親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

台湾はなぜ近世まで原住民がちょろちょろと住んでいるだけで
あまり発展していなかったのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 質問の趣旨は、なぜ近世まで発展していなかったということで、
    具体的な年代として1600年代あたりを想定しています。
    中国では明が終わりに近づき、日本では室町から戦国が終わろうとしてますが、
    台湾は原住民が住んでいるだけで発展していない理由を知りたいです。

    回答で多く頂いた、日本の植民地統治は1900年代の近現代の話で
    ちょっとまた別の話なので、質問が言葉足らずですみませんでした。

      補足日時:2017/05/25 20:00

A 回答 (12件中1~10件)

偶然と考えるのはどうですか。


16世紀だと、北米も南米もさほどの発展はしてないです。アフリカも、ちょっとなーという感じで、16世紀に発展していた感じはないです。
世界史年表を広げると、地域別の盛衰がなんとなく見えますが、自然環境が似ている地域は同じような時期に同じような発展状況になるという傾向はないのがわかります。
人間がやることですから、そのときの勢いやつながりも無視できないでしょう。地理的自然環境条件、気候状況、水利も重要だとは思いますが、それだけでは決まりません。
台湾は大きさでは、九州やクリミア半島と同規模ですが、16世紀の状況は結構違います。
ルソン島には稲作に向いた大きな平野もあるし古くからヒトは住んでいたのに、モンゴル帝国との戦いに敗れた南宋の残党がたどり着いて建国したとの言い伝えもあるくらい未開に近い(失礼)状態だったようです。
関東でも、現在の東京23区あたりは、平安、鎌倉、室町時代にはたいした発展はしてません。
http://www.kashikiri-onsen.com/kantou/gunma/saru …
    • good
    • 0

1600年代・・・ですか。


そこまで遡ると北海道だってただの原野です。

文明が起こるのに必要なのは、富の蓄積です。
富を蓄積するために必要なのは、農業です。
農業を発展させるために必要なのは、まとまった農地です。

台湾の地形は、急峻な山岳(最高峰は富士山よりも高い)と、河口まで深い谷が続く河川で形作られています。
組織的な農作業ができるほどのまとまった土地がないため、どの土着民もその日暮らし(その年暮らし?)をせざるを得ず、文明をおこすだけの富の蓄積ができませんでした。

北海道も同じです。
寒冷地という気候的な問題もあり、農業ができませんでした。
明治以降の近代的な技術、組織力が入って初めて農地として使えるようになりました。

って事でどうかな?
    • good
    • 0

台湾に大陸から漢人がやってきたのは主に明代からです。

それ以前の台湾は全くの未開の地でした、
オランダ統治、鄭成功統治時代も台湾全体を発展させようという試みもなかったようです。
原住民の比率は現在よりも高かったと考えられています。
また台湾には共通の言語というのがありませんでした。こういうところが文化的に立ち遅れた原因だと思います。
台湾に共通語が出来たのは日本統治になってからです。(共通語は日本語です。今は違いますが。)

中国の歴代の王朝は台湾を化外の地と見做していました。
化外の化とは中華文明、儒教のことです。大陸の罪人が台湾に逃げ込めば、よっぽどのことがない限り放置されました。
要するに、誰も台湾が中国の一部であると考えてこなかったし、文化を発展させようともしてなかったということですね。
それを最初にやったのが日本です。

回答は以上です。

中国共産党は台湾はことあるごとに中国の領土であるとわめきますが、歴代中国王朝が台湾を自国の領土として認識して
無かったし、調査もしていません。これは中国共産党も同じです。
毛沢東は言っています「調査なくして発言権なし:没有調査、就没有発言権」と。にもかかわらず台湾に口出しし
その態度は朝鮮人並みに厚顔無恥です。

