アレルギー対策、自宅でできる効果的な方法とは?

西洋では、海賊は「パイレーツ・オブ・カリビアン」「カリブの海賊」などエンターテイメントの題材になっており、日本の漫画である「ワンピース」も、日本的というより西洋的な海賊を描いているといえます。

日本人は時代劇やチャンバラといった日本の歴史エンターテイメントは結構好きだと思いますが、日本の海賊である倭寇がその題材になることがほとんどないのは何故でしょうか?

A 回答 (4件)

カリブの海賊だけが特別で、その他はただの


賊だったからだと思います。

カリブの海賊は、一時期、英国海軍の下請け
みたいなことをやっていたからです。

つまり、体制側の海賊です。

当時のカリブ海は、イギリス領土でしたが
スペインの攻撃があり、イギリス海軍だけでは
手薄だったので、海賊に特別免許を与え
領土を守る、ということをやりました。

つまり、その時は正義の味方だったのです。

その他の海賊はただの犯罪者ですから
英雄視するわけにはいかなかったのでしょう。

ちなみに、倭寇は元寇の報復だ、という
有力な説があります。
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倭寇は日本側の見方と中・朝からの見方では大きく異なります。


倭寇をどう描こうとも、双方からそれはおかしいという指摘が出るからではないですか?
映画を作るには金がかかるし、その金の回収には興業の成功が必要ですから。
ましてや倭寇など、欧米人にとっては全く興味すら湧かないでしょう。
これは例えば日本の教科書にも載ってない、何百年も昔のヨーロッパの片隅で繰り広げられた領土の争奪戦が
映画化されないのと同じです。

これはいわゆる「南京大虐殺」も同じことです。
日中間でこの事件は大きく異なり、かつて中港台合作の映画「南京大屠殺、日本名:南京1937」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC …

日本では「南京の真実」が作られましたが、ともに芳しい興行成績はあげていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC …

上の日本映画の方は寄付で賄われているので、作りようもあるでしょうが、映画「倭寇」に投資する人が出るでしょうか?
要するに金です。
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村上水軍なんかだと、時々見かけるような気がしますが。



倭寇というのは、日本人が言ってたわけじゃないんです。襲われる朝鮮の人たちが言ってた言葉です。また倭寇は幅が広く、(元寇のように)日本が国として朝鮮を攻める時にも使われますが、個人が海賊行為を行ったときにも使われています。また海賊行為の個人が日本人なのか、日本人を装った朝鮮の人なのか、はっきりしないことも多かったようです。
歴史的にも紀元前から1000年以上幅がありますし、”こういうのが倭寇だ”っていうイメージも無いですし・・
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地味。

(-_-;)
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Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
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Qなぜ豊臣秀吉は姫路城を捨てて大阪城を作ったんですか?

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姫路城は黒田家に譲ったから

Q世界史:「皇帝」と「王」のちがいは?

「皇帝」と「王」のちがいはなんですか?

あと、神聖ローマ帝国のオットー1世は『王』ということで良いのですよね。そうすると、皇帝は誰だったのですか?

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王の上位者が皇帝。

神聖ローマ帝国の場合は帝国を構成する各国を支配する王などから選挙で選ばれて帝国全体の統治者となったのが皇帝。

>あと、神聖ローマ帝国のオットー1世は『王』ということで良いのですよね。そうすると、皇帝は誰だったのですか?
オットー1世が東フランク王国の王でドイツ帝国の皇帝。

日本で言えば殿様(王)と徳川将軍(皇帝)の様な関係。

Q日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

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えーと、境界線があるような話ではなく、
それぞれの勢力の本拠地の位置関係だけです。

習ったかと思いますが、南北朝時代は後醍醐天皇と足利尊氏の争いで始まりました。
足利尊氏が京都に攻め上って占拠したため、後醍醐天皇は京都を離れて吉野(奈良)に逃亡し、そこで新たに都を作りました。
これが京都から見て南にあるので通称「南朝」と呼ばれ、逆に京都は「北朝」と呼ばれたわけです。

Q幕末、イギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか

幕末、日本が植民地にされなかったのは運がよかったからに過ぎないと言う人がいますが、それでは当時の最強国であるイギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか?

