次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。

▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。

「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

▲ (同上) ~~~~~~~~~
たとえば、ボクが、「ボクは嘘つきだ」と言ったとする。

もしこの言葉が「真実」であれば、ボクは「嘘つきである」ことになるが、
そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

一方、この言葉が「嘘」だとすれば、
ボクは「正直者である」という事になるが、
そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

結局、ボクの言葉が、真実でも、嘘でも、
おかしなことが発生してしまうのだ。
~~~~~~~~~~~~~~

☆ おそらく取り上げた事例がふさわしくない――つまり ただの論理だけで
現実のものごとを扱っている――と思うのですが このタトへなら 

 《ウソをつかない人間はいない》

と返しておしまいではないのだろうか?

定理がどうの数学的真理がこうのと言うまでのことではないのではないか?




具体的に見ても その《ボク》が生きて来ている歴史においてその振る舞いを
実際に捉えてみれば すぐ分かることだ。つまり: 

 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこともある》

と。あるいは:

 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得ずタテマヘ
 に従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタテマヘに従うこと
 を 現実的なホンネとする》

ということ。――こうではないか?




もし そうだとしたら・この限りで このゲーデルの定理は 形式主義の数学
がそうであるように 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ・そ
してそれのみを扱っている・・・ということなのか?

それとも そうではなく まさしく人間の現実世界に対応している真理なのか?

どうなのでしょう?
なお ヰキぺの解説を見ても数式がよく分かりませんので 言葉で表現しても
らえればさいわいです。

質問者からの補足コメント

  • それと言うのも ちょうどいま哲学カテでは 不完全性定理が 現実の
    世界のこととして・哲学のふつうの議論として 有効であり適用されう
    ると言っている〔と思わせる〕回答が寄せられているのです。

    はっきり知りたいと思っての問いです。

      補足日時:2017/04/15 14:18

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A 回答 (20件中1~10件)

こんにちは、概ね回答は出揃っているのですが、2、3・・・




 まず、第1不完全性定理とは、

「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。」のことです。


 以下は、言葉の定義です。

・無矛盾性:公理自身が矛盾していないかどうかのこと。なお、このω無矛盾は後のロッサーにより、単なる”無矛盾”まで、拡大されました。

・完全性:ある一組の公理から,そこに含まれるすべての命題を導くことができるというもの。

 逆に言いますと、

・不完全性:ある一組の公理から,そこに含まれるすべての命題を導くことができないものが必ず1つは残ること。を意味します


 この定理は、「真」として、証明されてしまっていますので、どうしようもありません。



 そこで、

(1)不完全性定理って 現実から離れた数学としての真理なのか? それとも 現実に即しているのか?

 そもそも、「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば」、という前提がありますが、”この世界”がそのような無矛盾でありえないと思います。事実様々な公理(らしきもの)がありますが、これらが一切矛盾せずに(当然、例外などはあってはなりません)であるのか?と問われれば、「偽」だと考えられるからです。


(2)つまり ゲーデルのこの定理を出して 哲学カテの哲学問題についての回答とする場合が あとを絶たないように見られます。

 そもそも、人間が作ったものには、限界がある、もしくは、人間理性には限界がある、ということを言いたかったのだと思います。少なくとも、当初の哲学者は、です。ですが、これが拡大解釈されるようになってしまったのだと思います。


(3)無矛盾で出来ている公理系で 真偽を決定することができる場合もある。一部で 決定できない場合がある。
 ということらしいですね。

 はい、そのようになります。”少なくとも1つは決定できない場合がある”ことを証明したものですから。




 以上、ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~
  (2)[・・・] 

 そもそも、人間が作ったものには、限界がある、もしくは、人間理性には
限界がある、ということを言いたかったのだと思います。少なくとも、当初
の哲学者は、です。ですが、これが拡大解釈されるようになってしまったの
だと思います。
~~~~~~~~~~
☆ これは おもしろいですね。当初の意図は 現実と対応していた。と受
け取られます。


★ ~~~~~~~~~
  (3)無矛盾で出来ている公理系で 真偽を決定することができる場合
  もある。一部で 決定できない場合がある。
   ということらしいですね。

