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物事を見る角度や視点を換えたら、途端に足をすくわれたような気持になった経験はありますか。
ここでいう、足をすくわれたとは、他者に足をすくわれたという意味ではありません。
自分自身の中で、今まで常識だと思ってきた事や、時間もなくてそれについてよく考えられなくそういうものだと思い続けてきた事など、自分の中での誤認というか、そうしたものに、ある日、急に気が付いて、あたふたしたり、心が不安定になった経験はありますか。

A 回答 (3件)

「そうしたものに、ある日、急に気が付いて、あたふたしたり、心が不安定になった経験はありますか」


⇒若い時はよくあるのではないでしょうか。

といいますのは、10代でも20代でも、人間社会の経験はまだまだ少ないです。
でも、自分は社会をよく知っていると思うものです。

社会はとてつもなく広いです。
人間は700万年の歴史がありますが、いまでも人間は複雑怪奇です。
死ぬまで知らないことだらけ、だと思いますよ。
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この回答へのお礼

死ぬまで知らない事のほうが多い事が原因していますね。
人間の理解力には、限界がある事が伺えますね。

お礼日時:2017/06/11 09:04

「物事を見る角度や視点を換えたら、途端に足をすくわれたような気持になった。


と、言う時点で、問題です。

その感覚は、「自分の視点や考え方」が、「絶対だ。」と妄信する人の感覚です。

本当の事は、或いは真実は、可能な限り、多方面の視点からの検討が必要ですし、
それほど単純では有りません。

そういう事例を、嫌になるほど見てきましたし、最も危険なのは、現実を確認せずに、
頭だけで、理屈だけで、原因が究明された、と妄信する事だとも、学んできました。

「現場主義」と言うのがあります。
「理屈で、あれこれ言ったり、考えて、解ったつもりになるよりも、現実を直視しろ。」
みたいな意味ですが、それで救われたことは、数限りない。

「足元をすくわれる。」のは、日常茶飯事ですし、それが、
真実を追求する、前提条件でしょう。

むしろ、とても自然な事、です。
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この回答へのお礼

現場を知らない人が、予定を決めたり、重要部分を現実踏まえず採決したり、現場はいつも泣かされますし、決める側も無理も承知が当たり前で、面倒に頭を突っ込みたくないので、無関心だけは超一流な企業が多い嘆き多き現在日本です。

お礼日時:2017/06/11 09:08

どのようにすれば確認が取れたことになるのかは考えます。



昔のひとは天動説でも地動説でも、どちらにしてもデータは取っていたのではないかと思います。

どのようにデータを取れば、足元をすくわれないで済むのか分かりません。
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この回答へのお礼

教えていただきありがとうございました。

お礼日時:2017/06/11 09:09

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> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
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「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
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さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

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哲学では、何が正解なのですか?
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科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
 (4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
   める。
 (5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
 (5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
   のかもしれない。
 ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の
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 し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという
 短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊
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 で、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最
 もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します
 。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するな
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 かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間と
 コストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築すると
 ころまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを
 方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(
 検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わ
 ない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというの
 よりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行
 った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いた
 しません。)

まとめ。科学は哲学の一分野である。テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べる。
(0)観察をする。
(1)仮説を立てる。
(2)仮説から演繹される予想を立てる。
(3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
(4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
  める。
(5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
(5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
  のかもしれない。
科学は(0)(1)(2)(3)(4)(5a)と(0)(1)(2)(3)(4)(5b)をたくさん集める。(5a)のとき失敗報告という論文が書ける。既にある理論に対立する理論を構築し検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。(5b)のとき、類似したたくさんの(5a)とあわせて科学。でも反例が一つ出たら瓦解する。
哲学は(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまで。次のサイクルを方向付ける。指針として検証不可能である部分を持つ。

リンク先の質問とno.1~no.83を読んでみると、哲学で意見が対立する場合、範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名、現象から推測される予測が異なってくるのだと思う。予測が否定されると、自身の信条が否定されたと強く感じてしまうと、自身の予測に矛盾があるのが自身で認められなかったり、自身の予測の反例となる現象が認められなかったりする。範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名が同意できなくなる。論争になる。正解が見つからない感じになる。

声が大きい(多い)方が正解というのは誤り。リンク先のno.2の説明が良い説明だというのはno.20の直感。どうして良いのかは説明できない。✕百家繚乱〇百花繚乱。

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。...続きを読む

Q人生の目的と手段

国や民族によって、その生き方は様々ですね。

戦後の日本は、米国の後押しもあって世界にもれいがないほどの高度経済成長を成し遂げました。
しかし、その後のバブル崩壊に機を発し、現在では長い低成長の時代が続いています。

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学業と仕事は手段だと思いますが、これらが目的になっているように感じるのですが。
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Aベストアンサー

学業や仕事が楽しいと感じる人も少ないですしね。しがらみも多い。
悪癖となってるからそれを直すのも難しい。何でもかんでも取り込みすぎて、どっち向いてるのかわからないような社会になってしまったかなと言う感はあります。

