【日本史・瀬戸方久のわらしべ長者物語で物乞いをしていたら小銭が貰えて、その小銭を携えて海に行って取れ過ぎた魚を漁師から買って、村に行って干物にして売って、売ったお金で老夫婦が畳むと言う茶屋を買って安く茶を出して、茶屋をやっていたら旅人から何処其処で戦はあるという情報を聞いたら、戦の地に行って飯と薬を売り、戦が終われば戦場に散らばっている武器を持ち帰り蔵が建って物乞いから商人になったという伝説の話。

で、戦が終わって持ち帰ったのは武器の他に「人間の死体」も含まれていたという。

死体をどうしたのでしょう?

瀬戸方久は死体からどうやってお金を得たのでしょうか?

A 回答 (1件)

ソースが不明なので、「むかしばなし(フィクション)」としての存在すら信用できない。




>瀬戸方久は死体からどうやってお金を得たのでしょうか?

その話には「死体を持ち帰った」ことや「死体からお金を得た」という記述があるのでしょうか。


ところで、あなたの脳内では歴史と昔話は同じものなのでしょうか。
「【日本史・瀬戸方久のわらしべ長者物語で物」の回答画像1
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この回答へのお礼

みなさん回答ありがとうございます

本当らしい

信じなくていい

お礼日時:2017/04/03 07:39

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鉄製武器を最初に使用したのはヒッタイト人、と暗記しました。ではそれ以前は何を使って戦ったのでしょう。よろしくお願いします。

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青銅器以前は石器で戦いました。
石の鏃をつけた矢の出土もあり、石の穂先の槍も存在します。

人間は手近なもので武器を作り戦う生物なのでしょう。
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 戦国時代、戦費は参加する人間負担だと言われます。

 (1)知行のある人間が、村々に割り当てして兵を徴収する訳ですが
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 (2)村から集まった兵は、武器や食料は自分で準備したんでしょうか?
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  もんですかね?あくまでも各自負担ですか?


 (3)もし、食料や武器は各自負担だったら、まあ、統制は取れない軍隊になります。
  普通に考えれば、食料や武器は統一で運用したほうが、戦いは合理的に進められ
  ますが、 この辺は戦国時代はどのように運用されていたんでしょうか?

  詳しい人がいたら教えて下さい。

Aベストアンサー

えーとまず質問者さんの疑問に思ってる点が徐々に変化していったのが戦国時代ですので、戦国時代と一言で言っても時期・大名によって変わっていった時代です。
ですので概ねこんな感じといった概略を答えることはできても、実際どうだったかは個別その戦いを調べてみないとわからないでしょう。


(1)基本的に戦に行く事そのものに対する給与は0ですね。ただし職業兵としての足軽であれば足軽であることそのものに俸禄があります。農民兵はただのタダ働きですね。ですがなかには派手に金銭をばらまいて兵士を集めたケースもいくつかあります。
恩賞首を討ちとれば、当然褒美はあります。

(2)武器は基本的に武将が支給します、食料は数日(二日?)程度は自弁で持ち歩き、それ以上は基本大名が用意します。
なお当時の農村は武装しています。農民が丸腰になったのは秀吉が刀狩りしてからです。それまでは農民は各自武装して自分の村を自分で守っています。

(3)基本的に戦国時代の部隊で統制がとれているのは希ですよ。
食料や武器が統一運用できるようになったのはごく一部の大名であり、多くの大名は自国の領内もしくはその近隣地域に略奪してまわるのがせいぜいです。遠征戦をできるのはごく一部の経済的に裕福な大名で、それができた限られた大名が統一的に食料の調達や輸送ができたのだと思われます。織田・羽柴・毛利・武田・上杉といった大名でしょうか、各自強力な金蔓があります。なお徳川は関ヶ原のみ遠征戦を経験していますが、関ヶ原も道中の大名の協力のもと食糧供給を受けていて、おそらくそういった戦略輸送・戦略移動は極めて苦手だったでしょう。

えーとまず質問者さんの疑問に思ってる点が徐々に変化していったのが戦国時代ですので、戦国時代と一言で言っても時期・大名によって変わっていった時代です。
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Q沖縄戦(地上戦)について

太平洋戦争の沖縄戦について詳しく載っているサイトをご存知の方いませんか?できれば地上戦について詳しく載っているサイトをお願いします。

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参考URL:http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/okinawasenn.htm

Q日本国籍の傷痍軍人は年金があるから物乞いは偽者?

朝鮮人(大東亜戦争当時の朝鮮は日本で朝鮮人は日本人)は日本軍人として戦っても日本政府から年金をもらうことはできませんでしたか?
日本国籍の傷痍軍人は何年ぐらい軍に勤めていたら年金をもらう権利を認められたんでしょうか?
また、当時の元日本兵はネットの無い時代どうやって保護を受ける権利があることやその方法を知っていたんでしょうか?新聞に載っていたりチラシが配られていたりしたんでしょうか?

Aベストアンサー

・日本国籍の傷痍軍人は年金があるから物乞いは偽者?

