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古墳時代のものから何がみえてくるのか教えて下さい。
古墳時代といえば古墳や装飾品などですがそれらを見て何がわかりますか?
過去の世界がどういう新しい発見に繋がるんでしょうか

A 回答 (4件)

当時がどんな社会だったのか、人々がどのような生活をしていたのか、の一端がわかります。



具体例をあげましょう。
古墳からは埴輪と呼ばれる土製の焼き物がよく出土しますが、これには様々な形があり、円筒型の他に人や動物や鳥や魚、家や機織り機の形の物まで見つかっています。これらから当時の服飾や髪形、職業(相撲取りや鷹匠の埴輪もあります)や建物・器物の形等が判明します。また、離れた二つ以上の古墳から出土した埴輪が同じ作風(表現や造形において)で作られていたら、それは同じ場所で作られた埴輪がそれぞれの古墳に収められた、すなわち職業としての埴輪制作集団の存在が推測できます。
埴輪以外では、大型古墳には石室という石で造られた部屋があり、この中に墓の主の遺体と副葬品が安置されています。この石室が、古墳の近くでは採取できない石材で作られているという事がよくありますが、その場合は石の産地から古墳までの運搬ルートがあったという事になります。石室を構成する石の中には畳一枚分よりも大きくて重い物までありますから、そうなると運搬ルートに加えて重量のある石を運ぶ輸送技術も存在した、と解るのです。
また、当時の有力者同士の力関係や、中央政権と地方とのつながりを古墳の形から読み解こうという研究もあるようです。
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文字による記録が残る前の時代の話なので、よく分かっていないことも多いのです。


それが分かると、昔の日本人はどのような考え方をしていたのかとか、まぁ日本人(つまり自分たち自身)のルーツが分ったりするわけです。

理系の学問などには顕著ですが、『何かの役に立たなくてはならない』なんてことは無いのが本当です。基礎研究などと呼ばれるものの多くは、何の役にも立ちそうにないものばかりなのです。逆に、何かの役に立つものしか研究できなくなれば、その学問は廃れます。
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> 古墳時代といえば古墳や装飾品などですがそれらを見て何がわかりますか?


古墳って結構大きかったりします。土を掘って盛り上げるのでも大変そうです。古墳時代ってたいして道具もないし、食い物も住まいも大変な中で、そんなだいそれたことをするものだなぁと思います。装飾品にしても、あまり役立ちそうもないものを、苦労して作るというのは大変そうと思います。
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%8F%A4%E5%A …
今もICBMや高層マンションを熱心に作る人がいますが、こういうのを見ると、今も昔も、人の考えること、やることは、誰にも了解可能というものではなくて、一部の人にしか関心がないことでも、膨大な労力や時間、多くの資材を動員して実現させることが現実にできるのだなとわかります。
人類って、決してみんなが似たような思考をするものでもないし、財力や権力のようなものの所有も大きな差があったんだと、わかります。

> 過去の世界がどういう新しい発見に繋がるんでしょうか
「新しい発見」というのは、《その人にとって、その直前までは知らなかった》ということです。
古墳時代の人にとって常識でも現在の幼児にとっては未知である、1890年代の東京の人にとっては常識でも現在の東京に住む20~70歳の人のほとんどは全く知らないということはたくさんあります。
人ってのは、案外、何も知らない、多くのことに気づかないものです。 自分自身のことでも改めて調べたり他人に評価してもらうと、新しい発見をすることがたくさんあります。

子供が恐竜に興味をもって図鑑を調べたり、化石や石に興味をもって河原や崖を掘ったり、妖怪や宇宙人に興味をもっていろいろサイトを調べたりして、新しい発見をして喜んでいるのもしばしば見られるものです。
刀(日本刀)に興味を持ったり、原子やイオンに関心を持ったり、数学や英語(外国語)に関心を持ったり、金儲けやスポーツに興味を持っても、突っ込んでやれば結構新しい発見をすることも多いです。
発見は個人的経験ですが、その個人の発見が最近は多くの人が知らなかった発見であったり、新しい発見で従来の知見や理解の枠組みを(少し、大きく、根本的に)変えるということになることもあります。

