ジメジメする梅雨のお悩み、一挙解決! >>

坂本龍馬、暗殺ですが結局坂本龍馬暗殺して誰が得して誰が損しましたか?
結局徳川入り新政府ご破算でしたが黒幕松平容保なら松平容保の器と力量はしれてますか?
結局公務ではなくただの皆殺し暗殺で現代のテロリストとなんら変わりないですか?
てか正規政権ないから公務もくそもないですか?

A 回答 (1件)

竜馬は内戦回避と、徳川の政権への参加を考えていました。


薩長はこの逆でした(徳川を倒し政権を奪取する)。

結果は後者になりました。
なお、勝と西郷の話合いで、薩長と徳川の戦は回避されました。
(内戦はその後、東北、北海道と北上しました。函館で終結。)

明治維新とは政権が、徳川から薩摩・長州に変えただけのもの
でした(内向政権から外攻政権への転換)。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q平家と源氏の祖先はどうしてるのですか?

徳川家康の徳川家の末裔は現代も生きてますが、平家と源氏の末裔は生きてるのですか?

Aベストアンサー

その徳川家康が源氏の末裔ですよ。

Q先の大戦の相手がアメリカではなくソ連だったとしたら、どうなったと思いますか?

日中戦争の頃、今後の日本軍の方針としてシベリアを目指す「北進論」と東南アジアの資源を狙う「南進論」があったと聞きました。
結局南進論を選んだ日本はアメリカの経済封鎖を喰らい、石油を停められた結果、真珠湾を攻撃するという流れになったわけですよね。
もし北進論を選択したら、どうなっていたと思いますか?

敵はアメリカではなく、ソ連。
【ドイツ・日本連合軍 vs ソ連】という戦いになっていたはずですが?
もしソ連が勝ったとしても国力はかなり落ちたはずで、米ソ2大国による冷戦はなかったのでは?

Aベストアンサー

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を求めた。
それが満州。

中国大陸は大規模な市場とみていた米国にとって
日本の切り取り政策は明確な「敵」で
それであの手この手で日本を戦争に導いたわけです。

仮想的であったソ連への対策のために満州政策をしたのに
それで米国を敵に回した結果、ソ連と手をつなぐ施策までした。
戦前の日本はまったくもって、ま・ぬ・け、ですよね。

そんなマヌケな日本に
北進するか南進するかを自分で決める選択枝はありません。
国際政治に疎いアジアの田舎者が
百戦錬磨の欧米人に「踊らされた」だけですよ。

よって、申し訳ないですが
質問者さんの質問は、質問自体成り立たない。
まあ
単なる「戦艦大和と戦艦アイオワではどっちが強い?」
みたいな質問なら深読みも必要ないのでしょうけど
政策についてとなると、その前後が影響しますので。

過去を正しく読み取らないと
また欧米に「踊らされ」ますが
今の日本政治に過去と類似するところがないか
よく見極める必要はあるかもしれませんね。
そういうのを考えるのキッカケとしては
質問者さんの質問は鋭いかと思います。

回答ではなく意見になってしまいました(笑)。

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を...続きを読む

Q桃太郎の鬼退治や竹取物語のかぐや姫や七夕の織姫彦星物語は日本書記から作られたのでしょうか? 桃太郎は

桃太郎の鬼退治や竹取物語のかぐや姫や七夕の織姫彦星物語は日本書記から作られたのでしょうか?

桃太郎は天穂日命のことでは?

で、鬼は葦原中国のこと?

七夕の織姫彦星物語の話も八坂入彦皇子の次女が弟媛と書いておりひめと読む美人がいた。

天皇は美人の弟媛(おりひめ)の噂を聞いて、弟媛がいるところに出向くと言い出した。

弟媛は天皇が妃としようとこっちに向かっていると聞いて竹林に逃げ隠れた。

天皇は弟媛の家に着いたが、弟媛がいないので、近くの池に鯉を離して朝夕見て過ごしていた。

弟媛は鯉の話を聞いて、どうしても鯉が見たくて竹林を出て池に出て来てしまった。

天皇は弟媛に気付いて、妃となるように言ったら、弟媛は私は美人ではないので、姉の方が美人なので姉を妃としてくださいとお願いをし、天皇はそれを受け入れて弟媛の姉を妃とした。

そして姉の入媛は11人の子を産み、7人の男子と4人の女子を産んだ。

日本書記って竹取物語のかぐや姫と七夕の織姫彦星物語の元になってませんか?

