4月17日はQueenの日!フレディ・マーキュリーの年代別ファッション&ヒットソングまとめ

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 古代・中世ヨーロッパも大型船舶はなかったですよ。近世まで大西洋を渡る技術もなかったくらいですし。

    なのでローマ人は地続きのところに住むスラブ人を奴隷にしていたのです。
    スラブ人は白人ですが、slave(奴隷)の語源となった民族です。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 09:42
  • 西洋人は黒人を奴隷にしていましたが、黒人を奴隷にする前はスラブ人(白人)を奴隷に使っていました。

    一方で日本人が(少なくとも大規模に)奴隷にされたことはあまりないと思います。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 09:50
  • 日本では昔から借金返済のための人身売買はありましたが、奴隷は皆無でなかったものの制度として定着するまではいかなかったはずです。

    また、戦国時代にポルトガル人が日本人を奴隷として売買したことはあったようですが、それは戦国の混乱期に少しあっただけで、天下統一した秀吉がそれを知ると大激怒し、即刻止めさせたようです。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 11:11
  • それでは、まあ奴隷制はあったとしましょう。私も全くなかったとは言ってませんし。

    もう一つの質問である、日本では他民族や他人種を奴隷として売買しなかったのは何故でしょうか。
    一般的な奴隷のイメージは、やはり他民族や他人種を酷使するというものですから。黒人奴隷なんかまさにそうですし。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 13:46
  • 日本は昔から地域大国だったので、その気になればアイヌ人、琉球人、朝鮮人あたりを奴隷にすることができましたが、したという証拠が見つかっていないので、仮にあったとしても小規模なものに留まったでしょう。

    あと、昔の中国は確かに超大国ではありましたが、日本は中国の冊封体制の下に入ったことは足利義満の時の1回だけですし、中国史上最強の元が攻めてきても返り討ちにしてるくらいなので、中国をそこまで恐れていなかったはずです。
    加えて昔の中国の冊封体制は緩いものだったようで、元など一部の帝国を除き西洋列強のように植民地拡大のため諸国を侵攻し回ったわけでもありません。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 15:34
  • 補足はシステム的に削除できないはずですが。

    日本は中国を大国として尊重してはいましたが、恐れてはいませんでした。
    何せ、白村江の戦いの時代から戦いを挑んでいるほどです。それも、中国史上屈指の超大国だった唐帝国に。
    そして、中華帝国の軍事力が特に強大だったわけでもなく、北方の遊牧民族にしょっちゅう脅かされていました。
    明の時代など、日本の非正規軍にすぎない倭寇に海岸を荒らされて、それが明の衰退の一因になったくらいです。

    戦国時代にスペインから来た宣教師は、我々の武力で中国を征服することは可能だが、日本人は精強で武芸に励んでいるため、攻めたら逆に皆殺しにされると報告しています。

    これが第三者から見た冷静な両国の分析なのですよ。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 19:12
  • あなたは、日本人が中国を恐れていたと言いますが、その証拠はあるのですか?
    まあ、出せないでしょうね。
    恐れていたら中国に朝貢貿易くらいはするでしょうが、朝貢したのは初期のヤマト政権の時くらいで、それ以降はやっていないですよね。
    また、皇帝の地位は中国以外認めないというのが歴代中国王朝の立場でしたが、日本はそれを無視してずっと天皇(=皇帝)を名乗り続けています。恐れていたら「日本国王」と名乗るはずです。

    日本と中国の間には東シナ海があり、お互いに攻めるのは困難な位置にあります。
    そのため、日本から中国への侵略、中国から日本への侵略の試みは常に失敗してきました。

    朝鮮民族は古来から中国から侵略を受けており、当然ながら中国を恐れてきましたが、朝鮮と異なり、日本は中国とは対等な立場でずっと接してきたということです。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 22:02

A 回答 (11件中1~10件)

奴隷制についてはかなり研究しました。

日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。
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№4,5,6,8、9で回答した者ですが補足を受けて再回答します。



