プロが教えるわが家の防犯対策術!

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書くことが好きなのです。書く以上はいいものを書きたい。

けれどもわたしの文章を読み「正当に」評価してくれる人は存在しません。
この春で6年目に入ったアート系のブログには、1万数千人のフォロワーがいますが、それ以上長く続けているメインのブログには一日に3名くらいの訪問者しかいません。こちらが乞うてもコメントを残してくれる読者もいません。

先に「わたしの文章を正当に評価してくれる人がいない」と言いましたが、
嘗て「美」について立て続けに質問を発していたとき、わたしのスタンスは、「美」とは、何を美しいと感じるかは、全く個々人の主観による、という立場でした。

ダリやピカソ、ポロックやフランツ・クラインの「どこがいいのかわからない」「無茶苦茶だ!」「グロテスク」という評価も全く的外れとは言えないはずです。

では文章に関してはどうでしょうか?

例を挙げます

1)「鰊が地下鉄道を通って食卓に運ばれてくる」 

これは安西冬衛(1898-1965)というモダニスト詩人の「春」という詩です。
残念ながらこの詩の良さはわたしにはわかりません。

例文2)これはお気に入りの文章です。

「ある晩 ココアを飲もうとすると あついココア色の中から ゲラゲラと笑い声がした びっくりして窓の外に放り投げた
しばらくたって ソーと窓から首を出してみると 闇の中で茶碗らしきものが白く見えていた
なんであったろうかと庭へ下りて いじろうとしたら ホイ! という懸声もろとも屋根の上まで放り上げられた」

こういう文章は素敵です。稲垣足穂の『一千一秒物語』から「ココアのいたずら」という作品です。

わたしは、繰り返しますが、いい文章が書きたい。では自分にとってのいい文章とはどういうものかというと、強いて言うなら「非・天声人語的」文章です。ウィリアム・バトラー・イエイツの言葉を借りるならいい文章とは「1にワンダー、2にワンダー、3にワンダー」です。

最近読んだ本で強く印象に残っているのは二階堂奥歯という人の書いた『八本脚の蝶』という本です。
2016年の「本屋大賞」で「超発掘本」大賞に選ばれた2006年の本です。

アマゾンのレヴューでは、例えば評論家(?)の小谷野敦氏などは、この本について「ただただ気持ち悪いだけ」という評価を下しています。

つまりわたしがいくら「いい文章を書きたい」と願っても、ある文章が「いい文章」であるかないかという基準は存在しないし、それ故何人もある文章に対して「正当な評価」はできないということになるのではないか?

なんだか要領を得ない質問になってしまったようです。なにか感じられた方だけ、お答えください。

そういえば昔Okwaveにlittlekissさんのという方がいて、彼女の文章のうまさにはいつも舌を巻いていました。 

ではみなさん、よい週末を。

追記ー

二階堂奥歯の『八本脚の蝶』は2003年に彼女が自死するまで書き続けていたウェブ日記を基に書籍化されたもので、今でもブログ部分は読むことはできます。

http://oquba.world.coocan.jp/note5_p10.html

この2002年4月6日(土)のストーリーなど素晴らしい!

質問者からの補足コメント

  • どなたからも二階堂奥歯さんへの言及がありませんが、わたしが感嘆した、(リンクのような)彼女の文章はどうでしょう?

    今その2002年4月6日(土)の日記(記述)全文をここに引用しようとしましたが、字数をオーバーしてしまいました。

    これもわたしの思う「いい文章」わたしが「書いてみたい文章」のひとつです。彼女の日記(本)は、このような魅力にあふれています。

    二階堂さんの文章を読んで、「つまらない」「わからない」というような感想を持たれるとしたらきっとわたしの書くものにも同様の感想を持たれるでしょう。

    無論わたしは彼女のような際立った才能の持ち主ではありませんけれど・・・

      補足日時:2017/04/29 00:47
  • 微妙な表現ですが、「文章が上手い」と言われるよりは「おもしろい」と言われるような文章が書きたいですね。

      補足日時:2017/04/29 01:15
  • 二階堂さんの『八本脚の蝶』にはわたしもレヴューを書いています。
    最近はアマゾンに映画や本のレヴューを書いたりしています。誰も見てくれませんけれど(苦笑)
    書くことが好きなので。

    https://www.amazon.co.jp/dp/4591090906/ref=pdp_n …

      補足日時:2017/04/29 01:18
  • >ところで、貴兄の質問文は、自身にとっての美しい文章について色々語っているようだが、その質問文自体は美しくない。

    そうですね。同感です。昨年、Grass_Roots名で質疑していたときにはもう少しマシな文が欠けていたような「気が」します。多分気のせいでしょうけれど・・・

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/29 02:22
  • >むしろクソ真面目だからこその面白さを出してもらいたいところです。

    これはわたしのことを言われているのでしょうか?

