痔になりやすい生活習慣とは?

応仁の乱が長引いた原因はやはり将軍
足利義政の力量不足によるところが大きいですか?
右往左往で挙げ句東軍に足利義視を総大将にして収束どころか泥沼化しましたか?

質問者からの補足コメント

  • 応仁の乱は市街戦がほとんどですか?

      補足日時:2017/06/27 11:17
  • 畠山氏の家督争いに介入したが二転三転で泥沼化力量不足は明らかでしたか?
    最終的に気に入らない方を追放して家督争い終わらせようとしたがそれが原因で応仁の乱開幕ですか?

      補足日時:2017/06/27 17:33

A 回答 (2件)

>応仁の乱は市街戦がほとんどですか?


戦闘の場所は市街地が多いというものではなかったようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0 …(%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3 …
「大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、9月1日に義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ醍醐の三宝院に火を放った。6日に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた。9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BA%AC …


>応仁の乱が長引いた原因は、将軍足利義政の力量不足によるところが大きいですか?
「義政にどのような力量があったら、どの程度の期間で終わったのか」
気まぐれではない、政治に強い関心と当事者意識責任感があったら、将軍の権威があればなどのことでは、なにも言えないでしょう。
関ヶ原の戦いも関ヶ原だけでなく各地で戦闘があったものの短期間で終わっています。西軍が負けですが、強い勢力は維持していています。天皇の力量があったから、家康の力量があったから、短期で終わったというのではなく、そもそも戦闘をなんども繰り返す気を多くの大名、有力勢力がもってないから、そこで終わりになるのです。
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単にそれぞれの戦闘をまとめて、応仁の乱としただけです。



戦闘が長引いたわけじゃありません
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http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/11/post-305d.html

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一方、ドイツはこんな感じです。
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②行政機構の徹底破壊
③分断統治
④ドイツ女性への強姦
⑤文化財等の強奪

もし、日本がドイツのようになっていたら・・・考えただけで恐ろしいですね。
①天皇の処刑・極悪人として糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治(おそらく北海道と東北はソ連統治で、東京は4か国による分割占領)
④日本人女性への強姦
⑤京都、奈良等の文化財が強奪される

Aベストアンサー

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に
指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった。
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日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
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日本が島国だったこと、ドイツが陸続きの国であり、ソ連と戦闘があったことが戦争終結の時期に違いが出た原因です。

ドイツが戦った相手は当初はイギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国とソ連、つまり陸続きの攻防戦です。ドイツは優秀な兵器をもち、特にアメリカに対してはUボートが活躍してアメリカからの物資援助もアメリカの軍艦も寄せ付けませんでした。

また、機甲師団も優秀でヨーロッパ戦線で瞬く間にフランスやソ連の一部を占領していったわけです。ですからいわゆる西部戦線は順調であったといえます。

しかし、ソ連と対決している東部戦線はソ連の全面的な対決姿勢により、不利な状況が続き、結果としてソ連の反撃とそれに呼応したアメリカのノルマンディー上陸作戦により、窮地に立たされます。

ソ連は対ドイツ戦に集中するため、日本とは日ソ中立条約で対抗しない姿勢でしたので、日本よりもドイツの降伏が早かったのはこれがもっとも大きな理由のひとつになるでしょう。

日本の場合、戦線としては二つありました。
・中国大陸から東南アジアに延びる植民地での陸軍の戦闘
・戦略的要所を抑えるための太平洋でのアメリカとの戦闘
です。

植民地に置いてある軍隊は本国に比べれば2流であり、日本陸軍の快進撃は「本国が近く補給などが受けやすいかどうか」で違いがでました。本国から遠い、各国の植民地の軍隊は日本軍に負け続け、本国からの補給も行き届いていなかったといえます。

アメリカはこれらにも援助していたわけですが、アジア大陸はアメリカ本土からも遠いこと、アジア大陸に行くには日本の哨戒網を突破することが必要だったために、アメリカと日本の戦いは主に太平洋での海洋戦になっていきます。

アメリカは「とにかく日本がもっている島々を攻略しないとダメだ」ということで、ミッドウエー海戦で有利になると日本の要衝である、パラオやガダルカナル島、グアム島やサイパン島などを攻略していきます。

アメリカが予想外だったのは、日本軍が全滅するまで戦いをやめなかったことでしょう。これにより日本本土攻撃がどんどん遅くなっていったわけです。

陸地の戦いは、一旦均衡が破れれば一気に本土に迫ることができます。ドイツは結局東部戦線も西部戦線も失い、両側から押しつぶされる形で敗戦に至ります。

その時、日本のほうは「まだ島嶼部を攻略中」であり、島嶼部はひとつづつつぶさないと、思わぬ反撃を受けることになります。ですからパラオなど南太平洋のアメリカ本土に近いところから丹念につぶして行って、サイパンを攻略したら本土爆撃をしつつ、沖縄・硫黄島そしてようやく日本本土に総攻撃ができるところまで行ったのが、ドイツ降伏の後だったわけです。

また、日本は最大兵力を動員できるソ連と中立状態でしたから、ソ連との戦いを考慮しないで戦争を進められました。ソ連はドイツ降伏後、アメリカの要請で対日戦線を開く予定でしたが、広いユーラシア大陸の西側から東側に兵員を移動するだけで半年かかり、それが結局日本の降伏を遅らせる原因にもなっていきます。

