誕生日にもらった意外なもの

アッシリアはなぜ古代オリエントを統一できたのですか?

A 回答 (2件)

大きな領土をもったところは、例えば、ローマでも、秦でも、法や命令の迅速な徹底を重視した中央集権で、商業活動を重視した経済で、技術などの進取にも積極的な軍事組織を当初から強化していました。

モンゴル帝国などでもそうです。考えてみれば、オスマントルコや英国も勢力を広げているときにはそうでした。 農業生産や特産の技術で頑張っているのでは、大きな領土をもつことはないです。
メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野"肥沃な三日月地帯"で農業生産に向いた土地のように言われていますが、今も、昔も(紀元前2500年頃には)、周辺は乾燥地帯のようなところです。この辺りには多くの民族が侵入を繰り返し、支配被支配も多く入れ替わりました。都市国家のようなものを作っていますが、もちろん農業生産もするのですが、牧畜や交易も主要な活動としています。牧民は社会集団の存続を中央集権の長に懸けるのが常ですし、移動と情報伝達にはとても気を遣います。こうした社会は、安定的定住農耕社会よりも、軍事面でも、文字利用を含む情報伝達機能の強化面でも、伝統にとらわれない合理的判断の重視面でもどんどんと進歩するのだと考えた方がいいです。メソポタミア地方で犂(農耕に使用する動物に引かせて土を耕すスキ)が利用されたのもそうした背景があったからでしょう。家族や氏族のような集団では発想さえもしにくい大規模な潅漑工事や大きな石造やレンガ造りの土木建築工事も、既に農業生産依存の閉鎖経済圏ではなくなっている社会ができていたからということでしょう。専制に近い中央が命令一下で多数を統制的に動かせるのは、牧民社会であるか、牧民社会を含む広域と密接で親和的な交易がとても重要になっている社会であるかでしょう。 交易にとって不正や略奪の危険対策は重要ですから、ルールの徹底、強力な攻撃を迅速に実行できる体制を常時整えておく必要性も、農業社会の比ではないです。
そうした事情があったから、民族移動期に古バビロニア・ハムラビ法典もできて、ヒッタイト、ミタンニの王国でできた技術なども集積活用して、内陸貿易のアラム、地中海貿易のフェニキアも攻撃し、新アッシリア(アッシリア帝国)が中央集権国家としてこの地域一帯を支配したのでしょう。
ただただ残虐で強いだけでは周辺を攻める発想は出てきません。武力行使も相手が強力なら損害もあるし状況の推移次第では負けたり、内部抗争で自壊する危険も出てきます。 王や幹部が残虐で一層の勢力強化や版図領土拡大を強く望んで軍組織を強化するというだけでは、実際に版図領土拡大はできません。
豊臣秀吉が領土拡大戦争を開始したり、アレキサンダー3世が領土拡大戦争を開始したりという例もありますが、事情が重なって戦闘に連勝しても、その広大で多様な事情を持つ版図を統治する仕組みは作り上げることはできないだろうと思います。
http://www.y-history.net/appendix/wh0102-095.html
アッシリア帝国(新アッシリア)でも、秦でも、広大な地域をある期間統治できて、制度を次々整備していけたというのは、広大な地域で統一した制度下で安全公正に商業活動をすることのメリットがその社会の基本認識にあったからだと思います。
http://contest.japias.jp/tqj2000/30256/civilizat …
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