気のせいですか?

Aベストアンサー

気のせいでしょう。

かぐや姫の話の原型は、広く世界に分布していることが知られていて、西洋に伝わったものはトゥーランドットというオペラになってたりします。七夕の話は中国原産です。桃太郎は、成立は江戸時代と言われていて、結構新しい昔話だったりします。

Qもし前田利家があと10年健在だったら徳川の天下になっていたか?

前田利家があと10年、1609年まで寿命があったら徳川家康は天下人になれたでしょうか?
利家がいても、やはり翌年の関ヶ原の戦いは起きたでしょうか?

Aベストアンサー

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指揮する器量と人望があること、北政所の信任が厚いこと、家康の本領が畿内から遠いこと、さらには傅役として秀頼を擁する「公儀」の正当性を有することから、いかに家康といえども兵力の少ない伏見城にいては大坂城の利家に合戦を仕掛けるのは難しいでしょう。

ただ、利家には野心がなく大博打もしないので、自分から合戦を仕掛けるとは思えない。
秀頼を擁しないという意味で、いざとなれば公儀になれないから、上杉征伐などの無茶振りもできない。
そのため両者にらみ合いの異常な緊張感が続く中、伏見にいては不利な家康が江戸に帰国する。
そのままにらみ合いが数年続いた後、利家が下手に出る外交を行い家康が形の上で帰順する…
そんな展開を想像します。

実際には緊張が最高に高まったところで利家が家康に会いに行くのですが、すでに余命幾ばくもなく、自分がいるうちに何とかしなければ、という使命感だったのではと思います。

利家健在中に合戦にならなければ、利家死去のとき秀頼は15歳前後に成長している。
それから「関ヶ原」になるかどうか…

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指...続きを読む

Q真珠湾攻撃をアメリカが事前に知ってたは明らかにウソでは?

戦死2,345民間人68。
これだけ犠牲が出たのを事前に知ってたけど戦略的な理由で黙ってましたは関係者が遺族から袋叩きになりません?
アメリカは民間人も銃を持ってます。
予想される犠牲者が数人ならともかく有り得ないと思いませんか?

Aベストアンサー

真実はだれにもわかりません。

しかし状況から見て,おおよそのことは判断できます。
私は質問者さんの感覚は正しいと思います。

知っていたけど黙っていた・・・
そんなことがあとからバレたら大統領どころか
政権も吹っ飛びます。

戦争を始めるにはもっと小さな被害で十分です。
民間人が一人虐殺されれば国内は大騒ぎになり,
戦争へとつながります。

生麦事件だって死んだのは一人です。
そこから薩英戦争が起こりました。

軍人を2000人以上犠牲にする必要はありません。
まあ,No.9さんの回答も説得力がありますけどね。

歴史は証明が難しいため,
とかく自分の都合がよいように操作されるものです。
質問者さんのように「自分の常識で考える」のが
いちばんよいのでしょうね。

Q将軍と軍の強さ

三国志等で強くて有名な将軍はたくさんいますが、その将軍が有名なのは、単純にその人自身だけが強いのでしょうか?それとも、軍そのものが強いのでしょうか?軍そのものが強いとすれば、どのような過程で強くなるのでしょうか。

兵卒などは突然招集したり、相手の軍から再編入したりするから、みんながみんな強いわけでもなさそうだなあとか、兵卒全体でまとまって動くこともできなさそうだなあと思います。それに、最初は少ない人数の軍でスタートしているところもあるなあと考えました。

しかし、呂布が曹操に「貴殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば天下の平定はたやすいことです。」といっているように、個人の能力だけでなく、指揮の仕方の能力、もともともっている軍の力などあるのでしょうか?

よかったらご教授下さい。

Aベストアンサー

三国時代で、中華の戦い方が、転機を迎えた様に感じますよ。

軍,武将の強さに関して言いますと、主に3つくらの要素かと。
① 武将の能力 
  1. 一騎打ち的な剛勇
2. 用兵や統率力
② 軍略,策略
③ 兵士の練度
特に①-2.と②,③を重視したのが、「孫氏の兵法」などに精通している曹操と言えそうです。

