北九州説や奈良説が魏志倭人伝の解釈によって以前から唱えられています。

魏志倭人伝ばかりに注目せず、日本書紀と古事記からも解釈してはどうでしょう。
私は個人的に邪馬台国は奈良で大和政権に繋がっていると簡潔明瞭に考えています。
なぜなら、それが一番素直に考えられるからです。

皆さんいかがでしょう?

A 回答 (3件)

卑弥呼はいたんだと思います。

ヒミコは日巫女とも書きます。アマテラスがヒミコだという考えがあります。私はそのように思っています。すると、日本神話と結びつきます。
また、ヒミコは元は九州で大和に移ってきたという説もあります。これなんかも神武東征の話とオーバーラップしてきます。
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>私は個人的に邪馬台国は奈良で大和政権に繋がっていると簡潔明瞭に考えています。


>なぜなら、それが一番素直に考えられるからです。
考えるのはご自由です。
ただし人に言うのであれば客観的証拠や合理性が必要ですね。
全く時期の違う文献で邪馬台国に関する記述がないのですから。
「一番素直」を別の言い方をすれば「何も考えていない」になりませんか?
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この回答へのお礼

邪馬台国の古代中国読みはヤマドゥになるようです。それからも大和国イコール奈良と思うのです

お礼日時:2017/05/14 00:04

日本書紀や古事記は全く時代が違いますね。

500年近く離れてます。現代と戦国時代くらいです。しかも、古事記は稗田阿礼が暗誦したものを文章化したものですから、どこまで信頼性があるのでしょうかねぇ...。

邪馬台国の位置は、近畿の古墳を全て隅々まで調べれば答えが出そうですが...、当分無理そうですね。
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この回答へのお礼

解りました
参考にします

お礼日時:2017/05/13 23:53

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 すると、第四の妻とは何にたとえているのでしょう。皆さんおわかりになりますか。それは男が今生で為してきた行為、「業(ごう)」のことです。業だけは、死んだ後々まで着いてきますから、第四の妻のごとく、忘れ去ったり無視しても、どこまでも着いてきます。因果の理法は善因善果、悪因悪果ということですから、善悪の行為によって善業・悪業と分かれます。つまり業と一言でいっても、必ず悪い業だけを意味するものではありません。また「定業(じょうごう)・不定業」といって、必ず報いを受けるべき定業があれば、そうでない不定業もあります。強い業は宿業(しゅくごう)となって命に刻み込まれ、冥土はもとより、来世・未来世まで着いていくのです。第四の妻が、「どこまでもお伴致しましょう。」と答えたごとくです。
 
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 大聖人は、
「三世を知るは聖人なり」(平成八六七㌻)
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 「仏が尊い存在であるのは、過去を考え未来を知り、三世を通じて世を見通す智慧を具えるからである」(同九〇九㌻取意)
と説かれています。
過去・現在・未来の三世を知ることが、仏である証しなのです。
 私たち凡夫には三世を見通すことは出来ませんが、日蓮大聖人の仏法に帰依していくならば、自ずからそのような見方が出来るようになります。そういう智慧が次第に具わって、様々な悩みも、解決されることでしょう。
 
 どうぞ、本日皆様がこの会場で聞かれたことは、単なる知識として受け止めるのではなく、心の財産とすべく、信仰の第一歩を実践していただきますよう心から念願して、法話を終わらせて頂きます。

http://www.kamakura-gokokuji.or.jp/sermon-terakoya-002/

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金銭社会に従って
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それを答えれない
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人体に蛇のせいきがあります。
それによって人は
存在していると錯覚し
人の事をただの人だと認識し
悪き行いの区別を
できなくなっているのです。

肉体は蛇のものであり
あなたのものではない

うちにある魂が本来の自分である
闇に対する光で有りなさい

性欲があたりまえ
性行為が当たり前
ひとと人が愛しあう
間に女性器という
聖杯に蛇の性器がじゃまをして
神と悪魔がセックスをしている
という事を意味する

私はルシファーについて
詳しいです。
答えはすべて人間にある
爬虫類脳にあります。
蛇をよく知る必要があります
ルシファーは蛇です。
人の体を操り人に悪さをして
子作りというウソをつかせ
所有物で誤ったちしきで
子に手を上げる

それをイエスは止めたかったんです
性行為は神の子にたいする
虐待であり子殺し行為であるという
事を。


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