ただ、職人が尊敬される風土が、国を建ててきた側面はあると思います。ドイツもそうらしいですね。

今は生産と消費に追われ、どのように人生を過ごすのか、あまり考える暇も実践するゆとりも無いのが現状ですね。

役に立たないことは切り捨てられてきた社会ですが、役に立たない事をすることも、十分に必要ですね。それが発想の源にもなるし、ゆとりにもなるし、豊かさにもつながるのでは無いかと思います。無駄な事をしないのを秀才とするなら、無駄な事を厭わないのが才能であると思います。
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Q嫌なものも良いものも この世に存在する物のすべて私が経験するのではないかと思ってしまいます。 生きて

嫌なものも良いものも
この世に存在する物のすべて私が経験するのではないかと思ってしまいます。
生きてる間ではなく転生してからってことです。(順番に全ての人間とか生き物になる)

同じ時間軸にあるからそんなこと有り得ない、と思っても時間というものは本当に存在するのかもわからないと思うんです。

宗教などは進行しておりません...
高校生です。

考えれば考えるほど
悲しくなって辛いです...
もし悪い運命が決まっている人になったらとおもうとこわくて。

意見を聞かせてください。

Aベストアンサー

「高校生です」
⇒中学の思春期から高校までは、子供から大人になる中間で多感な時期ですね。

でも、まだ社会のほんの一部しか知らないはずです。
なので、頭の中でいくら考えても、それは夢の中のようなものです。

これから、いろんな人と出会い、いろんな人と行動を共にしていくでしょう。
それらの経験の積み重ねが自分を作っていきます。

大切なのは、行動して経験したことです。
それはこれからの楽しみにしておきましょうね。

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本当に素朴な疑問です
なんで<宗教学><人類・考古学>等で質問しないので<哲学>なのでしょうか?
何を求めて問うているのでしょうか?

哲学的な質問では無いですが読んで回答して欲しい人は<哲学>カテの人達なので
<哲学>カテで質問します

Aベストアンサー

存在を知ることも哲学ですから帰結として神が原因なのかあるいは神そのものを知る、こういう働きもある。
今は頭を働かせば賢いとされる時代ですから、唯物論者も神を語れる。
ある事柄を否定したとたんに認めるという離れ業も出来る。
ようは頭がおかしい。
この哲学カテゴリーも低脳おっさんの語らいの場、社交場(サロン)と成っている。

四元素から原始の発見へ、万物は流転する(ヘラクレイトス)のエネルギー保存の法則やデモクリトス・エピクロスの原子論も、ストラトンの気体と真空説など昔は哲学者は科学者でもあった。

Q教育哲学

教育の本質ということで「教育哲学」という言葉を思いついたのですが、
すでに学問の領域として存在していたことを知りました。

現代の日本において教育は、実利のみを動機とし、目的としていると思い
ます。これは、教育が欲望達成のための道具に成り下がっているというこ
とで、あるべき姿ではないと考えます。

教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?
また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

Aベストアンサー

>教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?

食糧の調達と保存と加工方法、それに栄養学、あとは哲学を教えるべきです。
上記を無償の義務教育として、それ以外は有料の選択科目とすればよいでしょう。

>また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

教師の収入・生活を確保するための議論は排除して、個人が自由に教育を買えるようにすることが重要です。
教育を買うだけのカネがない人達には、食糧の調達と保存と加工方法、栄養学、哲学だけは無料で(税金んで)教えるようにしましょう。

Q道徳は正しいのでしょうか?

文化や思想が多様な現代でも子供のころからの道徳教育により現代人は親孝行や恩といった道徳的な理念に無意識又は意識的に反しないように行動し、同時に全ての人がそうであるように望んでいます。
これは本当に正しいことでしょうか?
この疑問を公衆の面前で口にしただけでも白い目で見られたり危険思想の持ち主だと批判されたりするかもしれません。ですが私は別に親を不幸にしたいとか恩を仇で返したいと考えているわけではなく、柔軟な発想をする上で道徳といった常識的な考えが枷になっていたり、自分の中にある道徳的な考えに反する意見や案があると明確な根拠をなしに、果ては道徳自体を理由にして圧倒的マジョリティである同じ思想をもつ人達と共にそれらをこぞって批判するような風潮になっている今の世の中を一度初心に戻って見つめなおして欲しいのです。
例えば、ある自殺者志願者Aが自殺をしようとしましたが迅速な救助で未遂になったとしましょう。その後、Aは病院で家族に説得されることで反省して自殺なんてことはもうやめようと決心し、新たな人生を歩み始めます。これが道徳的に”望ましく正しい”展開であるわけで多くの人がスッキリとした感覚を得ると思います。しかし道徳という理念を除外してもう一度この展開を考え見直してみると、また違った見え方がしてきます。
冒頭でAは体は健康ですが精神的に生きる能力を失くし、言ってみれば精神的に寿命を迎えているわけです。しかし現代の多くの人は肉体的な寿命を「その人の寿命」とみなす傾向にあり、肉体的な寿命を迎えた人への死には寛容でも肉体は健康でも精神的な寿命を迎えているAのような人の自死には先ほどの話のように否定的で、救助という名目で本人の意思は尊重されずに生かされ、次に自殺をされる前に反自殺主義者に囲まれて道徳的な理由にこの先きっといいことがある等の根拠のない希望的観測を付随させ、道徳を守ったからと言って魂が救われたりするわけでもないのにAはその意見に思考の根底にある道徳的な思想により納得し反省して自殺はやってはいけないという一種の洗脳状態に陥り生き続けるわけです。このとき死にたいというAの意見は全く尊重されず、むしろアンチテーゼに囲まれてAの望むようなことはしてはいけないという考えをAに植え付けてAを精神的に殺しているわけです。
たしかに道徳が蔓延したこのような社会は億を超える人間を管理する上で今までうまくいっていましたし、他人に害をなすような行為であれば報復を受けたり罰せられるのはあたりまえです。しかし道徳信仰者による道徳の布教を甘んじて受け、全ての人にその考えを強要する現代人の姿勢には疑問を感じます。
この考えには私の偏見が多々入っていると自覚していますし、さらに正しいや正しくないといったものはとても曖昧で移ろいやすく明確な答えはないと思いますが、それでも現代の個人は他者を害さない程度であれば自由に生きられるべきという理念に基づいて考えるならば道徳は間違っている部分があるのではないでしょうか。皆さんの意見を訊きたいです。

