アレルギー対策、自宅でできる効果的な方法とは?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE …
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

質問者からの補足コメント

  • > 奴隷とは、支配者がおり、その所有物として
    全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の
    対象とされる人間のことです。

    エジプトやギリシャ・ローマの奴隷は個人が所有していたのですか?

    奴隷は家庭内労働、鉱山、ガレー船員、軍事物資の輸送、神へ捧げる生贄など様々な場面において使用された
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7 とあります。
    家庭内労働の奴隷は個人所有でしょうが
    軍事物資の輸送の奴隷は国の奴隷のようにも思えるのですが。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/07/11 12:23

A 回答 (8件)

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。


ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
回答をもとに調べてみたところ、
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E5%8 …
上の記事がみつかりました。

>日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

と書いてくださった意味がよくわかりました。

>「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。

私もコトバンクの記述を読んで、回答者さまのおっしゃるとおりだと思いました。

「南京大虐殺はなかった」と言う人の論調に似ているような気がします。
「南京大虐殺はなかった」と言うだけでは、「小規模の虐殺はあった」のか「南京事件そのものがなかった」のか、どういう意味なのか発言者の真意がくみとれません。
(南京大虐殺について、私は十分な検討をしていないので、なんともいえないのですが)

「奴隷制はなかった」と言われると、マルクス主義を知らない私のような人間からすれば
「えーだって魏志倭人伝に生口って出てくるやん?
戦国時代に勝った武将が負けた武将の領民を奴隷にしてるやん?
奴隷はいたけど奴隷制はなかったということ?」と思ってしまいます。

>ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。

「日本に奴隷制はなかった」と言っている人の中にはおっしゃるように「日本には一切の奴隷がいなかった」と勘違いしている人もいそうですね。
有名な科学者のあの人もそうかも・・・。

大変参考になりました。

お礼日時:2017/07/11 09:48

遊郭の女郎は、金で売られてきてる点など、奴隷に等しい。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ウィキペディアの奴隷の項目には遊女が出てきます。
遊女は借金を返すために売られることがあったようですが
私も奴隷に等しいと思います。

奴隷という言葉があいまいで、また地域や国によって異なるので
混乱するのでしょうね。

しかし「日本に奴隷制はなかった」というのは間違いだし
№2の回答者さんが教えて下さったように「マルクス主義の奴隷制はなかった」ということを
「奴隷制はなかった」というのは詭弁だと思いました。

お礼日時:2017/07/14 01:40

よく理解されていないようなので、改めて回答しますね。



>個人の所有か、国の所有化なのかどちらかと質問しています。
→ どちらもあったでしょう。個人の所有する奴隷はあなたが想像する奴隷像に近いですが、国の所有する奴隷の境遇は今でいうところの公務員と大して変わらなかったでしょう。

>平安時代前期まで奴隷制度があった=日本には奴隷制度があったということだと思います。
→ その通りです。さらに言うと、現代にも奴隷的境遇に置かれている人は世界中に居ます。奴隷制度はなくても、権力があれば弱者を奴隷的境遇に落とすのは簡単ですから。そして日本人として知っておかないといけないのは、奴隷として欧米に売られた日本人がかなり存在したということです。

>また人身売買が行われていなかったとしても、差別を受けたり、自由を奪われたり、ひどい生活を強いられていたというようなことはなかったのでしょうか?
→ それは今でも世界中で発生しています。日本は少ない方ですが、多重債務者で自由を奪われて過酷な労働をしている人は今の日本にもそれなりに居ると思います。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。

> >個人の所有か、国の所有化なのかどちらかと質問しています。
>→ どちらもあったでしょう。

№5では「奴隷は個人の所有物を言うのであって」とおっしゃり
№7では「エジプト・ギリシャ・ローマの奴隷には国が所有していたものもあった」と。

矛盾していますよね。


回答者さまが№5で
「まあ、アメリカの黒人のように一方的に搾取される奴隷は居なかったと思いますよ」とおっしゃり
その理由として
「江戸幕府などは人身売買を禁じるお触れを何度も出しています。」
とおっしゃるので

「人身売買が行われていなかったとしても、差別を受けたり、自由を奪われたり、ひどい生活を強いられていたというようなことはなかったのでしょうか?」
と質問したのです。

私は回答者さまがおっしゃる江戸時代の奴隷についてお尋ねしたのです。

それなのに、「今でも世界中で発生しています。」と、現代の話にすげかえられています。

これ以上、お尋ねしたいことはありません。
貴重な時間をさいていただきまして、どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/07/14 01:31

>古代エジプトやギリシャ・ローマの奴隷は個人の所有物ですか?国の所有物ではなくて?


