと
言っていたというものです。
よろしかったら どうぞ参照してみてやってください。




★ 大澤氏の空虚な「私」は、コギト以前の存在=〈在る〉(レヴィナ
スの〈在る〉と同義でしょう)を示しているのか
☆ レヴィナスの《ある;われ;他者》は やっかいですね。その措定
の仕方がです。形而下のことを 形而上学のこととしてのように語って
いるようにひびきます。

お礼日時:2017/04/02 15:37

ありがとうございます。


 どうやらあなたとわたしとでは、政治の見方が違うようですね。わたしの場合、政治とは、あくまで人間社会を円滑に操作するための上部の機構にしかすぎません。イヤな名前を変えるということが、ほかの問題より優先度が低いとしたら、当然、民主主義であっても後回しにされると考えています(もし、賛成の得られない少数の意見で法律が変わってしまったら、それは民主主義ではなく、自由主義です。ただし、ここでの「賛成を得られない」というのは、ただ単に反対という意味ではありません。あくまで不賛成ということです。「論旨には賛成するが、賛成にもってゆくまでの政治的労力を嫌う」という内容も、ここには含まれます)。
 ただ、わたし自身、名前を変えることに否を唱えるつもりはありませんよ。現在、名前を変えることが原則的に勧められていないのは、現代社会の中で、あくまで優先度の低い不満として、社会の成員(あるいは政治家)に認識されていると考えているだけです。
 そもそも「押し付け」がなければ、不満も起こらないのではないですよね? 押し付けがなければ、自分の名前は自由に変えられるはずですよ。小説などのアウトローの主人公が、いままでの健全な社会に背を向けたときに、自分の名前を変更できるのは、かつての社会から制約を受けないからです。それに自由に名前を変えられる社会は、とても厄介だとは思いませんか? 名前を変えることが常習化して、年中名前を変える連中が現れたら、それはそれでかなり問題だと思います(むろん、それを規制する法律も生まれるでしょうが)。日本でなかなか夫婦別姓が進まないのは、日本という国が、ファーストネームよりも苗字をよく使うという点にあるのかもしれません。

 それと言葉に罪がないというのは同感だし、言葉狩りについても正直こころよく思っていません。ただ、言葉はクリアな存在ではないと思います。むしろだからこそ、わたしたちは行間という空白の部分を読むことが出来るんじゃないですか? それに、現在の言葉狩りについては、わたし自身、偽善者的なパフォーマンス、あるいは、かつて蔑称をもってして傷つけた相手に対する半端な慰撫としか思っていません。たとえば、障碍者の方々に対する蔑称が打ち消された背景には、差別用語を設定することで、自分の中にある障碍者の方々への差別意識を、差別用語に肩代わりさせようとする意志が見え透いていると思っています。精神病者と言い換えたところで、われわれの根底にある差別意識は消滅しません。言葉狩りというのは、じつに政治的なパフォーマンスなんです。

 くどいようですが、あくまで名前(単語)は、押し付けられたものということです。世界は言語により分節化しますが、もし人間以外の知的生命体が、独自の理論で言語体系を築いていたら、われわれの見る世界とはまったくちがう世界を認識していることでしょう。つまりは、モノに名称を与えるのは、わたしたちの一方的な押し付けということです。それはすなわち、人間の名前も、親からの押し付けということになりませんか? それに個々人の名前は、性格や人柄によって名前が付けられるのではなく、その逆です。〇〇という名前の意味に充填されるのは、われわれの性格や人柄なのです。


 名前をつけられて、空虚な存在(わたし自身から言わせると、一義的に決定できないカオスな運動)から脱するというのは、「人間であるというコト」から「人間であるというモノ」に変わったということだと思います。スケールの大きな社会では、人間は、コトではなくあくまでモノとして扱われます。そうしなければ、社会そのものが処理オチを起こし、空中分解してしまいます。「コト」に対処するには、「モノ」に対するように効率的にはいきません。相手の精神に分け入って、ものごとを考えなければならないのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~
(1) 名前をつけられて、
(2) 空虚な存在から脱するというのは、
(3) 空虚な存在(わたし自身から言わせると、一義的に決定でき
ないカオスな運動)
(4) 「人間であるというコト」から「人間であるというモノ」に
変わった
ということだと思います。
~~~~~~~~
☆ 
(5) たとえばこの質疑応答の場で IDとしての名前をつけて用い
ています。このことも 《名前をつけさせられて》いるゆえ われわ
れの人間存在が《モノと化す》ことになるのですか? 匿名だとする
と そうはならないということですか?

(6) われわれ人間の《存在が空虚だ》ということは 誰が言った
のですか? どういう意味ですか?

(7) いかに《カオス運動》をしていると言っても 自由意志によ
る――行動は思ったようにならないとしても――判断は おこなって
いるのでは? 《存在を一義的に決定する》とは どういうことを言
うのでしょう?

(8) 《人間であるモノに変わった》と言いますが そのときにも
《人間である》のは 《コト》であり続けている・・・はずでは?