    「糞真面目」というのはある意味嘲笑・揶揄を含んだ呼称ですね。いわれてあまりいい気持ちのするものではありません。

    糞真面目に反応させていただきました。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/29 16:18
  • >「下手だから書けない」てのは言い訳で、「書いてこそどこが下手なのか具体的にわかる」のが実際のところ。
    (Okwave 「趣味で小説を書きたいのですが・・・」の回答より)

    その通りです。ではどこがどうマズいのか?どこうどうすればよりよくなるのかを誰が教えてくれるのか?
    「それを読んだ人では?」

    では誰が読んでくれるのですか?

      補足日時:2017/04/30 02:22
  • ああ、やっぱりここは400字ですのでお見せしたかったのは載せることができませんでした(笑)
    4月にこんな感じのものを10数個作りました。
    もともとこういう感じのものは書かないのですがまぁ足穂の影響ですね。

    わたしは物書きになりたいという野心はまるでありませんし、書いたものを世に問うという欲もありません。おしゃれをしたいけどファッションモデルになるつもりはないというのと同じだと思います。

    ただ身近に、「おしゃれだね」と言ってくれる人がいれば満足なんです。

    ご回答をどうもありがとうございました。

    よい5月をお迎えください。アメリカはGWではありませんので(笑)

    おまけ



    桂枝雀「ショート落語」

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/30 03:20
  • 真っ向から意見が分かれた二階堂さんについては措いておくとして、もともと書くことに自信がない、好きではあっても劣等感から逃れられないわたしの文章について「本気で」肯定してくれたのは今回のサイコロさんが初めてです。これはわたしにとって画期的なことです。

    朗読、アナウンスについては学生時代から何度か褒められもしたり賞をもらったりしたことはありますが、文章はいつまで経っても「下手の横好き」

    新卒で入社した出版社を一カ月で馘になりました。社長兼編集長の言うには「きみは書くことには向いていない」社員全部で7~8人、旅行の案内書を作る仕事でした。ある地方の様々な宿泊施設や娯楽施設、観光名所からパンフレットを取り寄せ、それに基づいてガイドブックを作ってゆく仕事でした。

    物書きになるわけじゃないのだから才能が無くても別に構わないのですが、やっぱり惨めですね。

    どうもありがとうございました。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/01 04:52

A 回答 (23件中1~10件)

Ooops!がタイトルだとは。

してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問題、ものを書くということをめぐる考え方の問題とでも言いますか。それは十人十色でいいのでしょう。一つの色を決め、その人としか付き合わないというなら、距離を取る他ありません。
山田氏はそんなに器の小さい人物なのでしょうか。私はちょっとわからないです。距離の置き方が決裂でなければよかったでしょうが、GRさんの場合、いろいろと読んでいくと、些事でも決裂になることがあるのだとお察ししました。山田氏はこの頃合いがわからず、不用意に変なことを言ってしまったということはないでしょうか。

あと文体論ということで、一つだけご助言を。「・・・(苦笑)」というのが、伝わりにくいです。「(苦笑)」という言い回しを避けた方がいいとは言いませんが、ここの心理は一文くらい足して補った方がいいと思うのです。
なんというかな、書いてもお前ら読者にはわかんないだろう、分かる人だけわかればいいや、という書き手の傲慢さを、私は感じてしまうのです。精神障害者の独特な見方を示すと銘打っているだけに、一旦、読者が小馬鹿にされていると思うと、もう取り返しがつきません。精神障害者と言っているが本当は健常者で、内心で小馬鹿にしているのではないか、という疑いを持つ可能性があります。
私自身が書くときはあまり気にしていませんが、もしさらなる向上を目指すなら、ここは丁寧にやった方がいいと思うのです。

そして雑談。「ワンダー」についてですが、ホッケの『文学におけるマニエリスム』はお手に取ったことがありますか。まさにワンダーの宝庫と言って良いようなものですし、まあはっきり言えば「ワンダー」にあたる概念が説明されており、さらに類型が列挙されています。ここを手掛かりにいろいろ探していけるとも思うんですよね。すでにご承知ならお許しを。

ニュートラルさんもいらっしゃったし、私がここで長居しても、あまり良くないでしょう。
この問いはこれくらいで失礼いたします。
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この回答へのお礼

こんばんは。

そうですね。山田さんが読まれた本に収められていたのは、2008年に書かれたものと、最後の5編ほどが2009年+2013年のものです。2015年に久しぶりに見直して製本するにあたり、どのトピックを選ぼうかということで、その時の気分に近かった2013年(その時に一番最新のもの)を数編編入しました。

御覧のように2009年の投稿は僅か6、2010、2011、2012と3年間のブランクがあり、思い出したように2013年に7つの投稿をしています。

ひとつの例として山田さんは「正月について」のわたしの記事が「わからない」「考え方が違う」と書いていました。
https://plaza.rakuten.co.jp/poboh/diary/20090101 …