 はい、そのようになります。”少なくとも1つは決定できない場合がある”
ことを証明したものですから。
~~~~~~~~~
☆ ここも 納得を深めてくれますね。初めから そう言ってくれればよい
ものをと思います。

でしたら――用語の定義をつかみとる問題もありますが――:
★ ~~~~~~~~
  (1)[・・・]

 そもそも、「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば」、
という前提がありますが、”この世界”がそのような無矛盾でありえないと思
います。

 事実様々な公理(らしきもの)がありますが、これらが一切矛盾せずに
(当然、例外などはあってはなりません)であるのか?と問われれば、「偽」
だと考えられるからです。
~~~~~~~~~~
☆ とおそわるなら どうも《公理》が曲者だなと思われます。

勘ぐるならば 結果として《証明が成る》ことをみちびくために あらかじめ
公理の内容などを決めているのではないかとすらうたがわれます。

暴言でしょうが 連続体仮説やら対角線論法に絡んでは 言いたくなります。

ありがとうございます。

お礼日時:2017/04/16 14:51

お礼、ありがとうございます。


多少正確な議論にするために、No.18への補足ですが、、、

不完全であることは、(その公理のもとで)証明も反証もできない命題が存在するのですから、第一定理は「部分知」の意味合いをもちます。

第二定理の「無矛盾であることが証明できない」は、背理法があやしくなってしまうのですから、確かに数学にとっては大きな問題です。この問題に関しては、有限の立場(これも説明が長くなるらしいですが)をあいまいにすれば、数学的な無矛盾性は可能なようです。

例 自然数論の無矛盾性(ゲンツェンによるもの)
  実数論の無矛盾性(竹内外史によるもの)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 不完全であることは、(その公理のもとで)証明も反証もできない命題
が存在するのですから、第一定理は「部分知」の意味合いをもちます。
☆ そのようであろうと思いますという推理を述べるしか 精確には言えな
い質問者ではあります。

★ 第二定理・・・
☆ これも 残念ながらわたしにはむつかしいですね。

参考資料を例示していただきました。

或る程度は勉強しようとして来ましたし いまもそうしています。でも 高
校までで 集合論を習わなかったんです。どうもそのことが 尾を引いてい
るように思います。あの記号によって論理をはこぶやり方が いまでは億劫
に感じます。

愚痴で終わるのはいけませんが。・・・

お礼日時:2017/04/19 10:03

No.18への追加ですが、おそらく不完全性定理の意味合いは、公理を用いた形式主義で表現・認識されることがらは、完全ではなく、部分知である、ということだと思います。



部分にしかすぎないが、それでも「知」「理」であると、、。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~
[・・・]部分知である、ということだと思います。

部分にしかすぎないが、それでも「知」「理」であると、、。
~~~~~~~~~~
☆ そうですね。質問者は この定理が現実と対応しているかどうか
に関心を持ちました。

定理をふつうの言葉で表現しておこなう説明に接して そういう事例
では 現実と対応していないではないか。と思ったものですから 質
問しました。

公理系が前提として存在すること(あるいは その公理の内容をどの
ように規定するかということ) このことがどうも――現実からのズ
レを生むのではないかという意味で――曲者のようだと思ったわけで
すが 《部分知である》のかどうか。

これは わたしはただちにはよく分かりません。と思います。


でも コンピュータなどには応用されているんですよね。もしそうな
ら その意味での現実と――つまり論理性の分野で 《部分知》とし
て――対応している・・・んでしょうかねぇ。




質問者はわけもなく張り切ってガミガミ言って来ましたが みなさん
にみちびかれて ひとつの里程標を示し得る地点に到達したのではな
いかと思っています。

お礼日時:2017/04/19 06:07

不完全性定理は、公理を用いた形式主義の限界を、「現実」に示したものだと思うのですが、、、、? この公理を用いた形式主義は、数学に限らず、結構使われます。

不完全性定理の仮定を満たす公理系(自然数論を含むあたり、、)なら、数学の分野に限らず、持ってしまう性質なのでしょう。

公理を用いた形式主義以外に、人間はいかなる確かな方法をもっているか、、、、様々な実証・実験をふまえたとしても、、、認識する形式は公理を用いた形式主義にならざるをえないのか、、、、、、(よい試みがあるのかさえ私にはわかりません)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 不完全性定理の仮定を満たす公理系(自然数論を含むあたり、、)な
ら、数学の分野に限らず、持ってしまう性質なのでしょう。
☆ ふむ。そういうふうなんですかねぇ。現実にというよりは 学として
その中でなんでしょうか。

★ 公理を用いた形式主義以外に、人間はいかなる確かな方法をもってい
るか、、、、
☆ なるほど。そしてこの問いは りゅぱん344さんが次のようにひと
つの答えの方向をしめしてくれています。
◆ (回答№16) ~~~~
[・・・]数学より上位の方法論でしか、数学の不完全性を排除できないと
言う事です。(これは、数学にとっては、重大な問題です)

その上位の方法論を、超数学と呼ぶか、あるいは、又哲学が担うのかは、
まだわからないです。
~~~~~~~~