それとも、日本を植民地にすることは不可能か、可能だったとしても極めて困難だったのでしょうか。

Aベストアンサー

幕末の生麦事件・薩英戦争の後、日本侵攻の可否についてイギリス議会で議論があったとのことです。その際に確認されたことは、日本人はすでに植民地化された他のアジア民族とはことなり戦闘経験が豊富であること、恥をすすぐためには命を厭わぬ性質があること、最新型ではないとはいえ十分な火器を装備していることなどにより、本土侵攻には空前の規模の陸軍戦力を要するということだったそうです。そもそも薩英戦争では英国海軍の死傷者のほうが圧倒的に多かったわけですし、こんな国に本土侵攻なんてしたらゲリラ戦で泥沼化して大損害必至と。
 当時世界1級の海軍力と海運力を持つ英国でさえ本土侵攻が無理と判断したわけですから、植民地化は難しいと判断したんでしょうね。

Q戦国時代以前、アメリカ大陸に漂着した日本人は居たと思いますか?

江戸時代、日本から太平洋を越えてアメリカ大陸に漂流した日本人は何名かいます。
音吉とか津太夫といった日本人を検索すれば出てきますが、音吉などは1年以上も漂流の後に北米大陸に到着しています。

日本人がアメリカ大陸に上陸したのは17世紀初頭の支倉常長や田中勝介が最初だと言われていますが、それより前の戦国時代以前、アメリカ大陸に漂着した日本人がいた可能性は高いと思いますか?

もちろん証拠は見つかっていないので確かめる方法はありませんが、可能性の話です。

Aベストアンサー

#6です。補足拝見しました。

>」でも、漁船は戦国時代以前も太平洋に出ていたのではないですか?高知県沖や三陸沖は戦国時代においても大きな漁場だったはずで、大勢の日本人漁師が魚を獲っていたでしょう。

それから太平洋を航海する船は少なかったでしょうが、飛鳥時代から戦国時代までの千年間、全くなかったわけではないはずです。数は少なくても超長期で考えたらそれなりの数になるのではないでしょうか。


すでに、八丈島は平安末期から鎌倉初期には存在が知られていましたので、明らかに太平洋を渡っていた人たちがいたことは事実です。

また、千葉県の房総半島は紀伊半島と同じ地名があり、紀伊半島から大挙して房総半島に移住した人々がいることも知られています。この移住の理由は漁のためとクジラ漁のためです。

ですから、たしかにそういう人たちはいたでしょう。

問題は「アメリカ大陸に漂着できるぐらいの大きさの船だったか?」ということです。

まず日本の船についていえば、和船として知られているものが大小さまざまに存在し利用されていたのですが、和船には竜骨(キール)がなく、また同様に竜骨を持たないジャンクとも違って、水密隔壁をまったく持たない構造でした。
 簡単にいえば「恐ろしいほど暴風と波に弱い」構造だったのです。

このような構造のしかも小さな船では、沿岸で漁をする漁船としては利用できても、とても外洋にでることはできません。嵐で流された場合、高波が直撃擦れば一発で壊れますし、また嵐を生き延びたとしても、水や食料などを確保するスペースがないので、船はアメリカにたどり着いたとしても、人間が生き残ってたどり着くのは不可能であったと考えるのが妥当だと思います。

ちなみに、東日本大震災でアメリカやカナダの西海岸にたどり着いた漂流物は、震災から8か月たってから漂着するものが多数発生した、と言う事実があります。つまり、標準的な漂流なら8か月ぐらいかかる、ということです。漁船レベルではどうやっても人間が生き残ることは不可能だと推測します。

では、八丈島を往復するぐらいの船であればどうだったでしょうか。それなら確かに、江戸期の廻船と同等かもう少し強い構造であったでしょうし、船の大きさもそれなりにあったわけです。

でも、和船である以上、脆弱性はどうしようもありません。また、当時の和船は甲板を持っていないので、難破すればほぼ間違いなく高波で破壊されたでしょう。水が入るだけで、ほとんど沈んでしまうのです。

そして、戦国時代以前は太平洋上を航行する船そのものがほとんどありませんでした。ざっくりと概算でも八丈島の存在が知られた鎌倉期から江戸初期までの600年間ほどで、運行されたのはせいぜい数千艘でしょう。これでも多いかもしれません。八丈島へは島をつたって移動でき、最長距離は御蔵島から八丈島への50キロですから、風待ちを十分にすれば一気に移動で来たでしょう。江戸期以前は2枚帆などの船もあり、オールで漕ぐこともありましたから、50キロなら 2.3時間で渡れたでしょう。つまり「風待ちをすることで、難破の可能性を限りなく下げた」ということです。