→ 古代ローマでは教師、医師、官吏も奴隷の仕事だったようです。現代の奴隷とは全く異なるもので比較はできません。
  古代日本の奴婢も、現代の奴隷とは全く異なる姿だったと想像できます。

>日本には奴隷がいた、奴隷制度があったということですよね。
→ 平安時代前期まで、奴婢(=奴隷制度)は居ました。それ以降、奴隷制度は廃止されています。

>なぜ、「アメリカ黒人のように一方的に搾取される奴隷はいなかった」といえるのでしょうか。何か、文献などがありますか?
→ 江戸幕府などは人身売買を禁じるお触れを何度も出しています。それでも女衒など陰で人身売買を行う人もいましたが、奴隷というより多重債務者のような感じだったでしょう。
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この回答へのお礼

再回答をありがとうございます。

>>古代エジプトやギリシャ・ローマの奴隷は個人の所有物ですか?国の所有物ではなくて?
>→ 古代ローマでは教師、医師、官吏も奴隷の仕事だったようです。現代の奴隷とは全く異なるもので比較はできません。
  古代日本の奴婢も、現代の奴隷とは全く異なる姿だったと想像できます。

個人の所有か、国の所有化なのかどちらかと質問しています。

>>日本には奴隷がいた、奴隷制度があったということですよね。
>→ 平安時代前期まで、奴婢(=奴隷制度)は居ました。それ以降、奴隷制度は廃止されています。

平安時代前期まで奴隷制度があった=日本には奴隷制度があった
ということだと思います。
回答者さまは「日本に奴隷制がなかった」とおっしゃる人について寛容なようですね。
私なんか「日本に奴隷制がなかった」と聞くと、「嘘つくなー」と思ってしまいますが
外国の方などには、平安時代にあった朝廷は日本ではなく、他の国だったのかと
勘違いされかねないのでは。
こういうことは正確に言うべきだと思います。

> >なぜ、「アメリカ黒人のように一方的に搾取される奴隷はいなかった」といえるのでしょうか。何か、文献などがありますか?
>→ 江戸幕府などは人身売買を禁じるお触れを何度も出しています。それでも女衒など陰で人身売買を行う人もいましたが、奴隷というより多重債務者のような感じだったでしょう。

江戸幕府が人身売買を禁じていたというのは聞いたことがあります。
しかし、現在の日本では「労働基準法」があるので「労働者は保護されている」とはいえない現状です。
法律はあるが、守られていないので、サービス残業や過労死などの問題が生じています。
これと同じで、幕府が人身売買を禁じていたが、果たしてそれが守られていたのでしょうか。

また人身売買が行われていなかったとしても、差別を受けたり、自由を奪われたり、ひどい生活を強いられていたというようなことはなかったのでしょうか?

№4さんがおっしゃるような反論ではありません。
わからないので。

お礼日時:2017/07/13 12:36

日本の被差別民や賎民は、確か被差別地域に住んで、皮革業やとさつ業を独占的に請け負っていた人ではなかったでしょうか。


差別はされていましたが、誰か個人の所有物になっていたわけではないですし、独占業務のおかげで裕福だった人も居たようです。奴隷とは違うように思います。
あと、奴隷は個人の所有物を言うのであって、幕府や寺社といった組織の所有物のことを奴隷とは普通言わないです。兵士や職員も見方によっては国や法人の所有物ですが、奴隷とは違うでしょ?

そして日本に奴隷がいたかですが、確かに奈良時代には奴婢という奴隷身分がいたようです。しかし、平安時代中期の律令制の崩壊とともに奴婢の制度は廃止されています。それ以降の時代、表向きには奴隷制度はありません。
しかしながら、社会の中には必ず人間の支配ー被支配の関係があり、中には借金の返済のために自ら身を売る人間も居り、その中では奴隷と言ってもいいくらい自由が制限されていた人も居たと思いますよ。そういう立場の人は現代の日本にもいるでしょう。

日本に奴隷は居なかったと言う人は、表向きには奴隷は居なかった。裏では奴隷的身分といってよい人はいたかもしれないが、それが社会問題になるようなことはなかったということを言いたいのだと思います。
そして裏で存在した奴隷についても、一生奴隷身分に押さえつけられていたわけではなく、債務を返済したり、能力を認められれば奴隷から解放されるということも結構あったようです。

まあ、アメリカの黒人のように一方的に搾取される奴隷は居なかったと思いますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

> あと、奴隷は個人の所有物を言うのであって、幕府や寺社といった組織の所有物のことを奴隷とは普通言わないです。兵士や職員も見方によっては国や法人の所有物ですが、奴隷とは違うでしょ?

