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なかったのですか?

A 回答 (3件)

田んぼは、どこもなかったので、百姓が開梱して田んぼにしていったのです。

そして庄屋と呼ばれる地域の名主が、概ね持っていましたから、そこから借りて作っていたのですね。
小作人と呼ばれる人たちは、自分の田んぼを持っていなかったので、名主に利用料、そして藩には年貢という税金を払っていたのです。だから子供を売らないと生活ができないところがたくさんありました。
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この回答へのお礼

田んぼって藩の持ち物とばかり思っていました。庄屋が地主だったのですか。そりゃァものすごい貧富の差ですね。サンクスです。

お礼日時:2017/05/17 19:19

すみません。

承認は商人の変換違いです。携帯から打ち込んだためです。
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江戸時代の大名は西洋の封建領主の様に土地を所有していません。

施政権と徴税権だけです。土地の所有権は百姓であったり承認であったりします。したがって、土地の売り買いや質入が所有者である百姓や商人によって行われています。
施政徴税権だけなので、鉢植えにの様に大名の国替えが行われました。
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この回答へのお礼

そうだったのですか。なんか侍より百姓や商人のほうがいい生活してそうですね。

お礼日時:2017/05/17 22:02

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Q本能寺の変での信長生け捕り

歴史には詳しくないのですが、教えてください。

高校の時に日本史の先生が、明智光秀は信長を生け捕りにすることも考えたと思うと発言していました。光秀は信長を生け捕りにするつもりはなかったのでしょうか?
最初から討ち取るつもりだったのでしょうか?

Aベストアンサー

最初から討ち取るつもり
じゃないですかね?


プライドの高い信長は、敵に生け捕られる
くらいなら絶対に自害を選ぶ。


光秀はそのことを良く知ってるはず
なので、生け捕りが成功するとは
考えてないと思います。

Q元号と西暦は同日でもどうして一月程の差があるのですか?

元号と西暦は同日でもどうして一月程の差があるのですか?

また過去に元号の日付で起こった出来事(例えば戦争や天災)は

今の現実には西暦の日付に起こったと言う事でしょうか?

また明治時代近辺で、調整されてる様ですが、何がきっかけで

そうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

もう少し、暦全般について調べたほうが良さそうですよ。興味があるなら、なおさら色々と知れて面白いと思います。

基本的に暦には、暦法と紀年法があります。
暦法とは、いつを1年の始まりにして、月をどうして、といったことを決めているものです。地球の文明のすべての暦に”月”があるのは、ある意味不思議でもありますが、”年”より”月”のほうが身近だったようで”月”から決められることも多かったです。太陰暦と呼ばれます。すぐに”年”の周期にも気づきますので、月ベースで年を決めるのが太陰太陽暦、年ベースに月を割り振るのが太陽暦です。
太陽暦も古くエジプトで紀元前何年だったか忘れましたが採用されている例があったと思います。今の西暦と呼ばれるものも太陽暦ですね。ローマの暦が元になっていますが謎な部分も多いです、カエサルなんかも確か大改革をやってたりします、調べてみるのも面白いと思います。
太陰太陽暦は中国で長らく使われており、これが日本にも入ってきて江戸時代まで使われていました。1年の春分・夏至・秋分・冬至を基準に24分割して、冬至と春分の丁度真ん中を年の替わりとしますが(実際は冬至を11月として1月を決めてたらしい)、月の満ち欠けベースで日にちをカウントするので、1月1日はいつも新月です。中国では国としては西暦を使っていますが、人々は昔から長らく使われてきた太陰太陽暦を元に新年を祝ったりします。これは西暦が人為的に決めたものに対して、太陰太陽暦が月や太陽の運行といった自然を元に決められているものであることも、その理由にあると思います。

