出産前後の痔にはご注意!

江戸時代に日本中を歩き回って測量し、精確な日本地図を作ったのが伊能忠敬です。同じように外国の地図も各国の測量士が世界中を歩き回って作ったのですか?

A 回答 (2件)

>伊能忠敬って別にすごい人じゃないんですね。



いや、すごい人ですよ。
鎖国してるなかで、英国の主要三角測量と、ほぼ同時期に作成してますから。

ちなみに、同時期には富山藩の石黒信由、毛利藩の有馬喜惣太なども、伊能と同等な、緻密な地図を作成していますよ。
ただ、基本的に藩内だけなのでネームバリューがないのです。

伊能が富山に行った時には、石黒信由と情報の交換なんかもやってますよ。
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測量による地図作成は、歩き回ったりしながら作ってますね。



カッシーニ地図→主要三角測量→英国再測量って感じで改良されていきます。
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この回答へのお礼

やはりそうですか。伊能忠敬って別にすごい人じゃないんですね。未開な国の測量のほうが大変そうです。

お礼日時:2017/05/28 22:01

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Q加賀藩はどうして石高が大きいのか?

加賀百万石といいますが、どうして親藩でもない加賀藩は石高が大きいのでしょうか?
尾張徳川家や紀州徳川家も遠く及びません。
確かに前田家は織田信長の頃から力をつけてきていましたが、江戸幕府が開いた後、大大名の豊臣家は滅ぼされました。
江戸幕府としては、体制維持の為、大大名は弱体化させるように動くと思いますが。
というか石高は大名の力とは関係ないのでしょうか?

Aベストアンサー

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果として幕府に届け出た値」であり, 年貢の算出基準である「内高」とは異なります. さらに, 藩の収入にはほかのものもあるので, 石高は必ずしも大名の力を反映した値とはなりません. 例えば, 御三家筆頭である名古屋藩は表高こそ 62万石弱ですが木曽ヒノキの権利を持っていたため実際の収入はもっと大きな値になっています.

なお, 石高は家格に反映されるため, 家の格を上げるためわざと本来の石高よりも大きな値を申告した例もあります (もちろん負担も大きくなるため住人が割を食う形になります).

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果と...続きを読む

Q日本書紀は日本の最古の歴史を語る本ですが作られたのは意外に最近なのでは? まず日本書記の作者が朝鮮半

日本書紀は日本の最古の歴史を語る本ですが作られたのは意外に最近なのでは?

まず日本書記の作者が朝鮮半島の陰陽の陰陽の概念を日本書記の文中に取り入れているので朝鮮半島に儒教が存在している時代に書かれていると思われる。

日本書記の作者は朝鮮人だったのでは?

あと書かれた時代の日本最古の時代に作られた歴史書じゃないと思う。

あと天照大神はなぜ色んな言い方があるのですか?

日本書記は天照大神のことを大日めの貴と言っていますよね?他の書も天照大神のことを別に名前で呼んでたりします。なぜ色々な名前があるのですか?

Aベストアンサー

日本書紀の編纂責任者は天武天皇の息子舎人親王(676-735)ゆえ朝鮮人ではない。 編纂メンバーに朝鮮人が加わっていた可能性は排除できないが。 我が国の正史(国の定めた正式な歴史書)という意味では、「日本書紀」(720)が確実に最古だけど、単に歴史を書いた書という意味では、「古事記」(712)の方が古い。 ただし、古事記以前に「帝紀」や「旧辞」と言った歴史書が存在していた記録はあるが、今は散逸して存在していない。

Q多賀城について

多賀城跡に観光に行きました。
驚いたことに、広大な敷地は起伏がそこそこある丘?山?にあったようです。
今まで、平城京跡や大宰府跡に行きましたが、これらは平地に造られていました。
多賀城は、なぜあのような起伏があるところに造ったのでしょうか?

