次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。

▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。

「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

▲ (同上) ~~~~~~~~~
たとえば、ボクが、「ボクは嘘つきだ」と言ったとする。

もしこの言葉が「真実」であれば、ボクは「嘘つきである」ことになるが、
そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

一方、この言葉が「嘘」だとすれば、
ボクは「正直者である」という事になるが、
そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

結局、ボクの言葉が、真実でも、嘘でも、
おかしなことが発生してしまうのだ。
~~~~~~~~~~~~~~

☆ おそらく取り上げた事例がふさわしくない――つまり ただの論理だけで
現実のものごとを扱っている――と思うのですが このタトへなら 

 《ウソをつかない人間はいない》

と返しておしまいではないのだろうか?

定理がどうの数学的真理がこうのと言うまでのことではないのではないか?




具体的に見ても その《ボク》が生きて来ている歴史においてその振る舞いを
実際に捉えてみれば すぐ分かることだ。つまり: 

 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこともある》

と。あるいは:

 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得ずタテマヘ
 に従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタテマヘに従うこと
 を 現実的なホンネとする》

ということ。――こうではないか?




もし そうだとしたら・この限りで このゲーデルの定理は 形式主義の数学
がそうであるように 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ・そ
してそれのみを扱っている・・・ということなのか?

それとも そうではなく まさしく人間の現実世界に対応している真理なのか?

どうなのでしょう?
なお ヰキぺの解説を見ても数式がよく分かりませんので 言葉で表現しても
らえればさいわいです。

質問者からの補足コメント

  • それと言うのも ちょうどいま哲学カテでは 不完全性定理が 現実の
    世界のこととして・哲学のふつうの議論として 有効であり適用されう
    ると言っている〔と思わせる〕回答が寄せられているのです。

    はっきり知りたいと思っての問いです。

      補足日時:2017/04/15 14:18

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A 回答 (20件中1~10件)

こんにちは、概ね回答は出揃っているのですが、2、3・・・




 まず、第1不完全性定理とは、

「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。」のことです。


 以下は、言葉の定義です。

・無矛盾性:公理自身が矛盾していないかどうかのこと。なお、このω無矛盾は後のロッサーにより、単なる”無矛盾”まで、拡大されました。

・完全性:ある一組の公理から,そこに含まれるすべての命題を導くことができるというもの。

 逆に言いますと、

・不完全性:ある一組の公理から,そこに含まれるすべての命題を導くことができないものが必ず1つは残ること。を意味します


 この定理は、「真」として、証明されてしまっていますので、どうしようもありません。



 そこで、

(1)不完全性定理って 現実から離れた数学としての真理なのか? それとも 現実に即しているのか?

 そもそも、「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば」、という前提がありますが、”この世界”がそのような無矛盾でありえないと思います。事実様々な公理(らしきもの)がありますが、これらが一切矛盾せずに(当然、例外などはあってはなりません)であるのか?と問われれば、「偽」だと考えられるからです。


(2)つまり ゲーデルのこの定理を出して 哲学カテの哲学問題についての回答とする場合が あとを絶たないように見られます。

 そもそも、人間が作ったものには、限界がある、もしくは、人間理性には限界がある、ということを言いたかったのだと思います。少なくとも、当初の哲学者は、です。ですが、これが拡大解釈されるようになってしまったのだと思います。


(3)無矛盾で出来ている公理系で 真偽を決定することができる場合もある。一部で 決定できない場合がある。
 ということらしいですね。

 はい、そのようになります。”少なくとも1つは決定できない場合がある”ことを証明したものですから。




 以上、ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~
  (2)[・・・] 

 そもそも、人間が作ったものには、限界がある、もしくは、人間理性には
限界がある、ということを言いたかったのだと思います。少なくとも、当初
の哲学者は、です。ですが、これが拡大解釈されるようになってしまったの
だと思います。
~~~~~~~~~~
☆ これは おもしろいですね。当初の意図は 現実と対応していた。と受
け取られます。


★ ~~~~~~~~~
  (3)無矛盾で出来ている公理系で 真偽を決定することができる場合
  もある。一部で 決定できない場合がある。
   ということらしいですね。

 はい、そのようになります。”少なくとも1つは決定できない場合がある”
ことを証明したものですから。
~~~~~~~~~
☆ ここも 納得を深めてくれますね。初めから そう言ってくれればよい
ものをと思います。

でしたら――用語の定義をつかみとる問題もありますが――:
★ ~~~~~~~~
  (1)[・・・]

 そもそも、「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば」、
という前提がありますが、”この世界”がそのような無矛盾でありえないと思
います。

 事実様々な公理(らしきもの)がありますが、これらが一切矛盾せずに
(当然、例外などはあってはなりません)であるのか?と問われれば、「偽」
だと考えられるからです。
~~~~~~~~~~
☆ とおそわるなら どうも《公理》が曲者だなと思われます。