☆ 質問者のわたしはと言いますと とてもその数学の内部で起きている
ことについて実地で分かる位置にはいませんので 何とも言えないのです
が。

あなたも むつかしいという旨をおっしゃっていますが。

お礼日時:2017/04/19 05:54

お礼ありがとうございます。


一部訂正です。
クロネッカーは、自然数はアプリオリな概念として捉えていたので、考え方は直観主義です。
したがって、ヒルベルト・デデキントと併記したのは、間違いです。
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この回答へのお礼

ダンケ。

うけたまわりました。いることは いるのですね。直観主義。

お礼日時:2017/04/16 21:19

お礼ありがとうございます。


ゲーデルが証明した事の意味は、あくまで数学の公理系の範囲の話です。(つまり、哲学の事を言っているわけでは無いです)
ですから、これを使って、哲学自体を批判する事は適当ではありません。
ゲーデルの証明によって、問題がおきたのは、数学の公理系です。
数学は、その形式の内部において、完結する事を目指して、哲学から分かれたわけですが、一見、その形式だけで、閉じた分野として成り立つと考えられた、数学が、自分自身では、完結しない(不完全)な事が証明されてしまったわけです。
これが、何を意味するかと言えば、数学より上位の方法論でしか、数学の不完全性を排除できないと言う事です。(これは、数学にとっては、重大な問題です)
その上位の方法論を、超数学と呼ぶか、あるいは、又哲学が担うのかは、まだわからないです。
自然科学のように、その根本原因の追究をやめて、現象の観察のみにとどめて、発展する方法もあるわけです。(この場合は、数学は形式科学では無く、自然科学に類似した分野となるでしょう)
ゲーデル自体は、数学の形式は、人間が作った公理系だけではなく、形而上の数学の形式が存在すると考えていました。
したがって、数学はゲーデルにとっては、その形式を発見する学問だったわけです。
ですから、ゲーデルは、数学の公理として、アプリオリなものは、想定するよりはるかに多く存在すると考えました。
哲学的な言い方をすれば、ゲーデルは数学のプラトニズムと言えます。(形而上の数学と言う実体が存在すると考えていました)
ヒルベルトや、デデキント、クロネッカーなどは、そのような発想はしていませんから、数学の形式だけで、数学は完結可能と考えていました。
ただ、ゲーデルが不完全性定理を発見してしまったので、この野望は潰えてしまいました。(第一定理は、まだ大した問題では無かったのですが、第二定理「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。」は大問題です)
注意しなければならないのは、数学内部だけでも、不完全性定理の対象外の公理系もあれば、自身の公理系では、不完全性定理が適用されても、数学の他の公理系で、証明可能な公理系がある事です。
数学全体で見れば、それは不完全性定理の適用される部分はありますが、全てがそうでは無いと言う事です。
数学全体を不完全性定理の適用外にする事は、数学だけでは無理です。(そういう意味で、数学だけで完結しようとする為には大問題だと言う事です)
ゲーデル自身は、哲学の現象学で、数学の公理系の不完全性の除去を行おうとしたようです。
つまり、ゲーデルの不完全性定理が証明した事は、数学は、数学以外の方法論を使わないと、その不完全性を除去できないと言う事です。
ですから、哲学的問題の解決が、ゲーデルの不完全性定理に関係するような意図の発言があるとしたら、それは哲学的問題の解決に数学的手法を利用している場合にのみ関係するだけです。
それ以外の場合は、何の関係もありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ゲーデルが証明した事の意味は、あくまで数学の公理系の範囲
の話です。
☆ ええ。このたぐいの確認は いくらあってもわたしには意義が
大きいです。

