何故、世の中はずる賢い人が幸せになり、正直な素直な人間が不幸になるんですか?
悲しいです。本当に世の中というものが、わかりません。

A 回答 (5件)

世の中、質問のような理不尽なこともあるし


そうでない場合もあります。

ケースバイケースです。

「正直で素直」は時として損かもしれませんが、

人に信頼されますので結果としては
あまり不幸にならないのでは。


だからあまり悲観することはないと思いますよ。
見ている人は見ているのです。
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この回答へのお礼

ありがとう

回答有難うございます。
励まされました。

お礼日時:2017/07/12 20:32

人間の生き方は真実の探求と目標は愛(アガペー)を体現することです。


聖書をよんだほうがいい。

無料のオンライン聖書はここで拾える。
http://bible.salterrae.net/
http://bible.salterrae.net/sinkaiyaku/html/
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
人間だからこそある愛ですね。
詳しく有難うございました。

お礼日時:2017/07/13 10:04

全て因果応報です。

ずる賢い人は幸せになっても後で地獄を見ます。その地獄は逃れられず約束されています。そのことで悔しがる必要はありません。素直で正直な人が今不幸なのは、過去の行いのせいです。でも、後で幸福になります。その幸福は他の誰かが壊せるものではないです。人は完璧ではないので、いつでも素直で正直で善人でいられないでしょう。ある時、何かのきっかけで悪に走ってしまうこともあるのです。致し方のないような状況で。それでも自分の行為の結果ですから、それは受けなくてはなりません。

りんごのタネを蒔いたら、りんごを収穫しなくてはなりません。他の果物がなるように求めても無理なんです。その特別な果物が欲しいなら、そのタネを蒔く必要があり、また長いこと待つ必要があります。

この世は100%因果応報で成り立っているので、不幸や気に入らないことを神や他人のせいにすることは一切できないのです。たとえ自分が覚えていないことでも正確に戻っきます。いいことも悪いことも。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
確かに人間は、完璧な人はいませんね。いつの間にか相手に完璧を求め責めてみたり、憎しんでみたり。
因果応報あるかもしれませんね。
今は、幸せでも…。

お礼日時:2017/07/12 20:29

暗い暗いと嘆くより、


進んで灯りを点けましょう。




屈原は、追放されて湘江の淵や岸をさまよい、沢のほとりで歌を口ずさんでいました。
顔はやつれて、その姿は痩せ衰えています。ある年老いた漁師が彼に尋ねました。

「あなたは三閭大夫さまではありませんか。どうしてこんな(
落ちぶれた)お姿になってしまわれたのですか。」と。

屈原は言いました。

「世の中の人々すべて(の心)が濁っている中で、私一人だけが清らかです。
そして人々がみな酔っている中で、私一人だけが醒めています。
だから追放されたのです。」と。

漁師は言いました。

「聖人というものは、物事にこだわらずに世の中と一緒に移り変わります。
世の中の人々(の心)が濁っているならば、どうして一緒にその泥をかき混ぜて、
波を立てないのですか。
人々が酔っているならば、どうしてその酒かすを口にして、
その薄い酒を飲もうとしないのですか。
どういった理由で深く考え、お高くとまって、自分から追放されるような
ことをしたのですか。」と。


屈原は言いました。

「私はこういうことを聞いたことがあります。『髪を洗ったばかりの者は必ず(冠についた)よごれを払い、入浴したばかりの者は、必ず衣服のほこりをふるってはらう』と。どうして清廉潔白なこの身に、(世俗の)汚れたものを受け入れることができましょうか、いやできません。むしろ湘江に行って魚のエサになろうとも、どうして清廉潔白なこの身を世俗の埃の中にまみれされることができましょうか、いやできません。」と。


漁師はにっこりと笑って、(出航するために)船の縁を叩いて行ってしまった。
そしてそのとき、次のような歌を詠んだ。

滄浪の水が澄んでいるのなら、私の冠の紐を洗おう。
滄浪の水が濁っているのなら、私の足を洗おう。

とうとうそのまま去ってしまい、2人はもう2度と語り合うことが
ありませんでした。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。
なるほど。深く考えさせられました。

お礼日時:2017/07/12 20:31

全ての人が等しく、ずる賢い部分と正直で素直な部分を併せ持っていると思いますよ。



その混ざり度合いも量もそれほど変わらないはずです。



誰かが幸せに成ったときは、一緒に喜んであげれば良く、

その人のずる賢い部分を探して嘆くのは宜しくありません。

また、

正直で素直な人が困っていれば、自分が助けてあげれば良く、

その人の不幸に同情することで免罪符(自分は善良である)を得ようとするのは、

逆にずる賢いと思いませんか?