(9) 《モノになる》のなら どうして《空虚な存在(?)から脱
する》ことをしなくてはならないのでしょう? 名前に代わる何かを
発明すればよいのでは? つまりそうしようとする少数者のうごきす
らありません。それが 何を意味するか? だと考えます。

(10)
★ 「コト」に対処するには、「モノ」に対するように効率的にはい
きません。相手の精神に分け入って、ものごとを考えなければならな
いのです。
☆ いまも 互いにそうしている・・・のでは? モノに成っている
のではなく・あるいはモノに成っていたとしても じゅうぶんコトに
対処しているのでは?

と考えます。

お礼日時:2017/04/03 05:32

わたしの駄文を読んでいただき、ありがとうございます。

しかし、そのうえで、補足させてもらいます。
 質問者さまは「自分につけられた名前が嫌いな人はいる」と言われましたが、ここでは、人の価値観や好悪の感情はまったく関係ありません。われわれすべてが、名前を「押しつけられている」のです。これは、社会からの押し付けであり、われわれにはどうしようもありません。あなたが生まれたときに、自分の名前は、自分で決めましたか? 決めませんでしたよね? われわれの名前はは、社会のもっとも小さな細胞である家族(母子家庭でも父子家庭でも、人間的関係がある以上、「社会」である)が「押しつけた」ものなのです。
 気に入るか、気に入らないかの判断は、そのあと行われます。そうして、われわれはどれほど「自分の名前が嫌い」であろうとも、「名前を持つ」という習慣はやめることは出来ません。芸能人が現在の芸名を失くすことは、新しい芸名を名乗るということと同義です。この同義が崩れたときに、芸能人はもう芸能人ではありません。
 そうして「枠にはめる」という表現は、「そのとおり」であります。第一に、名前というのは他者から見た自分の呼び名です。ただ、この名前というヤツは、その発音者それぞれにとってまちまちの意味を持ちます。たとえば、あなたをとても恨んでいる人物がいるとします。彼にとって、あなたの名前は、あなたを指し示すシルシ以上に、目に見えない形容詞のようなものがくっついているはずなのです。これは、あなたに好意を抱いている人物も同じです。その方は、あなたの名前を非常に好ましいものに思うでしょう。では、あなたのことをニュートラルに見ることが出来る人物の場合はどうなのか? ――そんな人はいません。名前というのは、それを指し示すことのほかに、かならずあるニュアンスがまとわりつくのです。犬という単語を耳にして、いとしいと思う人と、おそろしいと思う人がいるのと同じです。もし何も言及できないのなら、その人物にとって「犬」は無価値なものです。われわれは、徹底的に無価値なものに関係を結ぼうとはしません。風景の一部として認識されることもないでしょう。もし無価値なものを取り上げるとしても、それはその無価値なものに、価値を見出そうとするなんらかの「価値」があるからなのです。
 まあともあれ、このようにして、どんな名前にも、それを指し示すということ以上のニュアンスが醸されているのです。しかし、そのニュアンスは、あなたが同意したものでしょうか? おそらくちがうでしょう。名前とやらが自分を指し示すものだと社会と契約していても、その勝手に湧いたニュアンスとやらは、社会との契約書の文言の中をいくら探してみても見つからないはずです。それもそのはず。なにせ、このニュアンスは、他人が勝手にあなたに対して抱いているということなのですから。つまり、一種の決めつけ(=枠にはめること)なのです。
 たとえ、自分の名前が嫌いだったとしても、それはただ「自分の名前がきらい」だということではありません。自分の名前と言うことで、すでに、「自分」という存在を、そう呼びかける自分とは、切り離して考えています。そもそもわれわれが意識を向けられるのは、客体だけです(あるいは、客体の成分を持つものだけ)。ゆえに、自分の名前というシルシがまなざすものは、自分にとってある程度客体化された「自分」なのです。これは、自分に対して自分の名前を使っているというかぎりで、「自分という存在(可能的存在)」を「名前というひとつの枠(現実的存在)」にはめている行為です。というのも、すでにそこに、名前にまとわりつくニュアンス(嫌いということ)があるのだから。また同時に、嫌いだということは、すでにそうありたくないことを表明するプロテストでもあるのです。

 では、自分自身に名前をつけるというのは、どういうことなのか?
 また、芸能人を思い浮かべてください。彼らは、他人からどう見られたいかを、まず考えます。さわやかな路線で行くか、あるいはその逆の路線で行くか、悩むことでしょう。そうして、どの路線で行くかを決めたとき、もし芸名をつけるとしたら、その路線に適した名前をつけるに違いありません。
 では、その名前をつける相手はいったい誰なのか? それは、いまの自分ではない。未来のヴィジョンとしての自分です。それは、現在の自分にとっては他者(虚構)に他なりません。つまりは、芸名をつけるというのは、一種の枠を設けるということ。芸能活動は、その名前に見合うような努力を重ねることです。実名だったとしても内容は変わりません。それは、実名を芸名として使用したと考えられるからです。そうして芸能人としての実名と、一般人としての実名は、彼らの中ではきっぱりと別れているはずなのです。そもそも芸能人という存在は、その存在だけですでに虚構のものです。そして虚構とは、まだ起こらないという条件の下で創造されるものであります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ううーん。率直な反応をつづります。

★ 芸能人がうんぬん
☆ 自分〔たち〕がつけた名前は 押しつけではないから よいと
いうことですか? 積極的な《虚構》なのだと。

★ われわれの名前は、社会のもっとも小さな細胞である家族[・
・・]が「押しつけた」ものなのです。
☆ 言おうとすれば そうですけれど 問題はですね この《押し
つけ》が 合理的ではなく実害もあるとなれば 民主制の世の中で
すから わたしたちは あとで自分で変えることができるといった
制度にするのではないでしょうか?

