アレルギー対策、自宅でできる効果的な方法とは?

「平安時代中期の日本は国風文化といえるのか」
という議題について討論をすることになり、私は否定側、つまり「平安時代中期の日本は国風文化ということはできない」ということの情報や証拠を集めています。聞いたことのあること。知っていることや、事実についての解釈の仕方など何でもいいので、気軽に書いていただければ幸いです。尚、真偽はこちらで確認させてもらうため問題ありません。どうかよろしくお願いいたします。

A 回答 (1件)

議題がおかしいですよね。


それは平安時代の文化と言うより、平安貴族の文化ですから、
雅とは程遠かった庶民の暮らしぶりを探ってみてはいかがでしょうか。

それにまた文化とは緩やかに発展していくものですから、
奈良時代が唐風だから平安時代は国風と言い切る方も難しいと思います。

wikiにもこう書いています。

遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。
そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。
すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。
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この回答へのお礼

なるほど、確かにその通りだと思います。しかも貴族の方にばかり視点が向いていました。とても参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/15 17:33

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Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
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年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

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Q戦国時代までの日本の漢文の文法は独自だったのですか?

宮城谷昌光の著書にて「武田信玄の書状でも漢文は文法的に間違ってる事が多い」のような事が書かれておりました。
勿論祐筆もいたでしょうし、祐筆が間違っていた可能性もあります。
秀吉のように祐筆がいるからこそ「自分に敬語を使う現象」という説も生まれます。

が、本人や受け取り手が読む事もありますよね。
それも信玄が読むくらいで文法がそうであれば、日本は独自の文法で漢文を使っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

日本の漢文というのはもともと中国の先進文化を取り入れるため
中国語を習わずとも中国の文語文を読むために発達したものです。
つまり、書くことには重点を置いてなかったのです。
武田信玄の書状をここに示していただければアドバイスできると思いますが、
それが無いので、論語、郷党編の一節で説明します。

原文に「唯酒無量 不及亂」とありますが

「ただ酒は量なく乱に及ばず」と読むのか「ただ酒は量なし、及ばざれば乱す」とでは
全く意味が違ってきますが、中国語を解する方であれば後者はあり得ないと判ります。
これが漢文を読むだけの方ですと、どちらが正しいのかわかりません。

漢文もよく勉強すれば、正しい文章が否かがわかってきますが、そこまで達するのは至難の業です。
遣唐使で極めて立派な漢文をかけるのに、中国語は全くできない僧侶がいて、現地で驚かれたというエピソードも
ありますが、それは例外でしょう。

日本人相手の漢文の手紙ですと「俺は教養がある」というところを見せつけたくて書く場合も多かったようです。
当然、文法無視の漢文もザラにありました。
それでも、読む方も日本人ですので、前後の文脈から、言いたいことは判ったようです。

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中国語を習わずとも中国の文語文を読むために発達したものです。
つまり、書くことには重点を置いてなかったのです。
武田信玄の書状をここに示していただければアドバイスできると思いますが、
それが無いので、論語、郷党編の一節で説明します。

原文に「唯酒無量 不及亂」とありますが

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Q昔は、男女差別がありましたよね。江戸時代、男女は、どんな歩き方をしたのでしょうか?

昔は、男女差別がありましたよね。江戸時代、男女は、どんな歩き方をしたのでしょうか?

Aベストアンサー

男女差別って。
役割分担はありましたけど、女性が男性より下に見られていたわけではないですよ。
まあ、戦国時代や明治時代の戦争が多かった頃は男性の力が強かったのは確かでしょうけど。

歩き方ですか。男性は大股で、女性は内股で歩いていたでしょう。
でも、女性の歩き方を含む作法を教えていたのは年配の女性であって、男性がそうするように圧力をかけていたわけではないです。
女性の作法は、男の口出しのできない領域でしたので。まあ、今でもそうですけど。