紀年法は暦法とよく混同されますが、今年が何年というのをどこを基準に数えているかというのを決めているものです。西暦はキリストの誕生年であることが有名ですね(算出を間違えていることでも有名ですが)。上記のローマの暦は、もちろんキリスト誕生前、つまり紀元前から使われています。当時はローマ暦で、基準は知らないですが、執政官か何かを基準に〇〇何年みたいな感じで、しかも干支のように何年かで元に戻るので研究者では記録が1周期前か後かで論争になってたりもするようですが、それはともかく、暦法で書いたローマの暦と紀年法としてのローマ暦を混同しないでください。暦法としてのローマの暦はずっと使い続けられ、10世紀ころからキリスト誕生年基準の西暦という紀年法が広まって今の西暦となっています。

昔の日付については、当時その場所(国)で使われていた月日に、西暦に直した年で記述するのが一般的です。例えば元旦の出来事を西暦の月日に直すと、2月の何でもない日の出来事になってしまって訳が分からなくなることもあるためです。


ざっとさわりですが。
あと日本に西暦が導入されたときの混乱の話とか、たぶん他の人が面白く書いてくれると思うので任せます(あるいは自分で調べてみてください)。

もう少し、暦全般について調べたほうが良さそうですよ。興味があるなら、なおさら色々と知れて面白いと思います。

基本的に暦には、暦法と紀年法があります。
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Q大名ってなんですか? また、諸大名と大名の違いとは⁇

大名ってなんですか?
また、諸大名と大名の違いとは⁇

Aベストアンサー

時代によって意味が違うけど、多分、江戸幕府時代での大名の事を言ってると思うので、江戸時代について。

江戸幕府(将軍)から任命されて、主に石高(こくだか)1万石以上の領地(藩)を幕府から禄(ろく:給料)として与えられ、その領地を治めた藩主。

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昔から疑問でした。
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Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Q加賀藩はどうして石高が大きいのか?

加賀百万石といいますが、どうして親藩でもない加賀藩は石高が大きいのでしょうか?
尾張徳川家や紀州徳川家も遠く及びません。
確かに前田家は織田信長の頃から力をつけてきていましたが、江戸幕府が開いた後、大大名の豊臣家は滅ぼされました。
江戸幕府としては、体制維持の為、大大名は弱体化させるように動くと思いますが。
というか石高は大名の力とは関係ないのでしょうか?

Aベストアンサー

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果として幕府に届け出た値」であり, 年貢の算出基準である「内高」とは異なります. さらに, 藩の収入にはほかのものもあるので, 石高は必ずしも大名の力を反映した値とはなりません. 例えば, 御三家筆頭である名古屋藩は表高こそ 62万石弱ですが木曽ヒノキの権利を持っていたため実際の収入はもっと大きな値になっています.

なお, 石高は家格に反映されるため, 家の格を上げるためわざと本来の石高よりも大きな値を申告した例もあります (もちろん負担も大きくなるため住人が割を食う形になります).

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果と...続きを読む

Q【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】 日本の都道府県名を考え

【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】


日本の都道府県名を考えた人が中国人だった?

中国人に日本が乗っ取られていた?

Aベストアンサー

>都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられた…

それ、何県と何県の話?

元号なら確かに中国の古典をよりどころとしているのが多いですが、県名が中国の古典によっているとは初めて聞きました。
少なくとも私の県は中国とは何の関係もありませんし、東京都や北海道だって中国とは縁もゆかりもありません。

その話の出典をあきらかにしてください。

Q日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。 昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが

日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。

昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが当時の火消しは大変危険で火消しの度に死人が出たので火消しを仕事の生業の専門とする火消しのプロが生まれた。

その火消しの請負人たちが暴力団の起源である。

街はお金を町内で集めて火事になったときに火消し団体にお金を払った。

その火消しの商売は結構な金額が町内会費で集めれるので火消し団体がいくつも出来た。

で、火事になったときに我先へと火消しの為のため樽をどこの火消し団体が取るかで請け負っていた火消し団体よりも先に到着した別の火消し団体が消火に当たって火が鎮火して謝礼を消してくれたいつもの請負火消し団体に支払わなかったのでここから暴力団の縄張り争いが起こるようになった。