古代エジプトやギリシャ・ローマの奴隷は個人の所有物ですか?
国の所有物ではなくて?


>確かに奈良時代には奴婢という奴隷身分がいたようです。
日本には奴隷がいた、奴隷制度があったということですよね。

>しかし、平安時代中期の律令制の崩壊とともに奴婢の制度は廃止されています。それ以降の時代、表向きには奴隷制度はありません。

戦国時代に勝ったほうが負けたほうの領民を奴隷にした、という話があったと思います。
まあ、これは奴隷はいたとはいえても、奴隷制があったとはいえませんね。

>まあ、アメリカの黒人のように一方的に搾取される奴隷は居なかったと思いますよ。

古代の奴婢は搾取されていたんじゃないかと思いますが。
卑弥呼が死んだとき、100余人の奴婢が殉死させられたとの記述がありますので。


もっと後の時代の裏の奴隷的身分の人のことをおっしゃっているのであれば
なぜ、「アメリカ黒人のように一方的に搾取される奴隷はいなかった」といえるのでしょうか。
何か、文献などがありますか?

お礼日時:2017/07/12 23:34

この手の話は、立証責任は「それが存在したと主張する人に立証責任があります」



つまり、「ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが」と言い、そういう人に無かった事の証明を求めているようですが、無かったと主張する人に立証責任はありません。





あなたは、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?と質問者を装っていますが、結局は「日本に奴隷制は存在した」と主張したいだけですよね。ならば、それを立証してください。




>寺社が所有しているものは奴隷とはいわないのでしょうか。
>江戸幕府が所有していた

そういう着眼点があるなら、まず寺社や江戸幕府が彼らを「所有していた」と言う事実を立証してください。
次に、西洋でいう奴隷制度の意味の「所有する」という制度と、日本の所有の制度が同じであると立証してください。
そして、それらが立証された後、それが日本の歴史においてたまたまその時期だけのレアケースなのか、日本の歴史全体の話なのかの分別を明確にして立証してください。

論文がまとまったら、こんなサイトに投稿しないで、適切な場所に発表する事をお勧めします。


因みに、立証には、歴史の文献なども用いる必要が出てくると思いますが、その際に注意するものはネットに転がっているいい加減な資料ではなくて、出所が明確な資料でしか証拠として効力が無いと言う点も気をつけてください。

そして、証拠となる現物の資料がどこに行けば、現物を確認できるのかの明記も重要になります。






*
南京大虐殺の問題にも触れているようですが、これも立証責任はあると主張する側にあります。
白黒写真の大量の死体の写真を見せて「これはすべて日本兵の虐殺だ」というプロパガンダを世界に流布して、ユネスコ記憶遺産にも登録を成功させたと言う状況ですが、これは中国の政治力によって認知させただけで立証したわけではありません。

まず、南京市の当時の状況を調べてください。当時の南京市は非武装都市宣言を行っていながら、日本軍が入場後に便衣兵による攻撃が相次いでします。それに加えて、蒋介石側の便衣兵だけでなく、多くの組織が跋扈して、当時の中華民国にいた人たち同士で殺しあっている状況でした。中には、殺した日本兵の服を着て略奪や殺傷ごとをする盗賊も多くいました。

まずこれらの状況で、「南京大虐殺」を立証する場合、それらの武装勢力が跋扈していて大量に中華民国にいた人たち同士で殺しあっている中、日本兵が殺したと言う事を立証する必要があります。

そして、日本兵が殺したと立証してからも、戦時国際法違反。つまり虐殺であったかどうかの立証が必要になります。

虐殺とは、国際法用語の事であって、「兵士が民間人を殺した事」と言う意味ではありません。例えば、便衣兵が相次いだ南京市は戦闘地域となりました。日本兵からすると、民間人なのか、武器を隠し持った便衣兵なのか見分けが付きません。この場合、便衣兵だと思って撃ち殺したら、民間人だった。となっても虐殺にはなりません。

これは、戦時国際法の話になります。

戦闘地域で民間人が死んだ場合、虐殺とはなりません。信じられないかもしれませんが、戦時国際法ではそうなります。そのために、戦闘となる都市は、戦うならば予め民間人を避難させる必要がありますし、戦わないならば非武装都市宣言をして明け渡します。蒋介石は、南京市の戦闘で民間人が犠牲になる事を避けるために、民間人を避難させる事はありませんでしたし、非武装都市宣言をして日本兵を入れた後に便衣兵で攻撃をし、南京市民を人間の盾に使いました。この場合の戦争犯罪者は、日本兵ではなく蒋介石になります。

