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哲学カテで回答数が一番の質問が「人を殺してはいけないのは何故ですか」
というものでした。
回答数があまりにも多いので一部しか読んでいません。

ハーバードのマイケルサンデル教授の公開された講義の中に「殺人に正義は
あるか」というテーマのものがあり、あれこれ仮定を想定し学生に答えさせ
大変面白い講義を行っています。

私はこれまでこの問題に対する答えで、腑に落ちるものに出会ったことがほ
とんどありません。

改めて問いたいと思います。

1、人を殺してはいけないのは、何故ですか?

2、こんな「自明」に思える問題の答えがなかなか出てこないのは何故ですか?

「人を殺してはいけない理由」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • 骰子さん、すいません、愚痴になっちゃいましたね。

    お分かりだと思いますが、私は左です。

    「人を殺してはいけない理由」の補足画像1
    No.48の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/11 00:08

A 回答 (54件中41~50件)

古代の戦争について、いくつか事実を述べておきましょう。



・古代の戦争は人減らしであった
 たとえばローマの城壁都市の地域に、飢えたゲルマン人が侵入することがありました。げんまん人はローマ文明を受け入れるのを拒否し、境界線の向こう側で自分たちの生活をしているのですが、凶作の年などでは、ローマ人地域まで出てきて略奪をおこない、糊口をしのいでいました。

もちろん、ローマ人も困るので戦いになるわけですが、ゲルマン人側が「凶作だけどなんとか食べられる状態まで人が減る」と元の地域に帰っていきました。

 古代の戦争というのは、政治の権謀術数によるものもありましたが、大半はこういう「やむに已まれぬ食糧事情」による戦争であったといえます。つまり「人が強制的に死ぬことで人口が適正になる」ということです。もっと穏やかなやり方は姥捨て山などでしょう。

ですからそもそも人類は「自分または他人を殺すことによって、人口を維持し、人類が全滅しないようにしていた」のです。
だから、質問者様が「よく、人類は滅びなかったな」と書きますが、それは当然な結果であったともいえるわけです。

ここで一つの命題が浮かび上がります「人類または自分の社会が存続できない場合、殺人は許可される」ということです。戦争で人を殺すことが善になるのは、こういう暗黙のルールがあるからです。

逆をいえば「社会が十分に存続できるなら、その構成員を殺害することは悪である」ということになります。実は、これは正当防衛の要件でもあります。銃を撃ちまくるテロ犯などは「社会を構成する善良な人々」を多数殺害するわけですから、その解決としてその場で殺すことも許容される、ということになります(殺してもよい、であって殺せ、殺さなければならないではない)

実はこのルールは、人類が殺人を可能とする武器を手にした時にはじまっています。その代り、人類は多数の人間を抱擁する「社会」を実現することになります。
 つまり「殺人を含めた罰則によるコントロール」と「人口が多量な社会」はコインの裏表なのです。

これらの「人類社会の歴史と特性」を知らずに「殺人の是非」を考えても答えは出ないと思います。

よって私は以下のように回答します。
1、人を殺してはいけないのは、何故ですか?
お互いが社会の構成員だからです。社会に依存している以上、その構成員を殺すことは許容されません。逆に、その構成員の命を脅かす存在であれば排除(殺すことも含む)されます。

しかし、その社会の存続が危ぶまれる事態なら、戦争という形で殺人は許容されます。この時に問題になるのは「他の社会の構成員を殺すことは良いのか悪いのか」であって、自前の社会の構成員ではないものを殺しても、自分の社会のルール違反にはなりません。

それは「人道問題」とよばれるもので、人道問題は人類すべてを滅ぼす可能性のある核兵器の登場と対になっていることに注意が必要です。


2、こんな「自明」に思える問題の答えがなかなか出てこないのは何故ですか?