>あなたは、日本人が中国を恐れていたと言いますが、その証拠はあるのですか?
>まあ、出せないでしょうね。

恐れていなかったという証拠こそありません。
日本は常に中国の動向の調査に余念がありませんでした。日本はすべての外国から海を隔てて比較的安全とはいえ、所詮はアジアの二次国家にすぎず、アジアの一次国家である中国の影響は避けられない存在でしかないからです。
そして日本では中国の事情に通じている人物は常に重用されており、中国の知識や事情に通じている事は中世までは日本でのエリートの条件です。
日本である程度以上の立場にある者は元寇も事前に知っていたほどです。
恐れていなかったというのなら、何故そこまで注意を注ぎ続けたのか。なぜ白村江での敗戦以来東日本から二千人も常備兵を集めて防人としていたのか。


>日本と中国の間には東シナ海があり、お互いに攻めるのは困難な位置にあります。
>そのため、日本から中国への侵略、中国から日本への侵略の試みは常に失敗してきました。

そんなものは結果論にすぎません。
相手の侵略が失敗するなら被害は無いとでも?
元寇がどれほど日本に被害をもたらしたのか知らないのですか?
倭寇が国力を衰退させて明の衰退の一因になったと言いながら、海で隔てられているせいで侵略は失敗するから相手を恐れる必要が無かったと考えているのなら、そこに自説の矛盾があることに気づくべきです。


>本は中国とは対等な立場でずっと接してきたということです。

「対等な立場をとっていた」ことと「恐れていた/恐れていなかった」は全く別の話です。


あなたは「恐れていた」という字面に過剰反応しすぎです。
隣国から奴隷という労働力を大々的に奪おうにも、それを抑止する存在があったという事実がそんなに気に入らないのですか?
近くに日本を大きく上回る力を有する国が存在することを理解し、それを常に警戒し、それを常に注意を払い、適切に対処する。それがちゃんとできていたから今の日本があるのです。
中国が全力を挙げて攻めてくれば日本は対処のしようがない。そのことを正しく理解し恐れていたからこそ、注意を怠らなかったし、注意を怠らなかったからこそ正しく適切に、時には勇敢に対処できた。それは誇れることであって恥じるような事ではありません。
既に奴隷云々という話題から大きく外れているのに何をムキになって続けているのか。
ここは質問をするところであってあなたの意見を主張する場ではありません。
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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
鎌倉時代に寛喜の飢饉と呼ばれる飢饉が発生した際に多くの人々が自身や妻子を身売りして社会問題となったっぽいからじゃないかなぁ。
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№4,5,6,8で回答した者ですが補足を受けて再回答します。



あなたが挙げた事柄は「恐れていない」の理由にも証明にもなりません。

>白村江の戦いの時代から戦いを挑んでいるほどです。

白村江の戦いで大敗してから必死で講和を模索していますが、知らないのですか?


>そして、中華帝国の軍事力が特に強大だったわけでもなく、北方の遊牧民族にしょっちゅう脅かされていました。
>明の時代など、日本の非正規軍にすぎない倭寇に海岸を荒らされて、それが明の衰退の一因になったくらいです。

遊牧民族にしろ海賊にしろ、正体は国家ではなく民衆にすぎません。王を称する族長のような存在はいますが、王によってすべてが統治されていたわけではなく、敵の首都を攻めて敵国の王を殺すか降伏させれば終わるという性格のものではないのです。そして、彼らの戦いはゲリラそのものです。
大規模な正規軍が最も苦手とする相手であり、手こずるのは当然なのです。というより、こうしたゲリラは軍事力によって撃滅することが事実上不可能で、根本的に被害を解消するには彼らを経済的に豊かにしてやるしかありません。しかし、当時の中国にそこまでの力はない。
中国が周辺の蛮族に悩まされたからと言って軍事力が大したことなかったとするのは、あまりにも現実を無視した暴論でしかありません。ローマ帝国だって強大な軍事力を誇りましたが、蛮族によって国力を衰退させて滅亡しました蛮族の被害を軍事力で解消できた帝国なんか歴史上存在しないのです。

また、倭寇は別に日本人によって構成されていたわけではなく、日本人が全く含まれていない「倭寇」も存在していました。倭寇とは東シナ海周辺を荒らす海賊の総称にすぎず、東の海の果てにいる蛮族として「倭」と呼ばれているだけです。倭寇の存在や行為を当時の日本人の対中認識の反映とか日本人の総意だと考えているとすれば、それはとんでもない勘違いです。