勘ぐるならば 結果として《証明が成る》ことをみちびくために あらかじめ
公理の内容などを決めているのではないかとすらうたがわれます。

暴言でしょうが 連続体仮説やら対角線論法に絡んでは 言いたくなります。

ありがとうございます。

お礼日時:2017/04/16 14:51

お礼、ありがとうございます。


多少正確な議論にするために、No.18への補足ですが、、、

不完全であることは、(その公理のもとで)証明も反証もできない命題が存在するのですから、第一定理は「部分知」の意味合いをもちます。

第二定理の「無矛盾であることが証明できない」は、背理法があやしくなってしまうのですから、確かに数学にとっては大きな問題です。この問題に関しては、有限の立場(これも説明が長くなるらしいですが)をあいまいにすれば、数学的な無矛盾性は可能なようです。

例 自然数論の無矛盾性(ゲンツェンによるもの)
  実数論の無矛盾性(竹内外史によるもの)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 不完全であることは、(その公理のもとで)証明も反証もできない命題
が存在するのですから、第一定理は「部分知」の意味合いをもちます。
☆ そのようであろうと思いますという推理を述べるしか 精確には言えな
い質問者ではあります。

★ 第二定理・・・
☆ これも 残念ながらわたしにはむつかしいですね。

参考資料を例示していただきました。

或る程度は勉強しようとして来ましたし いまもそうしています。でも 高
校までで 集合論を習わなかったんです。どうもそのことが 尾を引いてい
るように思います。あの記号によって論理をはこぶやり方が いまでは億劫
に感じます。

愚痴で終わるのはいけませんが。・・・

お礼日時:2017/04/19 10:03

No.18への追加ですが、おそらく不完全性定理の意味合いは、公理を用いた形式主義で表現・認識されることがらは、完全ではなく、部分知である、ということだと思います。



部分にしかすぎないが、それでも「知」「理」であると、、。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~
[・・・]部分知である、ということだと思います。

部分にしかすぎないが、それでも「知」「理」であると、、。
~~~~~~~~~~
☆ そうですね。質問者は この定理が現実と対応しているかどうか
に関心を持ちました。

定理をふつうの言葉で表現しておこなう説明に接して そういう事例
では 現実と対応していないではないか。と思ったものですから 質
問しました。

公理系が前提として存在すること(あるいは その公理の内容をどの
ように規定するかということ) このことがどうも――現実からのズ
レを生むのではないかという意味で――曲者のようだと思ったわけで
すが 《部分知である》のかどうか。

これは わたしはただちにはよく分かりません。と思います。


でも コンピュータなどには応用されているんですよね。もしそうな
ら その意味での現実と――つまり論理性の分野で 《部分知》とし
て――対応している・・・んでしょうかねぇ。




質問者はわけもなく張り切ってガミガミ言って来ましたが みなさん
にみちびかれて ひとつの里程標を示し得る地点に到達したのではな
いかと思っています。

お礼日時:2017/04/19 06:07

不完全性定理は、公理を用いた形式主義の限界を、「現実」に示したものだと思うのですが、、、、? この公理を用いた形式主義は、数学に限らず、結構使われます。

不完全性定理の仮定を満たす公理系(自然数論を含むあたり、、)なら、数学の分野に限らず、持ってしまう性質なのでしょう。

公理を用いた形式主義以外に、人間はいかなる確かな方法をもっているか、、、、様々な実証・実験をふまえたとしても、、、認識する形式は公理を用いた形式主義にならざるをえないのか、、、、、、(よい試みがあるのかさえ私にはわかりません)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 不完全性定理の仮定を満たす公理系(自然数論を含むあたり、、)な
ら、数学の分野に限らず、持ってしまう性質なのでしょう。
☆ ふむ。そういうふうなんですかねぇ。現実にというよりは 学として
その中でなんでしょうか。

★ 公理を用いた形式主義以外に、人間はいかなる確かな方法をもってい
るか、、、、
☆ なるほど。そしてこの問いは りゅぱん344さんが次のようにひと
つの答えの方向をしめしてくれています。
◆ (回答№16) ~~~~
[・・・]数学より上位の方法論でしか、数学の不完全性を排除できないと
言う事です。(これは、数学にとっては、重大な問題です)

その上位の方法論を、超数学と呼ぶか、あるいは、又哲学が担うのかは、
まだわからないです。
~~~~~~~~

☆ 質問者のわたしはと言いますと とてもその数学の内部で起きている
ことについて実地で分かる位置にはいませんので 何とも言えないのです
が。

あなたも むつかしいという旨をおっしゃっていますが。

お礼日時:2017/04/19 05:54

お礼ありがとうございます。


一部訂正です。
クロネッカーは、自然数はアプリオリな概念として捉えていたので、考え方は直観主義です。
したがって、ヒルベルト・デデキントと併記したのは、間違いです。
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この回答へのお礼