しないということは それほど嫌がられていないのかも分かりませ
ん。

★ そうして「枠にはめる」という表現は、「そのとおり」であり
ます。
☆ なるほど。だとしますと この枠嵌めは たとえばこの両親の
元に生まれたとかあるいは日本という国に生まれて来たといったこ
ともみな 押しつけによって枠を嵌められたことになります。事実
そうですね。

そして この押しつけ一般が おかしいし嫌であるとするなら わ
たしたちはみんなで考えて よりよいものにする。ということでは
ないのですか?

★ まあともあれ、このようにして、どんな名前にも、それを指し
示すということ以上のニュアンスが醸されているのです。
☆ そうでしょうね。そしてこれは 今度は 名前に罪がある場合
というのは 例外でしょうね。

つまり 問題は その名前をつけた本人の人柄にあります。人柄は
自分で形成して来たものです。そこに誤解があれば これをただし
ます。
そういった問題ではないのでしょうか?

そして 名前は 哲学としては 文法で言う固有名詞なのではなく
《わたし》と自称するわたしなる固有名称にとっての代わりであり
シルシなのだ・・・こう捉えます。シルシにさほどこだわることも
ないのではないか と。

もっとも 言葉もシルシであるのに そこに《差別》が潜むと見て
いわゆる言葉狩りもがおこなわれて来ているようです。その思潮の
線で お考えでしょうか。

★ つまり、一種の決めつけ(=枠にはめること)なのです。
☆ これは いまの・これこれは差別用語であると見なすことにつ
いて言っているのでは? わたしは 言葉に罪はないという立ち場
です。

互いの見解が 併存するのではないでしょうか。

お礼日時:2017/04/02 09:28

お礼ありがとうございます。


現実の殺人者と思われる人物は、出版を行っているので、その中に自ら信仰した神が出ているのかと思いましたが、どうも、そのような事は一切書かれていないようです。
もちろん、現実の殺人者は、当時の状態では無いのですから、その信仰を捨てているとは思いますが、一切触れないと言うのも不思議な事です。
実を言えば、出版された本には、その行動の理由を祖母の死などを契機にした事や、学校や社会への復讐心などとしています。
それは、大澤氏や、他の書物による分析と似通っており、むしろ、あえて真実を書くことを憚っているかのようです。(何故か、阪神大震災以後のサリン事件などが起こった時期を身体性を失った時代と書いているようです)
同時に、現実の殺人者と思われる人物は、HPを開設していたようですが、それは、出版物と異なり、現実の殺人者であろうと思われる絵などで、構成されていました。
その描写は、信仰と言うか、その感性がまだ残っているようです。
出版した人物が、現実の殺人者と同一人物である確証はありません。(あえて、ステレオタイプに描いているのは、同一人物では、無く、世間が想像する現実の殺人者像を維持する為なのかもしれません)
その出版物には、行為を描写するパッションは見られても、その信仰に対するパッションは書かれていないようです。(本質的には、そこを明らかにしなければ、その出版物の意味は無いでしょう)
大澤氏が、本当に分析すべきだったのは、現実の殺人者の信仰対象が非社会的な神だった事では無く、その信仰がどのような意味を持つかでしょう。
現実の殺人者は、自らの信仰に対する信者であり、預言者(神の啓示を直接受ける存在)ではありません。
したがって、神が望む事を想像して行っています。(そういう意味では、それは観念の中にしか存在しません)
そして、その導師ともいうべき友人が存在します。
友人は、現実の殺人者の行為を正義へ変える為のアドバイスを行います。(この事によって、現実の殺人者の行為は、意味ある形に変わっていくわけです)
現実の殺人者は、その信仰の対象である神の意味を表すために偶像化した像を描きます。(それは、鏡の上に浮かぶ無表情な白目の首と、周囲にまき散らす液体のようなもの、そして、首の下に浮かぶ手、その台座としての箱(夜と昼が描かれています)です)
この意味は、本人しかわからないでしょう。
もし、その行為が信仰に基づいていたのならば、その信仰の構造を明らかにしなければいけません。
ただし、それは、かなり難しいのは確かです。
