旅行好きのおしりトラブル対策グッズ3選

なぜロンドン海軍軍縮会議が行われ日本は参加したのですか?

A 回答 (2件)

1922年に締結したワシントン海軍軍縮条約では、巡洋艦以下の補助艦艇は建造数に関しては無制限でした。

この結果、各国とも条約内で可能な限り高性能な艦を建造することになりました。 次に、1927年にジュネーブ海軍軍縮会議において今度は補助艦の制限について討議が行われましたが、イギリスの個艦規制主義とアメリカの比率主義が対立したため決裂に終わりました。 その後1929年6月14日、英米間予備交渉において進展があったため、各国を招請してロンドン海軍軍縮会議を開催する運びとなりました。 日本の濱口内閣は放漫財政の整理を掲げ、さらに日露戦争の際に発行した国債の借換え時期を控えていました。 このため、他の列強との協調を維持しつつ、軍縮による軍事費の削減を実現することに対し積極的であったため、ロンドン軍縮会議にも積極的に参加しました。
    • good
    • 3

北の刈上げ対策に決まってるだろ。

    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q乃木希典が、二百三高地を攻略した後に、明治天皇に復命した時の様子について

先日、舛田利夫監督、仲代達也出演の映画『二百三高地』を見る機会がありました。

映画では、乃木大将が二百三高地を攻略した後に明治天皇に復命する場面があり、その復命の最後の段で、乃木大将が泣き崩れる場面がありましたが、乃木大将が泣き崩れたというのは本当でしょうか?

私には、明治時代の男であり、しかも軍人である男が、天皇の前で、自分の感情もコントロール出来ずに泣き崩れるなんて、ありえないと思えるのですが、・・・?

史実にお詳しい方、お教え頂けると幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

映画の演出らしいですよ。
下記ページのエピソードのところに書いてあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%99%BE%E4%B8%89%E9%AB%98%E5%9C%B0

Q海外の戦争で売春婦同伴は日本だけですか?

日本軍が海外の戦争で慰安婦(売春婦)を同伴したのは日本政府も認めています。私が不思議なのは海外で多数の戦争をしたスペイン、イギリス、フランス、アメリカはどうだったのでしょうか?もっぱら強姦だったのですか?

Aベストアンサー

・ドイツ

1939年9月9日、街娼を禁止して売春宿をすべて警察の
管理下におき、衛生上の監督を受けるよう義務付けました。
各占領地では、ドイツ軍人の利用に適した売春宿を指定し、
それ以外の利用を原則禁止しました。
地区司令の監督下で前線の中隊長クラスが管理・運営し、
性病予防のため検診を義務付けました。
西部戦線では一般の売春宿を指定していましたが、
東部戦線では当時のソ連が売春を禁止したため
慰安婦確保のために強制連行をすることもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BB%8D%E5%B0%86%E5%85%B5%E7%94%A8%E5%A3%B2%E6%98%A5%E5%AE%BF
ドイツのもう一つの特徴は、収容所にも慰安所があったこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80%E5%A3%B2%E6%98%A5%E5%AE%BF

さて、ここまで読んで日本の慰安所とほぼ同じと
思われたでしょう。
以前、このことを踏まえて指摘したところ、
プロと思われる方から慰安婦の定義(日本軍を念頭に
定義してあるので事実上は日本の慰安婦)を出されて
素人扱いされました。
実際は秦郁彦氏や吉見義明氏のような慰安婦研究の
専門家も認めているのですが、
この質問板のプロの方は、解釈は違うようです。

ちなみに、当たり前ですがドイツは強制徴用した
元慰安婦に謝っていません。
それどころか日本の慰安婦制度を非難しています。



・ソ連

WWⅡ時は事実上兵士による暴行を黙認していました。
作家のイリア・エレンブルグがパンフレットで
「ゲルマン女性は諸君の戦利品だ」と煽ったこともあるそうで、
ベルリン陥落後の調査では全女性の50%が暴行され、
10%が性病にかかったとされています。