これが、戦時国際法に照らし合わせた当時の南京市の惨状ですが、当時の南京市での「日本兵による民間人の殺害」が証明されても、日本兵が非戦闘地域で民間人を殺害した証明が出来ないと、「南京で虐殺があった」となりません。



日本人のいけない事は、怪しい事案が出てきたらそれが無かったと証明されない限り、その怪しい事案は真実であると思い込む事です。

因みに、怪しい事案は自国の有利な方に解釈すると言うのが世界の常識です。日本の場合は日本にとって不利な方に解釈する事が横行しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

①>無かったと主張する人に立証責任はありません。

無かったと主張する人は、邪馬台国の生口や物部守屋の奴婢とは何かを説明したほうがよいでしょう。
立証責任はないかもしれないが、邪馬台国の生口や物部守屋の奴婢について説明しなければ他人を納得させることはできないでしょうし、デマを吹聴しているととられても仕方がない。

②まず寺社や江戸幕府が彼らを「所有していた」と言う事実を立証してください。

私は「江戸幕府が非人や穢多を所有していた」と言っていません。
「江戸幕府が非人やエ穢多を所有していたということではないのか」と質問しております。
歴史に詳しくないので質問したのです。
ここは質問サイトでしょう?

③西洋でいう奴隷制度の意味の「所有する」という制度と、日本の所有の制度が同じであると立証してください。

こんなことは言っていないし、存じ上げません。歴史に無知なもので。

④それが日本の歴史においてたまたまその時期だけのレアケースなのか、日本の歴史全体の話なのかの分別を明確にして立証してください。

③に同じです。

⑤ 論文がまとまったら、こんなサイトに投稿しないで、適切な場所に発表する事をお勧めします。

いや、だからわからないから質問しているんですけど?
いくつかの貴重な回答をいただきました。
それでもわからない点があるのに書いただけのことですが。

⑥南京大虐殺の問題にも触れているようですが、これも立証責任はあると主張する側にあります。

私は南京大虐殺があると言っていません。検証していないのでわかりません。
ときどき「南京大虐殺はなかった」と理由もなく言う人がいまして
(ないというなら、その理由を言わなくちゃ。なんで言わなくていいのか、理解不能。)
そういう言い方だと「大虐殺はなかったが小虐殺はなかったのか」「南京事件そのものがなかったのか」わからないと言っているのです。

あなたの南京大虐殺はなかったとするお考えはよく理解できました。
他の人も単に「南京大虐殺はなかった」と言うだけでなく、あなたのように説明しないと他人には意味が通じないということを言っています。

お礼日時:2017/07/11 14:47

奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?


   ↑
そう考えるのは間違いです。

奴隷とは、支配者がおり、その所有物として
全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の
対象とされる人間のことです。

被差別部落や賤民は差別されていただけで
所有物として、労働を強制されたり
譲渡売買されていた訳では
ありません。




『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、
五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?
   ↑
これは#2の方が模範解答を出しています。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
>奴隷とは、支配者がおり、その所有物として
全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の
対象とされる人間のことです

支配者というのが、個人なのか団体なのかよくわからなかったのですが
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E5%8 …
上記を読むと
一個の人格が他の人格=その労働力を所有し、支配・搾取する制度
と説明があります。
ということは、個人が所有するものを奴隷というのでしょうか。

中世の関西の非人などは寺社が所有していたといってもいいと思いますが
寺社が所有しているものは奴隷とはいわないのでしょうか。

また、江戸時代の穢多・非人は江戸幕府が所有していたということではないのでしょうか。

このあたりをどうとらえたらいいのかわからないので、混乱してしまいます。

奴隷=被差別民・賎民と考えるのは間違いであるとお答えいただきました。

被差別民・賎民(日本だと穢多・非人)は必ずしも奴隷であるとは限らないでしょうが
奴隷は被差別民・賎民に含めてもいいように思えますが。

というのはウィキペディアの賎民の記述に、

③中国・・・【奴婢や生口等の奴隷】が労働力の中核
④朝鮮・・・【奴婢】僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、、白丁

③には奴隷と明記されていますし、④の奴婢とは奴隷のことだと思われますが。

お礼日時:2017/07/11 10:01

> ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?