それは、本人しか語る事が出来ないからです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ その出版物には、行為を描写するパッションは見られても、その
信仰に対するパッションは書かれていないようです。(本質的には、
そこを明らかにしなければ、その出版物の意味は無いでしょう)
☆ なるほど。重要点であるでしょうね。

最近では タリウム殺人を犯した元名古屋大生の裁判での発言が関心
を引きました。(酒鬼薔薇らについては読んでいません)。

人を殺してみたいという衝動(?)がまだなおあると素直に語ってい
ます。或る意味 分かりやすい説明ですが 腑に落ちることはないわ
けです。

サイコパスの本が読まれているとか。そのグレーゾーンが問題なのだ
とか。・・・

★ 現実の殺人者は、自らの信仰に対する信者であり、預言者(神の
啓示を直接受ける存在)ではありません。
したがって、神が望む事を想像して行っています。(そういう意味で
は、それは観念の中にしか存在しません)
☆ ここも同じく本質的な問題だと思われます。

★ 導師ともいうべき友人が存在します。
友人は、現実の殺人者の行為を正義へ変える為のアドバイスを行いま
す。(この事によって、現実の殺人者の行為は、意味ある形に変わっ
ていくわけです)
☆ これは あまり注意をしていませんでした。友人の有る無しは 
まちまちだと思っていました。だとすると これは或る意味で共犯に
近いようにも見えます。

★ 現実の殺人者は、その信仰の対象である神の意味を表すために偶
像化した像を描きます。[・・・]
もし、その行為が信仰に基づいていたのならば、その信仰の構造を明
らかにしなければいけません。
ただし、それは、かなり難しいのは確かです。
それは、本人しか語る事が出来ないからです。
☆ そうなのだと思います。関心はあっても 《手を出す》ことはし
て来ていません。これからも 分かりません。

視野に入れてすすみたいと考えます。

お礼日時:2017/04/02 08:51

お礼ありがとうございます。


前回引用した、現実の殺人者が書いたとされる文ですが、実際に現実の殺人者が書いた文章と言う証拠が無いようです。(警察の捜査資料にあるようですが、それは自筆のものでは無いようです)
実際、全文を読んだ限り、14歳で書ける文章にしては、出来すぎています。(しかも、これは公表する為に書かれたものではありません)
この文章の「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。」は、ダンテの「神曲」第一章の引用ですが、この本は、現実の殺人者の家からは見つかっていません。
大澤氏は、犯行声明文を分析しているようですが、この犯行声明文は、現実の殺人者が、自分を捜査の対象から外すために作文したものとされています。(30歳代の義務教育により、「透明な存在」にされ、社会に復讐を企てている人物像を想定したとされています)
したがって、ここに書かれている事は、現実の殺人者を表現しているわけでは無いと言う事になります。
よって、分析には使えません。(現実の殺人者が書いたとされる文も使えないでしょう)
ここで、大澤氏の論に戻ります。
>>「魂の存在を前提にするということは 容易に 超越的な〈他者〉(の魂)の存在を想定することへと転換される。」
「魂」は、誰にもあると考えたと言う事ですね。(問題は無さそうです)
>>「〈他者〉を超越的な実体へと転換するということは〈他者〉の(象徴的な)殺害」
論理的なつながりが不明です。(殺害とは、〈他者〉を人間としてみなさないと言う事でしょうか?)
>>「「人間を二度殺しうる」ということは 一度目の殺しによっても殺されえなかったもの――つまり超越的な〈他者〉――をも殺すことができるという意味」
「二度殺せる」を「二度殺しうる」と言う言葉に置き換えています。 これでは、〈他者〉が一度では死なない存在と考える事になります。(大澤氏は、そのように考えています)
普通は、「魂」は、死後その肉体にとどまるとは考えません。
現実の殺人者は、調書において、死体の首を切ったのは、死体がしゃべっていたので、「魂」が残っていると思ったと証言したとされています。(つまり、死んでいないと思ったのでは無いでしょうか?)