★ 数学は、その形式の内部において、完結する事を目指して、哲
学から分かれたわけですが
☆ この知識も 分かりやすいです。

そして:
★ 一見、その形式だけで、閉じた分野として成り立つと考えられ
た、数学が、自分自身では、完結しない(不完全)な事が証明され
てしまったわけです。
☆ という出来事が 言わば塀の向こうで起きたのですね。こちら
から見れば。


次のご指摘は 何となくですが 重大な問題であるようにわたしに
もひびきます。
★ これが、何を意味するかと言えば、数学より上位の方法論でし
か、数学の不完全性を排除できないと言う事です。
☆ 学の総合という意味でも興味深いように思います。


★ ゲーデル自体は、数学の形式は、人間が作った公理系だけでは
なく、形而上の数学の形式が存在すると考えていました。
☆ これは 身を乗り出してふむふむとお聞きするお話ですね。

★ 注意しなければならないのは、数学内部だけでも、不完全性定
理の対象外の公理系もあれば、自身の公理系では、不完全性定理が
適用されても、数学の他の公理系で、証明可能な公理系がある事で
す。
☆ おそらくそういうことなんでしょう。公理系が曲者だとにらん
だわけでした。


次のご指摘はわたしは ブラヴォーと言って 再掲するのみです。

★ つまり、ゲーデルの不完全性定理が証明した事は、数学は、数
学以外の方法論を使わないと、その不完全性を除去できないと言う
事です。

★ ですから、哲学的問題の解決が、ゲーデルの不完全性定理に関
係するような意図の発言があるとしたら、それは哲学的問題の解決
に数学的手法を利用している場合にのみ関係するだけです。
それ以外の場合は、何の関係もありません。



質問は挙げてみるものですね。
№15と№16とが みなさんのご回答の基本的におもむくところ
でしょうか。

お礼日時:2017/04/16 19:18

仮説法って質問者が作ったんじゃないかな?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ (ヰキぺ:仮説演繹法) ~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E8%AA%AC …

仮説演繹法(かせつえんえきほう、英: hypothetico-deductive method)という
名前を最初につけたのはウィリアム・ヒューウェルであるが、これは科学的方法の
記述として提案されたものである。

§ 1 概要
この用語はカール・ポパーが引用して以降、世に広まった。[・・・]
~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/04/16 14:31

仮説法ってなに?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

推論の仕方に三つほどあるようです。
 
  Deduction: Rule→ Case→ Result
  (演繹法: 大前提→ 小前提→ 結論)

  Induction: Case→ Result→ Rule
  (帰納法: 小前提→ 結論→ 大前提)

  Abduction: Result→ Rule→ Case
  (仮説法: 結論 → 大前提→ 小前提)


☆ まづ先に勝手に《結論》を推し出して それをめぐって ああぢゃ
こうぢゃと検証しながら その結論の妥当性を裏付けるやり方だと思い
ます。

ヰキぺでは 仮説演繹法として載っていました。アブダクションという
項目もあります。


神や信仰をめぐる議論には 初めに神をこれこれであると想定し 仮説
として結論づけて そのあと 経験的なものごとと照らし合わせ不都合
はないかと検証してゆきます。

お礼日時:2017/04/16 11:20

>《ウソをつかない人間はいない》


>と返しておしまいではないのだろうか?
何について議論しているか、という視点が抜けています。
現実世界は、たしかに、「全ての人間は嘘をつくことがある」なのだけど、
そうであれば、必然的に、
「人の発言は正しいのか正しくないのか、区別する方法は無い」となってオシマイ。

それじゃあ論理が記述できないから、命題に限定して議論します。
命題とは、文章が正しいか間違っているかどちらかというタイプの文章のことであり、中間(半分正しいとか、時により正誤が入れ替わる、とか。)は無い、ということ。
よって、「ウソつきとは、常に嘘を言う者を指す」とするのが、論理学では暗黙のことになります。
だから、そこにイチャモンつけても、野暮もいいところ。

で、論理学ですが、自己言及があると矛盾の巣窟になります。
たとえば、
蔵書目録
自分自身を引用していないような本全てを一覧にした(引用した)本 X を作ることを考える。
このとき X は X を引用するのか?