ダンケ。

うけたまわりました。いることは いるのですね。直観主義。

お礼日時:2017/04/16 21:19

お礼ありがとうございます。


ゲーデルが証明した事の意味は、あくまで数学の公理系の範囲の話です。(つまり、哲学の事を言っているわけでは無いです)
ですから、これを使って、哲学自体を批判する事は適当ではありません。
ゲーデルの証明によって、問題がおきたのは、数学の公理系です。
数学は、その形式の内部において、完結する事を目指して、哲学から分かれたわけですが、一見、その形式だけで、閉じた分野として成り立つと考えられた、数学が、自分自身では、完結しない(不完全)な事が証明されてしまったわけです。
これが、何を意味するかと言えば、数学より上位の方法論でしか、数学の不完全性を排除できないと言う事です。(これは、数学にとっては、重大な問題です)
その上位の方法論を、超数学と呼ぶか、あるいは、又哲学が担うのかは、まだわからないです。
自然科学のように、その根本原因の追究をやめて、現象の観察のみにとどめて、発展する方法もあるわけです。(この場合は、数学は形式科学では無く、自然科学に類似した分野となるでしょう)
ゲーデル自体は、数学の形式は、人間が作った公理系だけではなく、形而上の数学の形式が存在すると考えていました。
したがって、数学はゲーデルにとっては、その形式を発見する学問だったわけです。
ですから、ゲーデルは、数学の公理として、アプリオリなものは、想定するよりはるかに多く存在すると考えました。
哲学的な言い方をすれば、ゲーデルは数学のプラトニズムと言えます。(形而上の数学と言う実体が存在すると考えていました)
ヒルベルトや、デデキント、クロネッカーなどは、そのような発想はしていませんから、数学の形式だけで、数学は完結可能と考えていました。
ただ、ゲーデルが不完全性定理を発見してしまったので、この野望は潰えてしまいました。(第一定理は、まだ大した問題では無かったのですが、第二定理「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。」は大問題です)
注意しなければならないのは、数学内部だけでも、不完全性定理の対象外の公理系もあれば、自身の公理系では、不完全性定理が適用されても、数学の他の公理系で、証明可能な公理系がある事です。
数学全体で見れば、それは不完全性定理の適用される部分はありますが、全てがそうでは無いと言う事です。
数学全体を不完全性定理の適用外にする事は、数学だけでは無理です。(そういう意味で、数学だけで完結しようとする為には大問題だと言う事です)
ゲーデル自身は、哲学の現象学で、数学の公理系の不完全性の除去を行おうとしたようです。
つまり、ゲーデルの不完全性定理が証明した事は、数学は、数学以外の方法論を使わないと、その不完全性を除去できないと言う事です。
ですから、哲学的問題の解決が、ゲーデルの不完全性定理に関係するような意図の発言があるとしたら、それは哲学的問題の解決に数学的手法を利用している場合にのみ関係するだけです。
それ以外の場合は、何の関係もありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ゲーデルが証明した事の意味は、あくまで数学の公理系の範囲
の話です。
☆ ええ。このたぐいの確認は いくらあってもわたしには意義が
大きいです。

★ 数学は、その形式の内部において、完結する事を目指して、哲
学から分かれたわけですが
☆ この知識も 分かりやすいです。

そして:
★ 一見、その形式だけで、閉じた分野として成り立つと考えられ
た、数学が、自分自身では、完結しない(不完全)な事が証明され
てしまったわけです。
☆ という出来事が 言わば塀の向こうで起きたのですね。こちら
から見れば。


次のご指摘は 何となくですが 重大な問題であるようにわたしに
もひびきます。
★ これが、何を意味するかと言えば、数学より上位の方法論でし
か、数学の不完全性を排除できないと言う事です。
☆ 学の総合という意味でも興味深いように思います。


★ ゲーデル自体は、数学の形式は、人間が作った公理系だけでは
なく、形而上の数学の形式が存在すると考えていました。
☆ これは 身を乗り出してふむふむとお聞きするお話ですね。

★ 注意しなければならないのは、数学内部だけでも、不完全性定
理の対象外の公理系もあれば、自身の公理系では、不完全性定理が
適用されても、数学の他の公理系で、証明可能な公理系がある事で
す。
☆ おそらくそういうことなんでしょう。公理系が曲者だとにらん
だわけでした。


次のご指摘はわたしは ブラヴォーと言って 再掲するのみです。

★ つまり、ゲーデルの不完全性定理が証明した事は、数学は、数
学以外の方法論を使わないと、その不完全性を除去できないと言う
事です。

★ ですから、哲学的問題の解決が、ゲーデルの不完全性定理に関
係するような意図の発言があるとしたら、それは哲学的問題の解決
に数学的手法を利用している場合にのみ関係するだけです。
それ以外の場合は、何の関係もありません。



質問は挙げてみるものですね。
№15と№16とが みなさんのご回答の基本的におもむくところ
でしょうか。

お礼日時:2017/04/16 19:18

仮説法って質問者が作ったんじゃないかな?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ (ヰキぺ:仮説演繹法) ~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E8%AA%AC …

