指定校推薦の条件で
三年間1度も成績1をとらない
というのがあるのですが
それは三学期(1年ごとの最終的な)成績1なのか
それとも
一学期や二学期だけ1(その後三学期の最終的な成績は2以上)
どっちなのでしょうか?
わかる方いたら教えてください

A 回答 (1件)

基本、


指定校推薦は、受験が早いので、
1年生の1学期〜3年生の1学期までの間で
1度も「1」をとらない事という意味です。

とにかく、どこかで1つでも「1」が付いたら、
受験資格無しになります。


……でもね…、
私、高校で教えてるんですけど…
普通、「1」は付かないですよ。


「1」って、欠席日数がオーバーして評価対象外になるか、
余程、授業態度が悪いとか提出物を出さないとかなどの素行の悪さと改善の見込み無し
という判断でしか、付かないもんですよ?

「10」が付くのと同じくらい「1」って付きにくい成績なんです。
普通にしてたら、ある意味、むしろ取るのが難しいですから^^;
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二元論であるかどうかには関係がなくて、教育訓練、指示監視、成果確認がきちんと行えること、事物や現象を記録し分析鑑定をする作業を客観的に出来ることが、科学やシステムの形成、発展には不可欠です。 それ以外にも必要な要素はたくさんあるでしょうが、事物や現象を言葉や数式、データで明確に示して、論理的に検討可能なようにすることが出来ないと、多くの産業は崩壊し、科学もなくなってしまうでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E4%BD%93%E3%81%A8%E5%AE%A2%E4%BD%93

私や私たちの日常は、「解らないので、放っておく」の連続で構成されているともいえるでしょう。世界のトップ級の科学者でも、自分の専門外のことはわからないまま放っているのだと思います。でも「すべてのことが、誰からも、解らないから、放っておかれた」状態だと、スマホも作れないし、自動車も作れない、送電もされない、ガソリンも来ない、米や魚も肉も都会には運搬されないという状態になるでしょう。 ある種の事柄に対しきちんと状態を調べものの物質や構造などの状態、力学的関係、化学的状態、電磁気の状態、時間タイミングの妥当性、各種の関係のあり方を調べ、扱う機械装置、システム、人間、社会組織などの関係をつぶさに明らかにしていく《専門家》がそれそれの要所にいて、それらの検討の結果を基にして、方程式やシステム設計、連携システムの実行、処理、製造、運搬、操作、説明などの業務を担う《近代的訓練を身につけた人々》がいて、現代の社会が成り立っているのだと思います。

感性・感覚・違和感・しっくり感は重要な起点ですが、それをそのママにせずに、起点として理性と論理で分解あるいは統合し、整合性を確認していくことで、前に進むことが出来るという信念は、科学や産業、大きな社会を作れる大きな要因だと思います。 曖昧なまま、起点を起点とせず、基点に留まっていては、科学は進歩発展しないと思います。

このPDFには、別の視点で、近代科学の考え方を高校生向けに説明している文章があります。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_syakai/archive/gensha_08.pdf
「自然には神の意志などといった精神や目的はなく、単なる物体の運動よって機械的に引き起こされているにすぎない」という考え方を【機械論的自然観】といいます。 自然が神の仕業でなく、単なる物体の機械的な運動にすぎないのであれば、人間の力で自然の法則を解明し、自然の力を利用しようというのが近代科学の考え方です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人間の理性力で法則を解明し、自然を利用しよう:これがベースなのでしょう

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 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。

 ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。
 このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。

 さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。
 というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。
 ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。
 前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。
 この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、
   「人間は何であったか」(過去への視線)
   「人間は何でありうるか」(未来への視線)
です。
 前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。
 同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、
   「心とは何であったか」
   「心とは何でありうるか」
という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。
 でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。
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 でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。
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 幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。
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 何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=39578

 けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。
 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつ...続きを読む

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