・フランス

フランスはWWⅡ後の植民地紛争で出兵していますが、
その時利用したのが移動慰安所です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bordel_militaire_de_campagne
(Wikiですが英語版です)
現地人は防諜の関係で好ましくないという理由で、
軍によって正式に組織された慰安所そのものを、
部隊の移動にあわせてトラックなどで移動していました。



・イギリス

基本的に売春宿を廃止したり、兵士の利用を禁止しました。
その結果として性病が蔓延し、シシリー島占領後には
本国の20倍で、戦傷者を上回る勢いという記録もあります。
また、兵士の利用は禁止されても、今でいう援助交際のように
自由恋愛を名目に事実上は継続利用されていました。



・アメリカ

イギリスとほぼ同様。
戦後、日本が進駐軍による暴行を危惧して
「特殊慰安施設協会」(RAA)を組織しました。
1945年8月25日に運営を開始しましたが、
1946年1月に禁止令が出て、1946年3月には閉鎖されました。
ただし、公式な慰安所が無くなっただけで
一般の慰安所を利用していました。



・韓国

朝鮮戦争では日本の慰安所をまねた慰安所が開設されました。
当時の韓国では売春宿を禁止していましたが、
慰安所は外貨を稼ぐとして奨励されました。
よほどうまくいったのか軍でも好評で、
韓国陸軍本部が編纂した「後方戦史」にも
称賛されていました。

ところが、日本の慰安婦問題で非難するのには不都合なので
現在の韓国では「後方戦史」は無かったことにされています。
ちなみに、この問題は「基地村慰安婦問題」として
時々報道されますが、韓国政府はこの慰安婦に対して
「証言は証拠ではないから、正式な証拠を慰安婦自ら出せ」
というように冷遇しています。

ベトナム戦争でも慰安所があり、ライタイハンの問題などが有名です。

・ドイツ

1939年9月9日、街娼を禁止して売春宿をすべて警察の
管理下におき、衛生上の監督を受けるよう義務付けました。
各占領地では、ドイツ軍人の利用に適した売春宿を指定し、
それ以外の利用を原則禁止しました。
地区司令の監督下で前線の中隊長クラスが管理・運営し、
性病予防のため検診を義務付けました。
西部戦線では一般の売春宿を指定していましたが、
東部戦線では当時のソ連が売春を禁止したため
慰安婦確保のために強制連行をすることもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3...続きを読む

Q先の大戦の相手がアメリカではなくソ連だったとしたら、どうなったと思いますか?

日中戦争の頃、今後の日本軍の方針としてシベリアを目指す「北進論」と東南アジアの資源を狙う「南進論」があったと聞きました。
結局南進論を選んだ日本はアメリカの経済封鎖を喰らい、石油を停められた結果、真珠湾を攻撃するという流れになったわけですよね。
もし北進論を選択したら、どうなっていたと思いますか?

敵はアメリカではなく、ソ連。
【ドイツ・日本連合軍 vs ソ連】という戦いになっていたはずですが?
もしソ連が勝ったとしても国力はかなり落ちたはずで、米ソ2大国による冷戦はなかったのでは?

Aベストアンサー

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を求めた。
それが満州。

中国大陸は大規模な市場とみていた米国にとって
日本の切り取り政策は明確な「敵」で
それであの手この手で日本を戦争に導いたわけです。

仮想的であったソ連への対策のために満州政策をしたのに
それで米国を敵に回した結果、ソ連と手をつなぐ施策までした。
戦前の日本はまったくもって、ま・ぬ・け、ですよね。

そんなマヌケな日本に
北進するか南進するかを自分で決める選択枝はありません。
国際政治に疎いアジアの田舎者が
百戦錬磨の欧米人に「踊らされた」だけですよ。

よって、申し訳ないですが
質問者さんの質問は、質問自体成り立たない。
まあ
単なる「戦艦大和と戦艦アイオワではどっちが強い?」
みたいな質問なら深読みも必要ないのでしょうけど
政策についてとなると、その前後が影響しますので。

