ここから質問投稿すると、最大4000ポイント当たる!!!! >>

昔は、男女差別がありましたよね。江戸時代、男女は、どんな歩き方をしたのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 男女が肩を並べて歩く事はあったのでしょうか?

      補足日時:2017/06/21 04:33

A 回答 (3件)

男女差別って。


役割分担はありましたけど、女性が男性より下に見られていたわけではないですよ。
まあ、戦国時代や明治時代の戦争が多かった頃は男性の力が強かったのは確かでしょうけど。

歩き方ですか。男性は大股で、女性は内股で歩いていたでしょう。
でも、女性の歩き方を含む作法を教えていたのは年配の女性であって、男性がそうするように圧力をかけていたわけではないです。
女性の作法は、男の口出しのできない領域でしたので。まあ、今でもそうですけど。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

つまり、三歩下がってとかじゃなくて、並んで歩いてたわけですね。ありがとうございます!

お礼日時:2017/06/22 21:27

現代でもあるでしょう?



歩き方と差別とは別物だと思いますが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私が聞きたかったのは、男尊女卑でもあって、女が三歩下がって歩いてたかどうか、だけ。回答ありがとうございます!

お礼日時:2017/06/23 21:36

昔は、男女差別がありましたよね。


   ↑
差別、というよりも役割分担がはっきり
していた、ということです。

かつては、マルクス史観などが席巻して、
過去に遡れば遡るほど、悲惨だったに違いない。
女性は差別されていた、と実証研究もしないで
そう信じられていました。

しかし現代では実正研究が進み、江戸時代の女性の地位は
相当高かったことが判明しています。

例えば三行半などは、女性の為の制度であったことが
判明しています。
いわば、独身証明書みたいなものです。

女性が強く不倫が多かったので、お歯黒や眉そりの
風習が出来ました。




江戸時代、男女は、どんな歩き方をしたのでしょうか?
   ↑
和服でしたからね、女性は小股でちょこちょこ
です。

身分によっても歩き方が異なっていました。
武士は、道路の中央を、胸を張って歩く。
中央を歩くのは、不意打ちに備えるための武士の
たしなみ、とされていました。
商人などは、うつむいて端を歩け、という具合です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2017/06/22 21:31

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q昔から日本では女性差別は無かったのではないですか?

昔の日本は女性差別が酷かったという人が居ますが、戦争にでるのは男、家を守るのが女という役割分担があっただけで、明確な女性差別は無かったのではないでしょうか。
(戦争に行くのは必ずしも男性と決められていたわけでもなく、中には女性の兵士も居たようです)
また、女性は女性らしく男を立てろと厳しく躾けられたという話を持ちだして、これをもって女性は差別されていたという人も居ますが、このように躾けていたのは母親とかお姑さんといった女性であり、父親が息子を男らしく厳しく育てたのと似たようなものだったのではなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

No4です。


質問の回答自体は、No4で終了なのですが、その後、19世紀のヨーロッパで女性差別が最悪だったものがどのように、女性に権利が与えられてきたのかの説明をした方が理解が深まると思いましたので、追記します。



19世紀のヨーロッパは、女性差別が最悪な時期でしたが、第一次世界大戦以降、女性の権利が認められるようになります。具体的には婦人参政権です。

理由は、第一次世界大戦は、これまでの戦争と違い、女性も軍需工場に働くなどをし、社会的義務を担うようになりました。「男性と同じ義務を負っているのだから、女性も男性と同じ権利を与えよう」という理由で婦人参政権が与えられました。

フランスは、その時期には婦人参政権は与えられませんでした。理由は「権利が増えると、義務も増えるので嫌だ」とご婦人自ら、婦人参政権を拒否しました。日本では、既に日本人女性はフランスの貴婦人と違い、軍需工場で働くなどの社会的義務を負っていたので権利を与えるべきでしたが、義務と権利の関係を理解していなかったようで、権利を主張する女性も、権利を与えないといけないという政治家もいませんでした。