こちらは定義次第ですが、そういう風に分類、区別しても問題ないと思います。

| 被差別民(ひさべつみん)とは、その所属する社会や共同体から享受されるべき利益を| 不当に制限されている集団を指す。
賤民(せんみん)とは、通常の民衆よりも下位に置かれた身分またはその者を指す。


> ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?
> また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

所有者の有無ってのが大きいです。
質問のケースでは、通常所有者ってのはいませんでしたから、奴隷には該当しないです。

奴隷 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7

| 奴隷(どれい)とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
被差別民、賎民、奴隷など、国や地域によって形態が異なるので
どうとらえればいいのか、わかりにくいですね。
所有者の有無ですか。

四天王寺は聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢を用いて建立したそうですが
守屋の奴婢、ということは守屋が所有していたということで、これは奴隷だといえそうですね。
江戸時代の穢多・非人は、江戸幕府が所有していたということではないんでしょうか?
江戸時代ではなく、中世に関西に存在していた非人は寺社に隷属していたそうです。
寺社に隷属していたということは、中世の非人は寺社に所有されていたといえる?
すると中世の非人は奴隷?

お礼日時:2017/07/10 20:57

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Q倭寇が歴史エンターテイメントの題材にならない理由

西洋では、海賊は「パイレーツ・オブ・カリビアン」「カリブの海賊」などエンターテイメントの題材になっており、日本の漫画である「ワンピース」も、日本的というより西洋的な海賊を描いているといえます。

日本人は時代劇やチャンバラといった日本の歴史エンターテイメントは結構好きだと思いますが、日本の海賊である倭寇がその題材になることがほとんどないのは何故でしょうか?

Aベストアンサー

カリブの海賊だけが特別で、その他はただの
賊だったからだと思います。

カリブの海賊は、一時期、英国海軍の下請け
みたいなことをやっていたからです。

つまり、体制側の海賊です。

当時のカリブ海は、イギリス領土でしたが
スペインの攻撃があり、イギリス海軍だけでは
手薄だったので、海賊に特別免許を与え
領土を守る、ということをやりました。

つまり、その時は正義の味方だったのです。

その他の海賊はただの犯罪者ですから
英雄視するわけにはいかなかったのでしょう。

ちなみに、倭寇は元寇の報復だ、という
有力な説があります。

Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む

Q第二次世界大戦の敗戦国としては、戦後処理として日本が恵まれていた理由は何ですか?

第二次世界大戦に敗戦した国としては、日本は以下の理由で恵まれていましたが、その理由は何でしょうか?

日本
①天皇制の存続
②行政機構の維持(GHQは行政機構に指示する形式をとっていた)
③一括統治
④戦後の敵国による破壊行為は僅少

一方、ドイツはこんな感じです。
①ヒトラーの戦死、戦後は極悪人として徹底糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治
④ドイツ女性への強姦
⑤文化財等の強奪

もし、日本がドイツのようになっていたら・・・考えただけで恐ろしいですね。
①天皇の処刑・極悪人として糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治(おそらく北海道と東北はソ連統治で、東京は4か国による分割占領)
④日本人女性への強姦
⑤京都、奈良等の文化財が強奪される

Aベストアンサー

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に
指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった。
東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所が開設されている。
東京・横浜をはじめ、江ノ島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、
兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった。

また、日本刀、鐘など、多くの文化財が、アメリカに持ち去られました。

天皇制の維持は、その方が日本を統治しやすいと判断したからだと思いますよ。
もし天皇を処刑していたら、ゲリラ的に日本国内で戦闘が続くと判断したのでしょう。

日本は、イギリス、中国との戦闘には勝っていますが、アメリカの物量に
負けたのですよね。
アメリカも予想以上の損害を被っています。

二度と日本軍とは戦いたくないとの強い思いがあったと思います。

アメリカの多大な損害と引き換えに日本を降伏させたのですから、
アメリカとしては、わざわざ分割統治して、貢献していない他国に分け前を
渡したくないでしょうし、日本の共産国化は何としても避けたかったでしょうから
ソ連との分割統治を避けたと思います。

行政機構の維持は、天皇制を継続したのが影響しているのではないでしょうか?

でも、WGIPによって、徹底的に自虐史観を植え付け、日本の国体を
破壊しました。今もその影響は、強く残っています。

ドイツは、軍隊を持っていますよ。
ドイツに戦争放棄の憲法9条はありません。

ドイツは、戦争責任を徹底的にナチスドイツ(ナチス政党)に押し付け
国としての戦争責任は認めていません。

よって、日本のような国としての謝罪はしていません。

ドイツにおける行政機構の徹底破壊がなぜ行われたのか?
私は知見がありません。
ドイツ人自身が、ナチスを徹底的に否定し、戦争責任を押し付けた
影響があるのでしょうか??? よく解りません。

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小...続きを読む

Q幕末、イギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか

幕末、日本が植民地にされなかったのは運がよかったからに過ぎないと言う人がいますが、それでは当時の最強国であるイギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか?