尚、蒋介石は麻薬中毒で女狂いの張学良にたぶらかされ、国共合作という愚挙をやりました。
そして中共に台湾に追いやられた蒋介石は自分で反攻も出来ず、その腹いせに台湾人民3万人近くを虐殺しました。(2.28事件)
その後 中 国 共 産 党 は 肥大化し、今では 堂 々 た る 世 界 の 鼻 つ ま み で す。
この原因を作った元凶は蒋介石です。
蒋介石は大戦中殆ど日本軍には連戦連敗、自国民を平気で強盗、強姦、殺人をやるならず者集団でした。
たなぼたで大戦に勝たせてもらい、日本に対し「儒教の精神で」怨みに報いるに徳を以てす、と尊大な態度を取りましたが
これはアメリカににらまれたからです。論語の中で、孔子は「以徳報怨何如?」との問いかけに「徳に報いるに徳を以てし、怨
に報いるに直を以てす」と答えています。つまり、蒋介石のやったことは儒教の精神でも何でもなく、場当たり的
行動であっと言えます。
    • good
    • 1

300万年前迄は、大陸と、地続きだったそうです。


1624年からオランダ統治が始まり、その後東インド会社が植民地化し、ポルトガル、スペインなど入り乱れて入植し、その後清朝が支配、結果、日本に、割譲されたものでした。
なお、英語の、Formosa)は、ポルトガル人が、麗しの島と言う意味で、付けたネーミングと、台湾から来た、学生に聞いたことが有ったのを、思いだしました。
    • good
    • 0

中国は、国が広く、海に面している割には、海洋国家では、有りませんでした。


まして、文化も、持たない辺境の、島など見向きもしなかったのでしょう。
あくまで私のいけんです。
    • good
    • 0

発展しないのが、むしろ当然でした。



1,常夏に近い気候で、あまり働かなくても
 食えた。

2,人類学的に、文化、文明が発達するには
 相当数の人口が必要だ、ということが判明しています。
 あのような小さい地域では、そもそも文化、文明が
 発達しにくいのです。

 また、中国とも海を隔てていましたので、中華文明の
 影響もあまりありませんでした。
 中国人はこうした人々を、生蛮、と呼んでいました。
 中国文明に浴した蛮族は、熟蛮、と呼びました。


3,そういう所に、日本が乗り込んで
 識字率0,4%だった台湾を、60%にまで上げる
 などの改革を行いました。
    • good
    • 1

日本は、武力に依らず、平和的に、


台湾を統治しました。
一方、同じ、日本の統治国で有った、韓国は、全て、日本が、統治時代に造った、建物を、全部壊し、嘗ての日本統治の痕跡を、消し去りました。
では、何故、ソウル大学が有るのでしょうか?
嘗ての京城帝国大学です。
旧、日本陸軍士官学校も、有りましたが、
今は、軍官学校として、残っています。
日本は、高等教育は、おろか、中等教育も、無かった韓国に、教育を、施し、私の友人は、仁川商業学校在学中に、終戦と成り、命からがらに、日本に、帰り、今は、未だ現役の弁護士として、頑張っています。
台湾では、貢献した、日本人を、銅像迄立て、て、いますが、韓国では、少女像を韓国のみならず、世界のあちこちに、立て、国民の憎悪を煽って居ます。
嘗て、中国の指導者、蒋介石は、
『恨みに酬いるは、恩により、報ず』
と、言い、日本から戦時賠償金を取りませんでした。
韓国は、『恩に酬て、仇に報ず』を、文字通り、実践しています。
日本も、弱腰に成らず、在日朝鮮人の、強制帰国を、促すなど、行政手段を取るべきと、考えます。
    • good
    • 0

日清戦争で、清国は、日本に、大敗し、調停の結果、あっさり台湾を、日本に割譲、以来、世界大戦終了後迄、台湾は、日本の領土でした。


当時の台湾は、インフラも何も無く、当時、生蕃と、呼ばれる、原住民が幾つもの、部族に分かれ、抗争を、繰り広げ、互いの権勢を、誇っていた、地域でした。
そこに、日本国が、統治者として、台湾の発展に、寄与しました。
中でも、日本の水利技術者八田与一は、大陸性気候で、水利に悩む、現地にダムを、作り、その業績は、今でも讃えられ、銅像迄残っています。
日本政府の、インフラ整備は、ダムのみに、止まらず、学校、橋や、橋梁、
町作りに迄及びました。
圧巻は、台北帝国大学を創設した、事です。
今も、台湾国立大学として、残って居ます。
日本 は、台湾統治に、関して、武力により、制圧したのでは無く、へいわ
    • good
    • 0