ですから、数が少ないうえに、難破しにくく、さらに嵐にあって難破すれば船の強度の問題からほぼ確実に破壊されるか沈没し、もしそれを生き延びたとしても8ヶ月に及ぶ期間を生存できる可能性はほとんどない(8か月もあれば何度も嵐に遭遇するでしょう)わけです。

江戸時代に難破した船からアメリカにたどり着いたり、他の船に救出されたりしたのは、それだけ廻船の数が多く回っていたからです。数が増えれば確率は優位になります。

これらの確立をすべて合わせた時に、江戸期以前の船がアメリカにたどり着き、生存者がいる可能性はかなり小さい、実際には不可能なほど小さいと考えます。

ですから可能性としてかんがえても「あるかもしれないが、その可能性はものすごくありえないほど低い」ということです。

#6です。補足拝見しました。

>」でも、漁船は戦国時代以前も太平洋に出ていたのではないですか?高知県沖や三陸沖は戦国時代においても大きな漁場だったはずで、大勢の日本人漁師が魚を獲っていたでしょう。

それから太平洋を航海する船は少なかったでしょうが、飛鳥時代から戦国時代までの千年間、全くなかったわけではないはずです。数は少なくても超長期で考えたらそれなりの数になるのではないでしょうか。


すでに、八丈島は平安末期から鎌倉初期には存在が知られていましたので、明らかに太平洋を渡っ...続きを読む

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Q第二次世界大戦の敗戦国としては、戦後処理として日本が恵まれていた理由は何ですか?

第二次世界大戦に敗戦した国としては、日本は以下の理由で恵まれていましたが、その理由は何でしょうか?

日本
①天皇制の存続
②行政機構の維持(GHQは行政機構に指示する形式をとっていた)
③一括統治
④戦後の敵国による破壊行為は僅少

一方、ドイツはこんな感じです。
①ヒトラーの戦死、戦後は極悪人として徹底糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治
④ドイツ女性への強姦
⑤文化財等の強奪

もし、日本がドイツのようになっていたら・・・考えただけで恐ろしいですね。
①天皇の処刑・極悪人として糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治(おそらく北海道と東北はソ連統治で、東京は4か国による分割占領)
④日本人女性への強姦
⑤京都、奈良等の文化財が強奪される

Aベストアンサー

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に
指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった。
東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所が開設されている。
東京・横浜をはじめ、江ノ島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、
兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった。

また、日本刀、鐘など、多くの文化財が、アメリカに持ち去られました。

天皇制の維持は、その方が日本を統治しやすいと判断したからだと思いますよ。
もし天皇を処刑していたら、ゲリラ的に日本国内で戦闘が続くと判断したのでしょう。

日本は、イギリス、中国との戦闘には勝っていますが、アメリカの物量に
負けたのですよね。
アメリカも予想以上の損害を被っています。

二度と日本軍とは戦いたくないとの強い思いがあったと思います。

アメリカの多大な損害と引き換えに日本を降伏させたのですから、
アメリカとしては、わざわざ分割統治して、貢献していない他国に分け前を
渡したくないでしょうし、日本の共産国化は何としても避けたかったでしょうから
ソ連との分割統治を避けたと思います。

行政機構の維持は、天皇制を継続したのが影響しているのではないでしょうか?

でも、WGIPによって、徹底的に自虐史観を植え付け、日本の国体を
破壊しました。今もその影響は、強く残っています。

ドイツは、軍隊を持っていますよ。
ドイツに戦争放棄の憲法9条はありません。

ドイツは、戦争責任を徹底的にナチスドイツ(ナチス政党)に押し付け
国としての戦争責任は認めていません。

よって、日本のような国としての謝罪はしていません。

ドイツにおける行政機構の徹底破壊がなぜ行われたのか?
私は知見がありません。
ドイツ人自身が、ナチスを徹底的に否定し、戦争責任を押し付けた
影響があるのでしょうか??? よく解りません。

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小...続きを読む

Q日本がドイツより長く戦争を続けられた理由は何ですか?