仮説演繹法(かせつえんえきほう、英: hypothetico-deductive method)という
名前を最初につけたのはウィリアム・ヒューウェルであるが、これは科学的方法の
記述として提案されたものである。

§ 1 概要
この用語はカール・ポパーが引用して以降、世に広まった。[・・・]
~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/04/16 14:31

仮説法ってなに?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

推論の仕方に三つほどあるようです。
 
  Deduction: Rule→ Case→ Result
  (演繹法: 大前提→ 小前提→ 結論)

  Induction: Case→ Result→ Rule
  (帰納法: 小前提→ 結論→ 大前提)

  Abduction: Result→ Rule→ Case
  (仮説法: 結論 → 大前提→ 小前提)


☆ まづ先に勝手に《結論》を推し出して それをめぐって ああぢゃ
こうぢゃと検証しながら その結論の妥当性を裏付けるやり方だと思い
ます。

ヰキぺでは 仮説演繹法として載っていました。アブダクションという
項目もあります。


神や信仰をめぐる議論には 初めに神をこれこれであると想定し 仮説
として結論づけて そのあと 経験的なものごとと照らし合わせ不都合
はないかと検証してゆきます。

お礼日時:2017/04/16 11:20

>《ウソをつかない人間はいない》


>と返しておしまいではないのだろうか?
何について議論しているか、という視点が抜けています。
現実世界は、たしかに、「全ての人間は嘘をつくことがある」なのだけど、
そうであれば、必然的に、
「人の発言は正しいのか正しくないのか、区別する方法は無い」となってオシマイ。

それじゃあ論理が記述できないから、命題に限定して議論します。
命題とは、文章が正しいか間違っているかどちらかというタイプの文章のことであり、中間(半分正しいとか、時により正誤が入れ替わる、とか。)は無い、ということ。
よって、「ウソつきとは、常に嘘を言う者を指す」とするのが、論理学では暗黙のことになります。
だから、そこにイチャモンつけても、野暮もいいところ。

で、論理学ですが、自己言及があると矛盾の巣窟になります。
たとえば、
蔵書目録
自分自身を引用していないような本全てを一覧にした(引用した)本 X を作ることを考える。
このとき X は X を引用するのか?

なので、自己言及禁止の方向で研究していたところ、
ゲーデルが、  自然数論だけを用いた場合で、自己言及ができてしまった。よって、自己言及禁止というわけにはいかない
となって、アウト。
(その証明方法のゲーデル数云々は、聞かないでください。わたしには解らんから。)

>ゲーデルの定理は 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ
>そしてそれのみを扱っている・・・ということなのか?
>それとも 人間の現実世界に対応している真理なのか?
人間の現実世界はもっとヒドイです。
まず、命題だけ、というのが現実離れしています。
人の意見は時間とともに変化します。また、○○が正しいときもあるし間違ってるときもある
という場合がほとんど。決して、論理学どおりではありません。
だから、上記みたいな現実のワケワカンなさが何かの理由で全て解決しても、ゲーデルの定理は、最後の砦として残っている
という解釈でかまわないと思うが。
現実のワケワカンなさが解決するとは思えないので。
あと、現実での自己言及ですが、
たとえば、国会議員が、「国議員は賄賂もらってはいけない」と言ったとして、言った本人は国会議員なので
自己言及となり、自己言及禁止ルールにより、発言そのものが抹殺されます。そして、うまく裏をかけば
自己言及禁止ルールにもかかわらず、国会議員が、「国議員は賄賂もらってはいけない」と言うことができる
というのが、ゲーデルの定理の趣旨。
現実は、「おまいう」の場合が多いけど。


>不完全性定理が現実の世界のこととして有効なのか?
最も現実的なのは、コンピュータプログラムの世界。純粋に整数論だけで動いている。
チューリングの停止定理というのがあって、ゲーデルの定理と全く同じことを指している、ということは証明済。
コンピュータプログラムは、無限に計算を続けるか、適当なところで止まるかいずれか。
 ※無限に計算を続ける単純な例は、方程式を反復法で解くとき、方程式の質と初期値の仮定が悪いのと
  両方が成立すると計算が振動してしまい、無限に回る。
どっちになるか判定するコンピュータプログラムを作ることは可能か? という問題。
 ※特定のプログラムだけの判別なら可能なので、当該コンピュータで動く全てのプログラムを判別できる状況を
  どっちになるか判定するコンピュータプログラムができた と定義する。
 ※勿論、当該プログラムを実行するよりも短い時間で、判定結果を出さないとなりません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ そう(全ての人間は嘘をつくことがある)であれば、必然的に、「人の
発言は正しいのか正しくないのか、区別する方法は無い」となってオシマイ。
☆ そうとも限りません。

本人は じゅぶん知っています。
また その人の言動の歴史を見てみれば・そしてつねに検索に掛け得るよう
になっていれば かなりの精度で ウソかホントウかが分かるのでは?