↑これですね。
2009年1月の唯一の投稿です。

文体に関して、(笑)(苦笑)などは本にしてみるとやはり若干の違和感を感じます。書いている時は最小限度にしているつもりですが、それは、第二期、2015年以降より意識し始めたものかもしれません。
実際2007年、2008年、2009年当時は書いたら書きっぱなし、というか、ろくに再読も推敲・添削もしませんでした。その分自然さが(良くも悪くも)出ているのではと思います。
ですから(苦笑)への違和感、特に「優越感を伴った突き放し」の感覚はよくわかります。注意したいと思います。それはわたしも感じていたことなので。

山田さんの言葉を借りると、「超老人(当時80歳)のわたしには、あなたの書いたものを読んでいると「若いなぁ!」と感じてしまう」というようなことが書かれていました。言うまでもなくこの「若いなあ」は「未成熟」或いは「ナイーヴ」「世間知らずの理想論者」そんなニュアンスが含まれていると思います。その上で「異質の他者」を感じるのだ、と。

わたしの日記の通奏低音は「孤独」です。
そして至る所に息をひそめている「厭世観」「厭人観」「日本嫌い」「反権力」「過去への憧憬と現代への呪詛」そんなものがおちこちに地雷のように潜んでいるような気がします。

気が向いたらいつでもコメントを残してください。

ホッケの『文学におけるマニエリスム』は初めて知りました。早速調べてみようと思います。

真剣に向き合ってくださりどうもありがとうございました。

お礼日時:2017/05/02 00:29

Yuriyさんの作品はエッセンスのみ、と云いたくなるようなそんな印象を持ちます。


言い換えれば、その作品の文章は"骨組みだけ"のように思います。

文学的にハイレベルな人たちには通用するかもしれませんが、子供(私が含まれます)は楽しめるでしょうか。
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この回答へのお礼

>Yuriyさんの作品はエッセンスのみ、と云いたくなるようなそんな印象を持ちます。
言い換えれば、その作品の文章は"骨組みだけ"のように思います。

そうですね。昔からアフォリズム形式のものを一番好んで読んできましたから。

例えばこんなやつ

「糸が完全に均質であったなら、そこにどんな錘を吊るそうと決して切れることはない。どこで切れていいかわからない」-ポール・ヴァレリー


「何ほどか言うべきほどのものを持つ者は進み出よ。そして口をつぐめ」-カール・クラウス

あとはニーチェ、エミール・シオラン、エマソン、シモーヌヴェイユなどです。日本でそういうタイプの代表と言えば芥川龍之介ですね。

嘗てカーライルはエマソンの文章について、
「まるでいきなり途中からのように話しだし、まだ続きがあるかのように終わる」と評しています。
こういうスタイルをカーライルは批判的に述べたのですが、わたしには正にこういうスタイルは憧れです。

ご回答をどうもありがとうございました。

お礼日時:2017/05/02 23:40

Yuriyさんは童話が好きなんだと思いました。



Yuriyさんの作品は童話っぽく思いました。
メルヘン、ですよね?
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この回答へのお礼

こんばんは、yy8さん。

そうですね。童話っぽく、メルヘンっぽく書ければ文句はありませんね。
ただ実際のわたしの文章は非常に理屈っぽくて・・・いや、それもほんとうのところよくわかりません。
わたしの文章が「理屈っぽい」と言われたこともありませんし。

二階堂さんの日記に時々出てくるショート・ストーリーは大好きです。
でも本当は『一千一秒物語』や「蜻蛉玉」のようなクスッとわらえるような作品が書ければいいと思います。
日暮れて道遠しですが・・・

お礼日時:2017/05/02 23:32

二階堂奥歯さんの日記、2002年5月19日(日)その2。


これを何度も読み返してみました。
評論家?小谷野敦氏の「ただただ気持ち悪いだけ」という感想に触れてみたくて。

思った事は、二階堂さんが男の女を見る視線に嫌悪感を抱いているんだなあ、という事でした。その嫌悪する気持ちが、つくられた文章に滲み出ていると思います。

小谷野氏の感想は、二階堂さんのこうした心情或いは性格的なものが嫌いなんだと思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。

このその1とその2はわたしも興味深く読みました。

「エロティシズム」を定義したサルトルやベルクソンの説を思い浮かべました。

>幕が上がると、裸体の女性達が楽器を構えている。裸体の指揮者の一閃と共に始まる音楽。
弦を押さえる指先、ひたむきな視線が譜面を追う。
音楽が完成たものであればあるほど、裸の演奏者たちの不可侵さは高まるだろう。
ステージの上には独自の世界が出来、観客席の常識や性的な思い入れを拒むだろう。
そう思っていたのだ。

