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勝海舟と兄弟盃を交わした暴力団の組長って誰ですか?

A 回答 (2件)

「勝海舟先生は、新門辰五郎と友とし親みたりき。

新門の親分は少年其生家より火を失し、近隣に迷惑をかけたるを慨して、終に一身を消防夫に献げ以て市井の遊侠となりぬ」。
とありますね。
新門辰五郎は駿府に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる人物です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2017/05/23 20:33

暴力団は戦後朝鮮人の犯罪集団のことです。

今でも暴力団の半分以上は朝鮮人です。朝鮮人の犯罪者比率は物凄いものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2017/05/23 20:33

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Q宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘について

宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは歴史的事実だと思います。その際武蔵が二時間も遅れたり、小次郎が鞘を捨てたことをなじりお前は負けると言ったのは当時の記録にあることですか?とてもみみっちいーと思います。私は武蔵にはそんなことは言ってほしくないのですが

Aベストアンサー

その記録は、『武公伝』(1755年に完成)に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されているそうです。ただし、そんな話はこの『武公伝』だけに書かれているようで真偽のほどはわかりません。

Q本能寺の変での信長生け捕り

歴史には詳しくないのですが、教えてください。

高校の時に日本史の先生が、明智光秀は信長を生け捕りにすることも考えたと思うと発言していました。光秀は信長を生け捕りにするつもりはなかったのでしょうか?
最初から討ち取るつもりだったのでしょうか?

Aベストアンサー

最初から討ち取るつもり
じゃないですかね?


プライドの高い信長は、敵に生け捕られる
くらいなら絶対に自害を選ぶ。


光秀はそのことを良く知ってるはず
なので、生け捕りが成功するとは
考えてないと思います。

Q時代劇などで

切腹した直後に、介添え人に首を斬られますよね。

多分、首をすぱっと1回で切り落とすんだと思うのですが、
腕の良い侍が、切れ味の良い日本刀を使えば、首の骨をヒトきりですぱっと行けるんですか?

Aベストアンサー

行けると思います。

津本陽、という剣道4段の作家が、肉付きの
ブタの腰骨で実験したところ、ほとんど抵抗を
感じないで斬れた、と言っています。

刃筋が揃れば、斬れるんだと思います。

首切りの場合は、骨と骨の間に、刃を滑り込ませる
必要があると、言われていますが、ブタの腰骨が
斬れるのですから、刃筋が揃えば、クビも斬れる
んじゃないでしょうか。

それで介錯は腕に覚えのある武士がやっていましたが、
平和が続くと、そんな武士も少なくなりました。
遺族の恨みも買うこともあり、それで外注するように
なります。

山田淺右衛門などはその代表です。

Q日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。 昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが

日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。

昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが当時の火消しは大変危険で火消しの度に死人が出たので火消しを仕事の生業の専門とする火消しのプロが生まれた。

その火消しの請負人たちが暴力団の起源である。

街はお金を町内で集めて火事になったときに火消し団体にお金を払った。

その火消しの商売は結構な金額が町内会費で集めれるので火消し団体がいくつも出来た。

で、火事になったときに我先へと火消しの為のため樽をどこの火消し団体が取るかで請け負っていた火消し団体よりも先に到着した別の火消し団体が消火に当たって火が鎮火して謝礼を消してくれたいつもの請負火消し団体に支払わなかったのでここから暴力団の縄張り争いが起こるようになった。

だからここは俺の火消しの縄張りだと言って島争いの陣地争いが勃発した。

で、幕府は火消しを政府が行うとして政府が火消し団体の仕事を奪う形で消防団が生まれて消防署が生まれて、火消し団体は稼業を失ったが、昔の島と町内の上納金の仕組みだけは残った。

町内とは顔が効くので消防団に仕事を奪われた暴力団の火消し団体は博打を稼業とするようになった。

お客は町内で博打の胴元を元火消し団体の暴力団が行うようになった。

火消し団体のときは任侠団体と言われ、危険な火に飛び込む勇気がある男たちとして街の人からは尊敬されていたが、博打は胴元が最終的には勝つようになってたし、お客もタチが悪い金払いが悪い客もいたりして殴る蹴る暴力を使うようになって任侠団から暴力団と言われるようになった。