初犯だと見られる場合には ウソを言っていても ほんとうのことを言って
いると受け取って応対するのが ふつうです。

再犯以後はそれなりに対処します。

というように 案外多くの場合に――推理をも交えつつですが――区別する
すべがあるように思います。

しかも 分からない(区別し得ない)場合については 人間の現実が そう
いうものだと受け取ることになります。

それが 現実の――非論理をふくむところの――広義の論理です。




中間の解はなく:
★ よって、「ウソつきとは、常に嘘を言う者を指す」とするのが、論理学
では暗黙のことになります。だから、そこにイチャモンつけても、野暮もい
いところ。
☆ その野暮が 現実なのでは? そのつどイエスかノーかでどこまでも答
えを出して進める計算や思考の形式。これにものごとの扱い方を合わせると
いうのが いまの論理学ということでは?

★ で、論理学ですが、自己言及があると矛盾の巣窟になります。
☆ 現実の人間(ないしその相互の関係)は 論理学のみではないわけです。

自己言及を禁止するというのは 論理学の側の一方的な論理なのでは?


★ うまく裏をかけば 自己言及禁止ルールにもかかわらず、国会議員が、
「国議員は賄賂もらってはいけない」と言うことができるというのが、ゲー
デルの定理の趣旨。
☆ この《うまく裏をかけば》という事態について 残念ながらよく分かり
ませんでした。

基本的なこととしては 人間をコンピューターに合わせるというわけには行
かないと思います。

お礼日時:2017/04/16 01:10

お礼ありがとうございます。


「ゲーデルの不完全性定理」に関しては、啓蒙本などでも、解釈を間違っている例が多々あるようなので、数学者もそのような解説に関して困っているようです。(かなり、その内容を検証して、注意喚起している数学者(数学教員)などもいるようですが、なかなか、本の改定なども進まないようです)
WEB上の解説にいたっては、玉石混淆でしょうね。
注意喚起している人もいるようですが、WEB開設者が素直な人なら、直すでしょうが、そうでなければ、そのままでしょう。
また、数学者以外で、それを拡大解釈(しかも間違った解釈)している、他のジャンルの研究者もいるようなので、問題は根強いです。
ただ、不完全性定理があるから、すべての論理が、不完全と言っているとしたら、あまりにもおかしな意見ですよ。(そう言う意図で発言しているとしたら、全ての論理が不完全ですから、意味が無くなってしまいます)
そういう事は、ゲーデルは言っていません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

無矛盾で出来ている公理系で 真偽を決定することができる場合も
ある。一部で 決定できない場合がある。

ということらしいですね。



これだけ明確に言っていただければ 納得が行ったように思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2017/04/16 00:20

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Q例外のない法則はあるか? これは真理と言い切れるものはあるか?

例外のない法則はない とよく言われますが 本当に例外のない法則はないのでしょうか?

例外のない法則 真理と言い切れるものはあるでしょうか?

もしあれば一つでもいいから教えて頂けないでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

普遍的な宇宙の大法則(摂理)を想像すると、例外というものは存在しないように
思えますが、変化・成長があるということを考えますと、完全ではなく、「例外」
と呼べるものがあるはずだと思います。

またそれは、現在の人間の認識方法によるもので、宇宙の普遍性から見たときに
「正しい」とは全く限らないわけです。
そのあたりを、現代物理学が解明しつつあるように思えます。

もう少し言えば、なぜ変化・成長があるかと言えば、それは個別化された生命に
自由があり、その自由な能動的な創造という行為が変化・成長を産む、と。
その全体から見ればわずかな「歪み」が「例外的存在」となり、それを因として
全体が変化をする、と。

まあ、こんなことを考えて楽しんでいる私です。(^^♪

Q《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》とは どういう意味か

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。

5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。

6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。

7. よって、

  「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
  せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。

8. この場合、

  「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
  たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
  ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

7. よって、

  「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?

9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?

9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。

9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。

10. (8)の B なる命題について:

10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?

10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。

11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?

11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。

12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか? 

12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思...続きを読む

Aベストアンサー

#72です。

(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
★自然宇宙の絶対的摂理=あらゆる事象をバランスさせる力
というスタンスがあります。
卓袱台返しをするわけではなく、逆に言うと、
★あらゆる事象をバランスさせる力
が無ければ、宇宙・世界はバラバラにならざるを得ないはずなのだから、それを、
★自然宇宙の絶対的摂理
と呼ぶのは論理的であり妥当な思考だろう、ということ。
その上で、経験事象 A が
★自然宇宙の絶対的摂理
以外によって顕現しているとするのは極めて不合理なのであるから、
★「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」
のように定義したとしても何ら齟齬は生じない、という論理になるかと思います。

上の表現において、
★ならざるを得ない
★妥当な思考だろう
★何ら齟齬は生じない
などの見解が、その根拠と共に示されていると思いますが、それらは(今のところ)わたしにとって動かしがたいものであるようで、経験事象 A と、それを顕現させている法則・原因が、
☆非連続
であるといった視点をとることは、なかなかむずかしいようです。
やはり「見解の相違」という落としどころに来ているように思うのですけどね。