義務と権利の関係を理解していない点では、今でも同じですね。


その後、西洋思想は女性の権利を認める思想になり、それに迫られる形で日本にもその思想がまた入ってきます。つまり日本の男女差別の思想は、西洋思想によって最悪な状態になり、西洋思想によって女性の権利(誤った意味で「女性の権利」を吸収してしまったが)の思想が入ってきました。

No4です。


質問の回答自体は、No4で終了なのですが、その後、19世紀のヨーロッパで女性差別が最悪だったものがどのように、女性に権利が与えられてきたのかの説明をした方が理解が深まると思いましたので、追記します。



19世紀のヨーロッパは、女性差別が最悪な時期でしたが、第一次世界大戦以降、女性の権利が認められるようになります。具体的には婦人参政権です。

理由は、第一次世界大戦は、これまでの戦争と違い、女性も軍需工場に働くなどをし、社会的義務を担うようになりました。「男性と同じ義務...続きを読む

Q女性差別の具体的な例

具体的な女性差別の例を教えてください。
たとえば、男女混合名簿とか

Aベストアンサー

>具体的な女性差別の例を教えてください。

1)プロの女相撲の禁止(大正時代くらいまではあったんですが)
2)プロ野球への女性入団の禁止
(アメリカには女性の選手いるんですよね)
3)東大の教授の人事
(東大卒の女性教授はいますが、東大に女性の教授が
 いません)。
4)女性用風俗店の少なさ
 男性用の性風俗は沢山あるのに、女性用は
 あまりありません。女性だけの東南アジア向け  
 美少年売春ツアーがあるくらいですから、需要は
 少なくないはず。
5)女性の教育レベルの低さ
 今だに女は早く結婚させるべ、みたいなバカ親が
 いること自体信じがたいことですが、男性の
 大学院への進学率の上昇率に対して、女性の
 進学率が低すぎます。
  これについては社会的障害ではなく、親が女の子
 に十分な教育を行わないという差別をしている
 ことに間違いありません。
6)女子大の存在
  社会に出たら、男女平等に機会が与えられると
 同時に共に戦わなければならないかもしれないのに、
 大学という中等教育まで女性専用という箱入り娘
 的逆差別教育環境があるのはおかしいです。

>具体的な女性差別の例を教えてください。

1)プロの女相撲の禁止(大正時代くらいまではあったんですが)
2)プロ野球への女性入団の禁止
(アメリカには女性の選手いるんですよね)
3)東大の教授の人事
(東大卒の女性教授はいますが、東大に女性の教授が
 いません)。
4)女性用風俗店の少なさ
 男性用の性風俗は沢山あるのに、女性用は
 あまりありません。女性だけの東南アジア向け  
 美少年売春ツアーがあるくらいですから、需要は
 少なくないはず。
5)女性の教育レベルの...続きを読む

Q女性の地位(江戸から明治維新)についての質問です。

江戸時代から明治時代にかけて、明治維新の中で女性の地位の変化があったと思いますが、実際、女性の地位は明治維新により向上したのでしょうか?それともさらに低くなったのでしょうか??

Aベストアンサー

 基本的に江戸時代は武士では朱子学が主流的な倫理ですから、男尊女卑的な傾向が強いと考えるべきでしょう。
 しかし、公家・庶民の倫理感では朱子学が支配的とは言えず、女性の地位が低かったという論証の証拠はありません。
 これは封建社会における一般的傾向ですが、支配階級では独特の倫理感から男尊女卑が見られますが、庶民は性差を確認することができません。 それは、封建主義は女性労働力への依存度が以前として高いことにあり、同時に生産力として頭数(人口)が重要な経済因子として考えられることが指摘できます。つまり、女性は子供を産む存在であり、育てる存在である限りは、生産力の逓増のためには、女性を無視することができないという部分があります。
 世界史的に指摘すれば、近世の政治革命であるフランス革命では、制限的ながらも女性人権が確認されますし、男性上位の制度にしても、女性が顕著に劣位とされたとは言えないでしょう。
 
