本当に戦争放棄は人類の理想でしょうか?現在の人類が有るのは戦争のおかげとも言えるのではないでしょうか?

戦争が無ければ、人類は怠惰になり、ゴリラやチンパンジーとさして変わらない生活を送っていたのではないでしょうか?

確かに平和で良いかもしれませんが、それが、人類の理想でしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

確かに、そういう面は否定できません。



次のような言い方をする人もいます。

原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、いのちを賭けて戦った。
その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、人は知能を磨き
力を養い、心と体を鍛え、一面で道徳律を築き上げた。

カントも次のように言っています。

戦争は、国民に数多の困難を与えながらも、それを乗り越えて戦い抜く
ことで、国民を崇高な存在にできる。
平和は、商人気質を旺盛にするが、卑しい利己心、怯儒や臆病の風を
はびこらせ、国民の心意を低劣にする




確かに平和で良いかもしれませんが、それが、人類の理想でしょうか?
   ↑
戦争が無かったら、人類はここまで繁栄しなかった
でしょうね。
ネットだって軍事技術でした。

殺し合いをしながら繁栄の道を選ぶか、
平和に浸って、衰退滅亡の未知を歩むか。

戦争を肯定するなんてタブーになっていますから
まともな議論も行われてきませんでした。
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それはやはり「日本ではね」という条件付きで大賛成です。



でも、他の国の考え方を見ていると、戦争の上に平和がある、という考え方をしているところも多いですね。

「平和を守るために戦争をする、闘う」、という考え方が、私も含めて日本人に理解できるかどうかだと思うんですが・・・。

なかなか私も無理です。
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この回答へのお礼

簡単な事です。理解出来なければ死ぬだけです。戦争放棄したのは人類史上、日本人が初めてである、などと偉そうな事を言ってはいけません。そんなの昔から掃いて捨てるほど居ました。ただ戦争放棄しない人達に皆殺しにされただけです。

お礼日時:2017/05/16 06:16

国内の問題と世界の問題で分けて答えます。





■国内の「戦争放棄」

戦争を放棄する憲法を条文にしている国は世界でも珍しくありません。

日本の憲法の問題は、自衛のための武力も認めていない条文がある事。(憲法9条2項。ただしこれは長沼ナイキ訴訟で無意味な条文との結論。)


軍隊の保持は国際法でも認められています。
何故認められているかというと、それを認めないと国が守れずもっと人が死ぬから。





■世界の「戦争放棄」


戦争の放棄は、1945年以降の国際社会の秩序として普及しはじめました。
そのため、現在では完全に戦争は禁止されています。


その結果どうなったかというと、宣戦布告が禁止されているので宣戦布告なしの武力制裁が横行しました。
宣戦布告がないという事は、講和も出来ませんので「終われない」という事です。



本来の戦争とは、フーゴー・グローティウスが提唱したような行為です。

「平時と戦時を区別せよ。そのためには宣戦布告を行い終結する時は講和せよ。」「敵国、同盟国、協商国、中立国、犯罪国家を区別せよ。」「戦闘地域と非戦闘地域を区別せよ。」「非戦闘員と戦闘員を区別せよ。」「便衣兵は禁止せよ。」「兵士は必ず国の所属を示す徽章を示せ。」などの戦争のルール。戦時国際法がまとまってきました。そのルールに従って戦うのが戦争です。

これは、文明国同士の争いしか起きません。
戦争は野蛮と思っている人が多いですが、本来の戦争とは実に、文明的な行為なのです。
非文明国との間では、このような戦いは成り立ちません。



「ルールなど無視しても勝てばよい」というのは本来の戦争ではないのです。そしてそれは、本来の文明的な戦争のあり方を破壊します。実に野蛮で戦争と呼べるものではありません。


「戦争放棄」によって人類の理想に近づいたと思ったら、宣戦布告なしの武力制裁が横行し、宣戦布告がなされないので講和もなされず、平時と戦時の区別が付かない状態が現代社会となっています。






本来ならば、フーゴー・グローティウスのように、戦争をなくす事はできないがせめてルールを定めて不幸を軽減しよう。誰かが一方的に決めたルールでは結局、誰も守らないので軍事的合理性や戦争の法則に基づくルールを定めようという姿勢で臨むべきですが、「戦争放棄」の結果、その議論すら難しくしています。
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この回答へのお礼

つまり、戦争放棄は間違いだったということですね。

お礼日時:2017/05/16 06:12

戦争に勝てる国は戦争放棄を望みません。


戦争に勝てない国は戦争放棄を望みます。
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理想というか幻想、妄想ですね。


実際問題として利害や思想の衝突があり、どうしても譲れないものだったりします。
対話を成立させるためにも、ふざけた真似をしたら痛い目を見るという抑止力が必要です。
その痛い目を見せる手段の一つが戦争なんですよ。