なので、自己言及禁止の方向で研究していたところ、
ゲーデルが、  自然数論だけを用いた場合で、自己言及ができてしまった。よって、自己言及禁止というわけにはいかない
となって、アウト。
(その証明方法のゲーデル数云々は、聞かないでください。わたしには解らんから。)

>ゲーデルの定理は 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ
>そしてそれのみを扱っている・・・ということなのか?
>それとも 人間の現実世界に対応している真理なのか?
人間の現実世界はもっとヒドイです。
まず、命題だけ、というのが現実離れしています。
人の意見は時間とともに変化します。また、○○が正しいときもあるし間違ってるときもある
という場合がほとんど。決して、論理学どおりではありません。
だから、上記みたいな現実のワケワカンなさが何かの理由で全て解決しても、ゲーデルの定理は、最後の砦として残っている
という解釈でかまわないと思うが。
現実のワケワカンなさが解決するとは思えないので。
あと、現実での自己言及ですが、
たとえば、国会議員が、「国議員は賄賂もらってはいけない」と言ったとして、言った本人は国会議員なので
自己言及となり、自己言及禁止ルールにより、発言そのものが抹殺されます。そして、うまく裏をかけば
自己言及禁止ルールにもかかわらず、国会議員が、「国議員は賄賂もらってはいけない」と言うことができる
というのが、ゲーデルの定理の趣旨。
現実は、「おまいう」の場合が多いけど。


>不完全性定理が現実の世界のこととして有効なのか?
最も現実的なのは、コンピュータプログラムの世界。純粋に整数論だけで動いている。
チューリングの停止定理というのがあって、ゲーデルの定理と全く同じことを指している、ということは証明済。
コンピュータプログラムは、無限に計算を続けるか、適当なところで止まるかいずれか。
 ※無限に計算を続ける単純な例は、方程式を反復法で解くとき、方程式の質と初期値の仮定が悪いのと
  両方が成立すると計算が振動してしまい、無限に回る。
どっちになるか判定するコンピュータプログラムを作ることは可能か? という問題。
 ※特定のプログラムだけの判別なら可能なので、当該コンピュータで動く全てのプログラムを判別できる状況を
  どっちになるか判定するコンピュータプログラムができた と定義する。
 ※勿論、当該プログラムを実行するよりも短い時間で、判定結果を出さないとなりません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ そう(全ての人間は嘘をつくことがある)であれば、必然的に、「人の
発言は正しいのか正しくないのか、区別する方法は無い」となってオシマイ。
☆ そうとも限りません。

本人は じゅぶん知っています。
また その人の言動の歴史を見てみれば・そしてつねに検索に掛け得るよう
になっていれば かなりの精度で ウソかホントウかが分かるのでは?

初犯だと見られる場合には ウソを言っていても ほんとうのことを言って
いると受け取って応対するのが ふつうです。

再犯以後はそれなりに対処します。

というように 案外多くの場合に――推理をも交えつつですが――区別する
すべがあるように思います。

しかも 分からない(区別し得ない)場合については 人間の現実が そう
いうものだと受け取ることになります。

それが 現実の――非論理をふくむところの――広義の論理です。




中間の解はなく:
★ よって、「ウソつきとは、常に嘘を言う者を指す」とするのが、論理学
では暗黙のことになります。だから、そこにイチャモンつけても、野暮もい
いところ。
☆ その野暮が 現実なのでは? そのつどイエスかノーかでどこまでも答
えを出して進める計算や思考の形式。これにものごとの扱い方を合わせると
いうのが いまの論理学ということでは?