Q日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

Aベストアンサー

えーと、境界線があるような話ではなく、
それぞれの勢力の本拠地の位置関係だけです。

習ったかと思いますが、南北朝時代は後醍醐天皇と足利尊氏の争いで始まりました。
足利尊氏が京都に攻め上って占拠したため、後醍醐天皇は京都を離れて吉野(奈良)に逃亡し、そこで新たに都を作りました。
これが京都から見て南にあるので通称「南朝」と呼ばれ、逆に京都は「北朝」と呼ばれたわけです。

Q多賀城について

多賀城跡に観光に行きました。
驚いたことに、広大な敷地は起伏がそこそこある丘?山?にあったようです。
今まで、平城京跡や大宰府跡に行きましたが、これらは平地に造られていました。
多賀城は、なぜあのような起伏があるところに造ったのでしょうか?

多賀城を訪れてちょっとした疑問を感じたのですが、分かりやすく説明してくださる方が居たら嬉しいです。

Aベストアンサー

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのため、防衛と攻撃を同時に考えた、出城でもあったのです。

この地図(グーグルマップの地形図)を見てください。
https://goo.gl/maps/3jQZEYFPvLz

地形を見てもらうとわかるのですが、鉄道線と道路が通っているところは、北や西に向かって山間の通りやすい地形になっており、多賀城跡から南は仙台平野がひろがっています。
つまり、奈良時代、稲作を主とする倭人が仙台平野を開拓するにあたって、東夷とされた狩猟民族であるアイヌ人などが侵入してこないように、平地を望む山側に城を作ったのです。

軍隊と言うのは集団ですから、分散して険しい山を登ったり下ったりすることはしません。可能な限り隊列を組んで行動できる場所を移動するのです。ですから、多賀城周辺でいえば、七北田川などの河川敷を移動してきたでしょう。高台にある多賀城からみれば西の岩切中学校ぐらいまで来た軍隊は容易に見つけることができたわけです。
いまでこそ、護岸されていますが、当時の川の敷地は広く、また海も現在より近かったので、東北本線の線路あたりから南西は湿地帯で高い木などがなく、高台にある多賀城からは良く見えたでしょう。

また、利府町の方角からやってきたとしても、今度は多賀城の真横を通過することになります。海を北から来るにしても城のすぐ下の砂押川に船を用意しておけば、すぐに攻撃に移れます。

その上で、軍勢を多く城に置いた時でも、すぐ北にある加瀬沼から水が豊富に来ますので、水源の確保も容易だったといえるでしょう。

つまり、古代の軍隊が城を築いて守るにはうってつけの高台だった、ということです。たぶん、どんな軍人でも「守る」ということを考えたら、この高台に城を作ったと思います。

以下蛇足、地形と城について
長篠城 戦国時代、長篠の戦いと呼ばれる、この城を舞台にした戦いがありました。織田・徳川の軍勢と武田軍との戦いです。織田・徳川は尾張から甲斐に向けて軍勢を送るのですが、甲斐に向かっては木曽の深い山があるので、ルートは事実上2本しかありませんでした。その1本を守るのが長篠城です。

現在でいえば、JRの飯田線が走っている場所で、鉄道は急な勾配を登れないので、鉄道線が走っているということは、昔なら軍隊が隊列を組んで移動できたルートになります。そして長篠城は尾張ー甲斐のルート上「絶対に通る」場所で、しかも川が合流するT字の場所にあったのです。
地図 https://goo.gl/maps/YfcXjjyUA8C2

地図を見てもらえばわかりますが、尾張からくる軍勢は絶対に川を渡らないと、長篠城にたどり着けません。しかも川は谷底なので、崖上にある城から矢を射かければ容易に軍勢を阻むことができたわけです。
ですから、この場所に城を作れば「甲斐へのルートを守ることができた」のです。

上田城 昨年の大河でも上田城は良く出てきましたが、この城も良くできています。ルート的には関東・東海・関西と真田家が戦ったほぼすべて(特に徳川)が攻めてくるルートが合流する場所に城があり、この上田城を超えないと真田家の領地には入れなかったわけです。

