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平安時代の土地の話で、直営田が増えたことで国の収入が減る、というのは何となくわかるんですが
官田の収入は国の収入にはならないんですか?

「平安時代の土地の話で、直営田が増えたこと」の質問画像

A 回答 (1件)

国、国家というのは、地方統治のために区分された国司が治める地域のことではないでしょうか。



勅旨田は皇室経済の財源用に使われ、供御田は院政期の畿内で天皇の食用米供出地として使われ、平安期の畿内官田は五畿内諸国の官人給与用に使われ、大宰府管内9か国から国には田租を納めず太宰府に納めるように納付先を変更した公営田などがあったのでしょう。

国(国司の治める国衙・国)に田租を納める口分田が減り。荘園や各種の直営田が増えれば、国(国家・国司の治める組織)の財政は厳しくなるということなのではないかと思います。
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Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q海外の戦争で売春婦同伴は日本だけですか?

日本軍が海外の戦争で慰安婦(売春婦)を同伴したのは日本政府も認めています。私が不思議なのは海外で多数の戦争をしたスペイン、イギリス、フランス、アメリカはどうだったのでしょうか?もっぱら強姦だったのですか?

Aベストアンサー

・ドイツ

1939年9月9日、街娼を禁止して売春宿をすべて警察の
管理下におき、衛生上の監督を受けるよう義務付けました。
各占領地では、ドイツ軍人の利用に適した売春宿を指定し、
それ以外の利用を原則禁止しました。
地区司令の監督下で前線の中隊長クラスが管理・運営し、
性病予防のため検診を義務付けました。
西部戦線では一般の売春宿を指定していましたが、
東部戦線では当時のソ連が売春を禁止したため
慰安婦確保のために強制連行をすることもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BB%8D%E5%B0%86%E5%85%B5%E7%94%A8%E5%A3%B2%E6%98%A5%E5%AE%BF
ドイツのもう一つの特徴は、収容所にも慰安所があったこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80%E5%A3%B2%E6%98%A5%E5%AE%BF

さて、ここまで読んで日本の慰安所とほぼ同じと
思われたでしょう。
以前、このことを踏まえて指摘したところ、
プロと思われる方から慰安婦の定義(日本軍を念頭に
定義してあるので事実上は日本の慰安婦)を出されて
素人扱いされました。
実際は秦郁彦氏や吉見義明氏のような慰安婦研究の
専門家も認めているのですが、
この質問板のプロの方は、解釈は違うようです。

ちなみに、当たり前ですがドイツは強制徴用した
元慰安婦に謝っていません。
それどころか日本の慰安婦制度を非難しています。



・ソ連

WWⅡ時は事実上兵士による暴行を黙認していました。
作家のイリア・エレンブルグがパンフレットで
「ゲルマン女性は諸君の戦利品だ」と煽ったこともあるそうで、
ベルリン陥落後の調査では全女性の50%が暴行され、
10%が性病にかかったとされています。



・フランス

フランスはWWⅡ後の植民地紛争で出兵していますが、
その時利用したのが移動慰安所です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bordel_militaire_de_campagne
(Wikiですが英語版です)
現地人は防諜の関係で好ましくないという理由で、
軍によって正式に組織された慰安所そのものを、
部隊の移動にあわせてトラックなどで移動していました。



・イギリス

基本的に売春宿を廃止したり、兵士の利用を禁止しました。
その結果として性病が蔓延し、シシリー島占領後には
本国の20倍で、戦傷者を上回る勢いという記録もあります。
また、兵士の利用は禁止されても、今でいう援助交際のように
自由恋愛を名目に事実上は継続利用されていました。



・アメリカ

イギリスとほぼ同様。
戦後、日本が進駐軍による暴行を危惧して
「特殊慰安施設協会」(RAA)を組織しました。
1945年8月25日に運営を開始しましたが、
1946年1月に禁止令が出て、1946年3月には閉鎖されました。
ただし、公式な慰安所が無くなっただけで
一般の慰安所を利用していました。