そうです! 高砂族が首かってました首 かられた日本人もいます

    • good
    • 0

台湾は、大きいとはいえ、南方の島で、勤勉に働いたり蓄えたり


しなくても生活に困りません。
他の南太平洋の島々では、今でも似たようなものです。
近代文明が興ったのは、寒冷なヨーロッパです。
蓄えたり、土地を奪ったり、厳しい競合の中で「発達」したのです。
しかし、いったん近代工業化が始まると、便利な自転車~自動車や
電化製品+電気などを買うためにお金を稼ぐ=競合が発生し、
自転車操業に陥るのです。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q先の大戦の相手がアメリカではなくソ連だったとしたら、どうなったと思いますか?

日中戦争の頃、今後の日本軍の方針としてシベリアを目指す「北進論」と東南アジアの資源を狙う「南進論」があったと聞きました。
結局南進論を選んだ日本はアメリカの経済封鎖を喰らい、石油を停められた結果、真珠湾を攻撃するという流れになったわけですよね。
もし北進論を選択したら、どうなっていたと思いますか?

敵はアメリカではなく、ソ連。
【ドイツ・日本連合軍 vs ソ連】という戦いになっていたはずですが?
もしソ連が勝ったとしても国力はかなり落ちたはずで、米ソ2大国による冷戦はなかったのでは?

Aベストアンサー

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を求めた。
それが満州。

中国大陸は大規模な市場とみていた米国にとって
日本の切り取り政策は明確な「敵」で
それであの手この手で日本を戦争に導いたわけです。

仮想的であったソ連への対策のために満州政策をしたのに
それで米国を敵に回した結果、ソ連と手をつなぐ施策までした。
戦前の日本はまったくもって、ま・ぬ・け、ですよね。

そんなマヌケな日本に
北進するか南進するかを自分で決める選択枝はありません。
国際政治に疎いアジアの田舎者が
百戦錬磨の欧米人に「踊らされた」だけですよ。

よって、申し訳ないですが
質問者さんの質問は、質問自体成り立たない。
まあ
単なる「戦艦大和と戦艦アイオワではどっちが強い?」
みたいな質問なら深読みも必要ないのでしょうけど
政策についてとなると、その前後が影響しますので。

過去を正しく読み取らないと
また欧米に「踊らされ」ますが
今の日本政治に過去と類似するところがないか
よく見極める必要はあるかもしれませんね。
そういうのを考えるのキッカケとしては
質問者さんの質問は鋭いかと思います。

回答ではなく意見になってしまいました(笑)。

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を...続きを読む

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む

Q新大久保に韓国人が集まって韓国人タウンになっているのはどういう歴史からですか?

新大久保に韓国人が集まって韓国人タウンになっているのはどういう歴史からですか?

Aベストアンサー

「もともとコリアンタウンは、歌舞伎町の中にあったんですよ。高級韓国クラブを取り巻くように、韓国系の料理店やスナックが軒を連ねていた」とのこと。
その後、2002年日韓サッカーワールドカップを契機に揃いの赤いTシャツを着た韓国人の若者が新宿職安通りを埋め尽くし、代表チームの4強躍進に熱狂。その様が、日本のメディアでも大きく取り上げられた。

「あのとき、日本在住の韓国人は初めて自分を主張したんです。中でも歌舞伎町の商売人たちは、店を大きく豪華にするなどしてどんどん表に出てきた。ところが、そのおかげで入管の主要なターゲットになり、歌舞伎町から追い立てられて、大勢の商売人が新大久保へ流れたのです。」
というのが新大久保に韓国人が集まるきっかけとなったとあります。

詳しくはこちらを参照ください。
https://www.news-postseven.com/archives/20160215_384216.html

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】 日本の都道府県名を考え

【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】


日本の都道府県名を考えた人が中国人だった?

中国人に日本が乗っ取られていた?

Aベストアンサー

>都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられた…

それ、何県と何県の話?