一言でいえば「自明ではないから」です。

武器と社会の歴史をご照会したように、そもそも人間を簡単に殺せるようになったからこそ「同じ社会に依拠する仲間を殺してはならない」というルールが作られたわけです。

人殺しができるレベルの武器が無い時代、社会の単位は数家族を単位とした集落であって、血のつながった家族同士なら「殺しあわない」というレベルにすぎませんでした。隣の集落は「血のつながっていない他人」であり、古代ではそもそも彼らを「人と認めるか、動物と同じ扱いをするか」という問題が先であり、動物と同じなら殺人ですらなかったですし、人と認め合うには、同じ価値観(婚姻によって親戚になるか、同じ神をあがめるなどするか)が必要でした。

だから「人を殺してはいけない」というのは自明なことではなく、単に「安全保障をどのように維持するのか」という問題にすぎない、ということです。
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この回答へのお礼

古代の戦争について思うところは、

そもそも戦争ができる状態というのは「余裕」があるからであるはずです。
武器というものは昔も今も高価なものであるから、それを作ったり買ったり
できる、また、戦に専業できる人員が存在するということは、食料の備蓄が
あったということです。

ですから、「何とか食べられる状態まで人が減ったから帰って行った」とい
う話はどうも作られたもののような気がしますね。
食料の奪い合いはあったでしょうが。

>人類または自分の社会が存続できない場合殺人は許可される

そんなことは誰も許可できるものではないですね。
現在は国際法で侵略戦争は禁じられていますが、昔はなにもなかった。ないか
らフリーであったということに過ぎなかったのではないでしょうか?

戦争というものは人類の文明が余力を持つようになってから始まったものに違
いなく、基本的に侵略ですよね?土地がほしい、資源がほしい、人がほしい等。
また、その裏返しとして、侵略されるのが怖いから攻める、と。

織田信長とか劉備玄徳のように「よい天下を作りたい」という思いがその中に
含まれている場合もあったでしょうが、戦争というものはそういうものである
と思います。

おそらく、歴史というものを子供たちに教えるときに、学者達が仰るような理
論を作り、国家の存在を正当化したということだろうと思います。

だって、どう考えてもおかしいですもの、人のものを略奪することに正義があ
るなんて。
そういう矛盾を平然と偉い人が言うから、訳が分からなくなっているんじゃない
でしょうか?

お礼日時:2017/04/06 22:52

「2、こんな「自明」に思える問題の答えがなかなか出てこないのは何故ですか?」


⇒答えがなかなか出てこないのでしょうか。
答えは出てると思うのですが。

ただ、面白がって意図的に屁理屈を付けている回答があるだけだと思っています。
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この回答へのお礼

>面白がって意図的に屁理屈をつけている回答

確かに少なくないと思います。

お礼日時:2017/04/06 09:04

「殺人は悪」というのは、本質的な原理ではありません。


戦争においては、たくさん殺した方が英雄です(あれほど
多くの人殺しを主導した信長はその事で糾弾されません)。
そもそも、遺伝子の中にさえ、細胞分裂の回数を制限する
テロメアという遺伝子があり、決まった回数分裂すると、
それ以上分裂しなくなり、老化して自分を殺すのです。

有性生殖により遺伝子を交配させ、多様性を生む一方、
優れた異性と交配するための競合による選択により、
(それまでの突然変異と自然選択による進化より)
素早く安定した進化を可能にしたのです。
元はそうしてファミリーが生存単位であり、古代は血縁を
中心としたファミリー~集落単位で戦闘をしていたが、
分業化(大量生産)や武力の統合(封建社会)といった
組織性が発達するにつれ、その「生存単位」が集落から
地域(藩)、国家へと拡張され、戦争の単位もそうなる
と同時に、より過酷で容赦ないものになりました。
その代わりに、その集団の中では、戦いや殺人は「悪」
になったのです。

「人を殺してはいけないのはなぜ?」=真の生存単位とし
ての社会の中において、個人の意識における損得や感情は、
正しく真の「生」である社会全体の繁栄を代表しないので、
それを矯正するために、他律的な価値=法規や善悪を創出
する必要があったのです。

「この問題の答えがなかなか出ないのはなぜ?」=現象的に
プラグマティックに適当に作ったものだから。それ自身の
核に答えはなく、上記のようにプロセスに答えがある。
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この回答へのお礼

文明の中においては、宇宙の本質的原理を想定し、決定しない限り
「善悪」は相対的なものになってしまいます。

それを決定できないから、個人間の殺人は悪だが、集団同士の大量
殺人はその集団の中でのみ善になるなどという矛盾が出てくるので
しょう。

仰るように、人類が一つの民族、即ち「地球人」としての意識を共
有できたならば戦争というものはおそらくなくなるだろうと思いま
すが、個人的な殺人とか、年間80万人と言われている自殺をとどめ
ることはできません。