この事を犯行声明文に誤って記載したとしたら、現象として二度殺したと言う事なのかもしれません。(したがって、これが、超越的存在の殺害を意図したものでは無いでしょう)
現実の殺人者は、小学生の時から、その独自の神を信仰しており、初期には、罪の贖罪などの告白も神に行っています。
少なくとも、超越的存在=神を殺そうとは思わないでしょう。
大澤氏が意味する超越的存在と、現実の殺人者の考える超越的存在は、乖離しています。
それを混同して解釈したら、その内容は混乱してしまうでしょう。
>>「だが 神を殺すことは 再び神を招き寄せてしまう。ただし今度は 神の否定を表現する神 神の不可能性を表現する裏返しの神を。[・・・]」
完全に混同しています。 現実の殺人者の神は、そのような状態で生まれていません。(小学生の時から信仰をはじめています)
どうも、神の名前から、勝手に憶測しているような感じです。(現実の殺人者が、倫理的宗教の信者で、転向したなら、意味が通じますが、そうではありません)
>>「否定的な裏返しの神とは 言うまでもなく バモイドオキ神である。この神の名( バイオモドキ )が担う否定的な含意――「魂(超越的な魂)のようでありながら 真の魂ではありえない」――はこの神の否定的な性格に見合ったものである。そして 切り離された B 君の首に託されていたのは バモイドオキ神の視線だったのだろう。」
なにか混同しているような感じがします。 この神は、現実の殺人者の信仰対象であり、モドキではありません。
むしろ、モドキを識別できる神と考えた方が良いでしょう。 現実の殺人者は、死を知る為の実験を行ったと証言しています。 したがって、最初から、〈他者〉に超越的(永遠)の「魂」を想定しておらず、死が訪れる存在と認識しています。
実際には、死に至る状態を観察したわけですが、それは快楽を伴う行為だったわけです。
>>「だが 二度目の殺しによって超越的な〈他者〉を排除してしまったことの代償は大きい。というのも 〈他者〉の超越性こそが 「意味」の秩序を吊り下げるフックの役割を果たしていたからだ。」
「意味」の秩序に「超越性」は、不要というか、無関係です。 意味は、理性(合理的思考と言う意味で、倫理的である事は要請されません)により、秩序化されるので、理性から離れた「超越性」は必要ありません。
したがって、ここでの「意味」が表すのは、宗教的な倫理観となりますが、それは信仰対象によると言う事です。
現実の殺人者は、自らの信仰する神による倫理観と正義によって行動しています。(それが、一般の倫理観から逸脱していたというだけです)
>>「超越化された〈他者〉を否定し去ることは 世界の有意味な現実性の総体としての崩壊を導くことになるだろう。とりわけ 世界の中での自己の「意味」を つまり自己が何者として承認(肯定)されているかということについての信念(アイデンティティについての信念)を 失うことになるはずだ。」
論理性が良くわかりません。 現実の犯罪者は、アイデンティティを失っていません。 また、社会(自己の信仰する神と違う世界)への承認は求めていないでしょう。 自己の信仰対象に対する「意味」だけを、その信仰から追求しています。(現実の殺人者は、信仰対象である神からの命名をお願いしています)
ここからは、大澤氏の論からは、離れます。
現実の殺人者は、その信仰する神から、啓示を受けているわけでは無いようですが、何故か「友人」と称する存在から、アドバイスを受けます。(警察は、その「友人」も架空の存在と考えているようです)
その「友人」は、発想を変えれば、無意味を意味に変える事が出来るとアドバイスしたようですが、何故、直接神は語りかけないのでしょうか?(それは、神が超越的な存在である事を示唆していないでしょうか?)
どうも、大澤氏の分析は、現実の犯罪者像をきちんと分析していないよう感じですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ どうも、大澤氏の分析は、現実の犯罪者像をきちんと分析して
いないよう感じですね。
☆ おそらくそうなんでしょうね。大澤にはすでに〔信仰としてよ
りは〕宗教としての神の理論ないし宗教現象としてのシナリオのよ
うなものがあって どうもそれによって実際の犯罪者の動悸や心理
を説明しようとしている。感じがします。

★ 「二度殺せる」を「二度殺しうる」と言う言葉に置き換えてい
ます。
★ 現実の犯罪者は、アイデンティティを失っていません。 また、
社会(自己の信仰する神と違う世界)への承認は求めていないでし
ょう。
☆ などなどといったふうに 大澤の持論と犯罪者の行動との食い
違いを分析していただきました。


問題――課題――が残るとすればですね。ちょうどおそわったレヴ
ィナスの主題・つまり《観念に到来する神》にあるかと思います。

つまり 神ないし神の言葉が 観念として得られるという説は ま
ったくあり得ないとして否定することができないことではないか。

つまり 絶対なるものであるなら 相対の世界に《降りてくる》と
いうことがあり得るということ。それが 証明されなくともです。
主観としてありうる。

つまり 《有責性》もそうでしょうし 大澤の宗教現象としての神
論も 否定し去ることは無理だと思われるわけです。

少し読み始めていますが そのレヴィナスについて ここからは考
えようかと思います。


あらためてのまとめや補遺などありましたら どうぞ。

お礼日時:2017/04/02 00:08

私は有るものを購入しました


あなたが以前言っていた者が
偶然ありました
家に帰りあなたが私の誕生日の時に言っていた者が
偶然ありました
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この回答へのお礼

記憶はあるのだが まだ誰だったか特定できない。

名前は違ったはずだから。



ふたつ同じ物が重なったのか?

お礼日時:2017/04/01 11:25

定年退職


年金生活するほうが、時が迫っているくせ
何を逃避ばかりいう
楽ばかりかんがえるから
こんなことばかり
家の中で言って
金を生むのか
子育てしたことないから
全て気楽な人間
貧困だから気持ちもなりきり
自分さえよいから
された事は事実上ある
これは
人を傷つける事ばかりする
目の前でいえないくせ
いっも失敗ばかりして
いる❗
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この回答へのお礼

入院している妹が しゃぶしゃぶ食べ放題にはまってしまって
一月から三度連れて行ってやっている。四月も行くと言ってい
る。

何か うまいものを食べたら?