・韓国

朝鮮戦争では日本の慰安所をまねた慰安所が開設されました。
当時の韓国では売春宿を禁止していましたが、
慰安所は外貨を稼ぐとして奨励されました。
よほどうまくいったのか軍でも好評で、
韓国陸軍本部が編纂した「後方戦史」にも
称賛されていました。

ところが、日本の慰安婦問題で非難するのには不都合なので
現在の韓国では「後方戦史」は無かったことにされています。
ちなみに、この問題は「基地村慰安婦問題」として
時々報道されますが、韓国政府はこの慰安婦に対して
「証言は証拠ではないから、正式な証拠を慰安婦自ら出せ」
というように冷遇しています。

ベトナム戦争でも慰安所があり、ライタイハンの問題などが有名です。

・ドイツ

1939年9月9日、街娼を禁止して売春宿をすべて警察の
管理下におき、衛生上の監督を受けるよう義務付けました。
各占領地では、ドイツ軍人の利用に適した売春宿を指定し、
それ以外の利用を原則禁止しました。
地区司令の監督下で前線の中隊長クラスが管理・運営し、
性病予防のため検診を義務付けました。
西部戦線では一般の売春宿を指定していましたが、
東部戦線では当時のソ連が売春を禁止したため
慰安婦確保のために強制連行をすることもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3...続きを読む

Q昔私が間違った事をしたときに担任の先生に言われた言葉で引っ掛かっているのですが、あなたほどの人が、〰

昔私が間違った事をしたときに担任の先生に言われた言葉で引っ掛かっているのですが、あなたほどの人が、〰って私ほどって、私はどんな人なんでしょうか?

Aベストアンサー

その「間違った事」を本来のあなただったらするはずがない…と言う意味。
つまり、良い意味で「あなたらしくない」と言いたかったのでしょう。

一般的な使い方としては
「あなたのような人がそんな間違いをするんですよ」に対して
「あなたほどの人がそんな間違いをするなんてあり得ない」と言います。
けっしてあなたを見下した言い方ではありません。

Q応仁の乱ですが結局後生の人が勝ってに命名しただけで当時は応仁の乱なんてだれも思ってないですか? 東軍

応仁の乱ですが結局後生の人が勝ってに命名しただけで当時は応仁の乱なんてだれも思ってないですか?
東軍対西軍は当時からよばれてましたか?

Aベストアンサー

それぞれの戦闘を当事者が適当に呼んでいて、「乱」「大乱」と名付けるようなことはないと思います。もちろん 応仁の大乱を一括して一つの戦いや乱というように認識するようなこともないと思います。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/11/post-305d.html

Q幕末、イギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか

幕末、日本が植民地にされなかったのは運がよかったからに過ぎないと言う人がいますが、それでは当時の最強国であるイギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか?

それとも、日本を植民地にすることは不可能か、可能だったとしても極めて困難だったのでしょうか。

Aベストアンサー

幕末の生麦事件・薩英戦争の後、日本侵攻の可否についてイギリス議会で議論があったとのことです。その際に確認されたことは、日本人はすでに植民地化された他のアジア民族とはことなり戦闘経験が豊富であること、恥をすすぐためには命を厭わぬ性質があること、最新型ではないとはいえ十分な火器を装備していることなどにより、本土侵攻には空前の規模の陸軍戦力を要するということだったそうです。そもそも薩英戦争では英国海軍の死傷者のほうが圧倒的に多かったわけですし、こんな国に本土侵攻なんてしたらゲリラ戦で泥沼化して大損害必至と。
 当時世界1級の海軍力と海運力を持つ英国でさえ本土侵攻が無理と判断したわけですから、植民地化は難しいと判断したんでしょうね。

Q日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。 昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが

日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。

昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが当時の火消しは大変危険で火消しの度に死人が出たので火消しを仕事の生業の専門とする火消しのプロが生まれた。