 さて、質問の回答ですが、残念ながら女性の相対的地位は下がったというべきでしょう。
 それは、明治維新が既存の朱子学的倫理による支配を目指したことからも明白でしょう。
 教育勅語は朱子学的見地が強く、男尊女卑的見地が多々見られます。そして、家長制度の普及によって女性の地位は下がります。
同時に皇権でも、明治22年皇位を男系男子に限定し、女性皇族の即位を否定した旧皇室典範が制定されるなど明治維新は男尊女卑を加速化させる傾向にあります。
 ただし、革命期を除けば世界的に近代通史は男尊女卑の傾向にあります。
 男女同権という倫理感が支配的になったのは、第二次世界大戦後の話と言えます。

 ちなみに、歴史で食べている人間として言うならば、女性の影響力は非常に大きいことは言うまでもありません。
 その根本は女性だけが子供を残せるという特異性につきます。女性が多産である家は家名を残し、繁栄させる重要な要件です。
 むしろ、女性権力が局所的に強い歴史ほど、影響力が強いと言えるでしょう。
 ハプスブルグなどは女性なしには到底語れない歴史です。ナポレオンも女性なしには語れませんし、伊藤博文も同じことです。

 ちなみに、庶民と武士・公家と分けて考えることをお薦めします。

 基本的に江戸時代は武士では朱子学が主流的な倫理ですから、男尊女卑的な傾向が強いと考えるべきでしょう。
 しかし、公家・庶民の倫理感では朱子学が支配的とは言えず、女性の地位が低かったという論証の証拠はありません。
 これは封建社会における一般的傾向ですが、支配階級では独特の倫理感から男尊女卑が見られますが、庶民は性差を確認することができません。 それは、封建主義は女性労働力への依存度が以前として高いことにあり、同時に生産力として頭数(人口)が重要な経済因子として考えられる...続きを読む

Q昔の女性は本当に立場が弱かったのでしょうか?

昔の女性は差別され、立場が弱かったと主張する人がいますが、私はこれについて疑問があります。
実際のところは戦前まで、身分が高ければ男女関係なく立場が強く、身分が低ければ男女関係なく立場が弱い、というのが本当のところだと思うからです。
特に昔の身分が低い男性は結婚もできず、若ければ兵隊として戦地に連れて行かされていたので、立場としては最も低かったのではないでしょうか。性別による差別よりも身分による差別の方がよっぽどひどかったのではないかと思います。

また、人間以外の動物は基本的にオスはメスに対して優しく尽くしている場合が多いです。人間も元々がサルなので、男が女を差別するというのはDNAにないと思います。

Aベストアンサー

「差別」というのは、時代や文化によって異なります。現代的な基準では「平等」は機会の平等であり、その機会を権利として保障する、というのが一般的な考え方がですが、イスラム教の教義などは明らかにこれに反します。しかし、イスラム教の女性の多くは「守られており、幸せである」と答えますので「差別」という価値観はひとつではないといえます。

この点を踏まえて、時代背景も踏まえて、私たち日本人が考える「平等・不平等」を考慮する必要があります。

まず、歴史的な男女平等ですが、質問者様の中にも疑問として「徴兵」が出てきます。実際に古代ローマやギリシャの民主制ポリスなどでは、徴兵=参政権でした。徴兵に行く者しか政治的な発言権はなかったのです。これはある意味当然のことで、政治は時に多大な戦死者を出したうえで、和平や敗戦を了承することもありえましたから、犠牲と発言権は同一とみなされていたからです。
古代のローマでは女性にも財産権や離婚権がありましたが、政治的な発言権は明らかに不平等であったといえます。ただし、同様に発言権のない男子も多数いたのです。

近代的な欧米では、男女の差別よりも人種差別の解消のほうが優先されました。フランスに始まる啓蒙思想により、欧州では奴隷制がフランス革命と同時期に廃止運動が高まり、最後にアメリカが公民権運動により人種差別法が廃止されたのは1964年の公民権法までかかりました。
この時代、女性解放も一部意識され、胸を露わにした女性がフランス革命を率いるウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神」(1830年)等にその意識が残っています。