それから宣教師の報告も個人の主観でしかありません。
現実に中国は大国であるという点はゆるぎない事実であり、実は脆弱であるという事が明らかになったアヘン戦争後であってさえ、列強諸国は中国を無遠慮に侵略するようなことはしていません。

あなたは客観的に物事を見ることができていません。馬鹿げた民族主義的認識は改めなさい。
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№4,5,6で回答した者ですが、補足を受けて再回答します。


といっても、その捕捉は何やら削除されたようですが・・・


地域の国際関係は冊封体制に入っているかどうかで決まるモノではなく、単純に力関係で決まります。
元寇を退けたからといって日本が中国を恐れない理由にはなりません。日本が中国を恐れていなかったというのはあなたの思い込みでしかありません。
沖縄、朝鮮半島、台湾、江戸時代~明治時代にそれらの地域を日本が支配下に入れる際、日本がどれだけ中国に気を使っていたか知らないのですか?
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№4,5で回答した者ですが、補足を受けて再回答します。



>もう一つの質問である、日本では他民族や他人種を奴隷として売買しなかったのは何故でしょうか。

しなかったわけではないでしょう。ただ、規模が小さくて目立たないだけです。

大規模に他民族を奴隷化しなかったのは単純に武力が足らなかったからにすぎません。
大規模に他民族を奴隷化するためにはそれこそ国家レベルで他国を侵略しなければ、多量の他民族奴隷を獲得できません。
アジアでは中世以前の世界最大の先進国である中国が「世界の警察官」のような存在で、ほとんどの国が中国の影響下にありました。それらの国に国家レベルで侵略を行い、大量の人を奴隷として連れ去るならば、中国による攻撃を覚悟しなければなりません。
そもそも、日本国内で外国に侵略してまで労働力を獲得しなければならない程の労働力不足が発生したことはありません。なのにわざわざ外国に侵略して奴隷を獲得し、結果として中国が寄こしてくるかもしれない大軍勢と対峙するのは採算が合いません。誰もそんな覚悟も出来なかったでしょう。
そもそも、海を渡って外国に奴隷を獲得しに行くくらいなら、山一つ川一つ向こうの近所を攻めた方がはるかにマシです。

小規模での他民族の奴隷化が発生したのは、倭寇に代表されるような海賊の影響です。
海賊の実態は主に貧困に陥った民衆が武装して他所に略奪しに行くことです。奪えるものは何でも奪いますし、そこには女子供を含む人間も含まれます。
日本も被害にあっていますし、日本以外のアジア諸国も被害にあっています。
個々の海賊行為はいずれも村落レベルの集団によるものであって国が行ったものではない(国はむしろ取り締まる側)なので、「日本で」とか「日本が」という話ではないと強弁できないこともありませんが、「日本で他民族の奴隷が存在しなかった」とするのであれば、それは実態を反映してはいないと思います。
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№4で回答した者ですが、補足を受けて再回答します。



>日本では昔から借金返済のための人身売買はありましたが、奴隷は皆無でなかったものの制度として定着するまではいかなかったはずです。

「制度として定着」がどの程度のことを言っているのかがわかりませんが、魏志倭人伝には卑弥呼が千人もの奴隷を侍らせていたと記録が残っています。古代の部民制、平安時代の律令制では奴隷が存在します。鎌倉時代に人身売買は禁止されていますが、14世紀には黙認されるようになり事実上空文化します。


>また、戦国時代にポルトガル人が日本人を奴隷として売買したことはあったようですが、それは戦国の混乱期に少しあっただけで、天下統一した秀吉がそれを知ると大激怒し、即刻止めさせたようです。

奴隷売買を知って大激怒云々が本当だったのか、ただの名分だったのかは断定できるものではありません。「即刻止めさせた」とは言ってもポルトガル人追放令が出されただけで効果は海外への奴隷輸出が止まったというにすぎません。人身売買そのものは無くなっていないのですから、奴隷の存在や奴隷制度を否定したというのとは全く違います。
上辺の話を鵜呑みにするのであれば、それこそ宗教にでも理由を求める方が考えなくてすみますから楽でいいでしょうね。
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宗教はおそらく理由になりません。

