ジメジメする梅雨のお悩み、一挙解決! >>

教育の本質ということで「教育哲学」という言葉を思いついたのですが、
すでに学問の領域として存在していたことを知りました。

現代の日本において教育は、実利のみを動機とし、目的としていると思い
ます。これは、教育が欲望達成のための道具に成り下がっているというこ
とで、あるべき姿ではないと考えます。

教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?
また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

A 回答 (15件中1~10件)

>教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?



食糧の調達と保存と加工方法、それに栄養学、あとは哲学を教えるべきです。
上記を無償の義務教育として、それ以外は有料の選択科目とすればよいでしょう。

>また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

教師の収入・生活を確保するための議論は排除して、個人が自由に教育を買えるようにすることが重要です。
教育を買うだけのカネがない人達には、食糧の調達と保存と加工方法、栄養学、哲学だけは無料で(税金んで)教えるようにしましょう。
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この回答へのお礼

哲学を重視しておられる点は、大変に共感出来ます。

あとは、健康に生きてゆくための必要最小限のことを無償の義務教育とし、
それ以外は有償の選択科目とする、と。

大変に無駄のない合理的な教育システムに思えます。

私は貧乏な家庭の中に「埋もれた人材」がしばしば存在すると思っています。
私のように(笑)。
その人材発掘の補完的システムがあれば、教育システムとしては理想的なもの
かも知れません。

お礼日時:2017/05/21 14:30

>衰退の一途ですよ。



ははは。たぶん私は衰退を受け入れちゃったんですね。

もっとも分野とか、それが衰退した時の影響とか、色々と違うんだと思います。最初はそういうところに還元して、私の理由を説明してみようと思いましたが、どうもピンとこないですね。匿名のサイトで、それを言って何になるという感じはしました。

結局、私は、自分が責任を持って継承していくことに手一杯なんだと思います。また同時に後の世代のことを考えるのは、70過ぎたご老人にお任せして、現役時は、自分の世代が継承していくことに懸命にならないとならないと思うのです。

もし70代まで自分が生き残っていたら、その時考えようかなと思います。もちろん振り返ったら荒野しか残っていない可能性はあるわけですが、それもそれで一興と思います。とにかく自分にできることを今はやるのみです。
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この回答へのお礼

>とにかく自分にできることを今はやるのみです

要するにこれなんですが、雑談ついでに私が強く思うことを申し上げますと…

人間の能力はたいした違いはなく、限りがあるという点は共感します。しかし、
何をしようかという目標を明確にすることと、何が可能で何が不可能かを決定す
る基準が人によって大きく異なると思うんです。

私は理想家ですので、不可能ということは基本的に考えません。しかし、人生は
そんなに長くないので、自分の一番やりたいことを選んでそれに挑戦したいので
す。

「あんな普通の人が、誰もやろうとしないことを、"ちょびっと"やったよ」
と、世間から言われれば満足です。

出来ることは大抵「ちょびっと」ですが、自分じゃないとできないことをするこ
とが、人生の醍醐味だと思いますねえ。

お礼日時:2017/05/22 12:10

>これも、文明としては大変危機的なことであるはずです。



うーん。まあ、危機は常にあるわけですが、文明はそんなに柔なものでもないと一方では思うのです。危機といえば幕末・戦後の方が危機だったと思います。現在の私たちについては、自分たちがふるいにかけられていると思った方が、生産的にならないでしょうか。
いや、DRさんに対して失礼なことを言っているわけではなくて、自分を選んでくれる若者なんて、千人に一人くらいの割合だと思っていてよいのだと思うのです。いや、一万人に一人かもしれません。ともかく気の遠くなるような低い確率です。