その火消しの請負人たちが暴力団の起源である。

街はお金を町内で集めて火事になったときに火消し団体にお金を払った。

その火消しの商売は結構な金額が町内会費で集めれるので火消し団体がいくつも出来た。

で、火事になったときに我先へと火消しの為のため樽をどこの火消し団体が取るかで請け負っていた火消し団体よりも先に到着した別の火消し団体が消火に当たって火が鎮火して謝礼を消してくれたいつもの請負火消し団体に支払わなかったのでここから暴力団の縄張り争いが起こるようになった。

だからここは俺の火消しの縄張りだと言って島争いの陣地争いが勃発した。

で、幕府は火消しを政府が行うとして政府が火消し団体の仕事を奪う形で消防団が生まれて消防署が生まれて、火消し団体は稼業を失ったが、昔の島と町内の上納金の仕組みだけは残った。

町内とは顔が効くので消防団に仕事を奪われた暴力団の火消し団体は博打を稼業とするようになった。

お客は町内で博打の胴元を元火消し団体の暴力団が行うようになった。

火消し団体のときは任侠団体と言われ、危険な火に飛び込む勇気がある男たちとして街の人からは尊敬されていたが、博打は胴元が最終的には勝つようになってたし、お客もタチが悪い金払いが悪い客もいたりして殴る蹴る暴力を使うようになって任侠団から暴力団と言われるようになった。

で、さらに時代は進んで賭博が禁止されるようになった。暴力団は火消しの稼業を奪われ、博打の稼業も奪われた。

だから暴力団の始まりは消防隊であり、国に仕事を奪われ、博打の商売を始めたがそれも儲かると分かると国がやると言って暴力団から仕事を奪って今に至る。

暴力団は裏で細々と博打をやっていたが警察が歴史も知らずに摘発を繰り返したことで暴力団は稼業のやる気を失い大麻やアヘンやマリファナや覚せい剤を売る商売を始めたがヒロポンを売ることもすぐに禁止された。

今では隠れて覚せい剤を売っていたり、隠れて賭博を開いたりしている。

合ってますか?

日本の暴力団の起源は火消しからだったと知った。

昔は消防署が無くて街の寄り合いが消防団を作っていたが当時の火消しは大変危険で火消しの度に死人が出たので火消しを仕事の生業の専門とする火消しのプロが生まれた。

その火消しの請負人たちが暴力団の起源である。

街はお金を町内で集めて火事になったときに火消し団体にお金を払った。

その火消しの商売は結構な金額が町内会費で集めれるので火消し団体がいくつも出来た。

で、火事になったときに我先へと火消しの為のため樽をどこの火消し団体が取るか...続きを読む

Aベストアンサー

質問者の言う火消しとは臥煙(定火消し)のことと思うが、臥煙は刺青を入れたりしてやくざ者っぽかったが、ヤクザや暴力団とは何の関係もない。 昔のやくざは的屋や博徒集団が起源だが、今の日本の暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%でしかない。

Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
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・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む

Q多賀城について

多賀城跡に観光に行きました。
驚いたことに、広大な敷地は起伏がそこそこある丘?山?にあったようです。
今まで、平城京跡や大宰府跡に行きましたが、これらは平地に造られていました。
多賀城は、なぜあのような起伏があるところに造ったのでしょうか?

多賀城を訪れてちょっとした疑問を感じたのですが、分かりやすく説明してくださる方が居たら嬉しいです。

Aベストアンサー

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのため、防衛と攻撃を同時に考えた、出城でもあったのです。

この地図(グーグルマップの地形図)を見てください。
https://goo.gl/maps/3jQZEYFPvLz

地形を見てもらうとわかるのですが、鉄道線と道路が通っているところは、北や西に向かって山間の通りやすい地形になっており、多賀城跡から南は仙台平野がひろがっています。
つまり、奈良時代、稲作を主とする倭人が仙台平野を開拓するにあたって、東夷とされた狩猟民族であるアイヌ人などが侵入してこないように、平地を望む山側に城を作ったのです。