宗教の教義はしょせん人間が考えたものにすぎず、人間の都合によって容易に変えられてしまうものだからです。現にユダヤ教から派生したキリスト教には当初、食事に関する戒律によって厳しい制約がありましたが、現代ではほとんど残っていません。ユダヤ教だって昔は午前中は断食せねばならなかったはずですが、現在では普通に朝食をとっています。
それに日本に宗教が神道しかなかった時代にも、日本には奴隷が存在していましたし、日本人を人間として扱い対等に商取引をしていた16~17世紀であっても、西洋人は日本人奴隷を売買していました。

大雑把な理由としては、奴隷制はメリットよりもデメリットの方が大きかった。そして、奴隷制を成立させうる条件を満たせなかった。というようなものでしょう。具体的な理由は一つとか二つではないと思います。

例えば、麦作と稲作の違いが影響しているかもしれません。
稲作は麦作に比べて耕地面積あたりの収穫量が高いですが、生産には手間がかかります。つまり、生産量が耕地に投入できる労働力に依存します。
麦作は耕地面積あたりの収穫量は稲作にくらべて少ないですが、手間は稲作ほどかかりません。生産量はある程度の人手さえ確保できれば、あとは耕地面積に単純比例します。
この違いが「人の価値」に影響を与えた可能性はあるかもしれません。

次に土地柄が影響しているのかもしれません。
日本は実は欧州諸国にくらべて国土面積はそれほど狭いわけではないのですが、人の住めない山が多いため生活できる地域は限られ、おまけにそれが山や川によって細かく区切られています。そのため、個々の村落の間の交流が乏しく、山一つ川一つ越えればその先は言葉も習慣も異なる未知の別世界です。つまり、奴隷にされたとしても、比較的逃げやすい環境にあったと考えられます。
上述のように生産量が耕地に投入できる労働力に依存する稲作社会で、一方の領主は領地から過酷な扱いに耐えかねた奴隷が逃亡し、もう一方の領主は領民の扱いが比較的マシで領地から労働力が逃亡しないのであれば、両者の生産力はほんの数年で圧倒的な差が開いてしまうでしょう。
であれば、労働者に逃亡を決意させるほど過酷に扱うのは理にかないません。必然的に人の扱いは「死を覚悟してでも逃げようと決意させる程ではない」程度まで優しくするようになりますし、領内社会の安定を図る領主らもそうなるように政策を打ち出すようになります。

日本に奴隷に近い身分や奴隷に近い扱いを受ける人たちはいても、西洋で見られるような過酷な扱いを受ける奴隷そのものの存在が目立たないのは、そういう理由がいくつも重なった結果だろうと考えます。
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>>西洋人は黒人を奴隷にしていましたが、黒人を奴隷にする前はスラブ人(白人)を奴隷に使っていました。



同じ白人でも、「われら以外の他民族(白人でも)でも、われらの神を信じない人間は家畜」っていう考えかたもありますし・・・。
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日本人は、犬や牛、豚などのペットにも魂があるとしています。


そして、仏教の転生輪廻の思想から、「次の人生は、猫や豚かもしれない」と考えることもあります。
しかし、欧米では、「家畜には魂は無い」と考えていますし、その延長で「黒人には魂がない」という考え方をしていたようです。
となれば、黒人は、牛や豚と同じく家畜のレベルになりますよね?
また、その黒人を黄色人種に変えたら、そういう人も家畜レベルとなります。
となれば、そんな人たちを奴隷扱いしても、まったく問題ないってことですね。
これは唯一神の宗教観からきているみたいですね。
「われらの神が、われら以外の民族は家畜と同じであると言っている」となれば、奴隷にしようが、女・子供まで皆殺しにしようが、神の命令に従っているので、全く問題ないってことでしょう。
多神教、汎神論の日本と一神教の宗教の差だと思えます。
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Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
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なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
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その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Q戦後、社会主義国家が世界中に成立したのは何故でしょうか?