ズルと言う言葉は、結果として損をするもの、そういう流れや法則にあてます。

結果として損をしなければ、ずる賢いのではなく、賢いのでしょう。

私たちは、誰かのアイデアに対して、リスクの有無を考えて、助言することが出来ます。

賢い人は、こうした意見を多く募り、物臭をせずに対策をしています。

この中には、社会性や道徳の規範、関係者への配慮も含まれます。

一般に考える以上に努力家が結果を残していると思いますよ。


とはいえ、

昨今、身内を強く叱りすぎてしまい、これが露呈して失脚した政治家がいましたよね。

これには考えさせられました。

私にも似たような経験がありますし、

他の人と話をしますと、やはり同じような経験があるらしいです。



自分が自分ではなくなり、

ふわふわとしてしまい、周囲の人への配慮が粗くなるんですよ。

とても怖い状態です。

そして、そういう事が誰にでも起こるんです。


他人との競争に勝ち抜いても、自分の心との戦いに勝てるわけではありません。

競争は合理性で結果を出すことが出来ますが、

幸福の維持は、その人の度量(=性根や根性)の勝負になります。

ここが善に向くように鍛えていませんと、あっという間に何もかもをなくします。


最近、悪という概念、定義について調べてみました。

国や文化、歴史が違うのに、各国に共通してこの概念があるのが不思議ですよね。

日本ではもともと”突出して強い”人にも使用したそうです。

全体を統制指揮する側が、その個人が指揮を無視する可能性を危惧し、禍の一つとしたそうです。

実際にその様になりやすいですね。さきほどの自分が自分で無くなる状態です。

キリスト教やユダヤ教では社会から隔絶して孤立した状態を悪としていたそうです。


大筋で言える事は、

「自分のもつ能力や資質を全体のために活かし、世に従う気持ち」

が無ければ、それを悪と定義できそうですね。


なので私たちが普段使う、

「何も悪い事をしていないのに・・・」

と言うのは正しくないのかもしれません。

「全体の対して自分を捧げ、その維持に自らを使用してもらいたい。」

この衝動が常にある状態を正常(=善)とし、

その感覚をなくした状態が異常(=悪)であり、

(さきほども述べましたが)これが自らの身を滅ぼすのだと思います。


悪と言う状態になりますと、自分では判別がつかないそうです。

大儀を語り、自らを騙し、他人を騙し、自己を正当化し続けるそうです。

これは本当でして、自分では分りません。

しかし、他人が同じ状態になると分ります。

私が経験した話です。

三人ほどのチームで仕事をしていました。

その中の二人から苦情がきまして、もう一人と話したことがあります。

「AとBから、君が自分の仕事を押し付けて来ると苦情が来たよ。」

すると、

「なんでそう考えるかな。少しは皆のためにやりたいとか思わないのかな?」

とCは反論します。

「その発想は正しいけど、その皆と言うのを人名であげてごらん。

 A、B、そしてC君、三人で全てのはずだよ。

 つまり皆のために仕事をしていないのは君の方なんだ。」

彼は、それでも納得していませんでした。

自分の苦労や心配事、あるべき姿を語り、他の人と比較して自分はマシであり、

自分が糾弾される方が不条理だというのです。


この人(=C君)もその後、正常に戻り、

「なんであんなこと言ってたんだろう。」

と自分を振り返り驚いています。

「自分は大丈夫だと思っていました。どうしたら、アレを避けられるんですか?」

「それは俺も知りたいよ。」

と話したことがあります。



こんな例を出したのは、

善や悪という概念は、行為や人の性質に使うのではなく、

その人の状態を表現するものだと述べたかったんです。

C君はそのあと苦労をしましたし、当人しか分からない悔しさの中で悶えました。

彼は自分が不幸だと感じたでしょう。

しかし、何の関係もない人にとっては、当たり前のなりゆきであり、

世の中の誰かが悪いわけではありません。

そして冒頭に述べましたが、誰もが等しく同じ性能をもっており、つくりが同じです。

こんな事が沢山起きているだけであって、本人が分らないだけであると思いますよ。

そして悪の状態に長くいると、何もかもが上手く行かず、苦痛が増していきます。

悪の状態にあると気がついたら、早く脱出することが大事です。

そうしませんと耐え切れず、本当に犯罪まで発展することがあります。


もうお分かりだと思いますが、

C君がやったように、正論を使って論理の正しさを検証してはいけないんです。

自分以外の誰かを心配する気持ち、幸せになってほしいと願う小さな気持ち。

これが今の自分に無くなっているか?

そういう状態になっていまいか?

と考えて落ち着くことです。



また、誰かを攻撃したくなっていないか?

誰かの幸せが自分にとって苦しいと感じていないか?

少しでもあれば、悪の状態にあると言うことです。


冒頭にも述べましたが、

ずる賢いことをして幸せに成った人がいたら、

「過程は納得できないが、とりあえず良かったじゃないか。

 とはいえ、足元をすくわれたら意味が無いぞ。

 あれ(=ズル)は運が良かっただけだから、今からは正したまえ。」

と考え、心配してあげるのが普通でしょう。

正直で素直な人がいたら、

「悪人に騙されれば、悪人の悪を助長してしまい、

 止めるべき初期の段階で戒めることが出来ないんだぞ。

 『その程度はバレるから辞めときなさい。』

 と教えるためにも、賢く強くあることが、私たち全ての大人が背負う暗黙の義務なんだよ。」

と諭してあげるべきでしょう。


また前提にある、幸福や不幸についてですが、

私自身については幸福になる必要性がないと思っています。

幸福を感じるときが少しでもあれば、得ではあると思っています。

私以外の、それぞれの個々人に対して、同じように当てはまると思います。

自分の不幸を基ネタにして、あたかも必要が満たされていないように他人を糾弾することは、

最初から出来ないんですよ。


困っていることがあれば、助けてくれと頼めるんです。

それを選べず、誰かを攻撃したくなると言う事は、

元ネタ以前に、自分の状態(体調とかメンタルの様な病気の可能性)が悪いと言う事です。

天候や気温、ストレスや過労、病気や怪我などで、簡単にそういう状態になります。

ここで、人類や世界を語って話を大きくすると引っ込みがつかなくなり、

その後で恥をかきます。


「そういう状態なんだ。大人しくしていよう。」


とするのが賢いと思っています。


質問者さんが、

人間全ての生き方について疑問を感じて答えを出さなくても良いはずです。

人間全てを指導する立場になったとき、悩みましょう。


まずは、ご自身の健康を考え、心の状態を吟味し、

「自分ひとりの体の面倒は見れている」とする。

それで胸を張って良いというのが、大人の考え方です。



以上、ご参考になれば。
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