多賀城を訪れてちょっとした疑問を感じたのですが、分かりやすく説明してくださる方が居たら嬉しいです。

Aベストアンサー

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのため、防衛と攻撃を同時に考えた、出城でもあったのです。

この地図(グーグルマップの地形図)を見てください。
https://goo.gl/maps/3jQZEYFPvLz

地形を見てもらうとわかるのですが、鉄道線と道路が通っているところは、北や西に向かって山間の通りやすい地形になっており、多賀城跡から南は仙台平野がひろがっています。
つまり、奈良時代、稲作を主とする倭人が仙台平野を開拓するにあたって、東夷とされた狩猟民族であるアイヌ人などが侵入してこないように、平地を望む山側に城を作ったのです。

軍隊と言うのは集団ですから、分散して険しい山を登ったり下ったりすることはしません。可能な限り隊列を組んで行動できる場所を移動するのです。ですから、多賀城周辺でいえば、七北田川などの河川敷を移動してきたでしょう。高台にある多賀城からみれば西の岩切中学校ぐらいまで来た軍隊は容易に見つけることができたわけです。
いまでこそ、護岸されていますが、当時の川の敷地は広く、また海も現在より近かったので、東北本線の線路あたりから南西は湿地帯で高い木などがなく、高台にある多賀城からは良く見えたでしょう。

また、利府町の方角からやってきたとしても、今度は多賀城の真横を通過することになります。海を北から来るにしても城のすぐ下の砂押川に船を用意しておけば、すぐに攻撃に移れます。

その上で、軍勢を多く城に置いた時でも、すぐ北にある加瀬沼から水が豊富に来ますので、水源の確保も容易だったといえるでしょう。

つまり、古代の軍隊が城を築いて守るにはうってつけの高台だった、ということです。たぶん、どんな軍人でも「守る」ということを考えたら、この高台に城を作ったと思います。

以下蛇足、地形と城について
長篠城 戦国時代、長篠の戦いと呼ばれる、この城を舞台にした戦いがありました。織田・徳川の軍勢と武田軍との戦いです。織田・徳川は尾張から甲斐に向けて軍勢を送るのですが、甲斐に向かっては木曽の深い山があるので、ルートは事実上2本しかありませんでした。その1本を守るのが長篠城です。

現在でいえば、JRの飯田線が走っている場所で、鉄道は急な勾配を登れないので、鉄道線が走っているということは、昔なら軍隊が隊列を組んで移動できたルートになります。そして長篠城は尾張ー甲斐のルート上「絶対に通る」場所で、しかも川が合流するT字の場所にあったのです。
地図 https://goo.gl/maps/YfcXjjyUA8C2

地図を見てもらえばわかりますが、尾張からくる軍勢は絶対に川を渡らないと、長篠城にたどり着けません。しかも川は谷底なので、崖上にある城から矢を射かければ容易に軍勢を阻むことができたわけです。
ですから、この場所に城を作れば「甲斐へのルートを守ることができた」のです。

上田城 昨年の大河でも上田城は良く出てきましたが、この城も良くできています。ルート的には関東・東海・関西と真田家が戦ったほぼすべて(特に徳川)が攻めてくるルートが合流する場所に城があり、この上田城を超えないと真田家の領地には入れなかったわけです。

上田城は盆地の平地部分にあるのですが、なぜここかというと、千曲川だけでなく、安曇野方面からくる道(現在の143号など)が千曲川流域に出てくる谷を見渡せるからです。またドラマにもでてきますが、神川に堰をあらかじめ作っておくことで、大軍勢がやってこれる、千曲川の下流域を分断することも可能になります。

上田城を攻められたら、神川の堰を切って、城攻めの前線の兵が退却できないようにしつつ、後ろに控えている援軍や補給部隊を神川の上流にある真田本城からの部隊で攻める、という構図が作れます。

つまり、上田城の場所も地形的に「あそこじゃないとダメ」だったのです。

ということで、ブラタモリじゃないですが「地形」を見ればどのように考えて城を置いたのか、が良く分かる、ということです。

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのた...続きを読む

Q先の大戦の相手がアメリカではなくソ連だったとしたら、どうなったと思いますか?