ところで、古墳の形はいくつかのタイプに分かれていると認識されていることを知っていますか。どこにどの時代にどんな古墳があったのかの調査を少しは知っていますか。それで、どのような知見を引き出しているのか少しは知っていますか。
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例えば、縄文土器があって、それが弥生土器に


代わった訳です。
縄文土器と弥生土器とでは、大きく異なります。

そうなると、次の論の状況証拠の一つになります。

日本はアジアの吹きだまり的位置にあります。
だから、アジアのあちこちから人間が集まり
混血化して、縄文人になりました。

その後、あるとき、中国大陸や朝鮮半島から大量に
移民がやってきて、混血化が更に進みました。

これが弥生人です。

土器や他の資料からそういうことが推測できる
訳です。
そしてその推測はDNA鑑定によって裏付けられる。
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Q日本では太古の昔から女性が尊重されてきたのではないでしょうか?

「日本では女性の地位が低かった」「日本では女性が差別されていた」と言っている人は居ますが、天照大神が女神であることからわかるように、太古の昔から日本では女性が尊重されていたようです。

「いやいや、男性に比べて女性は不自由だった」と言う人も居ますが、女性に対してマナーやルールを教育していたのは昔から年配の女性であり、女子の教育に関しては昔から男性が介入できない聖域でした。男性が女性に対して、「ああせいこうせい」というのは昔からほとんどなかったのです。

「いや、昔から組織のトップはほとんど男性が占めていたじゃない」と言う人に対しては、昔は政治と軍事が一体化しており、兵役を免除されていた女性は代償として組織のトップになれなかっただけです。そして組織のトップになるということは、時として組織の責任を取って切腹することを求められる立場でしたから、そのような重責を担いたいと思う女性はほとんど居なかったでしょう。
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ということで、太古の昔から日本の男性は女性を常に尊重しており、男性は外で仕事、女性は家で家事をすることが多かったのは女性差別でなく女性保護の観点から行われてきたということでよろしいでしょうか?

「日本では女性の地位が低かった」「日本では女性が差別されていた」と言っている人は居ますが、天照大神が女神であることからわかるように、太古の昔から日本では女性が尊重されていたようです。

「いやいや、男性に比べて女性は不自由だった」と言う人も居ますが、女性に対してマナーやルールを教育していたのは昔から年配の女性であり、女子の教育に関しては昔から男性が介入できない聖域でした。男性が女性に対して、「ああせいこうせい」というのは昔からほとんどなかったのです。

「いや、昔から組織...続きを読む

Aベストアンサー

昔から、日本の女性は名を捨て実を得てきた
のです。

江戸時代にしても、三行半は女性の為の制度で
あることが判明しています。

江戸時代の女性は強かったのです。
あまりに強く、不倫なども結構やられて
いました。

それで、既婚であることが判るように、お歯黒とか
眉そりの習慣が出来ました。

不倫にしても、刑罰は死罪でしたが、それは表向き
だけで、実際は売春だ、ということで死罪にすることは
ありませんでした。

実証研究が進むにつれ、こういうことが判って
きました。

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そうでないと、男は男であることをいやがります。


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昔から、日本の女性は名を捨て実を得てきた
のです。

江戸時代にしても、三行半は女性の為の制度で
あることが判明しています。

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あまりに強く、不倫なども結構やられて
いました。

それで、既婚であることが判るように、お歯黒とか
眉そりの習慣が出来ました。

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実証研究が進むにつれ、こういうことが判って
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Qこれは何でしょう?

親戚の家に保存されている木箱に入った古い文書(約300年前の日付あり)と一緒に、鉄製のボタンのような物がありました。直径は2~3センチくらいでした(しっかり測ればよかったのですが、大体の感覚です)。文書の内容は、先祖の系譜のような物で、ご先祖様がその地に住むようになった経緯の書付です。

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ヘッケルの反復説、「個体発生は系統発生を繰り返す」のことでしょうか
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Q畳は日本の文化って大嘘ですよね? 戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

畳は日本の文化って大嘘ですよね?

戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

日本の和室が出来て和室全部に畳を敷くようになったのは昭和ですよね?

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存在する最も古い畳は奈良時代の畳です。
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Q記紀が邪馬台国に触れていないのはなぜでしょうか?