元号なら確かに中国の古典をよりどころとしているのが多いですが、県名が中国の古典によっているとは初めて聞きました。
少なくとも私の県は中国とは何の関係もありませんし、東京都や北海道だって中国とは縁もゆかりもありません。

その話の出典をあきらかにしてください。

Q加賀藩はどうして石高が大きいのか?

加賀百万石といいますが、どうして親藩でもない加賀藩は石高が大きいのでしょうか?
尾張徳川家や紀州徳川家も遠く及びません。
確かに前田家は織田信長の頃から力をつけてきていましたが、江戸幕府が開いた後、大大名の豊臣家は滅ぼされました。
江戸幕府としては、体制維持の為、大大名は弱体化させるように動くと思いますが。
というか石高は大名の力とは関係ないのでしょうか?

Aベストアンサー

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果として幕府に届け出た値」であり, 年貢の算出基準である「内高」とは異なります. さらに, 藩の収入にはほかのものもあるので, 石高は必ずしも大名の力を反映した値とはなりません. 例えば, 御三家筆頭である名古屋藩は表高こそ 62万石弱ですが木曽ヒノキの権利を持っていたため実際の収入はもっと大きな値になっています.

なお, 石高は家格に反映されるため, 家の格を上げるためわざと本来の石高よりも大きな値を申告した例もあります (もちろん負担も大きくなるため住人が割を食う形になります).

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果と...続きを読む

Q戦後、社会主義国家が世界中に成立したのは何故でしょうか?

ソ連の崩壊を以て、社会主義は資本主義に負けたと言われますが、第二次世界大戦の後に、世界中で社会主義国家が成立し、完全な資本主義国と言えるのはアメリカと西欧と日本だけになりました。

70年前にソ連の周辺国を始めとして世界のあらゆる場所で社会主義国が成立し、中国やベトナム、キューバでは資本主義が社会主義に敗退する結果になったのは何故なのでしょうか。

Aベストアンサー

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る人を優先する「資本主義社会」への変革を推進したからです。

資本主義社会は階級にかかわらず「資本を持っていれば自由に経済活動ができる」ことを要求し、その結果として富の再分配システムでもある政治システムが民主主義(多数決主義)に変わることを推し進めたからです。

しかし、主に19世紀の資本主義への変革は農民を労働者に変えただけで、君主による搾取よりもひどく、再分配システムはうまく機能していませんでした。また民主主義社会への転換は革命によるものでしたので「革命的手法による民衆の幸福の追求」は権利とされていて、そこにマルクス=レーニン主義が入って、1917年のソビエト革命につながっていくわけです。
これにより、ロシアとその周辺地域は社会主義的な体制になっていきます。

重要なのは、20世紀の初頭、第2次世界大戦までは意外に共産主義がうまく機能したことです。理由は様々ですが、現代ほどには自由経済ではなかったし、農民を労働者に変化させる工業化も各国で中途半端だったために「モノを作って生活を成り立たせる」ということが資本主義でも共産主義でもあまり違いが出なかった、からでしょう。
生産性に違いが無いなら、共産主義的な労働のありかたも一定の評価を受けていたのです。

ですから第2次大戦前の共産主義国は非常に強大な経済力も、人民動員力もあり、近代国家としてかなりの力をもっていたのです。そのため、ソ連は多くの国へ共産主義を広げる機会を狙っており、中国でも毛沢東の人民解放軍はソ連から軍事的援助をもらっていました。

第2次世界大戦の結果は誰でもご存知だと思いますが、ここで問題なのは「西側諸国の荒廃」と「日本の敗戦」です。
日本が敗戦したことにより、ソ連は朝鮮半島に容易に進出し、中国も人民解放軍が優勢になって手本主義側である国民党軍を大陸から追い出すことに成功しています。

つまり日本が抑えていたアジア大陸の共産化に歯止めが効かなくなり、結果としてアメリカは朝鮮戦争・ベトナム戦争とアジアの共産化に対応することに迫られることになるわけです。