日中戦争の頃、今後の日本軍の方針としてシベリアを目指す「北進論」と東南アジアの資源を狙う「南進論」があったと聞きました。
結局南進論を選んだ日本はアメリカの経済封鎖を喰らい、石油を停められた結果、真珠湾を攻撃するという流れになったわけですよね。
もし北進論を選択したら、どうなっていたと思いますか?

敵はアメリカではなく、ソ連。
【ドイツ・日本連合軍 vs ソ連】という戦いになっていたはずですが?
もしソ連が勝ったとしても国力はかなり落ちたはずで、米ソ2大国による冷戦はなかったのでは?

Aベストアンサー

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を求めた。
それが満州。

中国大陸は大規模な市場とみていた米国にとって
日本の切り取り政策は明確な「敵」で
それであの手この手で日本を戦争に導いたわけです。

仮想的であったソ連への対策のために満州政策をしたのに
それで米国を敵に回した結果、ソ連と手をつなぐ施策までした。
戦前の日本はまったくもって、ま・ぬ・け、ですよね。

そんなマヌケな日本に
北進するか南進するかを自分で決める選択枝はありません。
国際政治に疎いアジアの田舎者が
百戦錬磨の欧米人に「踊らされた」だけですよ。

よって、申し訳ないですが
質問者さんの質問は、質問自体成り立たない。
まあ
単なる「戦艦大和と戦艦アイオワではどっちが強い?」
みたいな質問なら深読みも必要ないのでしょうけど
政策についてとなると、その前後が影響しますので。

過去を正しく読み取らないと
また欧米に「踊らされ」ますが
今の日本政治に過去と類似するところがないか
よく見極める必要はあるかもしれませんね。
そういうのを考えるのキッカケとしては
質問者さんの質問は鋭いかと思います。

回答ではなく意見になってしまいました(笑)。

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を...続きを読む

Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む

Qなぜ小作地より自作地を好むんですか?小作地にはなにかデメリットがあるんですか?中3の歴史です

なぜ小作地より自作地を好むんですか?小作地にはなにかデメリットがあるんですか?中3の歴史です

Aベストアンサー

小作地は自分の土地でないから、凶作でも地代払わないといけない。
自作地に地代はかからない。

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Q戦後、社会主義国家が世界中に成立したのは何故でしょうか?

ソ連の崩壊を以て、社会主義は資本主義に負けたと言われますが、第二次世界大戦の後に、世界中で社会主義国家が成立し、完全な資本主義国と言えるのはアメリカと西欧と日本だけになりました。

70年前にソ連の周辺国を始めとして世界のあらゆる場所で社会主義国が成立し、中国やベトナム、キューバでは資本主義が社会主義に敗退する結果になったのは何故なのでしょうか。

Aベストアンサー

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る人を優先する「資本主義社会」への変革を推進したからです。

資本主義社会は階級にかかわらず「資本を持っていれば自由に経済活動ができる」ことを要求し、その結果として富の再分配システムでもある政治システムが民主主義(多数決主義)に変わることを推し進めたからです。

しかし、主に19世紀の資本主義への変革は農民を労働者に変えただけで、君主による搾取よりもひどく、再分配システムはうまく機能していませんでした。また民主主義社会への転換は革命によるものでしたので「革命的手法による民衆の幸福の追求」は権利とされていて、そこにマルクス=レーニン主義が入って、1917年のソビエト革命につながっていくわけです。
これにより、ロシアとその周辺地域は社会主義的な体制になっていきます。

重要なのは、20世紀の初頭、第2次世界大戦までは意外に共産主義がうまく機能したことです。理由は様々ですが、現代ほどには自由経済ではなかったし、農民を労働者に変化させる工業化も各国で中途半端だったために「モノを作って生活を成り立たせる」ということが資本主義でも共産主義でもあまり違いが出なかった、からでしょう。
生産性に違いが無いなら、共産主義的な労働のありかたも一定の評価を受けていたのです。