「官渡の戦い」が転機の前と後の戦いで、袁紹軍が前時代的であるのに対し、兵力,国力に劣る曹操軍が新たな戦を試み勝利したと言えそうです。

袁紹軍は緒戦から、二枚看板の顔良,文醜をぶつけてきましたが、それまでの中華の戦いでは極めて正攻法。
楽毅,伍子胥,白起に廉頗,王翦,項羽に韓信など、中国史に残る名立たる剛将,智将や王までもが、①~③までを一手に担って先頭に立ち、軍を率いていたのだから。
二枚看板が先頭でも、何の不思議もありません。
当時、中華最強であった袁紹軍の二枚看板が、凡庸な武将であろうはずも無く、練度なども最高水準だったでしょうし、軍師の陣容も曹操軍に勝るとも劣りません。

一方の曹操陣営は、軍師を前面に立てて、顔良は策略+関羽の武勇、文醜は策略で、あっさり討ち取っています。
呉や劉備陣営も、この後に軍師や智将の重用に転じ、赤壁の戦いで曹操に勝利しています。

実際、曹操陣営って、張遼を除くと、①-1.的な武将って、余り居ないんですよね・・。
許褚とか典偉なども居るんですが、これらは曹操の身近に置いてます。
軍の指揮官は、機動力がズバ抜けてる夏侯淵とか、事態の収拾能力が高い徐晃,張郃、技術者肌の李典など、文武両道の武将と・・軍師です。

呉は、孫策,孫権と若手がリーダーでしたから、割と柔軟に曹操型にシフトして、周瑜,魯粛,呂蒙,陸遜と、智将タイプを軍のトップに据えています。

蜀がやや遅れ気味で、劉備が死去するまでは、①-1.タイプが目立ちます。
従い、蜀のビッグネームが、一騎打ちで勝つことはあっても、敗れた事例はほとんどありません。
また諸葛孔明や法正のもと、馬超や晩年の張飛までも、かなり優れた用兵や統率もしているものの・・。

蜀から離れ、猛将 関羽が率いた荊州のみが、最後の前時代的。
一時はかなり魏を脅かしましたが、最終的に呉の策略に敗れてます。

三国時代の関羽を最後に、武将の勇猛と言う戦いは、終ったと言えるんじゃないでしょうか?

三国時代で、中華の戦い方が、転機を迎えた様に感じますよ。

軍,武将の強さに関して言いますと、主に3つくらの要素かと。
① 武将の能力 
  1. 一騎打ち的な剛勇
2. 用兵や統率力
② 軍略,策略
③ 兵士の練度
特に①-2.と②,③を重視したのが、「孫氏の兵法」などに精通している曹操と言えそうです。

「官渡の戦い」が転機の前と後の戦いで、袁紹軍が前時代的であるのに対し、兵力,国力に劣る曹操軍が新たな戦を試み勝利したと言えそうです。

袁紹軍は緒戦から、二枚看板の顔良,文醜をぶつけてきま...続きを読む

Q質問です。 明智光秀は岐阜の可児市にある明智城(長山城)で出生されたらしいですが、同じく岐阜の明智市

質問です。
明智光秀は岐阜の可児市にある明智城(長山城)で出生されたらしいですが、同じく岐阜の明智市の辺りに明知城という城址があるらしいです。地名も明智ですし、昔、岐阜は明智の先祖である土岐一族がおさめてた時代もあっ
たと聞きました。そういう事からそのお城も
明智光秀に何かゆかりがあるのでしょうか?

Aベストアンサー

>同じく岐阜の明智市の辺りに明知城という城址があるらしいです

岐阜県に「明智市」という市はないですよ、、、。
現在は恵那市に編入されている「明智町」では昔から明智光秀の誕生地と云われています。

Q江戸時代の下級武士は、2日出勤し、1日休む、という勤務体系だったそうですが、なぜ、勤務日が少なかった

江戸時代の下級武士のことです。
彼らの勤務は、おおむね2日出勤し、1日休む、だった、ということを聞きました。
現在の我々には、羨ましいことです。
ところで、なぜこのように勤務日が少なかったのでしょうか?
(私は、戦闘要員を確保しておくため、少ない仕事に沢山の下級武士を当てておいた、のかな、と思っていますが)

Aベストアンサー

大名には、格式があって、石高に応じて大名行列の規模などが決まっていること、大名としての見栄などで、必要以上の家来を抱えていました。また雇用される権利も子に相続されますから、なかなか減らせません。仕事量に対し、武士が多すぎました。
 幕府の小普請組なんか、仕事そのものはほとんどないのに、俸禄だけは支給されるという形でした。反面、有能な人に仕事が集中し、幕末には過労死っぽく短命だった人も何人かいます。

Q多賀城について

多賀城跡に観光に行きました。
驚いたことに、広大な敷地は起伏がそこそこある丘?山?にあったようです。
今まで、平城京跡や大宰府跡に行きましたが、これらは平地に造られていました。
多賀城は、なぜあのような起伏があるところに造ったのでしょうか?