ソ連の崩壊を以て、社会主義は資本主義に負けたと言われますが、第二次世界大戦の後に、世界中で社会主義国家が成立し、完全な資本主義国と言えるのはアメリカと西欧と日本だけになりました。

70年前にソ連の周辺国を始めとして世界のあらゆる場所で社会主義国が成立し、中国やベトナム、キューバでは資本主義が社会主義に敗退する結果になったのは何故なのでしょうか。

Aベストアンサー

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る人を優先する「資本主義社会」への変革を推進したからです。

資本主義社会は階級にかかわらず「資本を持っていれば自由に経済活動ができる」ことを要求し、その結果として富の再分配システムでもある政治システムが民主主義(多数決主義)に変わることを推し進めたからです。

しかし、主に19世紀の資本主義への変革は農民を労働者に変えただけで、君主による搾取よりもひどく、再分配システムはうまく機能していませんでした。また民主主義社会への転換は革命によるものでしたので「革命的手法による民衆の幸福の追求」は権利とされていて、そこにマルクス=レーニン主義が入って、1917年のソビエト革命につながっていくわけです。
これにより、ロシアとその周辺地域は社会主義的な体制になっていきます。

重要なのは、20世紀の初頭、第2次世界大戦までは意外に共産主義がうまく機能したことです。理由は様々ですが、現代ほどには自由経済ではなかったし、農民を労働者に変化させる工業化も各国で中途半端だったために「モノを作って生活を成り立たせる」ということが資本主義でも共産主義でもあまり違いが出なかった、からでしょう。
生産性に違いが無いなら、共産主義的な労働のありかたも一定の評価を受けていたのです。

ですから第2次大戦前の共産主義国は非常に強大な経済力も、人民動員力もあり、近代国家としてかなりの力をもっていたのです。そのため、ソ連は多くの国へ共産主義を広げる機会を狙っており、中国でも毛沢東の人民解放軍はソ連から軍事的援助をもらっていました。

第2次世界大戦の結果は誰でもご存知だと思いますが、ここで問題なのは「西側諸国の荒廃」と「日本の敗戦」です。
日本が敗戦したことにより、ソ連は朝鮮半島に容易に進出し、中国も人民解放軍が優勢になって手本主義側である国民党軍を大陸から追い出すことに成功しています。

つまり日本が抑えていたアジア大陸の共産化に歯止めが効かなくなり、結果としてアメリカは朝鮮戦争・ベトナム戦争とアジアの共産化に対応することに迫られることになるわけです。

同様に、それまで植民地支配していたヨーロッパ各国も戦争で荒廃したため、植民地統治能力を失い、各地で植民地が独立していきます。イギリスはインドを失いますが、この地域はソ連から見ても中国から見ても中央アジア山脈が邪魔をしているので、共産化には至りませんでしたが、中国大陸と接していたベトナム、ラオス、カンボジアは日本撤退とフランス再統治に反対してインドシナ戦争を行い、その結果フランスが撤退すると、今度は民主主義国か共産主義国かで独立のための指導権争いを行い、激しい内戦に突入していきます。

同様に、ヨーロッパでも第一大戦の結果ドイツの敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が弱体化し、事実上この地域がヨーロッパを共産主義から守ってきた地域だったため、この辺りの国はドイツとソ連で分割されるか、独立時に共産主義政府が樹立されることが多くなり、ナチスドイツの侵攻の結果一時的に王国に戻ったり、明主義勢力がもりかえしたものの、ナチスドイツの敗戦とともに多くの国がソ連の永世国家になっていきます。このように衛星国になったヨーロッパの国を東欧というわけです。


第二次大戦後、なぜ社会主義国が生まれたかというと、その地域を支配していた日本や西洋国という植民地支配国家が撤退し、権力の空白、無政府状態が現れたからです。日本やドイツは占領されなすすべがありませんでしたし、ドイツはソ連に分割統治までされています。

日本国土は、ドイツ分割を反省したアメリカのおかげで分割されることはありませんでしたが、その代り日本が撤退して権力の空白ができた朝鮮半島にソ連がすかさず入って、傀儡国家である北朝鮮を作ってしまいました。

東欧にしてもアジアにしても、日本と戦った地域の西洋国はその後の独立機運を抑えるほどの国力をすでに持っていなかったので、各地が独立し、結果としてソ連から多大な支援を受けた共産勢力が優勢な状態であったといえます。
もっともカンボジアなどはタイが共産国を嫌ったこと(王国なので危機感を持った)、イギリスやアメリカなども積極的に民主勢力を支援したことなどから、逆に激しい内戦を呼んでしまいます。