日本がそれを放棄した結果、同胞を攫われたり領空や領海を侵犯されても強気に出られません。


戦争がない世の中、その正体はモラルのない(異なるモラルで動いている)ものがやりたい放題、抵抗した側が悪者扱いされる。
そんな世界なのかもしれません。

校内暴力(校外暴力)はなくても、精神的ないじめが横行。
やめろと言っても聞く耳持たず。
抵抗した子は暴行の加害者として責められるため泣き寝入りさせられる。
こんな学校、暴力沙汰こそありませんが理想的とはいいがたいでしょう。


進化、進歩の点では、質問者様が挙げた要素もあります。
何らかの形で淘汰をしてこそ、生物としても社会としても今の形になっていたのだと思います。
それに身近にあるもので戦争、つまりは軍事がルーツになってるものは少なくありません。
(コンピュータ、インターネット、セーラー服、学ラン、トレンチコートetc)
そして、その発達も戦争が促したと言えるでしょう。
例えば航空機は軍事利用がなかったらここまで急速に発達することは無かったでしょう。

戦争という形ではないとしても、モータースポーツが自動車の発達を促したり、パラリンピックが障害者の義肢の発達を促したりと競争が進歩を生み出す側面があることは変わりません。
競争がなかったら高いモチベーションは保てないでしょう。

ただ、形はどうあれ争いなのですから様々な負担、ひずみも生じます。
戦争でなければよいというものでもないでしょうね。
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よく「歴史上、戦争のなかった期間はほとんどない」と


言われますが、同じ「戦争」でも種類は違ってきています。
日本でも、昔は集落間で戦争をしていた事が、遺跡から
うかがわれます。そして戦国時代は、県単位で戦争をして
いましたが、今「東京は儲け過ぎだ!」といって静岡が
攻め込むなどという事は考えられません。

ひるがえって、太古の海水中では細胞単位で争っていた
のが、やがて細胞が寄り集まって多細胞生物となって、
一体の生命活動をしてるのが我々であり、その体内で
脳細胞と筋肉細胞が争ったりはしていない。
我々の身の回りの衣食住、どれをとっても世界中から
やって来ており、既に我々は社会生命として助け合って
生きており、世界中の人々の順調な営為こそが最大の
福利をもたらす事は自明である(国境線に利権を持つ
軍需産業や政治家を除き)。

軍事力=土地や資源の支配が真の利益につながらない
のは、資源国より工業国の方が繫栄している事から
明らかだ(工業的付加価値の方が利幅が大きい&
資源は特色がないので競合し利幅が押さえられる)。
戦争より、経済競争の方が厳しいのは、社会人なら
誰でも痛感しているはずだ。
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理想だと思います。

ゴリラやチンパンジーをバカにしてはいけません。情感の面においては、人間より優れたところもあるのです。
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戦争放棄は人類の理想です。


「平和で良い」のが人類の理想です。
戦争を賞賛すべきではありませんし、ゴリラやチンパンジーのように現代文化を捨ててしまうとも思いません。

あなたは今の北朝鮮について、人類の進歩に貢献していると思いますか?
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この回答へのお礼

北朝鮮について、アメリカや韓国、そして日本が、今、思っている事は、もっと早く、北朝鮮が核ミサイルを持つ前に、北朝鮮に攻め込んで、北朝鮮を滅ぼしてしまうべきだった、という事ではないでしょうか?

お礼日時:2017/05/13 08:15

理想はいろいろあるでしょうが、人類にとっての幸福であることには間違いないでしょうね。

戦災の消滅は。
病気が無くなれば医者が困るとか、火事や犯罪が無くなれば消防や警察が困るなんてことはありません。
戦争が無くなっても軍人は困りません。
現実として、備えをしていれば人為的な災禍は封じれると思います。
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>本当に戦争放棄は人類の理想でしょうか?


争いなく生きていけるのは理想ですよ。

>現在の人類が有るのは戦争のおかげとも言えるのではないでしょうか?
確かに技術の進歩などは戦争があったからこそのものが多いです。

>戦争が無ければ、人類は怠惰になり、ゴリラやチンパンジーとさして変わらない生活を送っていたのではないでしょうか?
こういう結論になる根拠が全く解らないのですが、、補足でどういうプロセスでそうなるのか教えてください。

>確かに平和で良いかもしれませんが、それが、人類の理想でしょうか?
はい、私はそう思います。
殺し合いをしたくありません。

残念なことに戦争は外交手段の一つとして有効なのは事実です。
しかしその手段を取らずに人類が発展し続けることができれば、それは人類にとって理想だと思いますよ。
理想通りにいかないから、戦争という手段を選択せざるを得ないんじゃないでしょうか。
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