ですから第2次大戦前の共産主義国は非常に強大な経済力も、人民動員力もあり、近代国家としてかなりの力をもっていたのです。そのため、ソ連は多くの国へ共産主義を広げる機会を狙っており、中国でも毛沢東の人民解放軍はソ連から軍事的援助をもらっていました。

第2次世界大戦の結果は誰でもご存知だと思いますが、ここで問題なのは「西側諸国の荒廃」と「日本の敗戦」です。
日本が敗戦したことにより、ソ連は朝鮮半島に容易に進出し、中国も人民解放軍が優勢になって手本主義側である国民党軍を大陸から追い出すことに成功しています。

つまり日本が抑えていたアジア大陸の共産化に歯止めが効かなくなり、結果としてアメリカは朝鮮戦争・ベトナム戦争とアジアの共産化に対応することに迫られることになるわけです。

同様に、それまで植民地支配していたヨーロッパ各国も戦争で荒廃したため、植民地統治能力を失い、各地で植民地が独立していきます。イギリスはインドを失いますが、この地域はソ連から見ても中国から見ても中央アジア山脈が邪魔をしているので、共産化には至りませんでしたが、中国大陸と接していたベトナム、ラオス、カンボジアは日本撤退とフランス再統治に反対してインドシナ戦争を行い、その結果フランスが撤退すると、今度は民主主義国か共産主義国かで独立のための指導権争いを行い、激しい内戦に突入していきます。

同様に、ヨーロッパでも第一大戦の結果ドイツの敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が弱体化し、事実上この地域がヨーロッパを共産主義から守ってきた地域だったため、この辺りの国はドイツとソ連で分割されるか、独立時に共産主義政府が樹立されることが多くなり、ナチスドイツの侵攻の結果一時的に王国に戻ったり、明主義勢力がもりかえしたものの、ナチスドイツの敗戦とともに多くの国がソ連の永世国家になっていきます。このように衛星国になったヨーロッパの国を東欧というわけです。


第二次大戦後、なぜ社会主義国が生まれたかというと、その地域を支配していた日本や西洋国という植民地支配国家が撤退し、権力の空白、無政府状態が現れたからです。日本やドイツは占領されなすすべがありませんでしたし、ドイツはソ連に分割統治までされています。

日本国土は、ドイツ分割を反省したアメリカのおかげで分割されることはありませんでしたが、その代り日本が撤退して権力の空白ができた朝鮮半島にソ連がすかさず入って、傀儡国家である北朝鮮を作ってしまいました。

東欧にしてもアジアにしても、日本と戦った地域の西洋国はその後の独立機運を抑えるほどの国力をすでに持っていなかったので、各地が独立し、結果としてソ連から多大な支援を受けた共産勢力が優勢な状態であったといえます。
もっともカンボジアなどはタイが共産国を嫌ったこと(王国なので危機感を持った)、イギリスやアメリカなども積極的に民主勢力を支援したことなどから、逆に激しい内戦を呼んでしまいます。

ベトナムに至っては、大戦中ホー・チ・ミンはアメリカからも援助をもらっており、戦後の独立処理で共産主義の対立の時にアメリカがあまりにも主権を侵しすぎたので、ベトナム戦争になっていくのです。結果アメリカは負け、ホー・チ・ミンですら共産主義をえらんだわけです。

結局第2次世界大戦でアメリカを除いた資本主義国が疲弊し、植民地の支配ができなくなり独立機運の高まりに共産国が援助したことが大きな理由であり、当時のソ連はアメリカと宇宙開発競争ができるぐらい、経済に余裕のある国であったわけです。またソ連は地上を移動するだけでの軍事援助など各国に影響を及ぼすことができますが、アメリカは本国から船で移動しないと影響力を行使できず、それが結局朝鮮戦争での苦難・ベトナム戦争の敗北につながっていくのです。

第2次世界大戦前は、西洋と米ソ、そして日本しか独立国はありませんでしたから、戦争終結で起きた権力の空白が当時強大だったソ連の台頭を許すことになったのです。

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る...続きを読む

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む


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