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先日、図書館から佐村河内守の交響曲第1番のCDを借りて来たところ解説に驚きました。
高名な音楽学者であっても作曲家の「背景ストーリー」に影響されてしまい、そのことによって音楽を語っているのですが、こういった専門的に音楽学を修めた人であっても、曲だけで語ることはもはや不可能な時代なのでしょうか?
なるほど、音そのものには意味がないわけで、たとえば親しみのない外国語は音声としか感じられないし、意味もわかりません。
それにもかかわらず、多くの人達が音楽から意味を読み取ろうとするために、件の音楽学者のような失態を演じてしまうと思うのてすが。

曲の印象としては、3楽章の終わり頃になって突然マーラー的なアダージェットになって鼻白んだのですが、曲の出来としてはどうなのでしょう?

音楽は説明しないと理解できないか?そしてこの曲の評価の2点についてお聞きします。

A 回答 (1件)

こちらに、私なりの考えを書いてあります。


質問者さんは、この質問の #1 回答者さんですね。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9726907.html

そこの「お礼」に書かれている「岡田さんの著作」はこちらです。興味があれば読んでみてください。新書版で入手も容易です。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)
https://www.amazon.co.jp/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E9%9 …


>こういった専門的に音楽学を修めた人であっても、曲だけで語ることはもはや不可能な時代なのでしょうか?

「音楽CD」は、「芸術作品」ではなく「商業製品」ですから。売れれば売れるほど、解説の執筆者の収入も増えるのでしょう。執筆者は音楽業界と一心同体なのだと思います。
CDの解説は、学術論文ではなく、拡販PR文章の延長線上です。もっといろいろ聞いてみたくなる、同じ作曲家の他の曲のCD、同じ演奏家の他のCD、同じ曲の他の演奏家のCDも買いたくなるための。「セカンド・オピニオン」ではないですが、1つの解説を金科玉条にするのは危険です。

>曲の出来としてはどうなのでしょう?

この作品の評価はよく分かりません。例の「贋作」公表以降、誰も語らなくなってしまいました。それまで、さかんに涙を流していた人も。その意味でも、「音楽」として聞かれていたのではなく、「音楽の背景」を聞いていたのでしょうね。
私はNHKか何かで放映された実演を1回聞いただけなのであまり語る資格はありませんが、そのときには「マーラー」と「ショスタコーヴィチ」を折衷したような内容で、曲の内容はともかく、オーケストレーションは職人技だと思いました。(その意味で、佐村河内氏の経歴からは書けないレベルの筆致で、第三者の手が入っているなと思いました。新垣氏の筆であることに非常に納得しました)

そういう「〇〇もどき」の曲が現代に作られることにも意味や意義はあると思います。何が何でも「独創性」や「新奇性」がなければ意味がない、ということではないと思いますので。
1980年代以降のペンデレツキなんて、そんな感じですよね。
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この回答へのお礼

ありがとう

丁寧なご回答をありがとうございます。

音楽CDは商業製品だということで納得しました。
この曲を繰り返し聴いているうちに、細部がだんだんハッキリしてきて、ショスタコーヴィチが好きな方なら受け入れられると思いました。ショスタコーヴィチのような極端な音程の跳躍もなく、既存の交響曲の枠組みを逸脱していないと思います。

また、この前ジュンク堂書店に行って検索したら、岡田暁生さんの著作が数多くヒットしたので、今後の読書リストに入れさせていただきます。
『音楽の聴き方』中公新書 は買いました。また、『ピアニストになりたい』春秋社 も読みました。

ペンデレツキも例の曲もWikipediaによると、曲名が後付けのようなので、どうしてもある情景が浮かんでしまうのが残念です。

お礼日時:2017/06/03 09:35

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