そして口で選ぶと言っても、「道」は厳しいものです。SNSで言葉をかわすとか、酒杯を傾けて駄弁っているだけでは、何も伝わりません。自分の作ったものを前に、相手が研鑽を積んでくれないと無理なのです。そしてそういう意味での継承は、目に見えないことだと思うんですね。飲み会を平気で欠席して、会話を拒絶する人が、実は一番、中身を継承している可能性はあると思うのです。昔の私がそういうことだったと思います。相手と会話しないくせに、相手の著作を一番読んでいましたね。

継承するということは、全く同じものを再生産するということではないと私は考えております。平たくいえば、アレンジを加えていくということです。そのためには、継承者の自由を守る距離感も大切なんです。
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この回答へのお礼

私の現代文明危機論は、かなり考察は進んできました、特に日本の。

仰るように、そう簡単に消滅するとは思いませんが、かなり貧乏になり、
人心は更に荒廃し、経済的他国の支配が強くなって、日本人の誇りなどは
消えてゆくだろうと思っています。

そうですね、幕末とか戦後のほうが政治的危機ははるかに大きかったので
すが、現代の特徴は、一般庶民に国や社会を思う気持ちがなくなり、エゴ
が強くなり、怠惰になっている点だと思います。

>自分たちがふるいにかけられていると思った方が、生産的にならないで
しょうか

これですね、いかんと思います。

これ、話し始めると長くなるのでここでは省略しますが、今の日本は超わ
がまま社会ですから、そのわがままを抑えつつ、何とか方向性をつけてゆ
かないと、衰退の一途ですよ。
そのためには、我々「壮年」がリードしなきゃどうにもならないというこ
とです。
「継承」というのは相手のすることで、結局こちらは訴えるしかないので
すが。

そりゃあ、難しいですよ。
だから、しぶとく努力を重ねるんですよね?

お礼日時:2017/05/21 22:16

それを現実化出来るもの、それはあると思います。

何かと言うと、私が好んで使わない言葉で、愛と表現されるものです。分け隔てなく、人として対等に扱ってもらった、或いはエゴを超えて自分がそのように他者を扱った、その経験によって、自分存在の自覚や肯定、他者存在の覚知や受容が為されるのだと思います。つまり、平等心という事ではないでしょうか。
私が愛という言葉を使わないのは、世間では愛が、エゴの表現かのようにまかり通っているからです。例えば普通、自分の子供は他人の子供より大事で可愛いものです。これは世間では愛と言われますが実際はエゴです。エゴがダメというのでは無いですが、それは愛では無いと私は思うので、世間で通用する語彙との間に齟齬があるので、この言葉を使わないのです。人はそんなに綺麗なものではないのに、愛という言葉で着飾って、図々しく前に出てくるのは憚られます。

デビッドさんの探求を応援していますよ。
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この回答へのお礼

「愛」、あるいは「正義」「善」でもいいですが、普遍的な概念というものは
存在します。

しかし、これらのものは普遍的なもの以外に、個別のものがあります。
仰るように、自分の子供は愛するが、他人の子供などどうでもいいということ
であれば偏頗な愛、つまり「エゴ」になってしまいます。

一国の正義のために他国を犠牲にする場合も同様ですね。

つまり、人間が普遍的な愛というものに立てない生き物なのであれば、理想とい
うものは「ない」といえるでしょう。

自分を愛することは当然として(自分を愛さないのもまた間違いでしょう)他人も
愛するということが、できるのかどうか?
そのように言い換えていいかと思いました。

>デビッドさんの探求を応援していますよ

ありがとうございます。

お礼日時:2017/05/21 21:36

>感覚的な理解だから、自分の中できちんと言葉にするのにえらく時間がかかりました。



おっしゃることは同意します。でも、皆んなこれでいいんじゃないですか。つまり、若い人に楽をさせてやろうという親心が仇になることは多々あります。若い人にもそういう風にやってやったらいいと思うんですよね。
しかし若い人はスマホもパソコンもあって、接触できる情報が膨大です。そういう中で刺激が強い情報(ポルノなど)に飲み込まれて行ってしまう可能性は高いと思います。黒澤映画を前に、何かを吸収できる感受性があるかどうか。まずここら辺が難しいところです。ポケモンが出てきたり、ジャニーズのアイドルが語ったり、こういう入口がないと入っていけないのかもしれません。