こんにちは。
成立が700年代で邪馬台国が3~400年頃なので記紀に邪馬台国の記事が無い、
のは不自然かと思いますが、もし畿内説を取るのであればもっと不自然でして、
意図的に隠蔽された可能性も考えられる訳ですが、この点について畿内派は
どのように説明しているのでしょうか?それとも記紀において何かそれと想わせる記事、
又は間接的に別な国を見立てたような暗に含んだような記事があるのでしょうか?
記紀が邪馬台国に触れていないのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

質問の意図がわかりかねるというか....

畿内派とは、ヤマト政権=邪馬台国 のことであるので、記紀の記述そのものがヤマト政権のことである以上、
同時に邪馬台国の記述になります。
邪馬台国 という記述が無いのは、日中での国の呼び名の差異にすぎないので、記述する必要が無いので
邪馬台国に触れていないのは当然だと思うんだが....
たとえば、現代中国語で、ドイツは「徳国」、アメリカは「美国」 という差異があるんだが.....
他にも、イギリスといっていいのか?(イングランド、スコットランドほかの連合なので、正式には「連合王国」。)
現代でもこういうことやってるので、ヤマトと邪馬台国の表記の差異は、普通気にしません。

だから、「説明するまでもなくて自明なこと」なので、たぶん、畿内説のかたたちは、誰も説明していないと思います。
したがって、卑弥呼は、記紀の人物のうちいったい誰なのか? というのが話題になり、
話題の課程で、
神武天皇と応神天皇は同一人物(2人とも、ハツクニ(初国))であって、歴史を水増しするためにループした
というような説もあり。
上記にかかわらず、天皇の代を信用したとします。それでも、天皇の1代は約10年だから、

・記紀における卑弥呼らしき人物(神功皇后、百襲姫)では年代が合わない。天照大神ならつじつまが合う。
 天照大神は、神武東征前の人(神?)だから、記紀の記述を信ずる以上、邪馬台国は畿内のはずが無い

などというツッコミを北九州派から受けます。(安本美典説)
まあ、天皇の1代は約10年 の部分にツッコミ返すか、そもそも記紀は信用できない(=記紀の記述よりもっと代を重ねている)
というような反論はあるけど、
技術屋さん(=歴史には門外漢)が安本美典説とその反論を読むと、ツッコミ返しのほうの説得力は皆無だったりする....
でも、歴史学者に統計学に詳しい人なんてほとんどいないので、安本さんは涙目状態。

で、卑弥呼=神功皇后 は、 年代の無理がひどく、 百襲姫のほうがマシです。それでも、統計に詳しい人から見れば
明らかに異常事態であって、安本美典説以外はありえないのですが....
※壱与(台与?)さんのほうが天照大神かもしれませんが、たった1代差なので、統計学では判別不能。
※※安本美典説では、邪馬台国=朝倉(甘木市)ですが、今回回答は、卑弥呼=天照大神 までの部分とします。

質問の意図がわかりかねるというか....

畿内派とは、ヤマト政権=邪馬台国 のことであるので、記紀の記述そのものがヤマト政権のことである以上、
同時に邪馬台国の記述になります。
邪馬台国 という記述が無いのは、日中での国の呼び名の差異にすぎないので、記述する必要が無いので
邪馬台国に触れていないのは当然だと思うんだが....
たとえば、現代中国語で、ドイツは「徳国」、アメリカは「美国」 という差異があるんだが.....
他にも、イギリスといっていいのか?(イングランド、スコット...続きを読む

Q第二次世界大戦の敗戦国としては、戦後処理として日本が恵まれていた理由は何ですか?

第二次世界大戦に敗戦した国としては、日本は以下の理由で恵まれていましたが、その理由は何でしょうか?

日本
①天皇制の存続
②行政機構の維持(GHQは行政機構に指示する形式をとっていた)
③一括統治
④戦後の敵国による破壊行為は僅少

一方、ドイツはこんな感じです。
①ヒトラーの戦死、戦後は極悪人として徹底糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治
④ドイツ女性への強姦
⑤文化財等の強奪

もし、日本がドイツのようになっていたら・・・考えただけで恐ろしいですね。
①天皇の処刑・極悪人として糾弾
②行政機構の徹底破壊
③分断統治(おそらく北海道と東北はソ連統治で、東京は4か国による分割占領)
④日本人女性への強姦
⑤京都、奈良等の文化財が強奪される