この絵画の女性は「自由」の象徴であり、実際の人物ではなく女神が「自由の化身」として描かれ、胸をあらわにすることで、女性自体の解放も表現していると言われています。

面白いことに、現代のニューヨークでは「女性が胸をあらわにして公共空間にいる権利」が主張されています。

当時の西洋女性は、今のイスラム並に権利がなく、男性に隷属する存在であったといえます。特に財産権と離婚権はほぼ無く、国によっても違いはあるものの、ドラマ:ダウントンアビーのように「相続権は男子一人」の限嗣相続制が一般的でした。そのため女性は自分の父親が死んだときに男性の兄弟がいなければ、すべての財産が他人(遠い親戚)のものになり、場合によっては住んでいた屋敷から追い出されることもあったのです。
 
これを回避するには、財産を得る相続人と誰かが結婚するしか方法はなかったのです。このように財産権(相続権)がないと、自己決定権を主張する前に餓死してしまうわけです。

イスラムは今でも女性に財産権や相続権を認めていない国がありますが、西洋でも順々に女性差別が解消されたとはいえ、最終的に男性と同じ権利を女性が得たのは、フランスにおいて結婚法が改正された1970年まで待たなければなりませんでした。
つまり、西洋女性が法で規定されている諸権利が平等になって、今から50年程度しか立っていないといことです。

さて、ここまで別の国の価値観や歴史を比較のために書いてきました。ようやく日本のことになります。

日本のおいて、財産の最初の規定は大宝律令の租庸調の税制と公田法による、平民すべてに配られた田畑の使用権に始まります。男女で大きさの差はあるものの、それ以外の区別はあまり多くなく、一部地域の男性に防人の義務があったぐらいです。つまり男女はほとんど平等、どちらかというと男性の負担が大きい、といえます。

しかし、この公田法は田圃が全然足りないため、すぐに崩壊し墾田永年私財法に変化していきます。自分で開墾したらそこは自分の土地である、ということでここでも男女の区別は特についていません。この時点で日本女性は財産権と相続権を男性と同等に維持し、現代に至ることになります。
つまり日本においては、自己決定を裏付けるための財産権は平等であったのです。

次に、墾田を開墾したものの中から武士が登場します。自分で開墾しても、その土地の権利を保障してくれるところはどこにもありませんでしたから、自分たちの土地を自分たちで守る、という意識が大きくなり、農民が武装集団化していったからです。

そのため戦国時代までは、女武者と呼ばれる女性の武士も存在しました。巴御前などは有名ですが、大将を務める女性だけでなく、一族のために出陣する足軽の中にも女性が居たと言われています。
 
そもそも女性は子供を産み育てることが基本的な仕事ですから、甲冑を着て戦場に参加するのはよほどの事情があったのでしょう。しかし、古代のヨーロッパのように「女性は徴兵されない」というのとは真逆で、自分や一族の財産権や相続権の維持のため男子が居なければ出陣する女性もいたと言われています。
このような女性がいる社会では、政治の参政権の女性だからまったく関わらない、ということはありませんでした。

江戸時代になると平和な時代がやってきます。この時代は幕府や藩などで高級官僚が誕生する時代です。武士が貴族化するにしたがって、武家の女性の権利は低下していきますが、武士は当時の日本の人口では3%程度ですので、庶民の暮らしはそれほど変わりませんでした。

庶民の中で特に「相続」を意識しなければならなかったのは、農家や商家です。日本では妾はいたもののあまり大ぴらには出来ませんでしたから、男子が居なければ娘が後を継ぐことも頻繁に行われました。一部地域では「女紋」という特殊な風習があり、男性が継ぐ家紋のほかに、母から娘に伝わる家紋もありました。日本では女性にも財産権がありましたから、結婚した時に持って行った家具類や衣服・持参金などは男性側が勝手に処分することはできず、離婚するときはすべて返却することになっていました。そのため、嫁の持参金を使い果たして離婚したくてもできない、という川柳もうまれたぐらいです。
女紋はこのような用途にも利用されたと言われています。

