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聖徳太子について、教科書への記述に関してです。
従来、聖徳太子と記述されたいましたが、最近、厩戸皇子に改められ、ついこの間、聖徳太子に戻りましたね。
なぜ、このような変遷(悪く言うと、右往左往)があったのか、経緯や理由などを教えて下さい。

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A 回答 (6件)

1999年に大山誠一氏が聖徳太子虚構説を出したのが大きいです。


推古天皇の子である聖徳太子の存在が虚構であって、太子の実績等も後の代に創作されたものだという説を出しました。
聖徳太子は否定したのですが厩戸皇子の存在までは否定しませんでした。
その影響で聖徳太子という記述が用いられなくなってしまいましたが、虚構説が出た直後から反論があり、
反論に対する十分な論証が出来なかった為、また元に戻ったという感じです。

↓wikiの聖徳太子のリンクページですが下の方に虚構説が少し出ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3 …

古代史では邪馬台国は存在していなくて、邪馬壱国だったという説が昔ありましたし、
色々と調べると面白いですよ。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
1.<1999年に大山誠一氏が聖徳太子虚構説>
2.<厩戸皇子の存在までは否定しません>
3.虚構説に対する
<反論に対する十分な論証が出来なかった>
という経過・理由なのですね。

お礼日時:2017/04/16 20:28

変更した目的が公式には「当時はそのような名称で使われていないから」というものでした。


もしそうなら、大規模な教科書の名所変更が必要になります。


当時の呼び名の例を挙げた参考意見
https://www.facebook.com/kazuo.yawata/posts/1342 …



他の「当時使われていなかった膨大な数の名称」はスルーして、その数あるうちのほんの数点を狙い撃ちする。
教育機関の中立性を問われたのが、今回の騒動です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<教育機関の中立性を問われた>
のですね。含みをもって
<あるうちのほんの数点を狙い撃ちする。>
ですね。

お礼日時:2017/04/23 12:11

#4さんも少し触れられていますが、聖徳太子という人物が6世紀に存在しないとしても、


「聖徳太子を崇拝するという行為」は、9世紀ごろから1200年以上続く確実な歴史的な事実です。

それこそ、「厩戸皇子」という人物が6世紀に存在した(あるいは存在しないかも)なんてことは、教科書に載せるまでもない歴史マニアだけが知っていれば些細な出来事ですが、
「日本人が1200年にわたって聖徳太子を崇拝し続けてきた」という歴史は、教科書に載せるべき事項だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
歴史は、単なる事実の存在でなく、人々がそれに如何に対応したのか、の方がより価値がある、という場合があるのですね。

お礼日時:2017/04/20 09:32

聖徳太子は、おそらく日本書紀によって創出されたものであろう、ということが最近になってはっきりしてきたので、歴史としては聖徳太子のモデルとなったと考えられる厩戸皇子を教えるようにしようってことになったのですが、聖徳太子は創出200年後ころから(つまり千年以上も)ずっと日本人に慕われてきた聖人であり、特に近年はお札の肖像として親しまれていたこともあり、名前をどこぞの芸名みたいな扱いにすることに抵抗があったのでしょう。


作家なども本名よりペンネームで扱われることも多いので、そのような感じでしょうか。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<作家なども本名よりペンネームで扱われる>
ことが多いと同様に、長く慕われてきた名前の方を使おう、ということですね。

お礼日時:2017/04/17 09:22

しょせん大昔のことですから、なにも正確なことでなくてもいいんです。


それで今の時代が変わるわけでもありませんし。
せいぜいが学者の自己満足を満たすだけ。
そんなことで混乱させられる学生や社会のことを考えたら
今まで通りでいいんじゃないか、ということでしょう。想像ですが。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<なにも正確なことでなくてもいいんです>
<今まで通りでいいんじゃないか>
ということですね。どうでもよいことですからね。

お礼日時:2017/04/17 09:17

現場の反対意見が続出した。


今までズ~っと「聖徳太子」って教えてきたのに、いきなり「厩戸皇子」なんて言われても困る。

「今まで教えてきたのは、一体何だったの?
いまの大人は全員、そう思っている。一体どうして呉れるんだ!」。

これに反論出来なかった。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<現場の反対意見が続出>
<「今まで教えてきたのは、一体何だったの?>
という動きが強かったのですね、

お礼日時:2017/04/16 20:31

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【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】


日本の都道府県名を考えた人が中国人だった?

中国人に日本が乗っ取られていた?

Aベストアンサー

>都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられた…

それ、何県と何県の話?

元号なら確かに中国の古典をよりどころとしているのが多いですが、県名が中国の古典によっているとは初めて聞きました。
少なくとも私の県は中国とは何の関係もありませんし、東京都や北海道だって中国とは縁もゆかりもありません。

その話の出典をあきらかにしてください。

Q記紀が邪馬台国に触れていないのはなぜでしょうか?