それとも、日本を植民地にすることは不可能か、可能だったとしても極めて困難だったのでしょうか。

Aベストアンサー

幕末の生麦事件・薩英戦争の後、日本侵攻の可否についてイギリス議会で議論があったとのことです。その際に確認されたことは、日本人はすでに植民地化された他のアジア民族とはことなり戦闘経験が豊富であること、恥をすすぐためには命を厭わぬ性質があること、最新型ではないとはいえ十分な火器を装備していることなどにより、本土侵攻には空前の規模の陸軍戦力を要するということだったそうです。そもそも薩英戦争では英国海軍の死傷者のほうが圧倒的に多かったわけですし、こんな国に本土侵攻なんてしたらゲリラ戦で泥沼化して大損害必至と。
 当時世界1級の海軍力と海運力を持つ英国でさえ本土侵攻が無理と判断したわけですから、植民地化は難しいと判断したんでしょうね。

Q畳は日本の文化って大嘘ですよね? 戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

畳は日本の文化って大嘘ですよね?

戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

日本の和室が出来て和室全部に畳を敷くようになったのは昭和ですよね?

Aベストアンサー

存在する最も古い畳は奈良時代の畳です。
「御床畳」(ゴショウノタタミ)という木でできた台の上に置かれたものが、
奈良東大寺の正倉院に保管されています。
安土桃山時代の茶室は畳でしたよ。
一般的になったのは江戸時代後期です。
畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が
確立していき、庶民の家にも使用されるようになったようです。

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Q火薬はむかしどうやって作られていたのか 教えてください。

火薬はむかしどうやって作られていたのか
教えてください。

Aベストアンサー

>火薬はむかしどうやって作られていたのか

 むかしとは?

 例えば

 戦国時代 黒色火薬は硝石(硝酸カリュウム)、硫黄、木炭の混合物
硝石は日本で産しないので輸入

 しかし、鉄砲が種子島に伝来後
火薬の製法も伝わって、火薬も日本で製造されるように・・・

 硝石の作り方として有名な方法として、
硝酸菌の硝化作用によって生成される方法

 また、江戸時代に佐藤信渕という
人の著した『硝石製造弁』だと、

・炎天下で刈り取った草を1日干す。
・30センチから60センチの高さに積み上げた土の上に、
上記の干し草を敷き詰める
・その上から、下水のたまり水、風呂の水、
古池の腐り水、魚のはらわたや鳥の死骸などを
漬けて腐らせた水をかける。
・積み上がったら、雨風があたらないようにする
・月に一度、土と草の積み直しをし、牛馬の糞尿や腐れ水をかける。
・上記の作業を3年続けると「硝石」がとれる

他に蚕のフンやヨモギから作った火薬もあったようです。

Q戦国時代以前、アメリカ大陸に漂着した日本人は居たと思いますか?

江戸時代、日本から太平洋を越えてアメリカ大陸に漂流した日本人は何名かいます。
音吉とか津太夫といった日本人を検索すれば出てきますが、音吉などは1年以上も漂流の後に北米大陸に到着しています。

日本人がアメリカ大陸に上陸したのは17世紀初頭の支倉常長や田中勝介が最初だと言われていますが、それより前の戦国時代以前、アメリカ大陸に漂着した日本人がいた可能性は高いと思いますか?

もちろん証拠は見つかっていないので確かめる方法はありませんが、可能性の話です。

Aベストアンサー

#6です。補足拝見しました。

>」でも、漁船は戦国時代以前も太平洋に出ていたのではないですか?高知県沖や三陸沖は戦国時代においても大きな漁場だったはずで、大勢の日本人漁師が魚を獲っていたでしょう。

それから太平洋を航海する船は少なかったでしょうが、飛鳥時代から戦国時代までの千年間、全くなかったわけではないはずです。数は少なくても超長期で考えたらそれなりの数になるのではないでしょうか。


すでに、八丈島は平安末期から鎌倉初期には存在が知られていましたので、明らかに太平洋を渡っていた人たちがいたことは事実です。

また、千葉県の房総半島は紀伊半島と同じ地名があり、紀伊半島から大挙して房総半島に移住した人々がいることも知られています。この移住の理由は漁のためとクジラ漁のためです。

ですから、たしかにそういう人たちはいたでしょう。

問題は「アメリカ大陸に漂着できるぐらいの大きさの船だったか?」ということです。

まず日本の船についていえば、和船として知られているものが大小さまざまに存在し利用されていたのですが、和船には竜骨(キール)がなく、また同様に竜骨を持たないジャンクとも違って、水密隔壁をまったく持たない構造でした。
 簡単にいえば「恐ろしいほど暴風と波に弱い」構造だったのです。