>なんというか、「しぶとさ」を感じますね。

企業家的というより、一人で社会に向き合っていくための用心深さだと思います。まあ前にお話ししたような「いじめ」のようなものも多くありましたから。私は田舎の連中が嫌になってしまって、そこから遠ざかるような道を選びました。しかしいろいろ見て回って、人間の本質はそう変わらないと思いましたね。底意地は悪いものだということ。そして「頭の良さ」は、御釈迦様から見れば50歩100歩にしかならないということ。人間の頭の良さなど、本当に微々たる差でしかありません。その差を積み重ね、大きな成果をあげるためにはどうすればいいのか。しぶとくやっていく他ないのです。
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この回答へのお礼

知り合いの20代のある男が曰く、「同世代の人間は成長しようという意欲がない」と。

彼はそう言うだけあって、何かを吸収しようとする意欲を感じます。ですから、彼は年上
の人間と話したがります。
この辺りも二極化しているのかも知れませんが、青年として、力ある先輩を尊敬し、吸収
しようとするという本然的な精神が多くの青年の場合なくなっているのではないかと思い
ます。

これも、文明としては大変危機的なことであるはずです。

ポルノの話がでたので一言。

私はこれまで「ポルノ」といえば有害なものとしか思えなかったのですが、最近少し変わ
ってきて、「特殊なもの」でなければ、あっけらかんと出してしまったほうが、変に隠す
よりいいのではないかと考えるようになりました。

>人間の頭の良さなど、本当に微々たる差でしかありません。その差を積み重ね、大きな
成果をあげるためにはどうすればいいのか。しぶとくやっていく他ないのです。

ああ、賛成ですね。

お礼日時:2017/05/21 14:49

この辺りの考えを進めて行くとどこに行き着くか。


平等な社会だと思われます。
文明は奴隷や労働者を欲しがりますが、そんなものに旨味はありません。力を持ったものは如何に大衆を操るか、よく言えば導くかに腐心しますが、それもこれも衆愚政治を敷くからです。
人は隠れたる悪の力に価値観を歪まされ、要らないものを高価(時間など)で売りつけられていると思います。
正しい価値観を教える事は押し付けになるのでできないが、自由によって各自が本当に求めたるところを推し進める事は出来るのです。
枷をはめて人間を形作るやり方から、枷を外して自ら成長するやり方へ転換すれば、歪んだヒエラルキーのある文明から、遥かに飛躍したそれへと達する事も夢ではないでしょう。
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この回答へのお礼

>枷をはめて人間を形作るやり方から、枷を外して自ら成長するやり方へ転換すれば

これを可能にするためには

>一個の人間であることの自覚と、他者存在の覚知(とその受容)

などの、哲学・思想的なことだけではなく、人間の「精神性」の変革が必須であると
思います。
深い哲学を知ったとしても、それを信ずることができなければ行動には至らないと思
うからです。

現代のようにエゴに満ちている状態では、哲学も自分の身を飾る装飾品にしかならない
だろうと、シビアに見ています。

真に一個の人間であることの自覚と、他者を受容のできる「精神性」とはいかなるもの
で、それを現実化できるものは一体あるのか、ないのか?