★ で、論理学ですが、自己言及があると矛盾の巣窟になります。
☆ 現実の人間(ないしその相互の関係)は 論理学のみではないわけです。

自己言及を禁止するというのは 論理学の側の一方的な論理なのでは?


★ うまく裏をかけば 自己言及禁止ルールにもかかわらず、国会議員が、
「国議員は賄賂もらってはいけない」と言うことができるというのが、ゲー
デルの定理の趣旨。
☆ この《うまく裏をかけば》という事態について 残念ながらよく分かり
ませんでした。

基本的なこととしては 人間をコンピューターに合わせるというわけには行
かないと思います。

お礼日時:2017/04/16 01:10

お礼ありがとうございます。


「ゲーデルの不完全性定理」に関しては、啓蒙本などでも、解釈を間違っている例が多々あるようなので、数学者もそのような解説に関して困っているようです。(かなり、その内容を検証して、注意喚起している数学者(数学教員)などもいるようですが、なかなか、本の改定なども進まないようです)
WEB上の解説にいたっては、玉石混淆でしょうね。
注意喚起している人もいるようですが、WEB開設者が素直な人なら、直すでしょうが、そうでなければ、そのままでしょう。
また、数学者以外で、それを拡大解釈(しかも間違った解釈)している、他のジャンルの研究者もいるようなので、問題は根強いです。
ただ、不完全性定理があるから、すべての論理が、不完全と言っているとしたら、あまりにもおかしな意見ですよ。(そう言う意図で発言しているとしたら、全ての論理が不完全ですから、意味が無くなってしまいます)
そういう事は、ゲーデルは言っていません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

無矛盾で出来ている公理系で 真偽を決定することができる場合も
ある。一部で 決定できない場合がある。

ということらしいですね。



これだけ明確に言っていただければ 納得が行ったように思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2017/04/16 00:20

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Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつつ疑問を述べて行きます。その前にすでに問いをかかげておきます。

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 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 7. ☆ さてここで最初の【α】と【β】の問いになります。
 特に【β】については こうです。

  【β‐1】 日本人は――いくら自然と一体だと言っても――決して 夕陽の向こうのイデアの世界にふるさとを見るなどということはしないのではないか。――《世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば》(山上憶良)。その場この場にとどまるほうが 日本人の伝統ではないか。

  【β‐2】 同じような内容として:《人間のあさましさ・その欲望の深さにたとえ絶望した》としても 鳥ではないのだから 夕鶴のように夕焼け小焼けの赤く染まった西の空のかなたを目指して飛び去っていくことはないであろう。

  【β‐3】 この《夕鶴》および《夕陽の信仰》というしろものこそが 日本人のあいだに いぢめを無くさなくしておる共同の観念であり幻想であるのではないか。いぢめに遭ったとしても 夕陽の観念に逃れその栄光の観念の国にのぞみを見い出せと 周りの《観念の運河》からは声が聞こえて来る。――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。これが 日本人の信条ではなかったか。

 ☆ 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。どうでしょう?
 
 * (おまけ) 夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつ...続きを読む

Aベストアンサー

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意味する。
or
・西洋にも落日の光景の芸術がてんこ盛り。なお、落日=終焉の意味の芸術は除外する。
の部分を爆撃するしかないです。そこをつぶさない限り、山折さんの論理はダメージを受けないのだけど、
bragelonneさんはそれと関係ない、どうでもいいところばかり攻撃しています。

>【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。
科学では証明できないという意味では錯覚である。
ただし、「再生」を否定する思想系(たとえばキリスト教)も科学では証明できない。
つまり、思想の客観性からは、引き分け。つまり、言っても意味ない。
※ここでいう客観性とは、科学における証明のことであり、観測事実(=賛成派・反対派で意見が一致する事項)から片方だけ矛盾が生じるゆえに間違い、という論理が成立することを言う。

>――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。
>これが 日本人の信条ではなかったか。
当時の時代背景を無視した発言です。
聖徳太子が憲法1条に、「和を以~」と書いたのは、曽我氏と物部氏の戦争が終わった直後。
モロに、和を乱した状態の直後。
あと、「和を以~」は、悪用されていて、議論すべからず、という意味に使われています。
議論の時は、何を言ってもいいけど、決議後は決議に従うのが世界標準。「和を以~」??アホか~。
その意味で、「和を以~」は、単に「私は議論下手です」と言っているだけ。