過去を正しく読み取らないと
また欧米に「踊らされ」ますが
今の日本政治に過去と類似するところがないか
よく見極める必要はあるかもしれませんね。
そういうのを考えるのキッカケとしては
質問者さんの質問は鋭いかと思います。

回答ではなく意見になってしまいました(笑)。

陸軍が中心となる北進論に対し、
海軍が中心となる南進論ですね。
ただ、
南進論が本格化したのは
米国の石油禁輸を含む強硬な態度が原因で
そのように仕向けたのは日本の満州政策です。
中国を狙っていた米国としては
日本が満州に浸透するのは不満でならなかったから。

でも、日本としては
最大の仮想敵であるソ連との緩衝地帯を欲していた。
本来はこれが朝鮮半島だったのですけど
21世紀の今になっても強請タカリされるような
間抜けな愚策によって日本に併合してしまったので
さらにその外側に緩衝地帯を...続きを読む

Q明治時代、大勢の西洋人が日本に技術を教えに来た理由は何ですか?

明治維新後、西洋から数多くの技術者や教師が日本に来て、当時最先端だった技術や制度を教えに来て、彼らはお雇い外国人と呼ばれました。

当時の世界情勢を見ると、西洋人はアジアやアフリカの国に対してはアヘンを売ったり奴隷を買ったりという悪いことか、せいぜいキリスト教を布教するというありがた迷惑なことしかしていないように見えますが、日本に対してはなぜか例外で、日本の科学技術の進歩や近代国家としての制度の構築に力を尽くしてくれた人が大勢いた理由は何でしょうか?

他の国・地域と違い、日本人には特別サービスしたい気持ちにさせる何かがあったのでしょうか?
日本が近代化して、西洋のライバルとして台頭してくるのが怖くなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

もう少し、西洋人側に贔屓した回答をします。

何故だか分かりませんが、欧米人というか白人は「とにかく外に出て行こう」とする特性があります。
大航海時代もそうですし、アメリカの西部開拓もそうです。イギリスのインド支配もそうなら、南蛮人が日本まで通商にやってきたのもそうです。

もっとも、白人側からすれば経済的な動機も大きなものです。ほとんどの人が誤解していますが、実はヨーロッパというのは元々「貧しい地域」でした。そのため豊かだとされている、アジア地域と通商して利益を得たいと考えたのが大航海時代のはじまりです。

同時期にアジアの各国も船は持っていましたし、東南アジアから日本までの航路などもあったのに、なぜかアジアやアラブ諸国の人々は大航海をしませんでした。理由は「経済的に豊かなので地域貿易だけで潤った」からです。

この大航海時代の成功が白人の価値観を決めたように思いますが、その後植民地支配やアメリカの開拓に臨んだのは白人が主体です。面白いのは、アメリカの開拓には中国人やインド人なども参加しているのですが、彼らは華僑や印僑となり、一部の地域に集団で生活することで満足してしまったことです。白人がアメリカ西海岸に到達したようなバイタリティはアジア人にはなかったのです。

これの外交的な性格が悪いほうにでると、植民地支配や宣教になっていくわけですが、中にはキリスト教的な博愛精神から「困っているなら助けに行こう」という人もいたのです。

それが日本に来た外国人技師、教師たちの主な動機です。もちろん自国では得られないような高給も魅力だったでしょうが、それでも「断る人は断る」わけで、白人のほうが「断らない」ボランティア精神にあふれていた、ということでしょう。

これらの白人たちは日本に来て驚きます。何を驚いたかというと「生徒になる人たちは、みな勤勉で、物覚えが早く、習得する意欲に満ちていた」ことです。これにより、白人側も「教える喜び」を覚え、結果として日本に長く滞在し、すべての技術を教えてしまうようなことになります。

