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周囲を大国に囲まれ、いつ攻め込まれてもおかしくないのに生き延びた国ってありますか?

A 回答 (6件)

未だに不思議なのは、周りを南アフリカ共和国に囲まれたレソト王国。

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スイスかなー直ぐ思い浮かぶのは国民皆兵武装中立国ーーでないとこんな国何て即イタリアかドイツに飲みこまれてしまいます、何時核攻撃で新築建てる時は地下核シェルター義務の国、国民皆兵で陸軍に行って除隊した歩兵等は自身使ってた自動小銃は各自家に持ち帰って手入保管です、で有事にそれを持って集合です後は実弾配給貰うだけ。

手入サボってて使えない自動小銃持ち主は当然罰金か刑務所行き
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スイス、ブータン(奇しくも同じ山ばかりの国<あんまりおいしくないからかも)

「周囲を大国に囲まれた小国」の回答画像4
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ブータンなどは良い例かもしれません、



何時中華人民共和国が土足で踏み躙ってもおかしくない位置関係に有るにも関わらずです、
チベット自治区などと同様にブータン自治区ですかね?、
日本も狙われてますよ、

しかしながらブータンは現在も生き延びてます。
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アフガニスタンやタイは含めていい?

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周囲ではないですが、独自の政治手腕で乗り切った国はフィンランドです。


大国は、ソ連(今のロシア)です。
「フィンランド化」と言われて揶揄されましたが、当時はそれしかなかったのでしょうね。
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Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Q元号と西暦は同日でもどうして一月程の差があるのですか?

元号と西暦は同日でもどうして一月程の差があるのですか?

また過去に元号の日付で起こった出来事(例えば戦争や天災)は

今の現実には西暦の日付に起こったと言う事でしょうか?

また明治時代近辺で、調整されてる様ですが、何がきっかけで

そうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

もう少し、暦全般について調べたほうが良さそうですよ。興味があるなら、なおさら色々と知れて面白いと思います。

基本的に暦には、暦法と紀年法があります。
暦法とは、いつを1年の始まりにして、月をどうして、といったことを決めているものです。地球の文明のすべての暦に”月”があるのは、ある意味不思議でもありますが、”年”より”月”のほうが身近だったようで”月”から決められることも多かったです。太陰暦と呼ばれます。すぐに”年”の周期にも気づきますので、月ベースで年を決めるのが太陰太陽暦、年ベースに月を割り振るのが太陽暦です。
太陽暦も古くエジプトで紀元前何年だったか忘れましたが採用されている例があったと思います。今の西暦と呼ばれるものも太陽暦ですね。ローマの暦が元になっていますが謎な部分も多いです、カエサルなんかも確か大改革をやってたりします、調べてみるのも面白いと思います。
太陰太陽暦は中国で長らく使われており、これが日本にも入ってきて江戸時代まで使われていました。1年の春分・夏至・秋分・冬至を基準に24分割して、冬至と春分の丁度真ん中を年の替わりとしますが(実際は冬至を11月として1月を決めてたらしい)、月の満ち欠けベースで日にちをカウントするので、1月1日はいつも新月です。中国では国としては西暦を使っていますが、人々は昔から長らく使われてきた太陰太陽暦を元に新年を祝ったりします。これは西暦が人為的に決めたものに対して、太陰太陽暦が月や太陽の運行といった自然を元に決められているものであることも、その理由にあると思います。

紀年法は暦法とよく混同されますが、今年が何年というのをどこを基準に数えているかというのを決めているものです。西暦はキリストの誕生年であることが有名ですね(算出を間違えていることでも有名ですが)。上記のローマの暦は、もちろんキリスト誕生前、つまり紀元前から使われています。当時はローマ暦で、基準は知らないですが、執政官か何かを基準に〇〇何年みたいな感じで、しかも干支のように何年かで元に戻るので研究者では記録が1周期前か後かで論争になってたりもするようですが、それはともかく、暦法で書いたローマの暦と紀年法としてのローマ暦を混同しないでください。暦法としてのローマの暦はずっと使い続けられ、10世紀ころからキリスト誕生年基準の西暦という紀年法が広まって今の西暦となっています。

昔の日付については、当時その場所(国)で使われていた月日に、西暦に直した年で記述するのが一般的です。例えば元旦の出来事を西暦の月日に直すと、2月の何でもない日の出来事になってしまって訳が分からなくなることもあるためです。


