人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

こんにちは。
以前「ワビさびを一言で現して下さい」と言う投稿をした時、
15件も回答頂きましたがコメントの中に「無常」と言う言葉が数回出て来ました。
この時少しは調べましたがサッパリ解りませんでした。
説明文を読んでも解らない、説明そのものが理解出来ないと言っていいでしょう。
「無常」をバカでも解るよう簡潔に説明して下さい。
バカじゃ解らない、は無しでお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

無常


常に無い
いつもあるものでは無い
変化している?
これ侘び寂びかなぁ
仏教用語だろうけど、奥が深いというよね
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この回答へのお礼

「無」と「常」でなんとなく意味は解るのですが、
これを説明したモノの方は難しい。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/12 13:15

『ずっと変わらないもの・永遠のものなど存在しない』という意味です。

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この回答へのお礼

それなら解ります。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/04 22:57

無常=死。

全てのものはいつかは死ぬ、永遠はないこと。
無常=どう頑張ってもいつかは死ぬ、と言う思い。
無常=現実に執着することの虚しさの自覚。
無常=現実から距離を置いて、虚しい自身を正面から見つめ直す。
無常=無私無欲な視点から見ると、世界の見え方が変わる。
無常=そういう精神世界を持つこと、またはその精神世界。

無情は関係ありません。虚無でもありません。本来虚しいと言う自覚が深いからこそ生まれる存在へのいとおしさ、のことです。
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この回答へのお礼

無常を知り相反する自我を理解する、
でいいですか?
俗に対応する言葉なのでしょうか?

と言うか、常なるモノは無い、までは解るのですが
そこから先の説明がいきなり難解になります。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/04 22:57

>努力すれば必ず報われる、と言うのがベースにありますので


じゃあ何もしない方がいいみたいに聞こえる言う世界観が解りません。

それは違う。
目的や目標があり、そこに到達しようとするのが努力である。

化学変化や物理法則に対しては努力することはできない。
そもそも人間の努力とは無関係だ。
例えばゆで玉子を努力で生卵に戻すことはできない。
例えば質量のある物質を努力で光速を超えて移動させることはできない。
この様な例は努力とは言わない。
二次元のアニメキャラクターを「俺の嫁」と(本気で)言っている様なものだ。
それが無常。
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この回答へのお礼

取り返しの付かないモノ、
又はどうにもならないモノ、
が無常だ!
これでいいでしょうか。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/04 22:40

「無常」は常に同じものは無い。

と言う事です。

時間的に、全ての物は同じ状態では無い。空気に触れると酸化するし、繁盛していた店は潰れるし、昔と今と未来とは同じでは無い。という事。

価値観的に、例えば1,000万円が有るとします。金持ちから見ると、たった1、000万円、貧乏人から見ると、1,000万円も有ります。同じ物でも見方が変われば同じでは無い。という事。

だからお経は、そのような物にこだわるな。と教えます。

こだわって、執着している物が、実は移ろい易い物ですよ。と教えています。

何に苦しんでいるのか、原因を良く見たら、非常に移ろい易い物だった。「何だこんなものにこだわっていたのか?」と気づきなさい。と教えているところに良く出てきますね。

「そのこだわりは、非常に移ろい易い物ですよ。」が無常です。
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この回答へのお礼

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、
ですかね?

日常でも良くありますよ。
俺は何でこんなことに悩んでいたんだ、みたいな。

でも私が悩むぐらいのことは超越したもっとすごいことなんじゃないかと。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/01 23:18

無常を無情と読み替えればわかりやすい。

人間の感情には喜怒哀楽があり、なにかショックを受けたときに何の望みも今後期待できないときに放心状態等で感情が無くなるときに感情が無くなるのを無情と言います。お聞きの無常と同じ意味です。
フランス文学で レミゼラブル はああ無情と訳します。
また 小林秀雄の無常ということ の本もでてます。
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この回答へのお礼

無常=無情 なんですか?

違うと思って聞いたのですが?