お礼日時:2017/04/06 09:02

>人間がそう定めたから



社会契約による、ということとほぼ同義でしょうか?
  ↑
人間にとって社会の存在は必須です。
社会で育たなかった人間は二足歩行すらできなく
なります。

この社会を維持するために、殺人などを悪と名付けた
のです。
その意味で社会契約説と似ていると思われます。



戦国時代、イエズス会が来日して、日本の庶民と
問答した記録が残っています。

「善だ悪だ、というが善悪など時代と共に変化する
 のではないか。
 歴史がそれを示している。
 こっちから見れば善だが、相手からみれば悪かも
 しれない。
 これをどう説明するのだ」

イエズス会の神父は、日本の庶民の知的レベルの高さに
驚き、こうした質問に答えられなかったとあります。
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この回答へのお礼

文明というものは、根幹の部分を人間が決めるわけですから、
その根拠、となると「はて?」なんてことになるのでしょう。

戦国武将の伝記などを読むと、当時の大学である寺院で、当時
の博士である僧侶から高い教育を受けていたことが分かります。
世界的に見て、かなりのレベルであったのではないかと思いま
す。

仰ることは庶民の一般のレベルとは考えにくいですが、高い教育
の「おこぼれ」を頂戴した庶民がいたのかと想像します。

お礼日時:2017/04/05 23:58

自明だから

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この回答へのお礼

文明の中から見たら「自明」なことはたくさんありますが、文明の外から
客観的に見ようとした場合、「自明」なことは何一つないということにな
ると思います。

文明の中にある自明なことが自明でなくなってきている気がします、近頃。

お礼日時:2017/04/05 23:33

1 生きることは動物の基本的、本能的願望であり、また基本的な権利である。

何人もこの権利を奪うことはできない。

2 「ことば」という得体の知れないもので考えるから、答えがでにくくなる。「他人のものを盗んではならない」という原理も、「ことば」で「なぜ」と考えたら難しくなる。

「言葉への過信」が混乱を生んでいるのである。
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この回答へのお礼

「基本的権利」であるという考え方は、分かりやすく納得できるものですね。

ただ、そのほかの諸権利に比べ「生きる権利」というものの特異性を強調する
必要が出てくると思います。

「言葉への過信」は留意すべきだと思います。

言葉で考えない部分もありますが、最終的には言葉に翻訳しますし、言葉でないと
人に伝わらないし、やむを得ないと思っています。

お礼日時:2017/04/05 23:18

こんにちは。



1. 生きたいからです。

2. 生き物ないし自分にしろ他人にしろ人を殺したくないからです。

3. 人の死ぬことについて かなしいと思うからです。

4. 自分をあるいは他人を亡き者にするという考えあるいはそれを
実行しようとするときには やましさ反応が起きます。胸の高鳴りや
顔の赤らめまたは青ざめ・さらには行動の覚束なさの起きるのが ヤ
マシサ反応です。

5. 生まれつきの自然本性としてそなわっているものであると考え
られます。良心ともよばれます。

6. よって 良心の自由という・必ずしも証明しえない命題がその
まま公理として人びとの間に認められています。

7. 人によっては ヤマシサ反応にさからって――自然本性として
のわが心にさからって―― 人殺しをおこなう場合もあり得ます。

8. 心が・その自由が・その良心ないし意志の自由が うつろいゆ
かざるを得ない相対的なものだというふうに説明されます。

9. 人びとの社会としての秩序ないし安全にとっては この〔変な〕
自由による振る舞いにも対処するために 互いの意志の自由を前提に
踏まえつつ 取り決めを持ちました。不殺生戒 または なんぢ こ
ろすなかれと。

10. この倫理としての取り決めを規範とし それに違反したとき
には拘束力や処分能力のある法律としても 持つようになった。

11. ★ 人を殺してはいけないのは、何故ですか?
☆ 人間にはそういう気持ちと良心と意志とがあるから ナラハシと
成り 法律としても規定するようになったのだと思われます。

12. ★ こんな「自明」に思える問題の答えがなかなか出てこな
いのは何故ですか?
☆ 良心また意志の自由が われわれの存在の仕組み――生きること
の中軸を成すということ――だからだと思います。