ざっとさわりですが。
あと日本に西暦が導入されたときの混乱の話とか、たぶん他の人が面白く書いてくれると思うので任せます(あるいは自分で調べてみてください)。

もう少し、暦全般について調べたほうが良さそうですよ。興味があるなら、なおさら色々と知れて面白いと思います。

基本的に暦には、暦法と紀年法があります。
暦法とは、いつを1年の始まりにして、月をどうして、といったことを決めているものです。地球の文明のすべての暦に”月”があるのは、ある意味不思議でもありますが、”年”より”月”のほうが身近だったようで”月”から決められることも多かったです。太陰暦と呼ばれます。すぐに”年”の周期にも気づきますので、月ベースで年を決めるのが太陰太陽暦、年ベース...続きを読む

Q先の大戦の相手がアメリカではなくソ連だったとしたら、どうなったと思いますか?

日中戦争の頃、今後の日本軍の方針としてシベリアを目指す「北進論」と東南アジアの資源を狙う「南進論」があったと聞きました。
結局南進論を選んだ日本はアメリカの経済封鎖を喰らい、石油を停められた結果、真珠湾を攻撃するという流れになったわけですよね。
もし北進論を選択したら、どうなっていたと思いますか?

敵はアメリカではなく、ソ連。
【ドイツ・日本連合軍 vs ソ連】という戦いになっていたはずですが?
もしソ連が勝ったとしても国力はかなり落ちたはずで、米ソ2大国による冷戦はなかったのでは?

Aベストアンサー

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を求めた。
それが満州。

中国大陸は大規模な市場とみていた米国にとって
日本の切り取り政策は明確な「敵」で
それであの手この手で日本を戦争に導いたわけです。

仮想的であったソ連への対策のために満州政策をしたのに
それで米国を敵に回した結果、ソ連と手をつなぐ施策までした。
戦前の日本はまったくもって、ま・ぬ・け、ですよね。

そんなマヌケな日本に
北進するか南進するかを自分で決める選択枝はありません。
国際政治に疎いアジアの田舎者が
百戦錬磨の欧米人に「踊らされた」だけですよ。

よって、申し訳ないですが
質問者さんの質問は、質問自体成り立たない。
まあ
単なる「戦艦大和と戦艦アイオワではどっちが強い?」
みたいな質問なら深読みも必要ないのでしょうけど
政策についてとなると、その前後が影響しますので。

過去を正しく読み取らないと
また欧米に「踊らされ」ますが
今の日本政治に過去と類似するところがないか
よく見極める必要はあるかもしれませんね。
そういうのを考えるのキッカケとしては
質問者さんの質問は鋭いかと思います。

回答ではなく意見になってしまいました(笑)。

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を...続きを読む

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q加賀藩はどうして石高が大きいのか?

加賀百万石といいますが、どうして親藩でもない加賀藩は石高が大きいのでしょうか?
尾張徳川家や紀州徳川家も遠く及びません。
確かに前田家は織田信長の頃から力をつけてきていましたが、江戸幕府が開いた後、大大名の豊臣家は滅ぼされました。
江戸幕府としては、体制維持の為、大大名は弱体化させるように動くと思いますが。
というか石高は大名の力とは関係ないのでしょうか?

Aベストアンサー

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果として幕府に届け出た値」であり, 年貢の算出基準である「内高」とは異なります. さらに, 藩の収入にはほかのものもあるので, 石高は必ずしも大名の力を反映した値とはなりません. 例えば, 御三家筆頭である名古屋藩は表高こそ 62万石弱ですが木曽ヒノキの権利を持っていたため実際の収入はもっと大きな値になっています.

なお, 石高は家格に反映されるため, 家の格を上げるためわざと本来の石高よりも大きな値を申告した例もあります (もちろん負担も大きくなるため住人が割を食う形になります).