そんなことを考えました。

お礼日時:2017/05/21 14:12

>中学生くらいまでの早い時期に、いかに無理なく本質的なことを教えてしまうかということだ



うーむ。確かに最初に見当違いのことを教えられると、その後に影響を及ぼすことが多々あります。しかしこれは仕方ないのかもしれません。一つ自分の例を出すと、私は研究の仕方について、最初に間違ったことを教えられ、頓珍漢なことをやり続けたと今にして思います。最初に私を教えたがった人が、まあ良くも悪くも、二流の方でした。結果、その手法、その方にとっては良くても、他で通用しませんでした。

私は最初が躓いたもので、途方にくれました。普通なら、ここで潰れてしまうところでしょう。しかし私は多くの点でラッキーでした。結果からいうと、最初が失敗したおかげで、いろいろ見て回ることができて、成長することができました。本質っていうのは難しいことです。むしろ最初にズバッと教えることはできないと見越した上で、やり直せる機会を多く作ってやるべきだということを自分の経験では思います。本質は五里霧中の試行錯誤の中で、なんとなく体感して行くものだと私には思えるのです。

そして中学校の先生だと、難しいこともあるんだと思います。いじめの問題にしても、結局、熟慮するにはたくさんの読書が必要です。そして一番難しいのは、中学生には、理論を教えればいいというわけではないということです。理論も教えるが、それ以上に先生が実践して見せて、薫陶していかないとなりません。こんなことができれば、そりゃあ素晴らしいことです。しかしお釈迦様でできるかできないかというところだろうと思います。私はできないでしょう。

おっしゃることは理想なんだが、実行するとなると難しいと、私は自分の経験を通じて思うのです。
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この回答へのお礼

>最初に私を教えたがった人が、まあ良くも悪くも、二流の方でした。

そうでしたか。このあたりはもう運不運の問題で、いかんともしがたいですね。

ああ、それで納得できる気がします。
骰子さんの頭の良さは、秀才のそれでなく、また、学術研究者というお堅い職業の
それとも思えなかったんです。
野心的で戦略的で、起業家的だと思いました。

なんというか、「しぶとさ」を感じますね。それは、おそらくかなり強い自信?

一方私は、読んだ本が良かったと思っています。そこで、知らず知らずのうちに本質
的なことを学んだのであって、学校で教わっていないと思います。
あとは手塚治虫の漫画と黒澤明の映画ですかね。

感覚的な理解だから、自分の中できちんと言葉にするのにえらく時間がかかりました。

>おっしゃることは理想なんだが、実行するとなると難しい

まあ、そうなんですが…

お礼日時:2017/05/21 01:41

実利ということが


既存の枠組みの範疇で有益であると考えられていることの追求における目先の能率のみを求めるものであれば
それは現時点で未知の領域に広がる可能性の獲得を不可能にする
有害な方向だということになると思います。

それはより普遍的なスタンスからすると
外骨格的に自由度を閉じ込めるやり方となって
どこかでピースが合わなくなって破たんし
威力が大きい時代になるほどその結果によるダメージが大きくなることが想定されます。

内骨格的に普遍的な軸を持って
それにまとわりつく形で無理なく自由を展開して発展していくような
そういう社会を実現できるような教育が望ましいのではないかと思います。
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この回答へのお礼

「外骨格的」「内骨格的」という表現は、面白いですね。

そう、我々人類は、より進化した文明を作れる時代になってきたのだと
思います。

ですから、各々の得意分野で一歩前進への行動をおこなってゆければと
思います。

お礼日時:2017/05/21 01:08

>実利のみを動機



これは、直接的に職業などに役に立つ、職業選択の自由を広めるという意味の実利に偏りすぎという意味でしょうか。

例えば、微分積分を学ぶ理由は、微分積分が必要な職業に就けるという意味で「その個人の、職業選択の自由度」を広げるための実利があります。そういう実利に、偏っているという意味ですかね。


道徳教育とかも、自分の人生観の自由度を高めるためや、まともな社会人になるための手助けとして実利があると思いますが、そういう教育は受験に出ません。やはり受験に出る科目は、「その個人の、職業選択の自由度」を広げるための実利に偏っていますね。


もしそういう意味の「実利のみを動機」なら、そうですね。
その通りだと思います。

道徳教育とかも受験科目にしてほしいですね。どういう問題にするかにもよりますが。



ただ、私個人からすると、実利を求めるのは教育としては仕方ないと思います。
問題は、誰にとっての実利なのかという点かと思います。

日本の教育で、そういう問題点は多いと思います。
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この回答へのお礼