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/01 23:13

雪山偈、というのがあります。


妻子を連れて、修行の旅をしていた、雪山童子。前世の釈迦と言われますが、前世とは、修行者となる前の釈迦、皇太子のの頃、の意味もあります。
山中で鬼に出会った。鬼は 諸行無常、(常なるものは無い、世界は変化してゆく過程として、今ある、のみ と詠った。
感動した童子が、次も教えてくれ。と頼むと
鬼は、おまえの妻を食わせてくれるなら、教えてやる。 と言った。 童子が承知すると。鬼は童子の妻を食った後。
是生滅法(法を滅するのが生である)と詠った。
童子が、その先も教えてくれ、と頼むと。鬼はお前の息子を食わせるなら。教えてやる。と言った。
承知をすると。鬼は子供を食った後。
生滅滅為 (生を滅せ、生に駆り立てる、心を滅せ)と詠った。
その先も教えてくれ。と童子が頼むと。鬼はお前を食わせるなら教えてやる。と言った。
承知をすると。鬼は
滅為有楽(苦の根源が消滅した故の、静けさ、がある)。と詠った。
童子は、急ぎ大岩に駆け上り。
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 滅為有楽 と4つの言葉を書き記すと、導くもの(仏)を刻むと、鬼の餌食になるべく、岩山から、身を投げた。
(鬼は神が姿を変えて、童子を試したいたのであった。と言うようなオチになっているが)。(少し変えると)
頭から、墜落し、大地に激突する。と思った瞬間、目が覚めた。
釈迦族の皇太子、ゴ-タマ、は夢を見ていたのであった。体を起こし、天を仰いだ後、うなづき。やっぱり、妻子と共には、無理なのだ。と呟き。妻子も、次期国王の地位も、城も捨て。物乞いをして礼を言わない乞食、として修行をしよう。と決心します。行かないで下さいと哀願する妻に、涙を流しながら、魔女(心に働きかける者)よ去ってくれ。と叫び。城を出、二度と故郷には足を踏み入れなかった。と言われます。
三世紀の頃が。くらまじゅう、が仏教の真髄として、色即是空、という言葉を。形あるものは移ろいゆく空しいものである。と伝えた。これが日本に伝わり
平家物語の
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色 
盛者必衰の理を現す、奢れる者の久しからず ただ春の夜の夢の如し。・・が、の日本人の無常観、となったようです。
しかしおかしいですよね。ここでの諸行無常は、人間の一切は苦であると知恵によりてみる者は自らの苦悩を癒やす。いわゆる、一切皆苦、のイメージであり。沙羅双樹の花の色が、諸行無常の理でしょう。
つまり祇園精舎の鐘の音、一切行苦の響きあり、沙羅双樹の花の色、諸行無常 のことわりを現す。と仏教なら、なるべきところです。
そして、特出すべきは、七世紀に、ヒンズー教の聖典でもある、ラーマーヤナ。の物語の模倣である。孫悟空の物語とともに広まった、般若心経という、経典の中の、色即是空、が色=空 色✕空=一定つまり、縁=起 縁✕起=諸法
と縁起の理法を解説している事です。
どこまでの思想が仏教と言えるのか。世界の仏教界が決めた、法印、と言うのがあるようです。
諸行無常、諸相無我、の2つに、一切行苦、涅槃寂静、のどちらかを、教義にかかげているなら、仏教(釈迦の思想、と認める)
これを三法印と言い、両方掲げているなら四法印、としているようです。
諸相無我、とは、西洋思想と言われる、デカルトの合理主義。の我思う故に我あり。ではなく、我思うされど、我なし。心なる、実体は存在しない。神はいない。が、仏教なのです。
古代インドの影響を受けているとも思える。ヘラクレイトスの万物は流転する。を古典弁証法とし。真理とか神とか、定義によって人間が作った、変化しないものを作ろうとする形而上学の方向に、東洋に二千年以上遅れて、無常、に気づいたのが、ドイツ弁証法です。それ以来ドイツ人は頭が良い。とい言われ。実際に西洋諸国のなかでは、突出した、知能民族となった。ようです。第二次世界大戦までは。戦後世界の半数近くのくに、半数以上の人々が、社会主義国家、という神を認めない国に属した。それから五十年。今や商業主義、帝国主義、のユダヤ思想が世界を席巻し世界人口の八割が何らかの神、を信じ。そそれを肯定する理屈をとなえているようです。すぐに変わる、無常の思想ではあります。
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この回答へのお礼

理解出来んとです。
簡単にって言ったじゃないですか。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/01 23:10

あなたが大切な人の敵をうったとします。


それが大昔であれば、きっと正義として認められたでしょう。現在では悪です。
現代社会でも、あなたにとってはきっと正義です。周りにも正義と認める人がいても不思議はないです。しかし世間一般からすると悪です。相手側からすれば悪です。でも今から100年くらいすると、敵討ちは正義!ってのが常識になってるかもしれません。常識もまた変わっていくからです。

ものごとは無常なのであります。
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この回答へのお礼

人を殺めると言うのがいかなる立場でもダメと言う認識があります。
でも江戸時代の敵討ちにも共感を持てます。

無常、無情、・・・・・情けがない?

無情が俗っぽい感じがしますが無常はなにか違い感じがします。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/01 23:09

どうにもならない。

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この回答へのお礼

その理解はありますよ。
ケースバイケースですけど。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/01 22:04

ANo.5。



>余計に解らなくなるようなことは言わないで下さい。

逆に何がどう分からないのか教えて欲しい。
万物は生まれては滅び、永遠に変わらないものは無いし、人は死ぬ。
正義も立ち位置によって違う。
つまり努力しようが抗おうがどうにもならないことなのだ。
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この回答へのお礼

努力すれば必ず報われる、と言うのがベースにありますので
じゃあ何もしない方がいいみたいに聞こえる言う世界観が解りません。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2017/08/01 22:03