(イ)
>~~《物理現象⇒物理法則⇒その抽象化・純粋化》は 非連続を無
視していると見られてしまいます。
じつは それゆえにも――詭弁を弄すると映るかも知れませんが――《非
知》という想定を初めに持って来るのです。人間の思考としての投影作業
を この定義の仕方によって切ったのです。
ですから:
★ ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
☆ に対しては 《非思考》を掲げるわけです。

ともおっしゃるわけですが、「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
ここにきて、神と摂理の食い違い、つまり信仰と論理の問題。も生じてくるのかもしれません。
その場合、(本来の)信仰が思考停止であるとして、それは、むしろbragelloneさんにとっても本意ではないか、という印象も受けるのですが、その点についてはまた別の機会に譲るのが妥当なのでしょう。

(ウ)
>神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。
けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。

ここも実によくわかるのですが、(イ)と同様、
★神と摂理の食い違い
についてつまびらかにしないまま論じるのは難しいように思います。
☆非連続
と前提するなら、たしかに
☆神は非知
と言う論理は成立するでしょうね。
この辺りの論理はおかげさまで腑に落ちました。
ただ、そうした前提が(神に対して)妥当か否か、という問題と、仮に妥当だとして、それを「絶対的摂理」にも適用することが妥当か否か、という2つが論点としてあると思われます。
わたしの場合、現時点では、とりあえず、後者については(見解の相違という形ではありますが)否定しつつ、前者については積み残しの状態と言えるでしょう。

#72です。

(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
★...続きを読む

Q無謬性

人間は本然的に無謬性を求める、と言えると思います。
無謬性という概念は「信仰」につながると思います。

人々はかつては宗教にそれを見ました。「聖書の無謬性」などという言葉もあります。

現在は科学にそれを見ているのではないでしょうか?
わからないことがあるにせよ、科学的に証明されたものは「絶対に正しい」、と。

あるいは、人間は間違えるが、AIは絶対に間違えない、と。
そこから、AIに対する「神格化」の感情が急速に高まっていると思います。

しかし、AIは設定された条件内においては間違いはないと思いますが、その「条件」
の中に誤謬があるいは不完全性がありうると思います。

また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの
無謬性は証明できるのか?

無謬性ということについて、あるいは無謬性と信仰について、無謬性と科学について、そ
の他、なんでも結構です、よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

伝統的宗教が歴史の中で
人間にとっての社会を維持するために
直観的に正しいと思われる価値観の正当性の拠り所として
神もしくはそれに類する存在を土台にした無謬性を構築する必要があった。
というのは科学が未熟な時代を経ながら進歩せざるを得なかった
人類にとって避けて通ることができなかった必然の過程だと思います。
現代という時代は
そうやって積み重ねられた歴史の成果としての科学という客観的な拠り所によって
無謬性を検討できる時代にはなっていると理解していいのではないでしょうか。

物質科学の隆盛期にこじれた宗教と科学の関係も
物質科学の先に展開することが可能になった精神科学に照らして
整合性を検討することで新たな展開も期待できると思います。

科学の世界における無謬性においても人間の認識能力の構造的限界というものがあって
その閾値以下の部分においては信仰という拠り所の必要性はなくならない。
そしてその領域の拠り所を求められる局面もなくならない。
今のところそんなふうに考えています。

Q不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

Aベストアンサー

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。

2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
 ☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
 である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。

☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?

3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。

違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。

といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。

>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?

★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めていま...続きを読む

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q人間とは 何でしょうか?

そもそも人間とは何でしょうか?

実存とか精神とか 性善説とか性悪説とかありますが

人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

Aベストアンサー

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に発生しただけの生物であって、いずれは死滅する存在じゃないかと。
そんな生物であれば、「人間とは?」などと大上段に考察する必要もなく、多少の知性などはあるものの、本質的にはアメーバーなどと大差は無い生物ってことで良さそうです。

一方、近年の宇宙科学とかでは、「ホンマかいな?」と言う様な発見や研究が多いのですよ。
たとえば、「重力は小さすぎる」なんてのが証明されて、「その力はどこに消えてるのか?」などが研究されるたり、「未知なる『第5の力』がある!」なんてことも言い出しました。
そうなると、高名な学者が「宇宙は少なくとも5次元以上で構成されているが、人間の脳は、まだ3次元までしか感知,認識し得ない」みたいな説を唱えたりもしています。

何か「言いたい放題」みたいな感じなのですが、1つのことが判れば、謎は深まるばかりと言う様相で。
ご質問も、それこそパスカルの時代から存在しつつ、誰も明確に正解を答えられない問いですが。
結局のところ、「人類はまだ、何も判っていない」に等しい状況と言えそうです。

もう一つ、興味深い説があって、宇宙には人類以外の知的生命体がいる存在は、否定されつつあります。
これはちょっと寂しい気もする説ですが、これが事実なら、冒頭の「真理を突き止められる可能性がある、宇宙で唯一の生物」と言うことになります。