ベトナムに至っては、大戦中ホー・チ・ミンはアメリカからも援助をもらっており、戦後の独立処理で共産主義の対立の時にアメリカがあまりにも主権を侵しすぎたので、ベトナム戦争になっていくのです。結果アメリカは負け、ホー・チ・ミンですら共産主義をえらんだわけです。

結局第2次世界大戦でアメリカを除いた資本主義国が疲弊し、植民地の支配ができなくなり独立機運の高まりに共産国が援助したことが大きな理由であり、当時のソ連はアメリカと宇宙開発競争ができるぐらい、経済に余裕のある国であったわけです。またソ連は地上を移動するだけでの軍事援助など各国に影響を及ぼすことができますが、アメリカは本国から船で移動しないと影響力を行使できず、それが結局朝鮮戦争での苦難・ベトナム戦争の敗北につながっていくのです。

第2次世界大戦前は、西洋と米ソ、そして日本しか独立国はありませんでしたから、戦争終結で起きた権力の空白が当時強大だったソ連の台頭を許すことになったのです。

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る...続きを読む

Q加賀藩はどうして石高が大きいのか?

加賀百万石といいますが、どうして親藩でもない加賀藩は石高が大きいのでしょうか?
尾張徳川家や紀州徳川家も遠く及びません。
確かに前田家は織田信長の頃から力をつけてきていましたが、江戸幕府が開いた後、大大名の豊臣家は滅ぼされました。
江戸幕府としては、体制維持の為、大大名は弱体化させるように動くと思いますが。
というか石高は大名の力とは関係ないのでしょうか?

Aベストアンサー

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果として幕府に届け出た値」であり, 年貢の算出基準である「内高」とは異なります. さらに, 藩の収入にはほかのものもあるので, 石高は必ずしも大名の力を反映した値とはなりません. 例えば, 御三家筆頭である名古屋藩は表高こそ 62万石弱ですが木曽ヒノキの権利を持っていたため実際の収入はもっと大きな値になっています.

なお, 石高は家格に反映されるため, 家の格を上げるためわざと本来の石高よりも大きな値を申告した例もあります (もちろん負担も大きくなるため住人が割を食う形になります).

金沢藩初代の前田利長は関ヶ原の戦いの前から 80万石を超える所領を持っていて, かつ徳川とも協調路線をとってきた (準親藩扱いとなったのもその一環) ため, 徳川からすれば
・削る理由をあげにくい
・下手に削って敵対されると (最終的に勝ったとしても) ダメージが大きい
という判断をしたんじゃないでしょうかね. ちなみに加賀・能登・越中 3国で計 122.5万石, 加賀金沢藩としては支藩の越中富山・加賀大聖寺 (各 10万石) を除いて 102.5万石.

あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果と...続きを読む

Q【三国志】三国志って実話なんですか? 中国古典に三国志という書物がないんですけど日本人が歴史を読んで

【三国志】三国志って実話なんですか?

中国古典に三国志という書物がないんですけど日本人が歴史を読んで三国志という名前で纏めたってことでしょうか?

日本で三国志は有名なのに中国古典に三国志という書がないんですけど。

Aベストアンサー

中国では「三国演義」というアルヨ。
三国志は中国の正史アルネ。

Q朝鮮半島統治36年で日本がどのくらい悪政だったのでしょうか?

よく韓国から非難されるのですが、一体36年間で具体的にどのような悪政で韓国、朝鮮の人たちは怒っているのでしょうか? 怒る理由がよくわからないでいるから日本人側も何か釈然とせずにいる事が多いと思います。また、全く統治時代に良い事を日本はしなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