お礼日時:2017/04/01 11:23

お礼ありがとうございます。


実際の殺人者の文章を読んだところ、これは分析のしようが無いと言うか、確信に満ちた文章でした。(書いてある内容は、非常に難解ですが、そこには、一種の達観というか、確実な目的性をはらんでいます)
ある意味、これが別の方向へ進み、殺人の実行に陥らなければ、作家か、哲学者、宗教家になれたでしょう。
そういう意味では、確かに、現実の殺人者は、宗教的世界に陥ってはいたわけです。(それは、決して、他者と倫理的な関係を持つものでは無く、一種の神話的世界だったわけです)
また、フェイクと本物が混同される事に対する不快感が表明されています。(むしろ、フェイクの方が本物らしく見える事に不快感を感じています)
この文章から、判断すれば、殺人者は、それがフェイクか本物かを判断する為に殺人を行ったとは、言えそうです。
大澤氏が、これを、本物=「魂」と判断しているのならば、被害者が本物かどうか?=「魂」をもっているかどうかを知りたがったのは、確かかもしれません。
ただし、現実の殺人者は、すでにそれが、フェイクだと判断していたように思えます。
フェイクだから、それを消し去って、現実の殺人者の神に捧げたのでしょう。
「透明な存在」、この言葉には、2面性があります。
文字通り、透明なピュアな存在と意味と、他者からは、透明な存在として認識されないと言う意味です。
現実の殺人者は、この2面性をきちんと認識しています。
本物らしく見える、現実の社会の真っ当さは、現実の殺人者にとっては、フェイクかもしれないと言う感覚が生じています。
そこで、「透明な存在」である事は、自分が本物である実感を与えるとも言えるでしょう。(これは、ある意味、陰画(ネガティブ)な感情です)
このような感情の中では、反社会的であるほど、本物に近づく事になります。
そして、フェイクの最たるものは、社会で最も貴いと思われる対象に向かいます。(これは、愛玩されるべき存在、小動物や、無抵抗な子供などでしょう)
実のところ、実際の犯罪は、そのように行われました。(別に、この分析が正しいと言う証拠になるわけではありません)
実際に、倫理的な関係が無い状態を、レヴィナスの論では、分析するのは不可能です。
また、倫理的な宗教を持つ民が、一種暴力的な弾圧を行う事の説明が出来ません。
ここで、大澤氏の論に戻ります。
大澤氏→「魂」と〈顔〉=「絶対的他者」の表象を同一視しています。
したがって、〈私〉の「魂」と〈他者〉の「魂」も同一視されます。
ここで、論理の飛躍があるんですが、〈顔〉は、無限に変幻して認識できません。
これを、大澤氏は、「知覚から逃げる」としていますが、これでは、〈私〉の「魂」と同一化する事は出来ません。(「魂」が逃げるものであれば、自己同一性などは、保持できないし、〈私〉も無いでしょう。(レヴィナスの言う、〈在る〉と言う状態になります。(名付けが出来ない状態では、ある意味「透明な存在」とは言えるかもしれません)
つまり、〈私〉の「魂」と〈他者〉の「魂」=〈顔〉を同一視した段階で、自己同一性は消え去ってしまいます。
ただし、実際の殺人者の文章には、「自己の中の魔物に操られる」と言う文があります。
「かつて自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」」
この分析は、レヴィナス流に言えば、〈在る〉だけの存在を意味しているとは言えるでしょう。
確かに、現実の殺人者は、〈在る〉だけの、決して定位しない、変幻自在なもの=「魂」=「魔物」を自己の中に内在させていたようです。
むしろ、実際の殺人者の分析の方が空恐ろしいと言えます。(ある意味、大澤氏より的確かもしれません)
とても、14歳でかける文章とは思えません。
『「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」
魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。
深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているのである。
「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。」』
これが、結論であれば、現実の殺人者は、何故殺人を行ったのでしょうか?