だからここは俺の火消しの縄張りだと言って島争いの陣地争いが勃発した。

で、幕府は火消しを政府が行うとして政府が火消し団体の仕事を奪う形で消防団が生まれて消防署が生まれて、火消し団体は稼業を失ったが、昔の島と町内の上納金の仕組みだけは残った。

町内とは顔が効くので消防団に仕事を奪われた暴力団の火消し団体は博打を稼業とするようになった。

お客は町内で博打の胴元を元火消し団体の暴力団が行うようになった。

火消し団体のときは任侠団体と言われ、危険な火に飛び込む勇気がある男たちとして街の人からは尊敬されていたが、博打は胴元が最終的には勝つようになってたし、お客もタチが悪い金払いが悪い客もいたりして殴る蹴る暴力を使うようになって任侠団から暴力団と言われるようになった。

で、さらに時代は進んで賭博が禁止されるようになった。暴力団は火消しの稼業を奪われ、博打の稼業も奪われた。

だから暴力団の始まりは消防隊であり、国に仕事を奪われ、博打の商売を始めたがそれも儲かると分かると国がやると言って暴力団から仕事を奪って今に至る。

暴力団は裏で細々と博打をやっていたが警察が歴史も知らずに摘発を繰り返したことで暴力団は稼業のやる気を失い大麻やアヘンやマリファナや覚せい剤を売る商売を始めたがヒロポンを売ることもすぐに禁止された。

今では隠れて覚せい剤を売っていたり、隠れて賭博を開いたりしている。

合ってますか?

日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。

昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが当時の火消しは大変危険で火消しの度に死人が出たので火消しを仕事の生業の専門とする火消しのプロが生まれた。

その火消しの請負人たちが暴力団の起源である。

街はお金を町内で集めて火事になったときに火消し団体にお金を払った。

その火消しの商売は結構な金額が町内会費で集めれるので火消し団体がいくつも出来た。

で、火事になったときに我先へと火消しの為のため樽をどこの火消し団体が取るか...続きを読む

Aベストアンサー

質問者の言う火消しとは臥煙(定火消し)のことと思うが、臥煙は刺青を入れたりしてやくざ者っぽかったが、ヤクザや暴力団とは何の関係もない。 昔のやくざは的屋や博徒集団が起源だが、今の日本の暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%でしかない。

Q時代劇などで

切腹した直後に、介添え人に首を斬られますよね。

多分、首をすぱっと1回で切り落とすんだと思うのですが、
腕の良い侍が、切れ味の良い日本刀を使えば、首の骨をヒトきりですぱっと行けるんですか?

Aベストアンサー

行けると思います。

津本陽、という剣道4段の作家が、肉付きの
ブタの腰骨で実験したところ、ほとんど抵抗を
感じないで斬れた、と言っています。

刃筋が揃れば、斬れるんだと思います。

首切りの場合は、骨と骨の間に、刃を滑り込ませる
必要があると、言われていますが、ブタの腰骨が
斬れるのですから、刃筋が揃えば、クビも斬れる
んじゃないでしょうか。

それで介錯は腕に覚えのある武士がやっていましたが、
平和が続くと、そんな武士も少なくなりました。
遺族の恨みも買うこともあり、それで外注するように
なります。

山田淺右衛門などはその代表です。

Qなぜ豊臣秀吉は姫路城を捨てて大阪城を作ったんですか?

なぜ豊臣秀吉は姫路城を捨てて大阪城を作ったんですか?

Aベストアンサー

姫路城は黒田家に譲ったから

Q今まで九元号十人の、男系女性天皇が、いたのに、明治以後は、駄目と決めたのは、誰ですか?

今まで九元号十人の、男系女性天皇が、いたのに、明治以後は、駄目と決めたのは、誰ですか?

Aベストアンサー

直接関係ない記事だけど
http://www.sankei.com/premium/news/161010/prm1610100022-n1.html

これみると伊藤博文が強い影響力を発揮した感じがするね


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