そうですね。ここにエロティシズムは発現しないとサルトルも言っています。
エロティシズムは肉体が精神の統御を逸脱した瞬間に現れるのだと、

>曲目が一区切りして、演奏者紹介が行われた。
一人一人名前を呼ばれた女性はステージの中央に歩み出て、その場で服を一枚ずつ脱いだのだ。

>ああ、そうやって囲い込みたいのか。
そう思った。
普段服を着て生活している普通の可愛い女の子、みんなの前で服を脱いだり男の人の前で性器をさらしたりするなんて恥ずかしいでも仕事なんですがんばりますから応援してくださいね、という裸が見たいのか。

>出自のない裸体、絡め取ろうにも手がかりのない抽象的物体、自らの存立を問い直すような性の深淵、そんなのを見るつもりはないわけね。
>最初から裸で出てきて演奏しては、「裸を恥ずかしがる女の子」の姿を見せることができないから。

この彼女の観察にわたしは共感します。つまりエロスにはそこに至る、それが発現する「文脈」が必要なのです。全裸=エロスではない。そしてその文脈は主として男性の眼差しによって生み出されます。

ただ二階堂さんはフェミニストであるけれど、マゾヒストでもあります。そして恋人も男友達もいます。

ただこの「全裸女性オーケストラ」の企画に、彼女には抵抗の強い男性の視線を感じたのでしょう。

余談ですがわたしがAVを見ていたとき(笑)一番閉口したのはエロスに至る「文脈」の貧弱さお粗末さでした。

微妙に捉え方は違いますが、彼女の見方に賛成します。

ご回答をどうもありがとうございました。

お礼日時:2017/05/03 00:04

質問者さんにも、「なんだか要領を得ない質問」と言う自覚がある様ですが・・。



すなわち、「文章の美」を語る以前に、この質問からして、何が質問したいのかが、伝わりません。
従い、せめて自己評価で「要領を得た質問」が書ければ、まずは「普通の文章(合格点の文章)」にはなるとは思います。

「美しい」と感じるのは、人それぞれであることなど、言を待たないことですが。
いずれにせよ、「いい文章」「好まれる文章」「美しい文章」などは、その「普通の文章」の先にしか存在しませんよ。

もろもろ指摘したいところはありますが、一番は「文字数で伝えようとしないこと」じゃないですかね?
質問者さんの文章を音楽に喩えれば、一小節の中にギッシリと音符を書き連ね。
それをあらゆる楽器と技巧を使って、全楽章をフォルテシモで演奏している交響曲みたいな感じです。
伝えたいことがあるのは判りますが、それで伝わるのは「うるさい」だけです。

音楽や話術には「間」とか、絵画でも「空間」がある様に、文章にも「行間」があります。
しかし質問者さんの文章は、その行間にも「自分の意見や言葉を詰め込まないと、気が済まないの?」みたいな印象です。

もう一つ、致命的な具体例を挙げておきます。
言語とはコミュニケーションであって、他人と共感することを目的とするツールです。
質問者さんは、文章と言うツールを用い、より多くの他人と共感できる文章が書きたいのでしょ?
それにも関わらず、自分で「要領を得ない質問」を書いておいて、最後は「なにか感じられた方だけ、お答えください。」と言う、この矛盾・・。
従い、読む側は、何が質問なのかさえ、理解に苦しまざるを得ません。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>「文章の美」を語る以前に、せめて自己評価で「要領を得た質問」が書ければ、まずは「普通の文章(合格点の文章)」にはなるとは思います。

仰ること、よくわかります。つまりわたしは「普通に伝わる文章」=「人並みの文章」以前の場所でまごまごしている、ということです。

文章のマズさは自分でも自覚していますし、プロから指摘されたこともあります。
ですからどうすれば「上手く書けるようになるのか?」と質問したつもりでした。


>質問者さんの文章を音楽に喩えれば、一小節の中にギッシリと音符を書き連ね。
それをあらゆる楽器と技巧を使って、全楽章をフォルテシモで演奏している交響曲みたいな感じです。
伝えたいことがあるのは判りますが、それで伝わるのは「うるさい」だけです。

>音楽や話術には「間」とか、絵画でも「空間」がある様に、文章にも「行間」があります。
しかし質問者さんの文章は、その行間にも「自分の意見や言葉を詰め込まないと、気が済まないの?」みたいな印象です。

なるほど、これを読んで思い出したのは、所謂精神障害を持ったアーティストの描いたもの=(絵)は、余白が無く、画面一杯に色、形が塗りこめられているという特徴がみられるということです。

わたしも精神に障害を持つ者のひとりとして、絵画に於けるそのような傾向が文章に現れているのかもしれませんね。

ただ、ご指摘はいささか抽象的過ぎて、では具体的にどうすれば「余白」「間」のような気韻が文章に生まれるのか、わたしにはもうひとつ理解できませんでした。

>質問者さんは、文章と言うツールを用い、より多くの他人と共感できる文章が書きたいのでしょ?