日帝が半島で犯した罪

1)日帝せいで半島の人口が35年間で2倍に増えてしまった。
2)24歳だった平均寿命が35年以上伸ばされてしまった。
3)人口の30%を占めてた白丁が市民権を得て、人権が認められ、教育を受けさせれてしまった。
4)幼児売春や幼児売買が禁止されてしまった。
5)女性が人間として扱われ、名前を付けなければならなくなった。
6)度量衡を統一されて日本とも流通がなめらかになってしまった。
7)8つあった言葉が統合されて標準朝鮮語をつくられてしまった。
8)5200校以上の小学校をつくられて師範学校や高等学校も合わせて1000以上つくられてしまった結果
  239万人が就学して識字率が4%から61%に上がった
9)大学を造られた。今ある、韓国のほとんどの大学は、当時日帝が作った
10)病院を造られてカルト呪術医療が禁止されてこれが平均寿命を延ばしてしまった。
11)3800キロ鉄道を引かれて港を造られてさらに電気まで引かれてしまったので、
  人間が物を担いで運ぶことが出来なくなってしまった。
12)工業が発達してしまい、国の経済が極端に大きくなった。それまでは、国家予算など誰も考える必要がなかった。
13)会社が作られるようになって物々交換から貨幣経済に転換してめんどくさい銭勘定をしなければならなくなった。
  もっとも、日帝が学校を作ったので、以前は銭勘定など出来なかったが、日帝は銭勘定をさせるために学校を作った。
14)二階建て以上の家屋が造られるようになって入浴するよう指導された。
  なにしろ、イザベラ・バードの朝鮮旅行記では、ソウルは平屋の藁葺き小屋が立ち並び、
  路地は糞尿にまみれている世界で最も汚く不衛生な町だと書かれているのが、
  30年後には日本と同じような近代都市に生まれ変わってしまった。
15)禿げ山に樹木を植林されて、洪水がなくなり、農業生産力があがってしまった。
16)ため池をつくられて今あるため池の半分もいまだに日本製だ
17)川や橋を整備されて耕作地を2倍にされて1反辺りの収穫量が3倍になってしまった。
18)コメの収量が3倍以上になってしまって、余った分を日本に輸出したら、なんと金が入ってきて、
  今まで奴隷同様だった白丁の生活が豊かになってしまった。
19)全土を精密に測量し、観測ポイントとして杭を打った。
  これは後に韓国に呪いをかけるための地脈を断つ杭だったと分かって、見つけ次第抜いた。
  おかげで、測量がまともに出来なくなって、道路を両端から造ったら、真ん中で食い違ってしまった。
20)今まで差別されていた白丁を主として、大勢の朝鮮人が日本に密航した。
  マルハンの社長などはそれを得々と言っている。
  ただ、後から強制連行した事が分かったので、賠償を求める裁判を起こした。
  仙石大臣が居るから、きっと保証してくれるだろう。
21)希望する者には日本名を名乗らせるなどよけいなことをした。
22)朝鮮語をとともに日本語を教えた。
  それまで読み書きできなかった朝鮮人のためにハングルを教え、それが今のハングル使用につながった。

日帝が半島で犯した罪

1)日帝せいで半島の人口が35年間で2倍に増えてしまった。
2)24歳だった平均寿命が35年以上伸ばされてしまった。
3)人口の30%を占めてた白丁が市民権を得て、人権が認められ、教育を受けさせれてしまった。
4)幼児売春や幼児売買が禁止されてしまった。
5)女性が人間として扱われ、名前を付けなければならなくなった。
6)度量衡を統一されて日本とも流通がなめらかになってしまった。
7)8つあった言葉が統合されて標準朝鮮語をつくられてしまった。
8)5200校...続きを読む

Q劉備のすごさ、よさ

私が不勉強ゆえ、劉備ファンの皆様には大変失礼な質問だと思うのですが、劉備のすごさ、よさってどのあたりにあるのでしょうか?
三国志演義は脚色が入っているので、あくまで史実に基づいたところから知りたいのですが、経歴をみるに、よく戦争に負けてるし、逃げてるし、家族は放り出します。城もすぐのっとられたりします。

しかし、曹操陣営に、厚遇で迎えられたこともあるし、「人の下に収まる器ではない」ともいわれています。
なぜそのような評価がついたり、どんどん味方に恵まれたのでしょうか?
よかったらご教授下さい。

Aベストアンサー

まず、三国志演義における劉備の人物像は、全くのウソっぱちです。
品行方正どころか、「チンピラの頭目」と言うところです。

「中山靖王劉勝の後裔」かどうかは別としても、後漢の劉氏一族に連なることは確かな様で、貧乏ながら親族の支援を得て、名士の公孫瓚と机を並べて勉強したりもしています。
ただ、蜀志 先主傳に「先主は読書を甚だ楽しまず、狗馬や音楽、美い衣服を喜んだ」とあり、勉強嫌いでチャラチャラした人です。