Aベストアンサー

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に
指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった。
東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所が開設されている。
東京・横浜をはじめ、江ノ島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、
兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった。

また、日本刀、鐘など、多くの文化財が、アメリカに持ち去られました。

天皇制の維持は、その方が日本を統治しやすいと判断したからだと思いますよ。
もし天皇を処刑していたら、ゲリラ的に日本国内で戦闘が続くと判断したのでしょう。

日本は、イギリス、中国との戦闘には勝っていますが、アメリカの物量に
負けたのですよね。
アメリカも予想以上の損害を被っています。

二度と日本軍とは戦いたくないとの強い思いがあったと思います。

アメリカの多大な損害と引き換えに日本を降伏させたのですから、
アメリカとしては、わざわざ分割統治して、貢献していない他国に分け前を
渡したくないでしょうし、日本の共産国化は何としても避けたかったでしょうから
ソ連との分割統治を避けたと思います。

行政機構の維持は、天皇制を継続したのが影響しているのではないでしょうか?

でも、WGIPによって、徹底的に自虐史観を植え付け、日本の国体を
破壊しました。今もその影響は、強く残っています。

ドイツは、軍隊を持っていますよ。
ドイツに戦争放棄の憲法9条はありません。

ドイツは、戦争責任を徹底的にナチスドイツ(ナチス政党)に押し付け
国としての戦争責任は認めていません。

よって、日本のような国としての謝罪はしていません。

ドイツにおける行政機構の徹底破壊がなぜ行われたのか?
私は知見がありません。
ドイツ人自身が、ナチスを徹底的に否定し、戦争責任を押し付けた
影響があるのでしょうか??? よく解りません。

日本人女性への強姦は、沢山あったと思いますよ。
・沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発した。
・沖縄で、アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
・連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した。
・占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば
 上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。

仕方ないので、防止するために1945年8月27日に大森海岸の料亭「小...続きを読む

Q歴史

平氏や源氏はたくさん出てきますが、滅ぼされてるのに何でまた平氏が出てきたりするのがわかりません。藤原氏も顔だしてきたりしますがもう平安の人物がごちゃごちゃなので教えてください。

Aベストアンサー

質問の主旨は↓ですか?

>滅ぼされてるのに何でまた平氏が出てきたりするのがわかりません。


回答:滅びたのは「平家」であって「平氏」ではない。

以下の回答は、源氏と平氏の起源はご存じであるという前提でお話しします。
質問者様は、最近増えている調べれば簡単にわかることの説明を他人に要求する輩ほど怠惰ではないと思いますし、私も怠け者を甘やかすことを親切などとは思っていません。


「平家」ですが、
前述の「平氏」の中の、平清盛を頂点とした血縁や姻戚関係による「家族共同体」の事です。

これによれば、婚姻によって「平氏ではない平家」(例:「平氏ではない藤原氏」や【平家の天皇】)も存在しえます。
《「平家物語」が「平氏物語」ではないのは、これが理由です》

当時にこのような概念があったのは、当時は、変則的な母系社会であり、妻の実家(→天皇の母)の影響力が無視できなかったからです。
藤原氏や平清盛の権力は、これによるものです。



「源家(頼朝の一族)」という名称がないのは以下の理由に拠ります。

初期の鎌倉幕府は、平清盛のような個人による中央集権や独裁ではなく、御家人の連合政権でした。
そして当時の頼朝は流刑人であり、その力は北条氏に頼っていました。
しかし、鎌倉初期の北条氏の実力(軍事力、経済力)は、幕府内の他の勢力と比較した場合、決して強いわけではなく、その権力は「頼朝の妻の実家」という事に依存していました。

以上から、頼朝と北条氏は依存関係にあり、単独でファミリーを作れる状況ではありませんでした。



清盛や頼朝の以外「源氏」と「平氏」についてですが、
当時の彼らは全国に広まり、その地での豪族となっていました。それらの中で(同族内でも)対立関係も生まれていました。
そして、平氏にも平家を良く思わない者もいましたし、源氏にも頼朝と対立する者も出ています。
頼朝に協力した関東の武士には「平氏」も多数います。(北条氏も自称平家です)