結局日本が最後まで本土決戦を避けられたのは「島国だったから」にほかなりません。島国の戦略の最大のものは「敵が本土に至る前に殲滅する」ということです。

ですから、日本は大戦前から太平洋上の各島嶼を戦略的拠点として整備し、アメリカはそれをひとつづつつぶさないと本土にたどり着けなかった、ということです。ただ、ソ連が最初から戦争に参加していれば、満州と朝鮮さらに日本海でも海戦が必要になり、日本海軍も二方面作戦を強いられて降伏の時期は早まったでしょう。

ということで、ドイツよりも長く戦争が出来たのは
・アメリカとの戦いは海戦が主体だったこと
・ソ連との開戦が終戦時までなかったこと
ということでしょう。

日本が島国だったこと、ドイツが陸続きの国であり、ソ連と戦闘があったことが戦争終結の時期に違いが出た原因です。

ドイツが戦った相手は当初はイギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国とソ連、つまり陸続きの攻防戦です。ドイツは優秀な兵器をもち、特にアメリカに対してはUボートが活躍してアメリカからの物資援助もアメリカの軍艦も寄せ付けませんでした。

また、機甲師団も優秀でヨーロッパ戦線で瞬く間にフランスやソ連の一部を占領していったわけです。ですからいわゆる西部戦線は順調であったといえま...続きを読む

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直接関係ない記事だけど
http://www.sankei.com/premium/news/161010/prm1610100022-n1.html

これみると伊藤博文が強い影響力を発揮した感じがするね

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なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

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治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
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Q源義経 軍事的天才と呼ばれている理由

源義経が軍事的天才と呼ばれている理由はなんでしょうか?

わがままでもうしわけないのですが具体的にお願いします_(._.)_

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恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。
「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
従い、源氏側としては、短期決戦したいものの、まともにぶつかっては勝てるかどうか。
そこで副将格の義経が、別働隊を率いて平家の後方を衝き、その混乱に乗じて範頼の主力軍が攻め込むと言う作戦を提案し、これが大成功と言う戦です。

別に平家側も油断していたワケではないのですが、まさか険しい山側から騎馬隊が攻撃してくるなどとは思ってもいなかったから、義経の狙い通りの大混乱。
これが有名な「鵯越の逆落とし」です。
おまけに義経ってば、自ら率いた逆落とし別働部隊とは別に、これも有名な武将ですが、熊谷直実に側面攻撃部隊を率いさせると言う、用意周到さです。

ちなみに、この戦で熊谷直実に討ち取られたのが、平家一門の平敦盛で、この逸話は平家物語や、能の『敦盛』や幸若舞の『敦盛』として扱われ、超有名。
織田信長がよく口にしたとされる「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」も、幸若舞『敦盛』の一節です。
この先には、那須与一が見事、弓矢で扇を射抜いた話とか、義経の八艘飛びなど、源平の戦には多くの逸話があることも、義経人気に一役買ってますね。

東西と北に敵を構えた平氏は、南側の瀬戸内海に逃げるしかありませんが、7万の軍勢が一斉に船に乗って逃げられるハズもなく、溺死者なども多く出て。
この戦で平家は大惨敗を喫し、実質、崩壊してしまいます。

追討軍の指揮は、引き続き源範頼が執るのですが。
この兄ちゃんは、ちょっと出来が悪いのか、モタモタしちゃうから、一番上の頼朝兄ちゃんが怒って、義経に「アイツはダメ。お前が討伐へ行け!」と命じ。
義経は、短気な頼朝兄ちゃんの期待に応えるべく、ちょこっとの船で、海路、平家討伐に向かい、ここでも奇策や奇襲を重ね、見事に勝利を収めます。

一方でダメ兄ちゃんの範頼も、陸路、九州あたりまで平家の残党討伐を行い・・。
平家の本体を討伐し続けた義経と合流しして、最後の決戦「壇ノ浦の戦い」で、平家を滅亡に追い込みます。

義経の軍事的な才能は、「型破り」と「スピード」でしょうか?
軍事の天才に求められるのは、「少数で大軍を撃破」みたいなエピソードかと思いますが。
義経は、それを策略などではなくて、型破りな奇襲と、それを相手どころか味方も驚く様な早さで、やってのけてます。

「やあやあ我こそは!」の時代に、思わぬところから、突如、騎馬隊が現れて、陣地に火矢を射込むなどして暴れ回ったりしたら・・。
現代で言えば、いきなり東京湾に謎の潜水艦群が浮上して、ミサイル発射・・くらいのインパクトかも知れません。

ただ義経は、危うさもあって、後白河法皇から「大将が先陣に立って戦っちゃダメ!」と叱られたりもするのですが、「コッチはハナから、死ぬ気でやってんだよ!」と逆らったりしてます。
もしかすると義経の「型破り」さは、「命懸けの強さ」とか、そんな覚悟から来る発想かも?とも感じます。

従い、後の戦国武将とかでも、上杉謙信などは義経を尊敬していましたが、武田信玄あたりは、あまり尊敬していなかったみたいで、武田家も、お家がゴタゴタしたので、最後は頼朝に殺された義経を、「出しゃばりすぎ」と見ていた様です。
しかし、謙信も信玄も、義経と同じく軍事的天才に挙げられるので、その二人に教師や反面教師とされた義経は、やはりスゴいですね。

恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。
「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
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Q源義経 悲劇の英雄 なぜ?

源義経は、悲劇の英雄(悲劇のヒーローなど)という風に呼ばれていますが、それはなぜですか?

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源平合戦で大活躍したのに、最期は兄頼朝の命により殺害されたから。


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