さて、ここで非常に重要なことがあります。それは家計は誰が握っていたか、ということです。

前述のとおり、イスラムの国から欧米にかけて、現代になるまで女性には財産権などがなく、明らかに自己決定権を遂行するのが難しい時代が長く続きました。そのため、現代でも家計を管理し、家族の方向性を決定するのは男性の役目である文化がほとんです。
日本は違います。女性にも財産権や自己決定権があったこと、男性は外向き(公式な仕事の管理)、女性は奥向き(自分の家庭の管理)と役割分担をしていたため、日本では「女性が家計を握る」のが伝統的であり一般的です。

世界的に男性が家計を握るのが80%以上の国がほとんどなのに対して、日本は同じ比率で女性が管理しているのです。

さて、そろそろ結論に達しないと行けないと思います。
結論は
「元々、女性は生物学的に子供を産む、という行為があるために保護の対象でもあったため、被保護者としての立場もあり、常に完璧に「男性と同じ」というのは難しく、特に武器で争うことが日常的的な社会では、権利が妨げられることもあったといえる。
 しかし、少なくとも、日本においては、女性も男性と同等の権利を有していた時代が長く、自己決定権とそれを保証するための財産権・相続権なども男性と女性はほぼ同じだけの権利を有していたし、戦国時代のような武器で争う時代であっても、男性と同等に戦うことを選択することもできた。
 むしろ、明治期に西洋文化を取り入れ、処女進行や家父長制を取り入れたため、一時的に女性の権威に否定的な側面がでたこと、近代化の際の選挙権などで差がついたことは事実である。
 しかし、根本的に日本女性は男性と同様の「自己決定権」をもっていたといえ、それを利用して自由にたくましく、生きてきたといえる。したがって、日本においては女性の立場は「弱かった」とまではいえず、ほぼどの時代でも尊重されていたといえる」
となります。

女郎などの問題はありますが、男性ならタコ部屋で食事も粗末で死の危険がある労働をかせられたわけですから、少なくとも白いご飯が食べられる女郎が、それにくらべて「悲惨」であった、と断じるのは男女の性差を考えれば、センチメンタルにすぎるといえます。
 いずれの立場の男女も、売られてからの平均寿命はごく短いものであったからです。

個人的な身分関係や、妊娠におけるトラブル・嫁姑問題や貧困による女衒や苦役など、個人とその個人の関わる状況による差は、考慮に値しません。それを考慮するなら、西洋と同様な奴隷制を持たない日本はそれだけで男女とも幸せであった、といえるでしょう。

ということで、制度や法的な権利義務を総合的にみると、日本の女性は歴史的文化的に相当に立場が強く、完璧に同じとは言えないものの、それは女性が子供を産むという「被保護」と引き換えであり、それ以外(特に結婚前の娘や子育て後の翁は)男性と同等の部分も多かった、といえます。

「差別」というのは、時代や文化によって異なります。現代的な基準では「平等」は機会の平等であり、その機会を権利として保障する、というのが一般的な考え方がですが、イスラム教の教義などは明らかにこれに反します。しかし、イスラム教の女性の多くは「守られており、幸せである」と答えますので「差別」という価値観はひとつではないといえます。

この点を踏まえて、時代背景も踏まえて、私たち日本人が考える「平等・不平等」を考慮する必要があります。

まず、歴史的な男女平等ですが、質問者様の中...続きを読む

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q江戸時代の下級武士は、2日出勤し、1日休む、という勤務体系だったそうですが、なぜ、勤務日が少なかった

江戸時代の下級武士のことです。
彼らの勤務は、おおむね2日出勤し、1日休む、だった、ということを聞きました。
現在の我々には、羨ましいことです。
ところで、なぜこのように勤務日が少なかったのでしょうか?
(私は、戦闘要員を確保しておくため、少ない仕事に沢山の下級武士を当てておいた、のかな、と思っていますが)

Aベストアンサー

大名には、格式があって、石高に応じて大名行列の規模などが決まっていること、大名としての見栄などで、必要以上の家来を抱えていました。また雇用される権利も子に相続されますから、なかなか減らせません。仕事量に対し、武士が多すぎました。
 幕府の小普請組なんか、仕事そのものはほとんどないのに、俸禄だけは支給されるという形でした。反面、有能な人に仕事が集中し、幕末には過労死っぽく短命だった人も何人かいます。

Q畳は日本の文化って大嘘ですよね? 戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

畳は日本の文化って大嘘ですよね?

戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

日本の和室が出来て和室全部に畳を敷くようになったのは昭和ですよね?

Aベストアンサー

存在する最も古い畳は奈良時代の畳です。
「御床畳」(ゴショウノタタミ)という木でできた台の上に置かれたものが、
奈良東大寺の正倉院に保管されています。
安土桃山時代の茶室は畳でしたよ。
一般的になったのは江戸時代後期です。
畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が
確立していき、庶民の家にも使用されるようになったようです。

Q戦国時代までの日本の漢文の文法は独自だったのですか?

宮城谷昌光の著書にて「武田信玄の書状でも漢文は文法的に間違ってる事が多い」のような事が書かれておりました。
勿論祐筆もいたでしょうし、祐筆が間違っていた可能性もあります。
秀吉のように祐筆がいるからこそ「自分に敬語を使う現象」という説も生まれます。

が、本人や受け取り手が読む事もありますよね。
それも信玄が読むくらいで文法がそうであれば、日本は独自の文法で漢文を使っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

日本の漢文というのはもともと中国の先進文化を取り入れるため
中国語を習わずとも中国の文語文を読むために発達したものです。
つまり、書くことには重点を置いてなかったのです。
武田信玄の書状をここに示していただければアドバイスできると思いますが、
それが無いので、論語、郷党編の一節で説明します。

原文に「唯酒無量 不及亂」とありますが

「ただ酒は量なく乱に及ばず」と読むのか「ただ酒は量なし、及ばざれば乱す」とでは
全く意味が違ってきますが、中国語を解する方であれば後者はあり得ないと判ります。
これが漢文を読むだけの方ですと、どちらが正しいのかわかりません。

漢文もよく勉強すれば、正しい文章が否かがわかってきますが、そこまで達するのは至難の業です。
遣唐使で極めて立派な漢文をかけるのに、中国語は全くできない僧侶がいて、現地で驚かれたというエピソードも
ありますが、それは例外でしょう。

日本人相手の漢文の手紙ですと「俺は教養がある」というところを見せつけたくて書く場合も多かったようです。
当然、文法無視の漢文もザラにありました。
それでも、読む方も日本人ですので、前後の文脈から、言いたいことは判ったようです。

日本の漢文というのはもともと中国の先進文化を取り入れるため
中国語を習わずとも中国の文語文を読むために発達したものです。
つまり、書くことには重点を置いてなかったのです。
武田信玄の書状をここに示していただければアドバイスできると思いますが、
それが無いので、論語、郷党編の一節で説明します。

原文に「唯酒無量 不及亂」とありますが

「ただ酒は量なく乱に及ばず」と読むのか「ただ酒は量なし、及ばざれば乱す」とでは
全く意味が違ってきますが、中国語を解する方であれば後者はあり得ないと...続きを読む

Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Q大名ってなんですか? また、諸大名と大名の違いとは⁇

大名ってなんですか?
また、諸大名と大名の違いとは⁇

Aベストアンサー

時代によって意味が違うけど、多分、江戸幕府時代での大名の事を言ってると思うので、江戸時代について。

江戸幕府(将軍)から任命されて、主に石高(こくだか)1万石以上の領地(藩)を幕府から禄(ろく:給料)として与えられ、その領地を治めた藩主。

諸大名は2人以上の大名を纏めて言う時の言い方。

日本には、領地が250以上に細分されていたから、藩主も250人以上いた。

実際には藩と言う呼び名は、明治政府が付けた。
明治政府が「県」と言う行政区分を整理する際、それまでの行政区分を便宜的に「藩」と名付けた。

だから江戸時代には藩、藩主と言う言い方は無かった。


人気Q&Aランキング