同様に、それまで植民地支配していたヨーロッパ各国も戦争で荒廃したため、植民地統治能力を失い、各地で植民地が独立していきます。イギリスはインドを失いますが、この地域はソ連から見ても中国から見ても中央アジア山脈が邪魔をしているので、共産化には至りませんでしたが、中国大陸と接していたベトナム、ラオス、カンボジアは日本撤退とフランス再統治に反対してインドシナ戦争を行い、その結果フランスが撤退すると、今度は民主主義国か共産主義国かで独立のための指導権争いを行い、激しい内戦に突入していきます。

同様に、ヨーロッパでも第一大戦の結果ドイツの敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が弱体化し、事実上この地域がヨーロッパを共産主義から守ってきた地域だったため、この辺りの国はドイツとソ連で分割されるか、独立時に共産主義政府が樹立されることが多くなり、ナチスドイツの侵攻の結果一時的に王国に戻ったり、明主義勢力がもりかえしたものの、ナチスドイツの敗戦とともに多くの国がソ連の永世国家になっていきます。このように衛星国になったヨーロッパの国を東欧というわけです。


第二次大戦後、なぜ社会主義国が生まれたかというと、その地域を支配していた日本や西洋国という植民地支配国家が撤退し、権力の空白、無政府状態が現れたからです。日本やドイツは占領されなすすべがありませんでしたし、ドイツはソ連に分割統治までされています。

日本国土は、ドイツ分割を反省したアメリカのおかげで分割されることはありませんでしたが、その代り日本が撤退して権力の空白ができた朝鮮半島にソ連がすかさず入って、傀儡国家である北朝鮮を作ってしまいました。

東欧にしてもアジアにしても、日本と戦った地域の西洋国はその後の独立機運を抑えるほどの国力をすでに持っていなかったので、各地が独立し、結果としてソ連から多大な支援を受けた共産勢力が優勢な状態であったといえます。
もっともカンボジアなどはタイが共産国を嫌ったこと(王国なので危機感を持った)、イギリスやアメリカなども積極的に民主勢力を支援したことなどから、逆に激しい内戦を呼んでしまいます。

ベトナムに至っては、大戦中ホー・チ・ミンはアメリカからも援助をもらっており、戦後の独立処理で共産主義の対立の時にアメリカがあまりにも主権を侵しすぎたので、ベトナム戦争になっていくのです。結果アメリカは負け、ホー・チ・ミンですら共産主義をえらんだわけです。

結局第2次世界大戦でアメリカを除いた資本主義国が疲弊し、植民地の支配ができなくなり独立機運の高まりに共産国が援助したことが大きな理由であり、当時のソ連はアメリカと宇宙開発競争ができるぐらい、経済に余裕のある国であったわけです。またソ連は地上を移動するだけでの軍事援助など各国に影響を及ぼすことができますが、アメリカは本国から船で移動しないと影響力を行使できず、それが結局朝鮮戦争での苦難・ベトナム戦争の敗北につながっていくのです。

第2次世界大戦前は、西洋と米ソ、そして日本しか独立国はありませんでしたから、戦争終結で起きた権力の空白が当時強大だったソ連の台頭を許すことになったのです。

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る...続きを読む

Q本能寺の変での信長生け捕り

歴史には詳しくないのですが、教えてください。

高校の時に日本史の先生が、明智光秀は信長を生け捕りにすることも考えたと思うと発言していました。光秀は信長を生け捕りにするつもりはなかったのでしょうか?
最初から討ち取るつもりだったのでしょうか?

Aベストアンサー

最初から討ち取るつもり
じゃないですかね?


プライドの高い信長は、敵に生け捕られる
くらいなら絶対に自害を選ぶ。


光秀はそのことを良く知ってるはず
なので、生け捕りが成功するとは
考えてないと思います。

Q海外の戦争で売春婦同伴は日本だけですか?

日本軍が海外の戦争で慰安婦(売春婦)を同伴したのは日本政府も認めています。私が不思議なのは海外で多数の戦争をしたスペイン、イギリス、フランス、アメリカはどうだったのでしょうか?もっぱら強姦だったのですか?