仰る意味をミスリードしているかもしれませんけれど、必ずしも「より多くの他人と共感できる文章が書きたい」わけではありません。つまり目の前に100人の聴衆がいて、彼らに向かって語りかけ、そのうち3人でも5人でもわたしの内面に「共感」してくれる人がいたら、わたしにとってその言葉は「届いた」と言えるのです。

「いいたいことが散漫になってしまいました(ので)何を伝えようとしているのか、読まれてピンと感じられた方は返事を下さい。」と書きました。

ご回答をどうもありがとうございました。

お礼日時:2017/05/02 14:12

おかえり。

Blueさん。



まだ他のご回答を読んでいないので場違いな感想になるかもしれませんが、あらかじめご了承くださいませ。



>文章を書くことが好きなのです。書く以上はいいものを書きたい。
:はい。よく存じ上げております。僕は昔からあなたの書く文章を興味深く読んでをりましたし、今も変わりなく拝読してをります。あなたの書く文章が僕を愉快にするからです。



>けれどもわたしの文章を読み「正当に」評価してくれる人は存在しません。
:本当にさうなのでせうか。僕は文章については門外漢だから、【正当に評価】することはできないけれど、いつだって【中立的な感想】を率直に述べてまいりました。




「ココアのいたずら」は面白いですね。
他にも最近あなたが書いた【素敵なお買い物(夕焼け)】には感銘を受けました。文章から情景をくっきりと想い浮かべることができるのだから。
他には【落とし物(駅で自分を落とした男)】には大笑いしました。かういうブラックジョークといいますか、【ダークな話】【切迫感のある話】を【笑いで包む】文章は、評価が分かれるかもしれませんね。それだけのことです。




どうでもよいのだけど、ダリ・ピカソ・ゴッホは、わたしと同じADHDという障害を持ってゐました。人間、誰でも多少は凸凹してゐるのが当たり前なのですが、ADHDの人たちは、人より凸凹が激しいんですね。彼らは凸凹の【凸】の部分を活かして自分にとっての最高の表現をしたのでせう。【凸】の部分だけ見てもらえればそれでよろしい、【凹】の部分に文句を言う奴には、言わせておけ、放っておけ、というスタンスを取っていたのぢゃないかな、たぶん。


___________




以下、駄文。

僕は飲み会に行ったよ。少しの肴とタバコと友達の話をアテに、ピッチャービール(2リットル)を何度も何度もシェアして飲んだよ。気持ちよく酔っぱらった僕は、ビールが半分ぐらい残ってるビールピッチャーに飛び込んで黄金の水の中で泳ぎまくってゲラゲラ笑ったよ。後から友達が次々に飛び込んできたよ。ゴーグルとかシュノーケルとか浮き輪とか持ってきた奴がいたよ。
ときどき津波が来て、だんだん黄金の水が減るんだよ。ついに黄金の水が空っぽになって、僕たちは壁を登って外に出なくちゃいけなくなったよ。
僕は友達と一緒に脱獄計画を練ったよ。3時間ぐらひ。
僕たちはすっかり困り果て途方に暮れてたよ。
僕たちの飲み水や発想や体力が尽きた頃、お店のマスターさんが僕たちをキッチンのシンクに落としてくれたよ。
彼はこう言ったよ。
「随分愉しんだやうだね。よろしい。結構。そろそろ帰りたまへ。肴とビール代は、お一人様三千円でございます。それでは良い明日を。」



取り急ぎ、第一印象に対する感想にて。
お読みいただきましてありがたうございました。
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この回答へのお礼

こんばんは。

いや、瀬里香くんはぼくの親友(d_d)さんとともに、ずっとわたしのブログを、それこそ凸あり凹ありの気分のままに書き散らした文章を、ずっと読み続けてきてくれて、批判・反論もあっただろうけど、あくまで建設的な意見でコメントしてくれました。(過去形という訳ではありません)

ですから少なくともブログに関していえば(或いはぼくの書くものに関して言えば)どんな内容のものでもキミに見せるのにためらいはありません。(犯罪的・変態的なものであっても)
それは多分キミが同じような障害者だからということではないと思います。
そういう意識がわたしの気を楽にさせているという部分は否定できないけど。

昨日君に聞きたい、アドバイスをしてほしいと言ったのは、読み手のいないわたしの「文章」を「読んでもらいたい」気持ちと「読んで引かれる」(山田太一さんのように)怖れとが大きく葛藤していたから。
ほぼ唯一の読み手であるキミの意見を聞きたいと思いました。

過去の経験からいって、わたしが肯定的に受け容れられるということは「千人にひとり」キャラとしては俄かには信じがたいことです。

既にこちらでもFBでもわたしのブログは公開しました。キミが反対するとも思えなかったから。

それでもやっぱりわたしは自分のかいたもの、(特に2008年のもの)は面白いし感想を聞きたい、一方で、
20年間文通という形で、或いは作家と一読者という形であっても敬愛していた作家に「異質の他者を感じます」と言われたことは少なからずわたしにダメージを与えています。

せっかくFBで一緒に外に出ることが出来るようになれた友達すら、これを公開することによって失うのではないか?というおそれは、書き続けていく以上つきまとうでしょう。

瀬里香さん、d_dさん、そして山田太一さん、過去3人の読者。肯定2:否定1、そしてその後は・・・・?