多賀城を訪れてちょっとした疑問を感じたのですが、分かりやすく説明してくださる方が居たら嬉しいです。

Aベストアンサー

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのため、防衛と攻撃を同時に考えた、出城でもあったのです。

この地図(グーグルマップの地形図)を見てください。
https://goo.gl/maps/3jQZEYFPvLz

地形を見てもらうとわかるのですが、鉄道線と道路が通っているところは、北や西に向かって山間の通りやすい地形になっており、多賀城跡から南は仙台平野がひろがっています。
つまり、奈良時代、稲作を主とする倭人が仙台平野を開拓するにあたって、東夷とされた狩猟民族であるアイヌ人などが侵入してこないように、平地を望む山側に城を作ったのです。

軍隊と言うのは集団ですから、分散して険しい山を登ったり下ったりすることはしません。可能な限り隊列を組んで行動できる場所を移動するのです。ですから、多賀城周辺でいえば、七北田川などの河川敷を移動してきたでしょう。高台にある多賀城からみれば西の岩切中学校ぐらいまで来た軍隊は容易に見つけることができたわけです。
いまでこそ、護岸されていますが、当時の川の敷地は広く、また海も現在より近かったので、東北本線の線路あたりから南西は湿地帯で高い木などがなく、高台にある多賀城からは良く見えたでしょう。

また、利府町の方角からやってきたとしても、今度は多賀城の真横を通過することになります。海を北から来るにしても城のすぐ下の砂押川に船を用意しておけば、すぐに攻撃に移れます。

その上で、軍勢を多く城に置いた時でも、すぐ北にある加瀬沼から水が豊富に来ますので、水源の確保も容易だったといえるでしょう。

つまり、古代の軍隊が城を築いて守るにはうってつけの高台だった、ということです。たぶん、どんな軍人でも「守る」ということを考えたら、この高台に城を作ったと思います。

以下蛇足、地形と城について
長篠城 戦国時代、長篠の戦いと呼ばれる、この城を舞台にした戦いがありました。織田・徳川の軍勢と武田軍との戦いです。織田・徳川は尾張から甲斐に向けて軍勢を送るのですが、甲斐に向かっては木曽の深い山があるので、ルートは事実上2本しかありませんでした。その1本を守るのが長篠城です。

現在でいえば、JRの飯田線が走っている場所で、鉄道は急な勾配を登れないので、鉄道線が走っているということは、昔なら軍隊が隊列を組んで移動できたルートになります。そして長篠城は尾張ー甲斐のルート上「絶対に通る」場所で、しかも川が合流するT字の場所にあったのです。
地図 https://goo.gl/maps/YfcXjjyUA8C2

地図を見てもらえばわかりますが、尾張からくる軍勢は絶対に川を渡らないと、長篠城にたどり着けません。しかも川は谷底なので、崖上にある城から矢を射かければ容易に軍勢を阻むことができたわけです。
ですから、この場所に城を作れば「甲斐へのルートを守ることができた」のです。

上田城 昨年の大河でも上田城は良く出てきましたが、この城も良くできています。ルート的には関東・東海・関西と真田家が戦ったほぼすべて(特に徳川)が攻めてくるルートが合流する場所に城があり、この上田城を超えないと真田家の領地には入れなかったわけです。

上田城は盆地の平地部分にあるのですが、なぜここかというと、千曲川だけでなく、安曇野方面からくる道(現在の143号など)が千曲川流域に出てくる谷を見渡せるからです。またドラマにもでてきますが、神川に堰をあらかじめ作っておくことで、大軍勢がやってこれる、千曲川の下流域を分断することも可能になります。

上田城を攻められたら、神川の堰を切って、城攻めの前線の兵が退却できないようにしつつ、後ろに控えている援軍や補給部隊を神川の上流にある真田本城からの部隊で攻める、という構図が作れます。

つまり、上田城の場所も地形的に「あそこじゃないとダメ」だったのです。

ということで、ブラタモリじゃないですが「地形」を見ればどのように考えて城を置いたのか、が良く分かる、ということです。

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのた...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報