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日本では 永山基準というのがあって、通常 1人殺しただけでは死刑にならず、3人以上殺した場合に 死刑になることが多いです。
しかし、永山基準って行きすぎないように勝手に基準化しているだけであって、日本の裁判の悪いところである何でも判例主義の典型。
死刑制度が有る以上、一人殺しても死刑を適応する事もケースによっては必用でしょう。
前例が無いとして直ぐに退けるのも日本の裁判の怠慢でしかない。
前例が無ければその時の判断が前例となる様にすればいい。
前例と言っても始めが有るから前例と為るのだから、その始めを作る義務も裁判官にはあるでしょう。
それすらしないのであれば、プログラム化してコンピューターに判断させれば良いだけ。

みなさんは、日本の判例主義について どう思いますか?

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A 回答 (3件)

日本の、といいますが、判例主義は欧米が


本家です。



死刑制度が有る以上、一人殺しても死刑を適応する事も
ケースによっては必用でしょう。
   ↑
身代金目的の営利誘拐殺人では
被害者が一人でも、死刑になります。



前例と言っても始めが有るから前例と為るのだから、
その始めを作る義務も裁判官にはあるでしょう。
   ↑
無いとおもいます。
同じ犯罪を犯したのに、こっちは死刑で
こっちは10年では不公平です。
裁判所の最大の義務は「公平」です。

前例が無ければ創れ、というのは選挙で選ばれた
議員の義務であって、選挙で選ばれた訳では無い
裁判官の義務ではありません。

裁判官にそのような積極的な義務を課すのは
民主制、国民主権に違反します。

永山基準に問題があるなら、法律でそう定めれば
よいのであって、それは議員の仕事です。




それすらしないのであれば、プログラム化してコンピューター
に判断させれば良いだけ。
   ↑
AIに最も適した分野は、裁判だ、と主張
する人もいますね。
そうすれば、公平は最もよく守られるでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2017/04/15 09:01

確かに、



本質を見極めて、後世のためになるような裁判をして欲しいものですね。

しかし、論議としては面白いのですが、

誰かが本気にして実施に踏み切ったら困ることのほうが多いと思えるのです。


もし本当に実施されるとして、

では、どの様な判決をする裁判官を求めますか?

兎に角、死刑にもっていこうとする裁判官が良いですか?

それとも、なるべく刑を軽くしようとする裁判官が良いですか?


もしこれらを選択できるとしたら、

自分が前者にあたる可能性が少しでもあると怖いですよ。

何せ、裁判と言うのは、無実の人も有罪になるものです。

後で、覆されることが無いとは言えません。

(覆されない、場合はもっと怖いですが)


しかし、今の質問者さんの様に、

自分が思うところの裁判官を主張できるとしましょう。

勿論、反対意見を出す人もいるはずです。


そこで、主張した人の意見を尊重し、

その人が裁判を受けるときは、その裁判官を割り当てるようにしてくれと、

誰もが懇願するはずです。

ロシアンルーレットはたまりません。

言った人に割り当てることで、自分のリスクを少しでも減らしたいと思います。


もしくは、

「この人は、例え前例があっても、死刑にするべきときは死刑にするべきと、

 主張をしていたので、

 前例を無視してでも、そのようにしてあげてください。」

と皆で裁判官に頼むようにするわけです。

そうすることで、特定意見に配慮した裁判になります。


皆が自分の事を考えたら、甘すぎる裁判になります。

これでは刑を定義しても意味が無いでしょう。

やりすぎはいけません。

そうなりますと、前例どおりと言うのは意外と賢い考え方に思えます。


次に社会的な益を考えて見ます。

人を裁くようなストレスを受ける方に対して、

もう少し思いやりを持たないといけません。

私たちは、犯罪者や被害者だけでなく、裁判官も人間であり、

自らが下す判決に対して悩み、強いストレスを受けると想像しないといけません。


犯罪を憎むあまりに、

善良な裁判官に八つ当たりをするのは、いかがなものかと思います。

何も罪が無い人が、仕事の中で苦しんでいるのに、

更にストレスを受けるようにと言うのは、別の意味で罪ではないでしょうか。



前例主義というのは妥当なラインであって、

人間である裁判官にとっては、

日本国民全体の思いやりに感じられるはずです。

これを奪ってしまっては、彼らが業務を継続する上での逃げ場がありません。

「正しさのためには、心をすり減らしてでも踏ん張れ。」

と他人の仕事に対して注文をするのならば、

勿論、自分の仕事に対してもストイックで無ければなりませんよ。

私としては、返す刀で、都合が悪いと思います。


そして、

私が思うに、

人類でもっともストイックな性質を持つ人が、裁判官に選ばれているはずです。

この人たちが耐え切れる限界が人間の限界として諦めるべきです。

常人では出来ないものであると思えます。

陪審員制度と言うのがありますが、こちらに逃げるくらいなら、

前例主義で構わないので、裁判官に働いてもらいたいと思います。

(実はこっちのほうが厳しい注文でしょうけど)

単なる業務なんですから、そこで働く個人に対して、

人生観が変わるような負担を与えて良いわけがありません。

同じ大人として、

同朋が余計な心労を背負うほうが、無駄であると思えます。



例えば、

犯罪者の動機、心情や事情を知って、

反省が足りない、想像よりも酷いと感じて、

正義の怒りにより、

刑を重くしようと考えた裁判官がいたとしても、

「きみ、それでは自分も一緒に背負うことになるよ。

 冷静になって、本当の社会的な損失とは何か?

 自分も含めて考えて欲しい。

 判決は、裁判に関わる全ての人の心に少なからず負担を残すんだ。

 私たちは、どれも大事にして守らないといけない。

 誰かを懲らしめたいというだけで、

 もっと善良な人が心の負担を受けてしまうのは本末転倒だろう?