ここから、殺人に進むのであれば、それは、決して「癒し」では無く、確信的な「正義」への衝動でしかありません。
『大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。
通常、現実の魔物は、本当に普通な“彼”の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際、そのように振る舞う。
彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう……
ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみや、プラスチックで出来た桃の方が、
実物は不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、
バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないと
俺たちが思いこんでしまうように。』
現実の殺人者がにとっての本物が、ここに表現されているようです。
大澤氏の論では、自己の「魂」の確実性を確かめる為の実験が、「他者」の「魂」を確認する事とされていますが、この文章からは、そのような動機は見えないようです。
はたして、この後の大澤氏の論は、どのようになるのでしょうか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

謝謝。

大澤は 確かにレヴィナスとは違うようです。

このあとは 《ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている》という
声明を分析して話を終えます。

▼ 
魂の存在を前提にするということは 容易に 超越的な〈他者〉(の魂)の
存在を想定することへと転換される。

ところで 超越化された〈他者〉を想定するということは 死においてもな
お持続するもの つまり殺されても生きつづけるものを想定していることに
なる。したがって 〈他者〉を超越的な実体へと転換するということは〈他
者〉の(象徴的な)殺害なのである。これを 言わば「一度目の殺し」と考
えてみよう。

そうすれば 「人間を二度殺しうる」ということは 一度目の殺しによって
も殺されえなかったもの――つまり超越的な〈他者〉――をも殺すことがで
きる という意味であると 理解することができるだろう。

だから 一人の人間を二度殺すということは 徹底した神殺しを意味してい
るのではないか。

だが 神を殺すことは 再び神を招き寄せてしまう。ただし今度は 神の否
定を表現する神 神の不可能性を表現する裏返しの神を。[・・・]

酒鬼薔薇聖斗にとっては 否定的な裏返しの神とは 言うまでもなく バモ
イドオキ神である。この神の名( バイオモドキ )が担う否定的な含意――
「魂(超越的な魂)のようでありながら 真の魂ではありえない」――は 
この神の否定的な性格に見合ったものである。そして 切り離された B 君
の首に託されていたのは バモイドオキ神の視線だったのだろう。

 ☆ 思考や想像の産物としての神であっても・つまり《モドキ》であって
  も イエス・キリストのような神――《殺害された神》(?)――であ
  りうるとしての話のようです。

だが 二度目の殺しによって超越的な〈他者〉を排除してしまったことの代
償は大きい。というのも 〈他者〉の超越性こそが 「意味」の秩序を吊り
下げるフックの役割を果たしていたからだ。

超越化された〈他者〉を否定し去ることは 世界の有意味な現実性の総体と
しての崩壊を導くことになるだろう。とりわけ 世界の中での自己の「意味」
を つまり自己が何者として承認(肯定)されているかということについて
の信念(アイデンティティについての信念)を 失うことになるはずだ。
・・・

お礼日時:2017/03/31 12:06

おそらく問題は、「透明」や「空虚」という大げさな言葉にあるでしょう。

質問者さまが言われるように、わたしは「空虚」ではありません(大澤は、規定できないものは空虚だと言っていますが、わたしはそうは思いません。言葉に出来ないものが無というのは乱暴です)。実体としてありますが、つねに「ズレている」ということでしょう。あるいは自己規定の枠を「はみだしてしまう」と言ったらいいでしょうか。この余剰部分を自分には理解できない「他者」とすると、この他者を含めた「わたし」たちは「何者としての規定にも解消できないもの」ということになりませんか?
この、どうやっても規定できない「わたし」を、無理やり一つの枠にはめるのが、つまり「名前」です。魔術的というのは、そういう意味でしょう。重要なのは、この「無理やり」です。人間社会に必要だったのか、あるいは、人間社会を作るために必要だったのかは分かりませんが、社会の中で円滑に事をすすめるためには、必要な手続きなのです。

はみだすもの=他者というのはすこしまずいかもしれません。しかし、まあ、大ざっぱに言えば……。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 〔名前は〕社会の中で円滑に事をすすめるためには、必要な手続き
なのです。
☆ この見方を同じくします。そして:

★ この、どうやっても規定できない「わたし」を、無理やり一つの枠
にはめるのが、つまり「名前」です。
☆ ここは どうでしょう。

わたしの考えでは ひとつにおそらく自分につけられた名前が嫌いな人
はいると思うのです。どうしても いやだ 好きになれないという名前
の場合があるかと思うのです。

ですが それは 一般化して捉えることにはならないのではないか?
そういう場合になってしまった人たちには わるいですが それを《名
前が無理やり枠にはめる》という問題だと見るのは 例外のような場合
ではないでしょうか?

そのため どうしても変だし 実害があるという名前の場合には 変更
することがゆるされるといった見方になると思われるからです。

つまり 名前がつけられるのは 《枠嵌め》だと言うのは 言い過ぎで
はないか?

やはり その人の存在を指し示すためのシルシである。のではないか?