そして、↑のような彼らは、平や源という「姓」以外の「氏」も持っていました。

当時の「姓」と「氏」と「苗字」の意味は↓のようなものです。

姓:天皇から賜った名前。(出自を表すものとしては 最も正式で由緒のあるものとされています)
天皇に「名字」がないのはこの為です。

例:名前を記すとき「源(みなもとの)」とか「平(たいらの)」や「藤原(ふじわらの)」のように【の】がつく場合が姓。


氏 :姓の一族の中で枝分かれした系統を示すもの。(朝廷文章や内部文章でも使用されます)


苗字:氏の中で更に系統が分かれて、区別が難しくなったとき、所在地(領地)で呼ぶ場合がありました。(主に私的文章や非公式文章で使用)

他には、全く中央と縁のない 源氏や平氏の使用人や武装農民の成り上がりがドサクサに紛れた適当な名前を名乗ったもの。
それらの中には、源氏や平氏を騙る者も(多分)いました。


例:織田信長の「織田」は平姓の織田氏です。
室町幕府の足利氏は源氏の一氏族。(ルーツは源義国)
忠臣蔵の吉良氏は足利の氏族
紀伊徳川氏→「紀伊殿」
徳川のルーツは得川氏(自称)(得川氏は新田氏の氏族、新田氏は源氏)
↑によれば、家の格だけなら 吉良>徳川 らしい。

↑の氏と苗字ですが、時代によって入れ替わったり、新しく名乗ったりした例もあります。

質問の主旨は↓ですか?

>滅ぼされてるのに何でまた平氏が出てきたりするのがわかりません。


回答:滅びたのは「平家」であって「平氏」ではない。

以下の回答は、源氏と平氏の起源はご存じであるという前提でお話しします。
質問者様は、最近増えている調べれば簡単にわかることの説明を他人に要求する輩ほど怠惰ではないと思いますし、私も怠け者を甘やかすことを親切などとは思っていません。


「平家」ですが、
前述の「平氏」の中の、平清盛を頂点とした血縁や姻戚関係による「家族共同体」の事です。

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Q日頃から疑問に思う事があります。 日本には古代から中世頃までの時代に石造りの建築物がほとんどないか、

日頃から疑問に思う事があります。
日本には古代から中世頃までの時代に石造りの建築物がほとんどないか、少ないと思います。
世界を見れば西洋は言うに及ばず東南アジア インド
中国 中東に至るまで夥しい石造建築が残っています。
この差は文化の違いと言うだけではない根本的理由があるように思うのですが皆様のお考えをお聞かせください。
単純に外国に比べ加工に向く石が少ないとかなんでしょうか?
知ってる方いらっしゃいましたら宜しくお願いします。

Aベストアンサー

No.7回答者phjさんの回答は、素晴らしいと思いました。
住宅や建築物の構造などが地域によって違う理由は、単純ではなく、いろいろ複合した結果だろうというのは、そうだろうなと思いました。