 効率の悪い仕組みとなってしまう。

 物事の良し悪しではなく、自分らに維持できるものしか、

 自分らは保有できないんだよ。」

と私は心配します。


また本当の罰について考えて見ましょう。


私たちは、どうせ最後はいっちゃうんですから、

あわてて他人を傷つけて、

それほど長くない人生を台無しにするのは損ですよ。

一回しかない人生を、

「他人に対して酷いことをした」

という記憶を背負って終わらせる人は愚かです。

更に、無関係な人が犯した罪に怒って、

やらんでもよい”懲らしめ”を余分に追加したら、どうなるんでしょう?

「私は間違ってないよね?」

と言い続ける人生に変わってしまいますよね。


誰かに嫌われてしまい、悩んで、ずっと自己正当化を続ける人が、

実際に沢山いるんです。

人はそれくらいでも人生を不幸に出来るのに、

他人を傷つけたらどうなるんでしょう?



もし、

本当ならば死刑になってもおかしくないのに、

刑が軽くなって、無期懲役になった犯罪者がいたとします。

これに対して、そんなズルは許せないと言っている人がいたとします。

しかしこの発言をした人も、

「いやさ、娘が受験で大変でさ。ちょっとイライラしてただけなんだ。

 まあ、今日はゆっくり寝て、頭を冷やすよ。」

と言う人生をおくっているのかもしれないんです。


一方で、

「馬鹿な国だ。俺みたいな奴を死刑に出来ないんだから。

 俺みたいなずる賢いやつを裁ける力がこの国には無いんだ。

 悪が得をしたぜ。偽善者たちざまあみろ。正義なんてくそくらえだ。」

と本当に言う犯罪者がいたとします。

娘の受験を心配する人と、

無期懲役で「これ以上の得は無い」と嬉しがる人生の差がありますよね。

貧乏くじを引いたのに、得をしたと発言させられるのならば、

これ以上の罰ゲームは無いでしょう。


一方で、

「こんな悪い奴に舐められてる。馬鹿にされてるよ?いいのそれで?

 こういう前例を作ったら、どうせ助かると思って安易に罪を犯す人が増えるよ?

 もっと懲らしめて、見せしめにするべきだよ。甘いよ。」

と言う人がいたとします。

しかし、どうせ他人の人生なんですよ。

もっと別の人を探し、別の無責任を働く自由もあるんです。

例えば、

「おおっと。ズルイ犯罪者観察はもうやめやめ。

 なんで、興味持っちゃうかな俺。

 よし、自分と全く無関係な、善良で恵まれていない人ウオッチに切り替えるぞ。

 どうせ何にも出来ないけど、

 『チキショウ。こいつはもっと認められるべきだぜ!』

 とかやろ。こっちのほうが何か俺が俺を好きになれる。」

と言う選択をしている人のほうがストレスが少ないはずです。

胸糞が悪くなる時間もあれば、胸が熱くなってカタルシスを得られる時間もあります。

どっちを多めにするかは、自分の自由なんですよ。


話すネタにしても、

「こんなズルイ奴がいるんだけど、何とか死刑にできないのかな?」

と話題をふる未来と人生に対して、

「こんな立派な人がいるんだ、何とかして彼が認められる方法は無いのかな?」

と話題をふる未来と人生に分かれるんです。

どっちを選んでも何にもおきませんが、自分の人生の思考の記憶は残ります。


自分と言う存在はちっぽけで、凡庸でも、思い出はしつこく自分につきまといます。

私だって、責任を持って何か成し遂げるなど到底出来ないでしょう。

確かに、本気を出しても大したことは出来ないでしょう。

しかし、意識的に(偽善であっても)胸が熱くなるような、

考えで満たして、人生を走りきることくらいは、自分の自由で出来るんです。

このほうが賢いですよ。


また、誰かがそうしているのを見て、

「偽善者め。お前が偽善を認めるまで、お前を一生追い詰めてやる。」

とやってもいいですが、

そういう一生になっちゃいますよ。


偽善者として追い詰められる側は、

「ああ、こいつ俺が本当に善人じゃないか? と心配なんだな。

 そんなわけないじゃん。

 でも、こうやって追い詰められると、

 俺、本当に善人に思えてきた。

 『君。確かに私は無責任だよ。善人気取りかもしれない。だが・・・』

 とかいって見たい。漫画みたい。きてくれ、こい、こい。

 もっとやってくれ。」

と思うはずですよ。

本当に偽善に怒れば、単なる間抜けでしょう。


私が思うに、

偽善に怒るよりは、

偽善を働き、誰かに偽善者だと告発されるほうがマシだと思います。



さて色々と考えました。

最初にもどりますが、前例どおりと言うのは、

意外と奥深く、

考えが足りない凡庸な人がやっているのではないのかもしれません。


間違いなく、

これに腹を立てる人がいることが想定されているでしょう。

その人を当て馬にして、説明する機会を待っているだけに思えます。

これに関わらないのは、皆の考えが足りないというのではないんですよ。

ご質問の様なテーマは、他人(専門家)が用意した示威的な何かである可能性が高く、

余計な興味を持ってしまうと、利用されることが良くあります。

みんなが警戒して接しないから、議論として残っている場合が多いんですよ。


本件は、そういう危ないものに思えますよ。


以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2017/04/15 09:00

またですか。


以前に私が回答した内容をそのままそっくり使うのは。
少なくても御自分が「以前に質問した中に入った回答にこの様な物がありました」の様な事は入れられないのですか?
コレではまるで盗用と同じではないですか。
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