また、上でも少し触れましたが、宇宙と脳には各種の関連性が指摘されていて、まあ人類も宇宙の子ですから、関連があって当然ながら、何らか「宇宙の意思」的なものがあって、その様に作られているのかも知れません。

いずれにせよ、人類は未だ「人間とは何か?」に対し、明確な答えを得ておらず。
その答えを得るためには、まだ戦争などの愚かしい行為も繰り返しながら、もっと科学技術などを高める必要性はありそうだし。
戦争などとは無関係に、宇宙や生命科学の真理を探求できる状態になる頃には、完全なる平和なども手に入れねばならないです。

現代に生きる我々に出来ることは、我々の子孫が真理を解き明かすことを願い、我々の時代を少しでも良くする努力をすることではないか?と思います。
また、もし真理に到達すれば、それが「宇宙の意思」そのものと言えそうで。
「人類こそが、宇宙の意思であった」と言えるのかも知れません。
あるいは、人類の産物であるAIなどが、人類の意思を引き継いで、それを実現するのかも知れませんが。
出来れば、私のDNAもちょっとは受け継いだ、人類であって欲しいです。

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に...続きを読む

Q殺人はいけない

殺人がいけないのは当たり前です。道徳から導かれる当然の答えです。
法律があるからは法律がなかったらいいと言いますが道徳心が心配です。

殺人をひとくくりでいけないと言うのは間違いです。
条件により答えは変わるからです。

戦争はしてもいい殺人と言いますが、単に罰せられないと言うだけです。
殺人をして褒めるのは国だけであり罪のない一般市民を殺すことが
正当化されるわけではありませんし、自分は褒めません。
実際兵士は、殺した分傷つきトラウマになり自殺したりします。

殺人を一言でいけないとしないのは正当防衛など許される殺人があるからです。
しかも自分が心から許す事の出来る殺人になります。
道徳からはいけないとされる殺人を何故心から許せるのかは、
自分を危険にさらしたり悪事を働く者に対しその人を守ろうとする気持ちにならないからです。
死刑も同様の理由で国民が納得する殺人になります。

殺人がいけないのは当たり前ですが、いけない理由が気になると思います。
まず、殺人がいけないのは罪もない人を殺すことに対してです。
逆に、悪に対しては殺してもいい答えが導かれます。
戦隊ヒーローものも、ヒーローが悪を殺して怒る人などいないわけです。

殺したら殺し返されるからと言う理由は、自分中心の考えになります。
道徳とは関係ありません。

道徳でいけない理由は、恐らく命を奪うとはその人の人生を奪うことであり、
他人の人生を脅かしたり狂わせたり奪う権利を持っていない、
それがいけない事だからとなります。

つまり、殺人がいけないのは人の人生を奪う最低な行為だからと言う道徳からくる、
答えではないかと言うことです。

他に納得できる理由があればどうぞ。

殺人がいけないのは当たり前です。道徳から導かれる当然の答えです。
法律があるからは法律がなかったらいいと言いますが道徳心が心配です。

殺人をひとくくりでいけないと言うのは間違いです。
条件により答えは変わるからです。

戦争はしてもいい殺人と言いますが、単に罰せられないと言うだけです。
殺人をして褒めるのは国だけであり罪のない一般市民を殺すことが
正当化されるわけではありませんし、自分は褒めません。
実際兵士は、殺した分傷つきトラウマになり自殺したりします。

殺人を一...続きを読む

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自炊に初期投資って一体…?という方にはこちらがお勧め。
「底辺から這い上がって語る貧乏 都会とカップラーメン」

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「やっかみで赤の他人に酔っ払いのような絡みをするのがどれだけ恥ずかしい事か、それすら判らんのかね。まずはそこから恥ずかしいと思ったらどうだ」

これに尽きますな。

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MMDとUTAUとボカロ(KAITO、MEIKO、ミク、VY1、VY2そしてボイスベース専門と化したキヨテルがいます)で遊んでる底辺うp主です

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。

Q宇宙の公理

いま目の前に厳然として存在する宇宙について考察するとき、次の5つ公理に行き着いた。

  1.宇宙は存在する
  2.宇宙は無限である
  3.宇宙は連続体である
  4.宇宙は不変である
  5.宇宙は不滅である

宇宙は存在する。
宇宙は存在するし、もともと存在した。
宇宙は創られたのではなく、もともと存在していた。
宇宙に始まりはなく、ビッグバンなどもともと無かった。

宇宙は無限である。
宇宙の空間軸は無限である。
無限なる宇宙に果てはなく、果てのない宇宙に形はない。
この無限なる宇宙にとって、137億光年の空間などビー玉にも満たない。
また宇宙の時間軸は無限である。
この無限なる宇宙に始まりはなく、終わりはない。
時間軸の如何なる時点においても宇宙は常に存在していた。
宇宙の歴史は無限であり、137億年どころか137億の137億乗年よりはるか以前から宇宙は今と変わらず普通に存在しておった。