ところで、このショート・ストーリー、面白いね!
こういうのって作り出すと楽しいんだよね。そして君は昔からぼくの書いたものに何かしら影響を受けて自分で創作していたね。当時のぼくのブログも3人の共同作業みたいなものだったね。

いつもどうもありがとう。それから君と会うことが合ったら、その時には2015年に製本したブログを受け取ってもらうつもりです。

お礼日時:2017/05/01 17:37

読みましたよ。

うーむ。むしろ、素晴らしいのではないでしょうか。何が悪いのか?わけがわからないという感じです。
ただ年ごとに作風が変わっていると感じます。そして最近のものは、散文詩風なわけですが、これがやはり無類に面白いと思いますね。これはこのままやっていってもらいたいと思います。
細かい瑕疵を気にして書かなくなるのは惜しいことです。

日記について、精神障害者云々と言いますが、共感できる部分もあります。においのハラスメント。電車の中での不愉快さとか。
こういうのが山田氏はダメだっていうのでしょうか? わからないなあ。
正直、山田氏に酷評されたものはなんなのか、教えてもらわないと何も言えません。

ただプロフィール欄を埋めておくとか、ブログのタイトルをつけるとか、何か絵的に工夫するなどはしたほうがいいのではないでしょうか。検索にかからないでしょうし、休眠ブログだと普通は思うでしょう。
ちなみに私のパソコンの設定だと、広告は表示されませんでしたよ。ブロックするアプリ?を入れていますけれども。
あと思ったんですが、散文詩だけで別ブログを作るとわかりやすいかもしれません。
そして私個人の好みを言えば、背景は白、文字は黒、できれば縦書き、さらに連結している状態で読みたいなあ。「目薬」みたいに、短い文章であればあるほど、なおのことです。

このまま10年とかやっていると案外、本当に作家になるかもしれませんね。
文体は簡潔でわかりやすいし、リズムが良いと思います。ただ敢えて言えば、取り組むテーマが、まだ確定していないと感じるのです。いや、潜在的には決まっているのでしょうが、はっきり読み手に分かるほどに露出していないと感じるのです。そしてこれは読み手の側が「これこれこれだ」と指摘するようなものじゃなくて、ご自分で発掘しないとならないものだということも、感じるのです。
他人から言われると、横槍を入れられたような格好になって、自然な成長?みたいなものを妨げられてしまうからです。

しかし面白い。頑張って欲しいです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

早速訪れていただきありがとうございます。フェイスブックにもリンクを貼っておきました。
フェイスブックの友達で、最近一緒にBunkamuraに展覧会を見に行ってくれた人(7年ぶりの美術館!)が早速閲覧してくれて、『団栗』について、よかったと言ってくれました。

一応タイトルは2007年当時そのまま"Ooops!" です(苦笑)タイトルの下の「新着記事一覧」という場所がいわゆる目次に当たります。

わたしが製本して山田さんに送ったものは2008年に書かれたものがメイン(9割)です。

2008年に集中的に書いて、その後数年放置してあり(既にタンブラーがメインになっていましたから)、偶然2015年に見つけて読んでみると、ありきたりな表現ですが、ひとりの障害者が生きて来た軌跡(感じた事、考えたことなど)がその間の数年のブランクを経て、自分でもとても興味深く読めたのです。
そしてなんといっても「貸しブログ」ですから、いつそっくり消えてしまうかもしれない。それでは自分の「記録」としてもったいないと思い、当時書かれていた2008年だけでかなりの投稿数でしたから、その中から主なものを選んでオン・デマンドで製本したという訳です。当時はマイスペースの影響で、画像を多く投稿していて、製本もオールカラーにしましたので、1冊1万円ほどかかりました(苦笑)約300ページほどです。

そしてそれを一冊、山田さんに送ったのです。それが2015年の中頃でしょうか?