教育を、実利のみを動機とし、目的とするという事は、学校での教育が
(その延長である塾も含めて)よりよい就職のため、という一点に向かっ
ているという事です。

私の人間観は、人間はもっと多様なものである、というものです。

視野の広い人もいれば、一つの分野に集中したい人もいる。
論理的な人もいれば、感覚的に鋭い人もいる。
独立心の強い人もいれば、組織向きの人もいるでしょう。
物に興味のある人もいれば、精神的なものに惹かれる人もいる。

それが、現在の教育の実態は、同じ鋳型の人間ばかりできていると思う。
「落ちこぼれ」という不良品を出しながら(私のような)。

一般大衆が、そのように思わなければどうにもならないのですが、もっと
深い意味で「商業選択の自由」いや、「人間の自由」をまず教えることが
教育の本義であると思います。

ただし、専門学校というのは職業訓練みたいなもので、目的がはっきりし
ているから、結構だと思います。

お礼日時:2017/05/21 00:57

こんにちは、David_Rossiさん。


興味深い問いかけですね。


___________


僕は人が【商品】として扱われることにも慣れちまいましたし、【規格品】として何とか僕を一般市場に並べてもらふことに普通に必死ですし、労働相応のお金を頂戴するというシステムにも慣れちまいましたし賛同してをります。



今日は取り急ぎ、仕事に拘わらず生きる上で大切な≪5S≫と≪PDCA≫を紹介します。
→ S1. 整理(S eiri)
→ S2. 整頓(S eitonn)
→ S3. 清掃(S eisou)
→ S4. 清潔(S eiketsu)
→ S5. 躾(S hitsuke)
中でもS1.の【整理】は、常に必要不可欠だと思います。【整理】というのは、必要なものと不要なものを区別して、不要な物は潔くゴミとして処分し、必要なものだけに絞り込んで保存するという作業であり、選択の連続である人生に於いて極めて重要です。

S2.の【整頓】は、S1.で【必要と判断され手元に残った物事】を自分が使いやすいように配置することです。人生の主人公は自分ですので、自分が生きやすいように工夫することも必要不可欠だと思ひます。

以下S3.~S5.は勝手乍ら省略します。


___________


【PDCA】についても話したかったのですが、今日は力が尽きましたので気が向いたら明日以降、また現れます。
P → Plan(計画を立てる)
D → Do(実行する)
C → Check(審査する・問題を発見する)
A → Action(対処する・改善する)


いささか省略しすぎですが、教育を施す側と受ける側とが、相思相愛になれるのが最高です。ではまた。
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この回答へのお礼

>僕は人が【商品】として扱われることにも慣れちまいましたし、【規格品】
として何とか僕を一般市場に並べてもらふことに普通に必死ですし、労働相応
のお金を頂戴するというシステムにも慣れちまいましたし賛同してをります。

現在の経済社会は、トップダウンの傾向は強くなっているように思います。
下にゆけばゆくほど機械とか道具扱いされるようですね、暗に。

人間が人間扱いされないのですね。これも教育の賜物でしょう。

「5S]と「PDCA]ですか。もう少し説明をしていただけるとありがたいです。

お礼日時:2017/05/21 00:23

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私は、このような人間とか社会の基本的なことを、過去の哲人たちの思索を
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つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
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3.[ おまけ ]
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よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
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しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
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しかし、AIは設定された条件内においては間違いはないと思いますが、その「条件」
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また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの
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Aベストアンサー

伝統的宗教が歴史の中で
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神もしくはそれに類する存在を土台にした無謬性を構築する必要があった。
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人類にとって避けて通ることができなかった必然の過程だと思います。
現代という時代は
そうやって積み重ねられた歴史の成果としての科学という客観的な拠り所によって
無謬性を検討できる時代にはなっていると理解していいのではないでしょうか。