第2次世界大戦で、日本はドイツが降伏した後もしばらく戦い続け、原爆を2発落とされてようやく降伏します。
日本、ドイツ、イタリアの3国のうち、日本がドイツよりも長く戦争を続けた・続けることが可能だった理由は何でしょうか?
ドイツは本土決戦を行い首都陥落まで徹底抗戦したのに、日本本土は空爆はあったものの戦場になっていませんでした。

Aベストアンサー

日本が島国だったこと、ドイツが陸続きの国であり、ソ連と戦闘があったことが戦争終結の時期に違いが出た原因です。

ドイツが戦った相手は当初はイギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国とソ連、つまり陸続きの攻防戦です。ドイツは優秀な兵器をもち、特にアメリカに対してはUボートが活躍してアメリカからの物資援助もアメリカの軍艦も寄せ付けませんでした。

また、機甲師団も優秀でヨーロッパ戦線で瞬く間にフランスやソ連の一部を占領していったわけです。ですからいわゆる西部戦線は順調であったといえます。

しかし、ソ連と対決している東部戦線はソ連の全面的な対決姿勢により、不利な状況が続き、結果としてソ連の反撃とそれに呼応したアメリカのノルマンディー上陸作戦により、窮地に立たされます。

ソ連は対ドイツ戦に集中するため、日本とは日ソ中立条約で対抗しない姿勢でしたので、日本よりもドイツの降伏が早かったのはこれがもっとも大きな理由のひとつになるでしょう。

日本の場合、戦線としては二つありました。
・中国大陸から東南アジアに延びる植民地での陸軍の戦闘
・戦略的要所を抑えるための太平洋でのアメリカとの戦闘
です。

植民地に置いてある軍隊は本国に比べれば2流であり、日本陸軍の快進撃は「本国が近く補給などが受けやすいかどうか」で違いがでました。本国から遠い、各国の植民地の軍隊は日本軍に負け続け、本国からの補給も行き届いていなかったといえます。

アメリカはこれらにも援助していたわけですが、アジア大陸はアメリカ本土からも遠いこと、アジア大陸に行くには日本の哨戒網を突破することが必要だったために、アメリカと日本の戦いは主に太平洋での海洋戦になっていきます。

アメリカは「とにかく日本がもっている島々を攻略しないとダメだ」ということで、ミッドウエー海戦で有利になると日本の要衝である、パラオやガダルカナル島、グアム島やサイパン島などを攻略していきます。

アメリカが予想外だったのは、日本軍が全滅するまで戦いをやめなかったことでしょう。これにより日本本土攻撃がどんどん遅くなっていったわけです。

陸地の戦いは、一旦均衡が破れれば一気に本土に迫ることができます。ドイツは結局東部戦線も西部戦線も失い、両側から押しつぶされる形で敗戦に至ります。

その時、日本のほうは「まだ島嶼部を攻略中」であり、島嶼部はひとつづつつぶさないと、思わぬ反撃を受けることになります。ですからパラオなど南太平洋のアメリカ本土に近いところから丹念につぶして行って、サイパンを攻略したら本土爆撃をしつつ、沖縄・硫黄島そしてようやく日本本土に総攻撃ができるところまで行ったのが、ドイツ降伏の後だったわけです。

また、日本は最大兵力を動員できるソ連と中立状態でしたから、ソ連との戦いを考慮しないで戦争を進められました。ソ連はドイツ降伏後、アメリカの要請で対日戦線を開く予定でしたが、広いユーラシア大陸の西側から東側に兵員を移動するだけで半年かかり、それが結局日本の降伏を遅らせる原因にもなっていきます。

結局日本が最後まで本土決戦を避けられたのは「島国だったから」にほかなりません。島国の戦略の最大のものは「敵が本土に至る前に殲滅する」ということです。

ですから、日本は大戦前から太平洋上の各島嶼を戦略的拠点として整備し、アメリカはそれをひとつづつつぶさないと本土にたどり着けなかった、ということです。ただ、ソ連が最初から戦争に参加していれば、満州と朝鮮さらに日本海でも海戦が必要になり、日本海軍も二方面作戦を強いられて降伏の時期は早まったでしょう。

ということで、ドイツよりも長く戦争が出来たのは
・アメリカとの戦いは海戦が主体だったこと
・ソ連との開戦が終戦時までなかったこと
ということでしょう。

日本が島国だったこと、ドイツが陸続きの国であり、ソ連と戦闘があったことが戦争終結の時期に違いが出た原因です。

ドイツが戦った相手は当初はイギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国とソ連、つまり陸続きの攻防戦です。ドイツは優秀な兵器をもち、特にアメリカに対してはUボートが活躍してアメリカからの物資援助もアメリカの軍艦も寄せ付けませんでした。

また、機甲師団も優秀でヨーロッパ戦線で瞬く間にフランスやソ連の一部を占領していったわけです。ですからいわゆる西部戦線は順調であったといえま...続きを読む


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