このような構造のしかも小さな船では、沿岸で漁をする漁船としては利用できても、とても外洋にでることはできません。嵐で流された場合、高波が直撃擦れば一発で壊れますし、また嵐を生き延びたとしても、水や食料などを確保するスペースがないので、船はアメリカにたどり着いたとしても、人間が生き残ってたどり着くのは不可能であったと考えるのが妥当だと思います。

ちなみに、東日本大震災でアメリカやカナダの西海岸にたどり着いた漂流物は、震災から8か月たってから漂着するものが多数発生した、と言う事実があります。つまり、標準的な漂流なら8か月ぐらいかかる、ということです。漁船レベルではどうやっても人間が生き残ることは不可能だと推測します。

では、八丈島を往復するぐらいの船であればどうだったでしょうか。それなら確かに、江戸期の廻船と同等かもう少し強い構造であったでしょうし、船の大きさもそれなりにあったわけです。

でも、和船である以上、脆弱性はどうしようもありません。また、当時の和船は甲板を持っていないので、難破すればほぼ間違いなく高波で破壊されたでしょう。水が入るだけで、ほとんど沈んでしまうのです。

そして、戦国時代以前は太平洋上を航行する船そのものがほとんどありませんでした。ざっくりと概算でも八丈島の存在が知られた鎌倉期から江戸初期までの600年間ほどで、運行されたのはせいぜい数千艘でしょう。これでも多いかもしれません。八丈島へは島をつたって移動でき、最長距離は御蔵島から八丈島への50キロですから、風待ちを十分にすれば一気に移動で来たでしょう。江戸期以前は2枚帆などの船もあり、オールで漕ぐこともありましたから、50キロなら 2.3時間で渡れたでしょう。つまり「風待ちをすることで、難破の可能性を限りなく下げた」ということです。

ですから、数が少ないうえに、難破しにくく、さらに嵐にあって難破すれば船の強度の問題からほぼ確実に破壊されるか沈没し、もしそれを生き延びたとしても8ヶ月に及ぶ期間を生存できる可能性はほとんどない(8か月もあれば何度も嵐に遭遇するでしょう)わけです。

江戸時代に難破した船からアメリカにたどり着いたり、他の船に救出されたりしたのは、それだけ廻船の数が多く回っていたからです。数が増えれば確率は優位になります。

これらの確立をすべて合わせた時に、江戸期以前の船がアメリカにたどり着き、生存者がいる可能性はかなり小さい、実際には不可能なほど小さいと考えます。

ですから可能性としてかんがえても「あるかもしれないが、その可能性はものすごくありえないほど低い」ということです。

#6です。補足拝見しました。

>」でも、漁船は戦国時代以前も太平洋に出ていたのではないですか?高知県沖や三陸沖は戦国時代においても大きな漁場だったはずで、大勢の日本人漁師が魚を獲っていたでしょう。

それから太平洋を航海する船は少なかったでしょうが、飛鳥時代から戦国時代までの千年間、全くなかったわけではないはずです。数は少なくても超長期で考えたらそれなりの数になるのではないでしょうか。


すでに、八丈島は平安末期から鎌倉初期には存在が知られていましたので、明らかに太平洋を渡っ...続きを読む

Q戦後、社会主義国家が世界中に成立したのは何故でしょうか?

ソ連の崩壊を以て、社会主義は資本主義に負けたと言われますが、第二次世界大戦の後に、世界中で社会主義国家が成立し、完全な資本主義国と言えるのはアメリカと西欧と日本だけになりました。

70年前にソ連の周辺国を始めとして世界のあらゆる場所で社会主義国が成立し、中国やベトナム、キューバでは資本主義が社会主義に敗退する結果になったのは何故なのでしょうか。

Aベストアンサー

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る人を優先する「資本主義社会」への変革を推進したからです。

資本主義社会は階級にかかわらず「資本を持っていれば自由に経済活動ができる」ことを要求し、その結果として富の再分配システムでもある政治システムが民主主義(多数決主義)に変わることを推し進めたからです。

しかし、主に19世紀の資本主義への変革は農民を労働者に変えただけで、君主による搾取よりもひどく、再分配システムはうまく機能していませんでした。また民主主義社会への転換は革命によるものでしたので「革命的手法による民衆の幸福の追求」は権利とされていて、そこにマルクス=レーニン主義が入って、1917年のソビエト革命につながっていくわけです。
これにより、ロシアとその周辺地域は社会主義的な体制になっていきます。