ころすという行為を考え実行するという意志の自由もが そなわって
いるからだと。
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この回答へのお礼

人間には「生きたい」という本然的な意思があり、
人を殺したくないという気持ちがあり、
人が死ぬことについて悲しいという良心の発露がある。

だから、習わしとなり、法律に規定されるようになった、と。

極刑を処せられる、ということの根拠としては弱い気がします。

良心もあるが、殺すという行為を実行する意思の自由も併せ持つから
なかなか分からないのだ、というご意見は、うーむそうかも知れません。

お礼日時:2017/04/05 23:08

命「生きると死ぬ」の分からない人に 正しい答えなどありません



生きると死ぬ「生死」の法則が分からない人に 正しい答えなどありません

この世の究極の法則 2つあります
因果と生死 です

 因果(原因と結果)は安全の法則 
 生死(生きると死ぬ)は幸福の法則
 因果は信ずる  生死は演ずる
と結論します

「人の命は地球より思い」なんて言った元総理
実は あの人 何にもわからないのです

一個の生命は地球規模 宇宙規模 である事は
生命科学の分野で わかっています
其の生命の誕生が ありえない事である事も
分かっています
どんなに科学が発達しても
一個の細胞すら 作れないのです
生命は不思議すぎるのです

この辺までは 皆分かっていると思います

さて 私は「生死は演ずる」と結論しました
すなわち 舞台の上で演技している役者の 役割を 使命を
途中で 断ってはならない・・と言いたいのです

この世と言う 舞台に上がった役者に 無駄な人は一人もいない

だから 人を 殺してはいけないのです


法則 http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage17.htm
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この回答へのお礼

十界論、九識論、一念三千、仏教哲学ですね?

仏教哲学は解釈が様々で、非常に難しい世界です。

リンク先はかなり量があり、読むのに時間がかかりそうです。

生死は演ずる、とあります。演ずる即ち役割・使命を果たすために生まれてくる
という考え方は納得できます。しかしこれは「生」であって、では「死」はどう
いうことになりますか?
それから、「幸福の法則」ということがよくわかりません。

お礼日時:2017/04/05 00:37

自分のモノではないから。


人の物を捕ったり、壊したりしてはいけないのと同じです。
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この回答へのお礼

倫理的・道徳的お答えですね。

私の中ではかなり説得力があります。

しかし、倫理・道徳をあいまいだとか不要だとか言う人が少なくないんです。

お礼日時:2017/04/04 23:58

1、人を殺してはいけないのは、何故ですか?


 ↑
 自分が殺されないため、です。
 
 「他人を殺してもいい。」と言う定めが出来たとして、
 それに従って 他人を殺せば、殺された人の仲間や、
 家族が、その人を殺す。

 たったそれだけです。

 そして、その一族は、殺戮を重ね、やがて滅亡する。

2、こんな「自明」に思える問題の答えがなかなか出てこないのは何故ですか?
 ↑
 それを、道徳とか、信仰とか、綺麗ごとで済ますから、矛盾が生じる。

 肉親を殺された者は、その代価を、相手の命で償おうとする。

 例えば、その繰り返しを防止するため方が出来、判決が出る。
 しかし、被害者の肉親は、諦めこそすれ、殺意を捨てることは
 なかなか出来ない。

 判決に従うのは、自分が殺されないためでもある。

 こんな事で、悩む自体、おかしい。
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この回答へのお礼

№4のお礼欄で、ストレスの坩堝と化した現代社会において殺人罪が
なくなったら、なんてことを想像してみましたが…

個人間の殺人は古代から罪になったのでしょうが、戦争は古代から近
代にいたるまで散々行われてきたのです。現代においてもなくなるこ
とはないし、未来もまたなくなる可能性は少ないと言えるでしょう。

にもかかわらず、人類は滅亡どころか世界人口は80億人に迫っていま
す。
ですから、大量殺人を合法化した戦争をフリーにしても人類は滅亡しな
かったと言えるのです。(現代の核は別です)

それにしても、自分が殺されないために、殺人を本能的に避ける、という
心理が存在することは間違いないと思います。

私は、戦争を否定したいんです、実は。

お礼日時:2017/04/04 23:44

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