製本をした余勢をかって2015年から再び書き出しました。けれども2008年当時のものとは随分内容も、文体も、また世界に対しての身構え方も異なっています。
大きな違いは2008年当時、わたしには「親友」と呼べる人が存在していました。
そして2002年からの6年間の友情は2008年で終わりを告げました。

その後はつまり「引きこもり」です。書くこともなくなりアートの世界(といってもネット上のことですが)に浸り、タンブラーで1万余のフォロワーを得るようになりました。
あとは自分をとりまく世界をどう感じていたか、再開された2015年以降の記事をお読みいただければわかると思います。

レイアウトその他に関してはご指摘の通りだと思っています。
最初はいろいろ書いてあったのですが、中断中に楽天で仕様が変わってしまったようです。

お礼日時:2017/05/01 17:04

失礼、山田氏は間違えました。

最初に一度検索して確認すればよかった。私は演劇とか、今生きている人に完全に無知です。ただ一般論として、プロが原稿を受け取った際に、最初に考えることは「自分は労を取るのが面倒だな」というではないか、というお話です。
こういうそそっかしいミスは、気をつけないとなりません。すいません。
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この回答へのお礼

No.15お礼欄追記

楽天ブログ、難を言えば広告が目障りであるということです。MyspaceからTumblrに移った人の理由の多くは、アドバタイジングがないから」というものでした。(最近タンブラーにもADが表示されるようになりました)
広告のないブログも持ってはいるのですが、はじめてのブログという愛着もあって未だに楽天を利用しています。

タンブラーについては、投稿のすべてはわたしが世界中のアート系のサイトから渉猟してきたもので、
ツイッターのように、RT(リツート)=フォローしている人の投稿を自分のタイムライン(ブログの中に)取り込む(リブログ)(フェイスブックで言うなら「シェア」)という方法は採っていません。
その辺りには拘りがあります。(苦笑)

上記回答と併せてサイコロさんとチャオポルポさんへのコメントでした。

お読みいただきありがとうございました。

お礼日時:2017/05/01 14:16

また面白かったですね。

日記は別であるわけですか…。そしてそれは全く別の作風で、ビターなわけですか。ここに出してきた散文詩みたいなものは、余所行きの作品ということなのですね。なるほど。まあ、これもこれで散文詩集を編纂してみてはどうかと思いましたけれどもねえ。面白がる人は、ある一定数いると思うのですよ。

>「ある精神障害者が見、感じた世界」というスタンスから記しています。山田太一氏はわたしの世界観に強い拒否反応を示しました。

山田氏って、テレビに出てくるモヒカン頭の人でしょう? 彼は困ったんじゃないかな。自分が出版の段取りをつけてくれとか、何か骨を折ってくれと言われていると思って、忙しいからできないと言おうと思ったとか。
ただ読み物として読むのなら、面白いということではないか。

私も読みたいですね。しかしFBにあるなら、私もまた見ることができないと思います。自分の個人的情報と、ここでのやり取りを分けたいと思っているからです。使い方が違うということでご承知ください。
あと二階堂氏の文章を私は全否定しているわけではないことをご理解ください。嫌味たっぷりだと思ったかもしれませんが、なんというか、資料としてみているからです。資料として認めたという意味で、評価はしているとご理解ください。

>新卒で入社した出版社を一カ月で馘になりました。社長兼編集長の言うには「きみは書くことには向いていない」社員全部で7~8人、旅行の案内書を作る仕事でした。ある地方の様々な宿泊施設や娯楽施設、観光名所からパンフレットを取り寄せ、それに基づいてガイドブックを作ってゆく仕事でした。

これは状況を聞かないと、本当に文章のせいなののかがわかりません。気が合わなかったとか、会社の雰囲気を悪くしたとか。
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この回答へのお礼

こんばんは。

サイコロさん、そしてチャオポルポさんも「SNS」(フェイスブック)をやられていない。それは全く問題ないことです。わたしもSNSは苦手です。ただ2007年当時、FB台頭以前の世界最大のSNSであった
Myspaceをやっていて、そこがこれまでの日本の(日本人だけの)どのサイトよりも居心地がよく、「友達」がほとんど(全て?)外国人であるにもかかわらず、これまで味わったことのない自由さ、解放感を感じていました。

そこは主にアートをやり取りするSNSでした。FBの台頭とともに自壊してしまい、わたしの知る限りでは、往時のマイ・スペースに似たSNSは現在存在していないようです。

MSが崩壊したのち、わたしの友達、或いは彼ら彼女らの友達でFBに自然に移行する人は多くはなかったと思います、ある人たちは別の場所(=主に個人のブログ)に移ってゆき、ある人たちは二度と見ることはありません。

わたしのFBは、ですから当時のMyspaceの友達とのつながりを絶ち切らないための場所のようなものです。
そしてわたしにとってのFBは、海外の友人たちをキープするとともに、SNSを離れた、リアルで付き合える人を探す場所、という位置づけです。


わたしは2007年に「ブログ」を始めました。観た映画、読んだ本の感想、時事問題について、日々雑感、「生き辛さ」について、わたしを悩ますものについて、わたしを慰めてくれるものについて、それこそ様々な事柄が脈絡なく記されています。

https://plaza.rakuten.co.jp/poboh/

よかったら気が向いた時に見に来てください。こちらからは訪問者が何処の誰かはわかりません。
『岸辺のアルバム』『男たちの旅路』『ふぞろいの林檎たち』『異人たちとの夏』の山田太一氏をして、
「ついていけない」と言わしめた記事がどんなものかを覗き見るのも一興かも。(苦笑)