物質科学の隆盛期にこじれた宗教と科学の関係も
物質科学の先に展開することが可能になった精神科学に照らして
整合性を検討することで新たな展開も期待できると思います。

科学の世界における無謬性においても人間の認識能力の構造的限界というものがあって
その閾値以下の部分においては信仰という拠り所の必要性はなくならない。
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今のところそんなふうに考えています。

Qもののあはれ――あは!という感嘆――というエポケーからさらに・・・

1. あはっ!( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。
――この仮説をめぐって問います。

2. まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわしましょう。
おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなど。

3. しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――
勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象
を表わすと見ます。
 
4. ワ(我)やナ(汝)やカ(彼)に レ――おそらく親愛称――をつけて 
我レや汝レや彼レがつくられるごとく アハにもレがつきアハレがつくられた。 

5. アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)及び す
ばらしい場合には アッパレ(天晴れ)である。

6. 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既
存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のもの
ごとを知覚した・・・そういった事件のことを言うものと考える。

7. しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも
超えて 直感および直観が稲妻のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキ
として捉えよう。

8. もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な
現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身
分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。

8-1.たとえば身分制なる現実に即した認識や判断を休止して そこから自
由な知覚や意識を得ようとすることを ここではエポケーと言うこととします。

9. ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕に
ついて考えてみたいと思います。
 
10. それに先立って 焦点は こうです。:
 
社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごと
を見ている(それはひょっとして 空観?)。――そのような《もののあはれ》
を知った境地は それでもあたかも向きを変えて ふたたび身分や人間的なシ
ガラミの場に立ち戻って来るはずだ。そこで どうするか?
どう現実をとらえるか?
どうふるまうか?

11. ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実
に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として掲げ 身構え
て生きることになる。・・・といったひとつの見解のようです。:

▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~~~~~~
宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばなら
ない》・・・。
 
歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっ
ともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の
美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともである
が ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異であ
る。

前に 《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 
純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と
書いた。

右(上)の歌論は この認識に対応するものである。
つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにして
いれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。
 
意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が
浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあ
われを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなので
ある。それが《実情を偽る》ということであった。
(日野龍夫校注:『本居宣長集』 1983 解説)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 



12. この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》
は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念と
なったようなオシヘのことか?

13. すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえし
て得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび固定
観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?

14. (11)の参考意見がおかしいのか?

15. 現象学的還元(エポケー)などということが おかしいのか?

16. もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?

17. アハッは 神か? 神などは要らぬか?

18. シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシ
ガラミの中に舞い戻らざるを得ないのか?
 
19. われらが自由は どこにあるか?

20. 人は確かに いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき 
どうするか?

1. あはっ!( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。
――この仮説をめぐって問います。

2. まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわしましょう。
おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなど。

3. しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――
勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象
を表わすと見ます。
 
4. ワ(我)やナ(汝)やカ(彼)に レ――おそらく親愛称――をつ...続きを読む

Aベストアンサー

「《周りの人びとへの未練や固執が特
にはない場合でも 実際に相手として向かい合った場面では 自由な関
係を互いに打ち建てようとする》ことは あり得る・・・か?」

これは、あり得ると思います。自由な人同士が出会った場面では、自由な関係性がそこに成立するはずです。
また、一方が自由で、一方が不自由な場合は、一方が示し、一方が察するという関係になると思います。

「人びとと《絆が結ばれる》かどうかは 自由という意図を持つ持たない
と直接のかかわりがありますか? 相手にもよるといった見方はないで
すか?」

絆とは見方を変えれば束縛のことでもあります。意図を持てばそれは相手に何某かの作用の働くことを、こちらの望む形で、ともすれば強制してしまうことになってしまいます。このように自由であらねばならぬ、このように自由であったほうが良いのだと枠をはめてしまっては本末転倒です。意図、つまり上手くやってやろうという意図を働かせなければ、相手は自ずと自由というものを察してくれる可能性がひらけます。基本的にはこの可能性に託すのがいいのではないかと思っています。