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果と...続きを読む

Q三国志のコミックスを読んでいるのですが、何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦

三国志のコミックスを読んでいるのですが、何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。
そこで気になったのですが、当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??
また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所と考えてよろしいのでしょうか?
どなたか詳しい方に教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それすら両陣営ともやや盛った数なので十万に届いていたかどうか。

>何十〜100万の兵
この数は当時の人にとってはSFファンタジー設定でした。
近代の戦争でやっと兵数「数十万」規模の戦闘が記録に登場します。古代と現代の人間の数がこれだけ違うことを考えれば、十万~100万の兵数がいかに思い切った架空設定であったか理解できるはずです。
あり得ない数で架空のお話を創って当時の観客を驚かせたのでしょう。なんでも派手なほうがエンターテイメントとして客を呼べますからね。

なお小説やコミックの『三国志』は三国時代以降に民間で演じられた舞台劇をもとにしたフィクションです。
小説家やマンガ作家の中にも現実を全く学ばずに書いている人が多いですから、あまり本気に受け取らないことです。


>また三国志に登場する「城」と呼ばれるものは「キングダム」で描かれているような民間人も暮らすような場所

他の方が回答されている通りです。
日本的に言えば「都市」「街」です。
城を攻略することはすなわち街を攻略することになります。
「●●城が陥落した」という表現があれば、日本では「江戸が陥落した(江戸城ではなく)」というイメージになります。

>当時の中華にはどれほどの人口がいたのでしょうか??

現代日本のように正確な戸籍がなく、また全ての人が役所に登録していたわけではないので正確な人口はわかっていません。他の回答者の方が仰る通り3000万人~5000万人と推定するのが妥当でしょう。

>何十〜100万の兵で侵攻を開始したといった、とても大規模な戦争が多く行われていますよね。

コミックや小説などの描写はたいてい嘘なので本気にしないでください。
最大規模の戦闘となった赤壁戦で両陣営合わせて十万を少し超える兵数です。それす...続きを読む

Q【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】 日本の都道府県名を考え

【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】


日本の都道府県名を考えた人が中国人だった?

中国人に日本が乗っ取られていた?

Aベストアンサー

>都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられた…

それ、何県と何県の話?

元号なら確かに中国の古典をよりどころとしているのが多いですが、県名が中国の古典によっているとは初めて聞きました。
少なくとも私の県は中国とは何の関係もありませんし、東京都や北海道だって中国とは縁もゆかりもありません。

その話の出典をあきらかにしてください。

Q大名ってなんですか? また、諸大名と大名の違いとは⁇

大名ってなんですか?
また、諸大名と大名の違いとは⁇

Aベストアンサー

時代によって意味が違うけど、多分、江戸幕府時代での大名の事を言ってると思うので、江戸時代について。

江戸幕府(将軍)から任命されて、主に石高(こくだか)1万石以上の領地(藩)を幕府から禄(ろく:給料)として与えられ、その領地を治めた藩主。

諸大名は2人以上の大名を纏めて言う時の言い方。

日本には、領地が250以上に細分されていたから、藩主も250人以上いた。

実際には藩と言う呼び名は、明治政府が付けた。
明治政府が「県」と言う行政区分を整理する際、それまでの行政区分を便宜的に「藩」と名付けた。

だから江戸時代には藩、藩主と言う言い方は無かった。

Q新大久保に韓国人が集まって韓国人タウンになっているのはどういう歴史からですか?

新大久保に韓国人が集まって韓国人タウンになっているのはどういう歴史からですか?

Aベストアンサー

「もともとコリアンタウンは、歌舞伎町の中にあったんですよ。高級韓国クラブを取り巻くように、韓国系の料理店やスナックが軒を連ねていた」とのこと。
その後、2002年日韓サッカーワールドカップを契機に揃いの赤いTシャツを着た韓国人の若者が新宿職安通りを埋め尽くし、代表チームの4強躍進に熱狂。その様が、日本のメディアでも大きく取り上げられた。

「あのとき、日本在住の韓国人は初めて自分を主張したんです。中でも歌舞伎町の商売人たちは、店を大きく豪華にするなどしてどんどん表に出てきた。ところが、そのおかげで入管の主要なターゲットになり、歌舞伎町から追い立てられて、大勢の商売人が新大久保へ流れたのです。」
というのが新大久保に韓国人が集まるきっかけとなったとあります。

詳しくはこちらを参照ください。
https://www.news-postseven.com/archives/20160215_384216.html

Aベストアンサー

田んぼは、どこもなかったので、百姓が開梱して田んぼにしていったのです。そして庄屋と呼ばれる地域の名主が、概ね持っていましたから、そこから借りて作っていたのですね。
小作人と呼ばれる人たちは、自分の田んぼを持っていなかったので、名主に利用料、そして藩には年貢という税金を払っていたのです。だから子供を売らないと生活ができないところがたくさんありました。


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