Aベストアンサー

・ドイツ

1939年9月9日、街娼を禁止して売春宿をすべて警察の
管理下におき、衛生上の監督を受けるよう義務付けました。
各占領地では、ドイツ軍人の利用に適した売春宿を指定し、
それ以外の利用を原則禁止しました。
地区司令の監督下で前線の中隊長クラスが管理・運営し、
性病予防のため検診を義務付けました。
西部戦線では一般の売春宿を指定していましたが、
東部戦線では当時のソ連が売春を禁止したため
慰安婦確保のために強制連行をすることもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BB%8D%E5%B0%86%E5%85%B5%E7%94%A8%E5%A3%B2%E6%98%A5%E5%AE%BF
ドイツのもう一つの特徴は、収容所にも慰安所があったこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80%E5%A3%B2%E6%98%A5%E5%AE%BF

さて、ここまで読んで日本の慰安所とほぼ同じと
思われたでしょう。
以前、このことを踏まえて指摘したところ、
プロと思われる方から慰安婦の定義(日本軍を念頭に
定義してあるので事実上は日本の慰安婦)を出されて
素人扱いされました。
実際は秦郁彦氏や吉見義明氏のような慰安婦研究の
専門家も認めているのですが、
この質問板のプロの方は、解釈は違うようです。

ちなみに、当たり前ですがドイツは強制徴用した
元慰安婦に謝っていません。
それどころか日本の慰安婦制度を非難しています。



・ソ連

WWⅡ時は事実上兵士による暴行を黙認していました。
作家のイリア・エレンブルグがパンフレットで
「ゲルマン女性は諸君の戦利品だ」と煽ったこともあるそうで、
ベルリン陥落後の調査では全女性の50%が暴行され、
10%が性病にかかったとされています。



・フランス

フランスはWWⅡ後の植民地紛争で出兵していますが、
その時利用したのが移動慰安所です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bordel_militaire_de_campagne
(Wikiですが英語版です)
現地人は防諜の関係で好ましくないという理由で、
軍によって正式に組織された慰安所そのものを、
部隊の移動にあわせてトラックなどで移動していました。



・イギリス

基本的に売春宿を廃止したり、兵士の利用を禁止しました。
その結果として性病が蔓延し、シシリー島占領後には
本国の20倍で、戦傷者を上回る勢いという記録もあります。
また、兵士の利用は禁止されても、今でいう援助交際のように
自由恋愛を名目に事実上は継続利用されていました。



・アメリカ

イギリスとほぼ同様。
戦後、日本が進駐軍による暴行を危惧して
「特殊慰安施設協会」(RAA)を組織しました。
1945年8月25日に運営を開始しましたが、
1946年1月に禁止令が出て、1946年3月には閉鎖されました。
ただし、公式な慰安所が無くなっただけで
一般の慰安所を利用していました。



・韓国

朝鮮戦争では日本の慰安所をまねた慰安所が開設されました。
当時の韓国では売春宿を禁止していましたが、
慰安所は外貨を稼ぐとして奨励されました。
よほどうまくいったのか軍でも好評で、
韓国陸軍本部が編纂した「後方戦史」にも
称賛されていました。

ところが、日本の慰安婦問題で非難するのには不都合なので
現在の韓国では「後方戦史」は無かったことにされています。
ちなみに、この問題は「基地村慰安婦問題」として
時々報道されますが、韓国政府はこの慰安婦に対して
「証言は証拠ではないから、正式な証拠を慰安婦自ら出せ」
というように冷遇しています。

ベトナム戦争でも慰安所があり、ライタイハンの問題などが有名です。

・ドイツ

1939年9月9日、街娼を禁止して売春宿をすべて警察の
管理下におき、衛生上の監督を受けるよう義務付けました。
各占領地では、ドイツ軍人の利用に適した売春宿を指定し、
それ以外の利用を原則禁止しました。
地区司令の監督下で前線の中隊長クラスが管理・運営し、
性病予防のため検診を義務付けました。
西部戦線では一般の売春宿を指定していましたが、
東部戦線では当時のソ連が売春を禁止したため
慰安婦確保のために強制連行をすることもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3...続きを読む


人気Q&Aランキング