↓は2011年の春からやっているブログです。下のリンクは同ブログの「アーカイヴ」で、過去の投稿が一覧できます。現在フォロワー約1万3000人(内、日本人フォロワーは10名前後)(苦笑)こちらも訪問者はこちらからはわからないようになっています。

http://poboh.tumblr.com/

http://poboh.tumblr.com/archive

お礼日時:2017/05/01 13:46

正直なところ、こちらで文章を書いている最中、どうしても、日本語の単語が出てこなくて、グーグル翻訳で、検索をすることが多いのです。

頻繁に使われている、カタカナ英語には、意味不明なものが多数あります。そんな私が、美しい文章について、日々、鍛錬しておられる質問者さんとやり取りをするのも、実に皮肉な出来事で、枝雀さんの小さな落とし噺に匹敵するようにも、みえます。おかしな成り行きです。

添付してくださった小さな物語を、楽しく拝読しました。懐かしい、昭和の日本の、香りがしました。使っておられる、語彙のせいでしょうか。”ほら、言わんこっちゃない、危ないところでしたよ、”なんて。

地の分に漢字を多用して、会話部分は、ひらがなが多いのも、意識してなさっておられるんだろうな、とか、自分自身が、普段、英語に多く触れているの影響で、句読点をたくさん使うのと比べて、地の分の、流れるような句読点のなさも、やはり、意識されておられるのだろう、と思いました。

よいしょ、と、ガボン、を、鍵かっこに入れて、エクスクラメーション・マークを付けたのには、何か意味があるのかなぁ、なんて、首をひねりました。

お父さんに買い物を言いつけられた、女の子になったり、夫の入った水をガブリと飲み込みそうになったり、いろいろ不思議な疑似体験をさせていただきました。

いつかまとまったところで、ひとつの本になる日が来ると良いですね。

長くなりましたので、最後に少しだけ、二階堂奥歯氏の文章について。

会話文で、相づちに、”だよね。”という、若者言葉を多用していた、たしか、井坂幸太郎氏だったか、を思い出しました。外界からの刺激に、素直に反応してゆく、若さに好感を持ちました。若さがあるということは、無駄な蘊蓄の必要がないんですね。私には、何のことやら皆目見当のつかない、カタカナ英語を駆使して、毎日生活している人の文章です。飾り気のない、生活感を身上とした文章である、という感想を持ちました。

諸般の事情から、SNSには、登録しない決意をしておりますので、また、どこかで、新作を披露していただければ幸いです。それでは。
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この回答へのお礼

『月の飴玉』

胸のポケットに月を入れて夕暮れの道を歩いていたら何かの拍子で月がポロっと転がり落ちた。
月はコロコロコロと坂道を転がり始めた
慌てて追いかけたが、小石につまづいて転んでしまった
「あいたたた!」
わたしが膝をおさえてうづくまっていると、向こうから2~3人の男の子たちが駆けてくる。
わたしのすぐ横を走り抜けた少年のほっぺがポッコリふくらんでいた。



お褒めの言葉に気を良くして4月に作った一篇をもう一つご披露しました(笑)

文章についてはさほど意識はしていません。「ガボン!」は奇妙な(?)擬音を強調するために。「よいしょ!」は、人が発話した言葉ということと、ある「重さ」を感じさせるため、と言った感じです。しいて分析すればです。

句読点、特に「、」に関しては本当に書き手によって様々ですね。稲垣足穂の『一千一秒物語』は句読点は一切使われていません。読点(、)の代わりにスペースが用いられます。(例文2)

言葉に関してはとても保守的です。書いているものも自然と「過去」を意識して書いています。つまり「現在」「現代」ではないのです。ちなみにわたしのTumblr のタイトルは、 "a man with a past" です。

『蜻蛉玉』をご紹介くださってありがとうございました。ちらっとネットで読みましたが、ちょっと落語の『饅頭こわい』に似ているなと感じました。くすくすと笑いがこぼれる感じ、よくわかります。
あんな感じの短編が書けるといいなぁとしみじみ思います。
いい刺激を与えて下さったことに感謝します。

わたしは文字通り精神に障害を持つ者です。

二階堂さんの日記が多彩であるようにわたしもいろいろなことを書いています。
けれどもその眼差しはけっして健常者のものと重なることはありません。

ここに紹介したようなものを「日記」とは別に紹介できればいいと思います。
それがわたしの「ごく小さな一部分」であるにせよ、こういうものを書くわたしも間違いなく「わたし」なのですから。

お読みいただきどうもありがとうございました。

お礼日時:2017/05/01 04:30

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