とは 考えます。少数意見かも知れませんが。

★ おそらく問題は、「透明」や「空虚」という大げさな言葉にあるで
しょう。
☆ ここは わたしの見方に賛同していただいたようです。

全体として どうでしょうかねぇ。

お礼日時:2017/03/30 23:58

お礼ありがとうございます。


陰画が、反転すれば陽画になる。 ですから、これでは、〈私〉と〈他者〉が反転しただけの関係になってしまいます。
レヴィナスが論じた、対格関係が無くなってしまうんですよ。(つまり、大澤氏とレヴィナスでは、その論は違うと言う事です)
したがって、まったく違った説明で、レヴィナスと同じ結論を語っています。
大澤氏は、〈他者〉を〈私〉と同格と考えて、殺人出来ない理由を論じています。
レヴィナスは、〈他者〉が対格として〈私〉に「汝殺すなかれ」と要求する事が、殺人出来ない理由です。
大澤氏の説明では、レヴィナスの説明が理解できません。
レヴィナスの説明も、非常にわかりにくいですが、レヴィナスの場合は、〈他者〉が絶対的他者である故に、〈私〉の意識にひび割れを生じ、そのひび割れが、〈他者〉への対話を行う「希求」の源泉となります。
つまり、対話を行う為に、〈他者〉が必要となるわけです。 この受動性が、殺人を禁じる「倫理」を生むと考えたわけです。(決して、「同格」だから、殺さないわけでは無いです)
しかし、これでは、レヴィナスにとっての〈他者〉と神の区別がつきにくいのは確かです。
そこで、レヴィナスは、〈顔〉がそのように訴えるのは、神の痕跡だとしました。
エゴは、基本的に神と無関係に行動するわけですから、〈他者〉との間に倫理関係が生まれる契機はありません。
しかし、〈他者〉との関係に、倫理関係が生まれるとしたら、そこには、何かが介在しているはずです。
それは、痕跡として、〈他者〉との関係に介在します。(レヴィナスは、このような活動が「宗教」だと考えました)
結局、「宗教」になってしまったようですが、実際は、レヴィナスは神を介在させるつもりは無かったわけです。(〈他者〉と神が違うと言う事を示すためだったのでしょう)
ちょっと、横道に外れすぎました。
>>「〈他者〉の顔は まさに他者性の顕現において殺害を禁ずる。それゆえにこそ〈他者〉における魂の存在を――自明の前提とはせずに――あえて実験的に実証とする者は〈他者〉の顔に直面して〈他者〉の殺害を試みることになるのだ。」
何故、いきなり「魂」が出てくるのでしょうか?(そこまでに、「魂」の議論は無く、〈私〉と〈他者〉だけだったはずです)
いつから、〈私〉は、「魂」に変貌したのでしょうか?(ここまでの議論では、「魂」などの概念は不要なはずですよね?)
「魂」が有ろうが、無かろうが、それまでの論では、〈私〉と〈他者〉が同格だから、殺さないのでは無かったでしょうか?)
つまり、本来の論では、〈私〉と〈他者〉が本当に同格かどうかを試すために殺すのでは無いですか?(殺しても、同格かどうかはわからないですけどね)
つまり、大澤氏の論では、殺人者は、自分に「魂」があるから、尊重されると考えると言う事になります。
また、〈顔〉は、そこに「魂」の存在を暗示する存在として考えています。(レヴィナスの、〈顔〉は、変幻し、決して認識されない絶対的な他者を顕現するものです)
このように分析した場合は、単純に顔を見て殺す殺人者は、〈他者〉を同格として考えないと言うだけです。
顔に〈顔〉の機能を見ていないだけですね。(単純に、倫理が無いだけのような感じがします)
ただし、大澤氏が分析する殺人者は、ある神を信じていました。
そういう意味では、レヴィナスが考えるような、倫理関係が生ずる宗教以外の宗教が存在する事になります。(レヴィナスは、それは宗教では無いと言うでしょうけどね)
はたして、大澤氏のこの後の論は、どのようなものでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 〈私〉と〈他者〉が反転しただけの関係になってしまいます。レヴィ
ナスが論じた、対格関係が無くなってしまうんですよ。
☆ 了解しました。

▼ ~~~
・・・顔に直面して殺人が可能かどうかを確認する必要があったのである。
( p.247 )

もし〈他者〉の存在の自明性が 〈私〉の存在の必然性と同じことである
とするならば 〈他者〉の魂の存在を懐疑せざるをえない者は 〈私〉の
存在に関しても つまり私がほかならぬこの私であるという同一性(アイ
デンティティー)に関しても やはり希薄な実感しかもちえないに違いな
い。

実際 少年A(酒鬼薔薇)の犯行声明文には このことの兆候を明白に読
み取ることができる。兆候が最も端的に現れている箇所は 広く注目され
た「透明な存在であるボク」という表現である。

自己の同一性についての不安は 〈他者〉の魂の存在を実証しうる限りに
おいて 癒されるだろう。だが 〈他者〉の魂の存在は 本来的に実証す
ることができないのだった。それゆえ 魂の存在を示そうとする「実験」
は 決して終わることがなく 強迫的に繰り返されるほかないだろう。

具体的には それは 殺人の反復にならざるをえない。[・・・]

だが それにしても問われることは 酒鬼薔薇聖斗と名乗るこの少年の中
で 〈他者〉の魂の存在についての確証が無残に崩壊してしまったのはな
ぜなのか。[・・・]

魂は ただそれを把握しようとする志向作用から逃れていく限りにおいて
その存在が確認される。[・・・]捉えようとする限りにおいて捉えること
ができないのだ。

逆に 魂の存在についての自明な確信が得られない状態とは 逆説的にも
何らかの志向作用(知覚)によって 通常の物と同じように一個の対象と
して「魂というの物」が捉えられてしまっているということを意味するだ
ろう。魂は 捉えられてしまったその瞬間に変質し 魂ではなくなるはず
だ。

少年Aは 殺した B 君の首を切り取り 切り裂いたのは 魂を抜き取る作
業だった と証言しているという。彼は 児童の身体の奥にまで魂を追い
かけつづけ ついにそれを掴み そして取り出してしまったのである。だ
が到達するはずのない所に――つまり魂に――手が届いてしまったのはな
ぜか? ( pp.247-249 )
~~~

お礼日時:2017/03/29 05:02

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