ただ、地震の多少は、建築上石造り/石造りでないとはあまり関係ないのではないかと思います。
地震の分布図を見ても、日本特有の主要な理由にはならない感じがします。
http://www.asahi.com/articles/ASK1L6SR9K1LUHBI03W.html
温暖湿潤な地域の住宅は、だいたい、柱と梁によって構成される木造構造が多いようです。
日射が強い地域では壁を厚くして屋内の温度を低く保つ構造が多いようです。大きな石造の建築物に入ると確かに体感的にひんやりするのです。
しかし、こうした住宅を作る地域の環境条件では、石造やレンガにするか、壁構造にするか、柱と梁で作るかは、決まらない・あまり関係がないと思います。
半地下のような堀り込んだ建築をする地域も多いし、過密というか水平方向よりも垂直方向に住宅がぎしぎしと詰まった地域も結構多いです。 海外旅行のパンフレットをみても、建築には地域差が多いのがわかります。
地球海沿岸は樹木が建築用材に向いてないように思います。多少はそれが関係しているのかもしれませんが、もしも住宅は木造という意識が強くあれば、なんとかそうした植林をしていたと思います。 意識が向いていれば、遠くからでも調達してくるのが人類の歴史です。
12世紀のロンドンで大火が相次いで発生し、「各戸は必ず家の境に、厚さ0.93m、高さ4.88mの防火用煉瓦壁を設け、屋根は街路に面して切妻にし、直接防火壁のうえに葺きおろし、瓦葺とすること」という法令がでて、石造りの家が増えたそうです。日本では、応仁の乱での京の町、江戸時代の江戸の町は大火があり、関東震災では、東京市(15区)住家全潰1.2万棟、焼失約22万棟、死者の総数約6.9万人の95%は火災によるもの、横浜市住家全潰が1.6万戸,焼失6.3万戸と、被害対策としては火災対策がポイントなのに、基本的には木造が続きました。 火事がやばいとレンガや石造りが増えるというような単純な考えを、世界に広げることはできません。
石は冷えると思いますが、ヨーロッパでも木造が多い地域は結構あります。木造が多いと言われる北欧やロシアでも石造の住宅は多いし、ドイツでは木造が観光名所にもなっています。
http://unohideoblog.seesaa.net/article/108110538.html
日本が中国文化を朝鮮半島経由で入手したのは明らかで、寺院建築や宮殿、都城も、これを導入しています。レンガ造建築は、文明開化のショーウインドウのような誇示のために造られているのですが、古代の新羅、百済、隋、唐などから技術導入し肩を並べるだけのものだと誇示したのと似ています。
今でも、高級住宅地とか言われる地域は、その地域で似た構造や外観を持っていることが多いです。 
建築物、住居も、文化の大きな要素であり、自分たちがある勢力をもつものであること、他とははっきりと違うものであることを示す重要なものです。
だから○○様式の建築というのが世界中で、どの時代にも、身分や格式、階級などを示す形であるのです。伝統的構造の住宅というものがあるのも、その様式から逸脱しないで建設するし、格違いの他の人々や集団にはそうした構造や様式で建築することを認めないというようなこともあるのが、建築物の重要な性質です。
宗教というか、信仰というか、アミニズムのようなことも、建築に関係しています。神の依り代のようなもので考えるような思考が多いと、石造やレンガ作りではちょっとな、、という気分になるでしょう。 仮寓一時滞在処のような作り方がしっくりするのかもしれません。遷宮するから木造、支配者一代ごとにあるいは同じ支配者でも何度か拠点を移動するから木造なのではなくて、石造りしたくなかったから、その支配者の頭にすり込まれている宮殿や宮殿構造のイメージが、木造のある特定の様式の範囲から脱することができなかったから、そうした構造が続いたのだと思います。
基本的には戦闘や斬り合いがなかった江戸時代でも武士が帯刀していないとならなかったのと同様で、その社会での文化がある階級集団と他の階級集団とに対して要求している様式の強制が、住宅の構造、高さ、門のあるなしにも関係してくるのだろ思います。

高層マンション群の地域、広大な敷地をもつ住宅地の地域、安価なマンション地域、安アパート地域、雑然とした木造住宅地域、バブル時代にできた新興住宅地と、結構住宅の構造が違います。 社会の中での階級、階層意識をその時代の中で外見的に表現するようなものが、住宅の構造や色使いなどにはっきり出てきます。
この差は文化の違いと考えるのが、一番現実的だと思います。

No.7回答者phjさんの回答は、素晴らしいと思いました。
住宅や建築物の構造などが地域によって違う理由は、単純ではなく、いろいろ複合した結果だろうというのは、そうだろうなと思いました。

ただ、地震の多少は、建築上石造り/石造りでないとはあまり関係ないのではないかと思います。
地震の分布図を見ても、日本特有の主要な理由にはならない感じがします。
http://www.asahi.com/articles/ASK1L6SR9K1LUHBI03W.html
温暖湿潤な地域の住宅は、だいたい、柱と梁によって構成される木造構造が多いようです。
日...続きを読む

Q日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

日本史で南北朝文化が出てきたのですが、どこを境目に南と北ですか?

Aベストアンサー

えーと、境界線があるような話ではなく、
それぞれの勢力の本拠地の位置関係だけです。

習ったかと思いますが、南北朝時代は後醍醐天皇と足利尊氏の争いで始まりました。
足利尊氏が京都に攻め上って占拠したため、後醍醐天皇は京都を離れて吉野(奈良)に逃亡し、そこで新たに都を作りました。
これが京都から見て南にあるので通称「南朝」と呼ばれ、逆に京都は「北朝」と呼ばれたわけです。


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