> 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。
>どうでしょう?
どうでしょうって...思想は各人の自由だから、
「私は山折哲雄および木下順二の思想に同意できない」以上の意味を見出せません。
全否定しようが部分否定であろうが、知ったこっちゃないです。ご自由にとしか言いようがありません。


>β‐1
>β‐2
人間のあさましさ・その欲望の深さに絶望したことを、「飛び去った」と表現しただけ。
比喩なので、字句どおりにとる必要はありません。

>夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?
比喩なのでいちゃもんをつけるのはどうかと思うが。
自然科学でも一応は説明可能。
「羽根がなくなった」わけではないため。
羽の一部を使っただけであり、羽根を全部むしったのではないため、当然、飛べます。
※《つう》は、自分で自分の羽を抜いています。他人により羽根をむしられたわけではありません。

> ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。
現代科学と重要な相違点があります。このため、鐘は人為的でなく自然現象と解釈せざるを得ません。

・なぜ、夕方(=日の入り)に鐘が鳴るのか?
  夏や冬には、現代なら鐘が鳴らない。午後6時に鳴る。

旧暦では、現代の時刻の定義と異なり、日の出・日の入りが六つ時と定義されます。
要するに、昼・夜で、1時間の長さが違った。
現代時刻なら、春分の日近辺・秋分の日付近しか、日の入り時刻に鐘が鳴らないところ、
年間を通じて、日の入り時刻に鐘が鳴ります。現代時刻のほうが、明らかに人為的です。

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意...続きを読む

Q《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教批判です――

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
     の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。

人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム。

3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム。
 
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。

4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。

農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
 
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
 
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。

7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。

ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。

8.
古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。

これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?

《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。

つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
 
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
 
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。

これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
 
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。

そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。

11. 
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。

信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。

マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
 
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
 
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。

いかに?

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき...続きを読む

Aベストアンサー

>恐ろしい信念の持ち主でおられる

これはお互い様でしょう。

>人間を解放へと向かう宗教は論理的には成り立たない

ということは、当然あなたの主張する「非知たる神論」から導き出される結論ですから、
私がそこに切り込んでゆかなければ、平行線のつまらない議論で終わることでしょう。

あなたの「神論」はいわゆる「神」を「非知」として、そこから組み上げた理論であろう
と思っています。
一方、私は大乗仏教の生命観を学んでいるものです(お判りでしょうが)。この二者がどう
かみ合うのか?いや、かみ合わせることができるのか?ここが、極めて面白いと思ってい
ます。
だから、なかなか時間が取れないながらも、対話を続けようとしています。

「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」「宗教」は
「人間学」とも言えると思います。

Qひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――

ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――



 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。

 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。

 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。

 例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。

 禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。

 けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。

 ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。

 要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?

 でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。

 どうすればよいでしょう?

 * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。

ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――



 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。

 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。

 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で...続きを読む

Aベストアンサー

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。
ご返信ありがとうございます。4番です。

>★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。
 ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。
:わかりました。それなら二度と言いませんですわ。
ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、
このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。
しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、
公園のようなところでしゃべっていますから、
わたしの都合で勝手に退席させてもらいますとお断りしておきます。
わたしの都合というのは、たとえば
理解力・表現力・語彙の不足・時間の不足などです。

>《ことだまのさき(咲き・幸)はふ国なれど 言挙げぞ我れする》で行かなくちゃ 世界では話が始まりません。ただしその基調は《ゆづりあい》であるとは考えます。その意味で沈黙は金だと。
:異議なし。

>☆ これは分からんなぁ。説明不足では?
:3番様が「ひとのさが」とおっしゃったので、
「さかなのさが」と言っただけです。
釣られましたと言っただけです。ふざけすぎですか。