重要なのは、20世紀の初頭、第2次世界大戦までは意外に共産主義がうまく機能したことです。理由は様々ですが、現代ほどには自由経済ではなかったし、農民を労働者に変化させる工業化も各国で中途半端だったために「モノを作って生活を成り立たせる」ということが資本主義でも共産主義でもあまり違いが出なかった、からでしょう。
生産性に違いが無いなら、共産主義的な労働のありかたも一定の評価を受けていたのです。

ですから第2次大戦前の共産主義国は非常に強大な経済力も、人民動員力もあり、近代国家としてかなりの力をもっていたのです。そのため、ソ連は多くの国へ共産主義を広げる機会を狙っており、中国でも毛沢東の人民解放軍はソ連から軍事的援助をもらっていました。

第2次世界大戦の結果は誰でもご存知だと思いますが、ここで問題なのは「西側諸国の荒廃」と「日本の敗戦」です。
日本が敗戦したことにより、ソ連は朝鮮半島に容易に進出し、中国も人民解放軍が優勢になって手本主義側である国民党軍を大陸から追い出すことに成功しています。

つまり日本が抑えていたアジア大陸の共産化に歯止めが効かなくなり、結果としてアメリカは朝鮮戦争・ベトナム戦争とアジアの共産化に対応することに迫られることになるわけです。

同様に、それまで植民地支配していたヨーロッパ各国も戦争で荒廃したため、植民地統治能力を失い、各地で植民地が独立していきます。イギリスはインドを失いますが、この地域はソ連から見ても中国から見ても中央アジア山脈が邪魔をしているので、共産化には至りませんでしたが、中国大陸と接していたベトナム、ラオス、カンボジアは日本撤退とフランス再統治に反対してインドシナ戦争を行い、その結果フランスが撤退すると、今度は民主主義国か共産主義国かで独立のための指導権争いを行い、激しい内戦に突入していきます。

同様に、ヨーロッパでも第一大戦の結果ドイツの敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が弱体化し、事実上この地域がヨーロッパを共産主義から守ってきた地域だったため、この辺りの国はドイツとソ連で分割されるか、独立時に共産主義政府が樹立されることが多くなり、ナチスドイツの侵攻の結果一時的に王国に戻ったり、明主義勢力がもりかえしたものの、ナチスドイツの敗戦とともに多くの国がソ連の永世国家になっていきます。このように衛星国になったヨーロッパの国を東欧というわけです。


第二次大戦後、なぜ社会主義国が生まれたかというと、その地域を支配していた日本や西洋国という植民地支配国家が撤退し、権力の空白、無政府状態が現れたからです。日本やドイツは占領されなすすべがありませんでしたし、ドイツはソ連に分割統治までされています。

日本国土は、ドイツ分割を反省したアメリカのおかげで分割されることはありませんでしたが、その代り日本が撤退して権力の空白ができた朝鮮半島にソ連がすかさず入って、傀儡国家である北朝鮮を作ってしまいました。

東欧にしてもアジアにしても、日本と戦った地域の西洋国はその後の独立機運を抑えるほどの国力をすでに持っていなかったので、各地が独立し、結果としてソ連から多大な支援を受けた共産勢力が優勢な状態であったといえます。
もっともカンボジアなどはタイが共産国を嫌ったこと(王国なので危機感を持った)、イギリスやアメリカなども積極的に民主勢力を支援したことなどから、逆に激しい内戦を呼んでしまいます。

ベトナムに至っては、大戦中ホー・チ・ミンはアメリカからも援助をもらっており、戦後の独立処理で共産主義の対立の時にアメリカがあまりにも主権を侵しすぎたので、ベトナム戦争になっていくのです。結果アメリカは負け、ホー・チ・ミンですら共産主義をえらんだわけです。

結局第2次世界大戦でアメリカを除いた資本主義国が疲弊し、植民地の支配ができなくなり独立機運の高まりに共産国が援助したことが大きな理由であり、当時のソ連はアメリカと宇宙開発競争ができるぐらい、経済に余裕のある国であったわけです。またソ連は地上を移動するだけでの軍事援助など各国に影響を及ぼすことができますが、アメリカは本国から船で移動しないと影響力を行使できず、それが結局朝鮮戦争での苦難・ベトナム戦争の敗北につながっていくのです。

第2次世界大戦前は、西洋と米ソ、そして日本しか独立国はありませんでしたから、戦争終結で起きた権力の空白が当時強大だったソ連の台頭を許すことになったのです。

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る...続きを読む


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