おっしゃるように、空気で縛るというのはあると思います。居心地が良いか悪いかは別として、それを祓うのが質問にあるような閃きであったりするのでしょう。閃きというのは啓かれるということでもあると思います。啓かれて初めて外の世界があるのを知ることができ、今までの住処を束縛であったと過去形で認識しうるのだと思います。それが仕方のないこと、それが合理的なのだということ、それが妥協という最善であるのだということ、それが支え合いということ、などなどの理由によって人々は互いの自由を形作ります。しかし形作られたものはその形に縛られてしまう。形なき自由が、どのように現象するのか、それは私も是非目撃したいと思っています。
自由に生きることがどのように実現するのか、それは是非、直ぐにでも知りたいですね。

川の水が形を変えながらも流れ続けるように、自由は滞りなく現象するのだと思われます。

「《周りの人びとへの未練や固執が特
にはない場合でも 実際に相手として向かい合った場面では 自由な関
係を互いに打ち建てようとする》ことは あり得る・・・か?」

これは、あり得ると思います。自由な人同士が出会った場面では、自由な関係性がそこに成立するはずです。
また、一方が自由で、一方が不自由な場合は、一方が示し、一方が察するという関係になると思います。

「人びとと《絆が結ばれる》かどうかは 自由という意図を持つ持たない
と直接のかかわりがありますか? 相手にもよるといった見...続きを読む

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q信ずるということ

信ずるということに私は以前から深い関心を持っています。

なぜなら、人間は自分の信ずるものに対し心を開き、頼りにし、その方向へ
生きてゆこうとすると実感していますし、ひょっとすると我々が認識してい
るよりもはるかに人生を決定づけるものではないかと思うからです。

例えば、人は家族を信じています。悲しいことにそうでないケースもありま
すが、では、家族を一人の人間として信じているのか、あるいは家族という
関係性を信じているのか、家族という概念が信じられるのか?

自分を信ずる?自分の才能を?運を?存在を?

信仰について言えば、本当に神を、仏を信じているのか?別のものを信じて
はいまいか?誤魔化してはいないか?

もちろん、人それぞれでしょう。その、それぞれも興味深いし、「信ずる」と
いうことの本質、あるいは人間「どういうことを信ずるべきか」という私の興
味に一歩迫りたいと思っての質問です。

哲学的でも、文学的でも、芸術的でも、あるいは一般大衆的ご意見でも結構です。

Aベストアンサー

信は分からない事が分かるようになる
信から知恵が生まれるからです

不信は簡単な事でも分からなくなります
行動を止めるからです

不信
分断は 国と国 民族と民族 人間と自然 等でも同じで、悪です
戦争は この不信から分断へと進み始まるのです 
企業 団体 家庭 すべてに通じます
 当然 その逆であ結合の本質は善です。団結です 
当然そこには信頼があり平和がありそして希望があります
もちろん 何の元に団結するかの 高低浅深はありますが

 信のある人は希望があります
希望は人生の宝です
 希望に生き抜く人は堕落はない惰性もありません
成長・充実・向学・創造・連帯があります
そして信のある人は「寛容」が生まれます


不信はその行動を止めます だから学べないのです
信は結合 不信は分断
信は平和 不信は戦争
信は善 不信は悪と
信は「勇気」不信は臆病と結論します       
 

信は行動に移り その結果を見て学び 
更に信が強くなり 歓喜するのです
疑いは 簡単な事でも分からないのです

ちょい 難しくなるからおわり

様々な学問の発展は 常識以外の事を信じたからですね
 でも 論理的裏付け 妥当性 現実の結果 等を無視すると
エセ宗教に騙されます
この妄信には十分気負付けましょう