軍隊と言うのは集団ですから、分散して険しい山を登ったり下ったりすることはしません。可能な限り隊列を組んで行動できる場所を移動するのです。ですから、多賀城周辺でいえば、七北田川などの河川敷を移動してきたでしょう。高台にある多賀城からみれば西の岩切中学校ぐらいまで来た軍隊は容易に見つけることができたわけです。
いまでこそ、護岸されていますが、当時の川の敷地は広く、また海も現在より近かったので、東北本線の線路あたりから南西は湿地帯で高い木などがなく、高台にある多賀城からは良く見えたでしょう。

また、利府町の方角からやってきたとしても、今度は多賀城の真横を通過することになります。海を北から来るにしても城のすぐ下の砂押川に船を用意しておけば、すぐに攻撃に移れます。

その上で、軍勢を多く城に置いた時でも、すぐ北にある加瀬沼から水が豊富に来ますので、水源の確保も容易だったといえるでしょう。

つまり、古代の軍隊が城を築いて守るにはうってつけの高台だった、ということです。たぶん、どんな軍人でも「守る」ということを考えたら、この高台に城を作ったと思います。

以下蛇足、地形と城について
長篠城 戦国時代、長篠の戦いと呼ばれる、この城を舞台にした戦いがありました。織田・徳川の軍勢と武田軍との戦いです。織田・徳川は尾張から甲斐に向けて軍勢を送るのですが、甲斐に向かっては木曽の深い山があるので、ルートは事実上2本しかありませんでした。その1本を守るのが長篠城です。

現在でいえば、JRの飯田線が走っている場所で、鉄道は急な勾配を登れないので、鉄道線が走っているということは、昔なら軍隊が隊列を組んで移動できたルートになります。そして長篠城は尾張ー甲斐のルート上「絶対に通る」場所で、しかも川が合流するT字の場所にあったのです。
地図 https://goo.gl/maps/YfcXjjyUA8C2

地図を見てもらえばわかりますが、尾張からくる軍勢は絶対に川を渡らないと、長篠城にたどり着けません。しかも川は谷底なので、崖上にある城から矢を射かければ容易に軍勢を阻むことができたわけです。
ですから、この場所に城を作れば「甲斐へのルートを守ることができた」のです。

上田城 昨年の大河でも上田城は良く出てきましたが、この城も良くできています。ルート的には関東・東海・関西と真田家が戦ったほぼすべて(特に徳川)が攻めてくるルートが合流する場所に城があり、この上田城を超えないと真田家の領地には入れなかったわけです。

上田城は盆地の平地部分にあるのですが、なぜここかというと、千曲川だけでなく、安曇野方面からくる道(現在の143号など)が千曲川流域に出てくる谷を見渡せるからです。またドラマにもでてきますが、神川に堰をあらかじめ作っておくことで、大軍勢がやってこれる、千曲川の下流域を分断することも可能になります。

上田城を攻められたら、神川の堰を切って、城攻めの前線の兵が退却できないようにしつつ、後ろに控えている援軍や補給部隊を神川の上流にある真田本城からの部隊で攻める、という構図が作れます。

つまり、上田城の場所も地形的に「あそこじゃないとダメ」だったのです。

ということで、ブラタモリじゃないですが「地形」を見ればどのように考えて城を置いたのか、が良く分かる、ということです。

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのた...続きを読む

Q何故?生きる為に必要な食べ物は値段が付いていて、水はタダ同然で、空気はなんと、無料!!??なのは何故

何故?生きる為に必要な食べ物は値段が付いていて、水はタダ同然で、空気はなんと、無料!!??なのは何故ですか?

それなら食べ物も無料にするのが妥当だと思うのですが…???

それなら衣食住も無料でも良いような?

Aベストアンサー

私は田舎に住んでいて、米でも野菜でも肉でも魚でもご近所がタダでくださるし、家賃もタダ、着るものは持っているものの使いまわし。
そういう生活環境をご存じないようで。

Q世界史のイコールはなんの意味があるんですか?ロゼッタ=ストーン、アッシュル=バニバルなど

世界史のイコールはなんの意味があるんですか?ロゼッタ=ストーン、アッシュル=バニバルなど

Aベストアンサー

ほぼシャーマニズムですが、後季節「麦の作付け、収穫」の目安の天文観測の説もあります。


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