こんにちは。
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記紀が邪馬台国に触れていないのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

質問の意図がわかりかねるというか....

畿内派とは、ヤマト政権=邪馬台国 のことであるので、記紀の記述そのものがヤマト政権のことである以上、
同時に邪馬台国の記述になります。
邪馬台国 という記述が無いのは、日中での国の呼び名の差異にすぎないので、記述する必要が無いので
邪馬台国に触れていないのは当然だと思うんだが....
たとえば、現代中国語で、ドイツは「徳国」、アメリカは「美国」 という差異があるんだが.....
他にも、イギリスといっていいのか?(イングランド、スコットランドほかの連合なので、正式には「連合王国」。)
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などというツッコミを北九州派から受けます。(安本美典説)
まあ、天皇の1代は約10年 の部分にツッコミ返すか、そもそも記紀は信用できない(=記紀の記述よりもっと代を重ねている)
というような反論はあるけど、
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でも、歴史学者に統計学に詳しい人なんてほとんどいないので、安本さんは涙目状態。

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Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
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そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

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きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
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史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
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年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

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>あと、神聖ローマ帝国のオットー1世は『王』ということで良いのですよね。そうすると、皇帝は誰だったのですか?
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もう少し、暦全般について調べたほうが良さそうですよ。興味があるなら、なおさら色々と知れて面白いと思います。

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太陽暦も古くエジプトで紀元前何年だったか忘れましたが採用されている例があったと思います。今の西暦と呼ばれるものも太陽暦ですね。ローマの暦が元になっていますが謎な部分も多いです、カエサルなんかも確か大改革をやってたりします、調べてみるのも面白いと思います。
太陰太陽暦は中国で長らく使われており、これが日本にも入ってきて江戸時代まで使われていました。1年の春分・夏至・秋分・冬至を基準に24分割して、冬至と春分の丁度真ん中を年の替わりとしますが(実際は冬至を11月として1月を決めてたらしい)、月の満ち欠けベースで日にちをカウントするので、1月1日はいつも新月です。中国では国としては西暦を使っていますが、人々は昔から長らく使われてきた太陰太陽暦を元に新年を祝ったりします。これは西暦が人為的に決めたものに対して、太陰太陽暦が月や太陽の運行といった自然を元に決められているものであることも、その理由にあると思います。

紀年法は暦法とよく混同されますが、今年が何年というのをどこを基準に数えているかというのを決めているものです。西暦はキリストの誕生年であることが有名ですね(算出を間違えていることでも有名ですが)。上記のローマの暦は、もちろんキリスト誕生前、つまり紀元前から使われています。当時はローマ暦で、基準は知らないですが、執政官か何かを基準に〇〇何年みたいな感じで、しかも干支のように何年かで元に戻るので研究者では記録が1周期前か後かで論争になってたりもするようですが、それはともかく、暦法で書いたローマの暦と紀年法としてのローマ暦を混同しないでください。暦法としてのローマの暦はずっと使い続けられ、10世紀ころからキリスト誕生年基準の西暦という紀年法が広まって今の西暦となっています。

昔の日付については、当時その場所(国)で使われていた月日に、西暦に直した年で記述するのが一般的です。例えば元旦の出来事を西暦の月日に直すと、2月の何でもない日の出来事になってしまって訳が分からなくなることもあるためです。


ざっとさわりですが。
あと日本に西暦が導入されたときの混乱の話とか、たぶん他の人が面白く書いてくれると思うので任せます(あるいは自分で調べてみてください)。

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三国志のコミックスを読んでいるのですが、何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。
そこで気になったのですが、当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??
また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所と考えてよろしいのでしょうか?
どなたか詳しい方に教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。

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>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それすら両陣営ともやや盛った数なので十万に届いていたかどうか。

>何十〜100万の兵
この数は当時の人にとってはSFファンタジー設定でした。
近代の戦争でやっと兵数「数十万」規模の戦闘が記録に登場します。古代と現代の人間の数がこれだけ違うことを考えれば、十万~100万の兵数がいかに思い切った架空設定であったか理解できるはずです。
あり得ない数で架空のお話を創って当時の観客を驚かせたのでしょう。なんでも派手なほうがエンターテイメントとして客を呼べますからね。

なお小説やコミックの『三国志』は三国時代以降に民間で演じられた舞台劇をもとにしたフィクションです。
小説家やマンガ作家の中にも現実を全く学ばずに書いている人が多いですから、あまり本気に受け取らないことです。


>また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所

他の方が回答されている通りです。
日本的に言えば「都市」「街」です。
城を攻略することはすなわち街を攻略することになります。
「●●城が陥落した」という表現があれば、日本では「江戸が陥落した(江戸城ではなく)」というイメージになります。

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それす...続きを読む

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