文化や思想が多様な現代でも子供のころからの道徳教育により現代人は親孝行や恩といった道徳的な理念に無意識又は意識的に反しないように行動し、同時に全ての人がそうであるように望んでいます。
これは本当に正しいことでしょうか?
この疑問を公衆の面前で口にしただけでも白い目で見られたり危険思想の持ち主だと批判されたりするかもしれません。ですが私は別に親を不幸にしたいとか恩を仇で返したいと考えているわけではなく、柔軟な発想をする上で道徳といった常識的な考えが枷になっていたり、自分の中...続きを読む

Aベストアンサー

> この考えには私の偏見が多々入っていると自覚していますし

それに尽きると思います。
道徳律を批判する前に、道徳律と法律の関係性を考えるべきかと。

> 全ての人にその考えを強要する現代人の姿勢

むしろ正反対で、「道徳律」なんてのは廃れる一方では?
私自身、他人を自分の道徳や常識で縛る気もなけりゃ、他人のそれに縛られる気など、毛頭ありません。

では、何で縛ったり、何に縛られたりするか?と言えば「法律」です。
これに関しては、強要しても構わないし、強要されても受け入れざるを得ない。
言い換えれば、法律とは、その法律が及ぶ範囲においては、万人が共有すべき価値観です。

その法律に従えば、自分の考えを他人に強要などすれば・・それはそのまま強要罪ですがな。
自分の常識を他人に押し付ける様な行為は、極めて非常識。(いや、非常識どころか法律違反!)
あるいは、自殺者などを見殺しにするのも、保護義務(作為義務)違反などを問われ兼ねません。

アナタは自由に考え、自由に言葉を発するのは構わない。
それは法律が保障する自由(権利)だから。
しかしアナタは、道徳をないがしろにしている結果、少々、法律を逸脱した考え方を持っている様です。

道徳律(や常識など)と法律の関係性とは、道徳律は法律の内側で、人を律する概念です。
逆に言えば、道徳や常識などは、法律の外には存在できない概念と言うことです。

「クルマ通りの少ない交差点の信号は、無視するのが常識だ!」などと言う常識は、存在し得ません。
しかし、アナタの「Aを精神的に殺している」なんてのも、それと似ています。
アナタは嫌ってるけど、それがアナタなりの道徳観と言うところなので・・。

道徳や常識に縛られる必要はありません。
たとえば、法律のはるか内側に設定された道徳に従って生きるなど、生き辛くて仕方がないから。

しかし法律を超越したところに、自分なりの道徳を構築するのは、マジョリティー云々の話ではありませんよ。
もしアナタが、真に自殺を望んでいる人物の自殺に立会って、それを理解した場合、自殺を容認すると言う考え方であれば、少なくとも我が国においては、「法律的」にアナタの考え方は、受け入れられないと言うことです。

ぶっちゃけ、法律ギリギリとか、アナタの様に法律の外に、自分の道徳や常識を作る人がいるから、法律はどんどん厳しくなると言う側面もあります。
逆に、全ての人が適正な道徳律で自分を律する社会が出来れば、別に法律など無くても良いし。
むしろアナタの様な考え方は、法律が無い社会の方が、容認される可能性もあると思います。

> この考えには私の偏見が多々入っていると自覚していますし

それに尽きると思います。
道徳律を批判する前に、道徳律と法律の関係性を考えるべきかと。

> 全ての人にその考えを強要する現代人の姿勢

むしろ正反対で、「道徳律」なんてのは廃れる一方では?
私自身、他人を自分の道徳や常識で縛る気もなけりゃ、他人のそれに縛られる気など、毛頭ありません。

では、何で縛ったり、何に縛られたりするか?と言えば「法律」です。
これに関しては、強要しても構わないし、強要されても受け入れざるを得ない。
...続きを読む


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