また「豪侠との交結を好み、年少者が争って附いた」とあるので、ちょっとした結社の親分だったかと。
従い、何らか事件を起こし名前を変えて、劉備の地元に流入した関羽と、その子分であった張飛が、身を寄せたのでしょう。

ただ、旗揚げ早々から、後々まで活躍する豪将を手に入れた「器量」はホンモノでしょうね。
その後も行く先々で、そう言う武将や文官を手に入れています。

それと、特に関羽や諸葛亮に代表されますが、この二人は劉備にも勝るとも劣らない有名人ながら、もし劉備と出会わなければ、どうなってただろう?と言う人物でもあります。
劉備とは無関係に名前を残したであろう人は、曹操に対し反乱を起こした馬超くらいで、それ以外では、もし劉備の配下じゃなければ、野に埋もれていたかも知れません。
すなわち劉備は、人材発掘や、発掘した人物を活かすことに関しては、天才的かも?と言うところです。

まず、三国志演義における劉備の人物像は、全くのウソっぱちです。
品行方正どころか、「チンピラの頭目」と言うところです。

「中山靖王劉勝の後裔」かどうかは別としても、後漢の劉氏一族に連なることは確かな様で、貧乏ながら親族の支援を得て、名士の公孫瓚と机を並べて勉強したりもしています。
ただ、蜀志 先主傳に「先主は読書を甚だ楽しまず、狗馬や音楽、美い衣服を喜んだ」とあり、勉強嫌いでチャラチャラした人です。

また「豪侠との交結を好み、年少者が争って附いた」とあるので、ちょっとした結社...続きを読む

Q旧日本軍が満州地方を短期間で占領できた理由

戦前の日本軍は柳条湖事件をきっかけに満州地方を短期間で占領してしまいます(満州事変)。
日本の3倍近い面積をもつこの地域を、日本はどうして短期間に奪い取ることができたのか不思議でならないのですが、その理由は何だと考えられるでしょうか。

ナチスドイツが征服したフランスよりも広大な地域を、わずか半年程度で勢力下においてしまうというのは恐るべきものだと思うのですが。
また、満州事変においては南京大虐殺のような事件(この事件が本当だったかどうかは置いておいて)がほとんど起きなかったのも不思議です。レジスタンスのような運動もあまり起きなかったのではないでしょうか。
あれだけ反日的な中国政府でさえ、満州事変の際の日本軍の暴虐についてはほとんど言ってこないのですから。

Aベストアンサー

もともと満州は清国を建国した女真族の聖地で、清国全盛時代には漢族が入り込むことは禁じられていました。 当時の満州は今の日本と同じように安全で、家に鍵をかけて外出する必要がなかったと言われています。 ところが清国が衰退し始めると満州に漢族たちが次々と入植を始めました。  漢族が入植した土地は、強盗団が跋扈して、安心して暮らせず、満州の治安も酷い状態になりました。 そのため、日本が女真族をバックアップして女真族の国である満州国を建国したのです。その結果、満州国は以前のように安全な国になりました。 満州国は日本軍が中国人(漢族)を追い払って女真族の皇帝を担いで作った傀儡国では決してありません。 日本が満州を中国から奪い取って、日本の傀儡である満州国を作ったと言うのは、戦勝国のでっち上げでしかありません。 この事実を知れば、質問者さんの疑問も自ずと氷解するでしょう。

Q【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】 日本の都道府県名を考え

【なぜ日本の都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられたのでしょうか?】


日本の都道府県名を考えた人が中国人だった?

中国人に日本が乗っ取られていた?

Aベストアンサー

>都道府県の地名は中国の漢詩に基づいて名付けられた…

それ、何県と何県の話?

元号なら確かに中国の古典をよりどころとしているのが多いですが、県名が中国の古典によっているとは初めて聞きました。
少なくとも私の県は中国とは何の関係もありませんし、東京都や北海道だって中国とは縁もゆかりもありません。

その話の出典をあきらかにしてください。


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