「ちまた」は「道・股」と書くのですね、
知りませんでした。おもしろい。


>☆ 【Q:美智子さん雅子さん愛子さんは アース役となって】〔ガミガミ役からの意識の排泄としてのガミガミ電波をゴミ処理のごとく受けておられるのではないでしょうか?〕
 たぶんこれについて 《それはいけないことだと言うに決まっています》と言ってよいと思います。《自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来い》という魂胆だからという理由からではないでしょうか。
:分かりませんです。主語を書いてください。
「>いけない」のは、外に出て行った
「美智子さん雅子さん愛子さん」ですか。
それとも「ガミガミさん」ですか。
「>都合のよいコトよ出て来い》という魂胆」
を持っているのは、ここでは誰ですか。

>自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。
>アース役を探し出し(または 自分で作り出し)
:捏造に関しては以前わたしは「渇愛(による歪んだ期待)」
ということで納得しましたが、
「自己アイデンティティの確立のため」と
昔だれかが言っていました。なるほどなあと思いました。

>占いというのは みづからの意志ではないと思おうとするだけのことですから
:異議なし。

>おのれをも神隠しに遭わせる・つまりむしろ《神隠れ》であるように思われます。
:はい、これが、
「>責任逃れつまりあるいは 意志放棄であるように見られます。」
ということでよいのだろうか。

...........ブレイク...............

>社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。
>責任が、行動を制御するからである。
>問題は程度であり、限界をどこに定めるかである。
>金銭化、数値化し、市場化しようとすらしている。
>貨幣価値によって表象される以前の人間は、人間でしかなかった。
...................................



>ともかく――ひとをではなく その考えや行動をなのですが―― 批判をする場合というのは この社会では オカルトやら霊媒師やらでないとしづらいというこれまた雰囲気があるのでしょうね。
:気のせいだと思います。

>《いやしい者が言っているぶんには 言わせておけ》
:分かりません。これを言っているのは誰ですか。
そう言って男が聞き流していると?

>数値にしてどのくらいの割合なのでしょうか。
:分かりません。

>まっ いづれにせよ 現状認識から入って行くということではないでしょうか。
:ありがとう。やさしいね。
みずから墓場に住んでいるのに、
聞いてちょうだいとわめいている人のことでしょうか。

>これで「マインドコントロール」の問題にも触れ得て ボールはそちらのコートへ行きましたよね。
:話をそらすなと言っていますか。

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。
ご返信ありがとうございます。4番です。

>★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。
 ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。
:わかりました。それなら二度と言いませんですわ。
ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、
このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。
しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、
公園のようなところでしゃべっていますから、
わたしの都合で勝手に退席さ...続きを読む

Q法螺吹きの効用について――心のゴミをきれいに処理する《アース役》とは?――

1. ひとは 人の――おのれの――自然本性を見よ。
 
 2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来る。

 3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みをも負っています。

 5. 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いたのではないでしょうか。

 6. この悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 覆われ包まれ癒されてくるようにもなります。

 7. いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)役》となってのように 引き受けたのではないか。すでに癒されていたからでしょう。

 8. ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。色をつけて言っても ごみ清浄化再活性化工場なので この世の屑だとも言われています。

 9. この現状 この動態としての過程 これで すでに 完全な解放は成っています。

 11. じつにすでにすべての解放と自由とは成っています。心配は要りません。

 12. たしかになお かつての悩み癖が消えないかのごとく 思い思いの心配をすることはあります。たとえば 心にシミ・ソバカス・ホクロなどの母斑が残っているのではないかというたぐいの心配です。

 13. ですが やがて この悩みにかんしても しかるべきものはしかるべく消えて行くでしょう。

 14. 社会の三分の一の人たちが 連帯して ゴミ処理工場を引き受ける情況がやって来たときです。つぎの三分の一がそれに加わらないけれど 共感し のこりの三分の一が ゴミの――人間の恨みや蔑みといった心のゴミの――排泄専門の・一般におえらい方がたです。三つ目のは アース役に対するに ガミガミ役です。
 
 15. そうなったときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。

 ――という法螺を吹きたくなりますね。どうでしょう?

1. ひとは 人の――おのれの――自然本性を見よ。
 
 2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来る。

 3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みを...続きを読む

Aベストアンサー

私も一つ、法螺を・・・

『日本は今や世界に冠たるアース役を買って出ているのだ!』

         (☆ 天才バガボンに替って。)


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