で、さらに時代は進んで賭博が禁止されるようになった。暴力団は火消しの稼業を奪われ、博打の稼業も奪われた。

だから暴力団の始まりは消防隊であり、国に仕事を奪われ、博打の商売を始めたがそれも儲かると分かると国がやると言って暴力団から仕事を奪って今に至る。

暴力団は裏で細々と博打をやっていたが警察が歴史も知らずに摘発を繰り返したことで暴力団は稼業のやる気を失い大麻やアヘンやマリファナや覚せい剤を売る商売を始めたがヒロポンを売ることもすぐに禁止された。

今では隠れて覚せい剤を売っていたり、隠れて賭博を開いたりしている。

合ってますか?

日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。

昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが当時の火消しは大変危険で火消しの度に死人が出たので火消しを仕事の生業の専門とする火消しのプロが生まれた。

その火消しの請負人たちが暴力団の起源である。

街はお金を町内で集めて火事になったときに火消し団体にお金を払った。

その火消しの商売は結構な金額が町内会費で集めれるので火消し団体がいくつも出来た。

で、火事になったときに我先へと火消しの為のため樽をどこの火消し団体が取るか...続きを読む

Aベストアンサー

質問者の言う火消しとは臥煙(定火消し)のことと思うが、臥煙は刺青を入れたりしてやくざ者っぽかったが、ヤクザや暴力団とは何の関係もない。 昔のやくざは的屋や博徒集団が起源だが、今の日本の暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%でしかない。

Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む

Qナポレオンは160cmのチビ。羽柴秀吉は150cm以下のドチビ。 なぜこの二人が活躍出来たのですか?

ナポレオンは160cmのチビ。羽柴秀吉は150cm以下のドチビ。
なぜこの二人が活躍出来たのですか?

Aベストアンサー

16世紀や17世紀の男性の平均身長は160cmもなかったらしいから、
ドチビ・・・・というほどではなかったかもしれませんよ。

ただ、小柄だから見返してやりたい!という気持ちは確かに強かったでしょうね。

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Aベストアンサー

田んぼは、どこもなかったので、百姓が開梱して田んぼにしていったのです。そして庄屋と呼ばれる地域の名主が、概ね持っていましたから、そこから借りて作っていたのですね。
小作人と呼ばれる人たちは、自分の田んぼを持っていなかったので、名主に利用料、そして藩には年貢という税金を払っていたのです。だから子供を売らないと生活ができないところがたくさんありました。

Qなぜ日本人は悪いところしか見ないんだろう。 日本人は韓国の儒教を否定するが、儒教にも良い面がある。

なぜ日本人は悪いところしか見ないんだろう。

日本人は韓国の儒教を否定するが、儒教にも良い面がある。

古い思想で、現代には通用しないことも多いと思う。

けど、現代にも通じる良い教えもある。

それなのに、現代に通じない悪い面だけを提示して、韓国の儒教精神が韓国をダメな民族にしていると批判する。

そう思うなら、良い面だけを取り入れれば良いのでは?

佐藤一斎の言志録を読んだが、良い面も現代に通じない悪い面もあるが、悪い面があるから言志録は使い物にならないと言うのは軽率な気がします。

悪い面があるのなら取り入れなければ良いだけ。

良い教えだけを教えれば良いのに、悪い面だけを教えて、ほら儒教はクソだ。と弾糾するのは日本人の悪い民族性だと思います。

Aベストアンサー

良い面、というのは悪い面とセットに
なっているのです。

だから良い面だけを取り入れる、というのは
困難なのです。

そんなことが簡単に出来たら、どこの国も
あっという間に理想的な国家になれますよ。

Q奈良の東大寺の宗派はなんですか?

奈良の東大寺の宗派はなんですか?

Aベストアンサー

華厳経に所依する華厳宗です。


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