 占領中は、国家財政悪化とGHQの支持で、軍人恩給の支払い停止され、
昭和28年から年金支給されましたので、その間、何の支援もなく
苦しまれた方多かったです。
 先日の彼岸で、戦後身寄りなく物乞いしてた傷痍軍人が寺の前で
餓死し葬られた墓に、お供えしてきました。

軍人恩給は、軍歴12年(戦地三倍換算)ですので、開戦からの召集兵の
多くは、受給してません。
 一応、市区役所町村役場には、兵事係いたころの名簿あるので、
陸軍省・海軍省の後継である厚生労働省援護局からの通知を、
復員兵の家庭に通知します。

 戦後、平和条約により、日本国籍を喪失し日本人でなくなったとの理由で、日本政府は
韓国朝鮮人・台湾人・樺太千島に取り残された北方諸民族の帝国軍人を戦争被害の補償対象から除外し、
元軍人・軍属やその遺族に対して障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、
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現在でも多くの未払給与があり、一部の人が弔慰金を受け取ったのみである。

 1974年末にインドネシアのモロタイ島で発見された台湾人日本兵、中村輝夫(李光輝)の
発見をきっかけに給与が未払で補償がないことに関する世論の批判もおき、
1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払われたが、
給与は現在でも未払である。
また、当時強制的に軍事郵便貯金とされた給与も引き出せなかったが、
これは120倍にして返却することが決まり1995年に支払いが開始され一部の元隊員は受け取った。
しかし平均1000円ほどの残高を所持し、当時としては大金だったのに120倍で引き出しても
12万円にしかならない。現在でも、物価上昇を考慮すると、数年間の戦闘の対価としては
あまりに少額として抗議する元軍人も多い。

・日本国籍の傷痍軍人は年金があるから物乞いは偽者?

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 先日の彼岸で、戦後身寄りなく物乞いしてた傷痍軍人が寺の前で
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軍人恩給は、軍歴12年(戦地三倍換算)ですので、開戦からの召集兵の
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 一応、市区役所町村役場には、兵事係いたころの名簿あるので、
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Q茶と茶屋

お茶は中国から伝わった平安時代頃には、お団子のようにして食べていたそうですが、
茶の湯と称して飲むものになったのは室町時代くらいからなのでしょうか。

だとすると、平安時代などの山の峠の『茶屋』などでは団子状のお茶を出していた訳ですよね?
飲み物としては白湯やお水を出していたのでしょうか。

江戸時代のお話しや時代劇などでは今と同じように茶葉で茶を煎れ、
その他にお団子などを出しています。

では、それ以前の『茶屋』はどんなものだったのでしょう。最近とても気になっています。
お茶と茶屋の歴史を教えて下さい。お願いします。

Aベストアンサー

質問者さんの想像する茶屋は、江戸時代の街道筋の宿場で喫茶・食事を提供する休憩所としての「茶屋」です。
 茶屋の始原は鎌倉中期に、街道筋の寺院門前で茶を接待する「接待茶屋」・「施行茶屋」までさかのぼりますが、室町期に寺社門前で抹茶を振る舞った「一服一銭」や、戦国から江戸初期まで将軍・大名によって直営された「御茶屋」へと至ります。御茶屋は後に本陣(大名が利用する宿)へと変化し、江戸期に民営の茶屋が誕生します。街道の整備や参勤交代、民間流通の発展に伴い、茶屋は主に宿場町の両脇に集中して建てられますが、街道筋の間(あい)の村にも休憩所としての立場茶屋が生まれます。
 この時代の茶屋の繁盛には、給仕女の売春に依るものが多く、幕府は延宝6年(1678)には、新規に茶屋を営業することを禁止、給仕女は2人まで。日中のみの営業と規制を引き、その後も何度か禁令を発しますが、実際は有名無実でした。しかし、幕末期の物価高騰と、交通手段の変化により旅籠とともに茶屋も衰退します。

 喫茶は、天平元年(729)に宮中大極殿で行われた、季御読経(きのみどきょう)で茶が振る舞われたと伝わります。また延暦24年(805)に最澄が茶の実を比叡山麓に植えたともいいます。
 弘仁5年(814)に嵯峨天皇は藤原冬嗣の閑院第より茶を喫し、翌弘仁6年には梵釈寺で煎茶を献じられます。また同年に嵯峨天皇は畿内・近江。丹波・播磨に茶を植え、宮中に献上させています。当時は煎茶、それも実際に葉を煎じて飲んでいたと考えられます。
 遣唐使の廃止後は茶栽培も中断しましたが、建久2年(1191)に栄西が茶を持ち帰り、また承元元年(1207)に明恵が栂尾で茶を栽培しました。栄西の茶法は抹茶であり、ここから寺院を中心に喫茶が広まります。当時は抹茶は薬効・覚醒・精神修練として取り入れられました。
 室町期に茶は流行し生産量も増えますが、茶葉は石臼で挽いて抹茶とし、庶民は主に引き屑である「ヒクズ」を飲用としました。茶葉を湯にくぐらせて飲む方法は日本では江戸初期に行われていたと考えられますが、江戸中ごろに現在の煎茶技術が確立し、庶民の喫茶法となります。

質問者さんの想像する茶屋は、江戸時代の街道筋の宿場で喫茶・食事を提供する休憩所としての「茶屋」です。
 茶屋の始原は鎌倉中期に、街道筋の寺院門前で茶を接待する「接待茶屋」・「施行茶屋」までさかのぼりますが、室町期に寺社門前で抹茶を振る舞った「一服一銭」や、戦国から江戸初期まで将軍・大名によって直営された「御茶屋」へと至ります。御茶屋は後に本陣(大名が利用する宿)へと変化し、江戸期に民営の茶屋が誕生します。街道の整備や参勤交代、民間流通の発展に伴い、茶屋は主に宿場町の両脇に...続きを読む


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