日本人は 神社に初詣 教会で結婚式 寺で葬式
何も信じていませんね だらしないと思います
  しかし 因果応報 等 結構信じているんで
平和なんです





信 http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage13.htm

勇気 http://rokusann.sakura.ne.jp/index11.htm





1:寛容とは、個人が進んで他者の尊厳を擁護しようとする心である。
2:寛容は、人間の尊厳に対して義務をもつ価値観としてあらわれる。
3:寛容は、他者を理解し、他者の異なるあり方を尊重する能力を必要とする。
4:寛容は、安定した立脚点を前提とする。
5:寛容は、どのような文化的環境の人にとっても保護・尊厳・自由に役立つものである。
6:寛容を保障し、さらに発展させることは、教育の核心的要素であり一般的義務である

信は分からない事が分かるようになる
信から知恵が生まれるからです

不信は簡単な事でも分からなくなります
行動を止めるからです

不信
分断は 国と国 民族と民族 人間と自然 等でも同じで、悪です
戦争は この不信から分断へと進み始まるのです 
企業 団体 家庭 すべてに通じます
 当然 その逆であ結合の本質は善です。団結です 
当然そこには信頼があり平和がありそして希望があります
もちろん 何の元に団結するかの 高低浅深はありますが

 信のある人は希望があります
希望は人生の宝です
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Q人権感覚

https://youtu.be/qWamxYjbUbg

歌の歌詞の解釈に正解というものはないのですが、私の解釈によれば
あまりにも酷い男ということになります。

このように、「こいつは低い人間だ」と思うやいなや、態度をコロッ
と変え、平然と酷いことをする人が多いと思います、日本人には。

違う民族とか、全くの赤の他人ならばまだしも、同じ日本人で、会社の
同僚に、友人に、婚約した相手に、家族に…

私には、全く理解できません。

皆さんの周囲でもこのようなことはあったと思います。
どう理解すればいいのでしょうか?

Aベストアンサー

いや、仔細を省かせてもらいますが、自分が今まで目撃した中で、最悪のいじめを思い出しました。
結論だけ書きますが、なんというか、他人をおもちゃにすることで、自分が超人の立場に立ったと思う人がいるんですね。この高揚感は麻薬みたいなものです。そして一旦、この感覚がおかしくなると、「それくらい、いいじゃん?」と言い出すんです。ちょうど中毒者が、意味不明なことを言ってでも、依存しているものを手に入れるのと同じことです。

こうなった人とは、もう話はかみ合いません。「傷つけたらごめんね、あははのは」っていう感じになります。テキトーに謝り、テキトーに叙情的な話を一席やれば、相手は感激して、ころっと騙されるだろうなんて考えます。

流行りの手口は、お金を払って合法的に、相手にうんと言わせるものです。『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』って映画がありますが、株屋たちが、美しいブロンドの女の人のほっぺを札束で叩いて、頭を丸刈りにします。元は他人の美を汚したいという欲求です。しかしサディストよりも卑劣です。自分は一切、リスクをおかしません。お金で相手の合意を取り付けているんです。
つまり相手の心の隙に付け入り、弄ぶわけです。

しかし、加害者側が満足するってことは決してありません。超人になったような感覚は一瞬だけで、やはり当人は凡庸な人間だからです。だから次の快楽を求めて、悪事を繰り返します。
格差の拡大を背景に、こういういじめが、世の中多いです。

いや、仔細を省かせてもらいますが、自分が今まで目撃した中で、最悪のいじめを思い出しました。
結論だけ書きますが、なんというか、他人をおもちゃにすることで、自分が超人の立場に立ったと思う人がいるんですね。この高揚感は麻薬みたいなものです。そして一旦、この感覚がおかしくなると、「それくらい、いいじゃん?」と言い出すんです。ちょうど中毒者が、意味不明なことを言ってでも、依存しているものを手に入れるのと同じことです。

こうなった人とは、もう話はかみ合いません。「傷つけたらごめんね、...続きを読む

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。


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