上田城は盆地の平地部分にあるのですが、なぜここかというと、千曲川だけでなく、安曇野方面からくる道(現在の143号など)が千曲川流域に出てくる谷を見渡せるからです。またドラマにもでてきますが、神川に堰をあらかじめ作っておくことで、大軍勢がやってこれる、千曲川の下流域を分断することも可能になります。

上田城を攻められたら、神川の堰を切って、城攻めの前線の兵が退却できないようにしつつ、後ろに控えている援軍や補給部隊を神川の上流にある真田本城からの部隊で攻める、という構図が作れます。

つまり、上田城の場所も地形的に「あそこじゃないとダメ」だったのです。

ということで、ブラタモリじゃないですが「地形」を見ればどのように考えて城を置いたのか、が良く分かる、ということです。

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのた...続きを読む

Q昔私が間違った事をしたときに担任の先生に言われた言葉で引っ掛かっているのですが、あなたほどの人が、〰

昔私が間違った事をしたときに担任の先生に言われた言葉で引っ掛かっているのですが、あなたほどの人が、〰って私ほどって、私はどんな人なんでしょうか?

Aベストアンサー

その「間違った事」を本来のあなただったらするはずがない…と言う意味。
つまり、良い意味で「あなたらしくない」と言いたかったのでしょう。

一般的な使い方としては
「あなたのような人がそんな間違いをするんですよ」に対して
「あなたほどの人がそんな間違いをするなんてあり得ない」と言います。
けっしてあなたを見下した言い方ではありません。

Q平成の次の元号をKから始まる2文字の漢字とすることが決まったそうですがKから始まる漢字は何に決まると

平成の次の元号をKから始まる2文字の漢字とすることが決まったそうですがKから始まる漢字は何に決まると思いますか?

景気の景のKか感のKが有力らしいです。

で、2文字目は永遠の永が有力らしいんで、

景永か感永ならどっちが良いですか?

Aベストアンサー

Kですか? Kは慶応と被るから使わないだろうと思っていましたが・・
2文字目は『永』か『久』じゃないかな、40~50年程度は使うことが予想できるので。

N行は字の選択が難しく、W行は『和』以外になく、どちらも使いにくいですね。Y行かAIUEOでしょう。濁音とR行は使わないと思います。
また漢字は小学生の低学年で習うようなものが選ばれる可能性が高いだろうと思っています。

個人的予想は『安久』、って沢山の人が同じことを考えてるww


今の『平』の字は、下すぼまりで安定が悪く、字義も『(動乱を)平らにする』=現状が動乱、という、なんでこんな字を使うんだってくらい疑問な字だったので、改元には賛成ですが。

Q倭寇が歴史エンターテイメントの題材にならない理由

西洋では、海賊は「パイレーツ・オブ・カリビアン」「カリブの海賊」などエンターテイメントの題材になっており、日本の漫画である「ワンピース」も、日本的というより西洋的な海賊を描いているといえます。

日本人は時代劇やチャンバラといった日本の歴史エンターテイメントは結構好きだと思いますが、日本の海賊である倭寇がその題材になることがほとんどないのは何故でしょうか?

Aベストアンサー

カリブの海賊だけが特別で、その他はただの
賊だったからだと思います。

カリブの海賊は、一時期、英国海軍の下請け
みたいなことをやっていたからです。

つまり、体制側の海賊です。

当時のカリブ海は、イギリス領土でしたが
スペインの攻撃があり、イギリス海軍だけでは
手薄だったので、海賊に特別免許を与え
領土を守る、ということをやりました。

つまり、その時は正義の味方だったのです。

その他の海賊はただの犯罪者ですから
英雄視するわけにはいかなかったのでしょう。

ちなみに、倭寇は元寇の報復だ、という
有力な説があります。

Aベストアンサー

ローマ時代の奴隷は有名ですね
アメリカの黒人の奴隷も
南アフリカ共和国の
アパルトヘイトや
インドのカースト制度の
最下層は穢多・非人のような身分かと
思います。
今現在ミャンマーはロヒィンギャ民族の国籍を
認めないようです
スーチーさんは酷い人です


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