宇宙は連続体である。
宇宙はその中のどの一部をとってもそれ自身やはり無限である。
つまり宇宙とはマクロにもミクロにもこの上なく無限なる実体である。

宇宙は不変である。
宇宙の至る所で惑星や恒星、銀河が誕生したり消滅したりして宇宙の地図は移り変わるが宇宙の基本構造は不変である。

宇宙は不滅である。
人類が滅びようと、地球や太陽が消滅しようと宇宙にとっては砂粒が一つ消える様なもの、宇宙が無くなることはない。
宇宙は未来永劫、完全に不滅である。

これらは公理であり、証明を求めるべきものではないがあまりに自明である。
そしていま目の前に厳然として存在する宇宙と深遠なる宇宙の公理について考えるとき、神や仏、天国や地獄の事などもうどうでもよいことに気付くのである。

いま目の前に厳然として存在する宇宙について考察するとき、次の5つ公理に行き着いた。

  1.宇宙は存在する
  2.宇宙は無限である
  3.宇宙は連続体である
  4.宇宙は不変である
  5.宇宙は不滅である

宇宙は存在する。
宇宙は存在するし、もともと存在した。
宇宙は創られたのではなく、もともと存在していた。
宇宙に始まりはなく、ビッグバンなどもともと無かった。

宇宙は無限である。
宇宙の空間軸は無限である。
無限なる宇宙に果てはなく、果てのない宇宙に形は...続きを読む

Aベストアンサー

その宇宙の公理はエントロピーに似ている。しかしそれを説明出来ても人は如何に生きるべきかは説明出来ない。人の人生とは「どうでも良いこと」ではないからだ。釈迦はインド哲学から宇宙の中に仏教感を創造した。どうでも良いはずの宇宙はやがて曼荼羅にという重要な教の基盤となったのである。宇宙は神が作ったものではなく、宇宙そのものが神であることに気づく段階を悟りとすれば、あなたはその入り口で扉を開けようとしているのです。

Q哲学的論理学(英: Philosophical logic)は有用ですか?

大昔は数学やその他の学問も哲学に包含されていたそうですが、歴史が下るにしたがって、各学問分野が独立しつづけ、現代は哲学が扱う分野は残り少なくなっている様に思います。

アリストテレスやフレーゲが哲学の一分野として開発した論理学(Philosophische Logik, Philosophical logic)は、数学の集合論やブール演算が開発された現代においてもなお有用でしょうか?

質問1:集合論とブール演算を熟知している人が、哲学的論理学を学習して初めて可能になる論理・論述はあるのでしょうか?
質問2:命題論理あるいは述語論理で記述(論述)できるが、集合論とブール演算では表現できない「何か」があれば、その一例をご教示ください。

哲学の学生、数学の学生、哲学や数学の教員、それに市井の哲学愛好者など古典論理学や記号論理学に知見のあるかたよりアドバイスいただれば幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

No.2, No.6です。
 数学において証明ということができる理由は、数学が自己完結していることにあります。ユークリッドの公理主義を徹底して洗練した、ヒルベルトらによる形式主義の成果ですね。数学という言語を使って何が言えるか、ということだけを問題にしている。用語が現実世界とは全く無縁であることによって、現実の経験とは完全に切り離されているんです。そのためには、現実の経験とは無関係に、しかも自己撞着に陥らないで用語(概念)を導入する仕組みが必要不可欠である。論理と集合論がその基礎を与えていて、すなわち集合を素材にして、さまざまな概念が構成されるという仕組みです。
 これが数学基礎論です。哲学をやるのに大いに助けになる。いや、哲学やる人には数学基礎論を必修にしたっていいぐらいじゃないか、と思います。

 というわけで、島内剛一「数学の基礎」の前半を(全部は分からなくたって気にしないで)とにかく通読なさることをお勧めしよう。数学の仕掛けの構造が、ドロドロした歴史的背景なんざ無視して、奇麗に整理されているからです。これを一通り理解した上で、それでもどうしても溺れてみたいのならドロドロに入ってみれば良いかと思います。

> 理学部の数学科に行かなきゃイケなかったかな。

 数学科に学費払うまでもなく、良いテキストがあれば独習で足りると思いますただね、歳を取ると根気と集中力が落ちるのがヤバいんだよな。

こちらもご参考になるやも知れぬ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/43691.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3290945.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3948315.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7423274.html

No.2, No.6です。
 数学において証明ということができる理由は、数学が自己完結していることにあります。ユークリッドの公理主義を徹底して洗練した、ヒルベルトらによる形式主義の成果ですね。数学という言語を使って何が言えるか、ということだけを問題にしている。用語が現実世界とは全く無縁であることによって、現実の経験とは完全に切り離されているんです。そのためには、現実の経験とは無関係に、しかも自己撞着に陥らないで用語(概念)を導入する仕組みが必要不可欠である。論理と集合論がその基礎を与...続きを読む


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