この時代のエピソードに「フランス人の箱」というものがあります。
日本は電力設備の技術をフランスから習い、フランス人技師たちが帰国する前に「この箱だけは君たちの技術では無理だから、なにかあったら呼んでね」と言い残して去り、実際にはなにもしていない「ただの箱」だった、それを日本人たちは独学で気がつき、それを外したことで日本の電力技術は一人前になった、という話です。

また、 咸臨丸のエピソードもあります。 咸臨丸は「日本人が自分たちで初めて太平洋をアメリカまで渡った」とされていますが、実際にはほとんどをアメリカ人たちにやってもらっていたようです。でも、アメリカ人は到着した現地新聞に「日本人たちは自分たちでこの航海を成し遂げた」と説明して、日本人のプライドを守ってくれました。

キリスト教の慈愛の精神からなのか、こういうイノセントな白人はそれなりにいたのです。彼らのような人々が最初は「志」をもって日本に来てくれ、日本人の生徒たちも心から感謝したのがいい影響を及ぼし、その後の外国人招聘につながっていったのでしょう。

どこかの国のように、外国人を馬鹿にし、学ぶ態度を見せなければ、彼らも「実利」だけ受け取って帰ったわけです。

もう少し、西洋人側に贔屓した回答をします。

何故だか分かりませんが、欧米人というか白人は「とにかく外に出て行こう」とする特性があります。
大航海時代もそうですし、アメリカの西部開拓もそうです。イギリスのインド支配もそうなら、南蛮人が日本まで通商にやってきたのもそうです。

もっとも、白人側からすれば経済的な動機も大きなものです。ほとんどの人が誤解していますが、実はヨーロッパというのは元々「貧しい地域」でした。そのため豊かだとされている、アジア地域と通商して利益を得たいと考えた...続きを読む

Q新羅と日本は仲が良かったのでしょうか? 八世紀の日本と新羅について質問です。 白村江の戦いで日本は新

新羅と日本は仲が良かったのでしょうか?

八世紀の日本と新羅について質問です。

白村江の戦いで日本は新羅と対立していたと思います。ですが、その後、贈り物を送りあったりしているのを習いました。教えていただきたいのは、贈り物をしあうきっかけとなったのはどう言う出来事ですか?二つ目に、日本は新羅と贈り物をしあうことでメリットがあったのですか?

日本史が苦手で知識が無く、おかしい文章になっているかもしれません。

Aベストアンサー

日本も一枚岩ではなかった、って感じでしょうか。
ヤマト王権はありましたが、九州は九州で勝手にやってるようなところもありましたしね。

百済は親日本国で、その百済を滅亡させたのが新羅ですので、当然日本勢(当時は日本ではなかったですが)は百済の味方だったろうというのがずっと思われていた考え方だったのですが、数年前に新羅の贈り物が発見されたために、日本のなかでも百済に味方して戦う勢力もいれば、新羅に味方して戦っていた勢力もいたようだ、ということが新たに分かったのです。
新しい見解ですので、詳細は今からかもしれません。

その後、百済は新羅(と唐)に滅ぼされ、百済の再興をめざして起こしたのが白村江の戦いで、数万人の兵を送り込んで負けたのはご存知の通りです。それで2万人くらいの百済の人々が日本に渡ってきて、日本の文化にも大きく影響を与えたと言われています。

Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Q大胆に主力製品を変化させた日本の企業の事例を一つ、どなたか教えていただけないでしょうか

大胆に主力製品を変化させた日本の企業の事例を一つ、どなたか教えていただけないでしょうか

Aベストアンサー

自動車のトヨタ。元は紡績の機械メイン。
任天堂、花札やトランプから、ファミコンへ。
ダイエー、薬屋から、スーパーマーケット。
現在、富士フィルムが、写真フィルムやビデオテープ路線から、化粧品、医薬関係に転換中。

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報