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 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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ドイツ語に詳しい方よりご教示頂けましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。
「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ語ができないなら回答しない方がよい、ということで、
immanent, immanentalが挙げられていますが、そんなに簡単な話ではありません。
immanentalという語形は、英語では使いますがドイツ語では使いません。
そもそも、transzendentalという語を哲学用語として新たに導入し、
transzendentとtranszendentalは同じではない(nicht einerlei)とカント自身が書いている以上、
対義語が同じimmanentに由来する語になるはずはないのです。

哲学用語辞典の前に、一般的な辞書、Dudenを見てみます。

transzendentはラテン語のtranscendens(動詞形transcendere: überschreiten, übersteigen超えること)に由来、
哲学用語としての意味は、
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対義語:immanent

transzendentalは中世ラテン語のtranscendentalis(übersinnlich: 超感性的)に由来、
哲学用語としての意味は、
「あらゆる主観的経験以前に在り、対象そのものの認識を最初に可能にすること」
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対義語:記載なし

カントにおけるこの二語に関しては、ドイツ語による哲学語辞典や研究書の解説は一貫しています。
結論から言うと、質問文に書かれているとおり、
transzendent ⇔ immanent
transzendental ⇔ empirisch
となっています。
ただし、カントにおいても、まだこの二語の使い分けは必ずしも明確ではなく、
ほぼ同義に使っている個所もあるということが、ドイツ語の各種研究書に詳しく書かれています。
この点については、三一書房刊のロングセラー、「哲学・倫理用語辞典」でも注意されています。

ドイツに、学術的な書物を多く出しているUTBという出版社がありますが、
その哲学用語辞典では、transzendentに関しては
名詞形Transzendenzを見よとなっているので、その一部を引用します。

Transzendenz
「超越(Transzendenz)」の概念においては、人間の原経験は、有限な存在であることを言い表す。なぜなら我々は、洞察可能かつ把握可能な現実の一部として存在はするが、その一方ではこの現実を、我々の認識能力の有限性を通して、それと同様限られたものとして体験するからである。この二重の境界経験は、思考に対し、我々の存在の内在的実在性(immanente Realität)が止揚される超越的現実(transzendente Wirklichkeit)の必然的予見を生じさせる。Transzendenzはつまり、Immanenzという概念に対応した相対的概念であり、Immanenzの概念をどのように理解するかによって、Transzendenzに相対する概念としてExistenz、Erleben、Daseinなどが考慮の対象となる。Xavier Tilliette (1921-)は、Transzendenzの本来の対義語は、「落下」「沈下」を意味するDeszendenzという概念によって成されるのではないかという。Transzendenzは、常に不完全なものとして見られる目の前の現実(Immanenz)からより高次の領域へ入ることを意味するゆえ。
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ドイツ観念論においては、Transzendenzに関わる問題は、主観・客観という弁証法的対概念に変化し、「彼岸(jenseits)」–「此岸(diesseits)」(Transzendenz – Immanenz)という意味論的な対義から「絶対的(absolut)」–「限定的(bedingt)」へ変換される。

以上の意味から、transzendentの対義語はimmanentとなります。

transzendentalは、カントの定義では、a priori(つまりempirischではなく)とみなされる認識に関わることであり、この認識は、対象を直接にではなく、我々が対象をどのような方法で認識するか、その方法によって規定する、とあります。
「対象とではなく、a prioriに可能な限りにおいての我々の対象認識の方法と携わるすべての認識をtranszendentalと名付ける」

transzendentalの上のような意味と、その語源の意味がübersinnlichであることから、カントの用語のtranszendentalの対義語はempirischとされています。

また、これらのラテン語由来の述語をカント自身がより一般的なドイツ語に置き換えていますが、
transzendentはüberfliegend(飛び越える)、またはüberschwenglich(過剰な、感情過多な)、
immanentはeinheimischと訳されています。
(注:überschwenglichは、こんにちではüberschwänglichと綴ります。)
なので、この場合のeinheimischは「土着的」ということではなく、
immanent(内在的)のドイツ語訳です。
heim(家)という語が含まれていることからもわかるように、
古くは「在宅する」の意味で使われた形容詞です。
以下、Georg Samuel Albert Mellin著のEncyclopädisches Wörterbuch der kritischen Philosophieからの引用です。

Einheimisch
immanent, domesticus, domestique, immanent. So heißt im Theoretischen diejenige Vorstellung, die nur auf Erfahrung geht, oder auf Erfahrung eingeschränkt ist, weil sie dann in ihrem Gebiet ist und bleibt. Eigentlich heißt also einheimisch oder immanent seyn, in seinem Gebiet seyn, transcendent seyn dagegen, über sein Gebiet hinausgehen.
(einheimischは、自らの領域にとどまること、transcendentはその領域から出て行くこと。)

以上をまとめると、ラテン語由来の述語とその対義語、およびそのドイツ語訳は、以下のように対応します。
(apriorischのみはラテン語由来のままです。)

transzendent ⇔ immanent : überfliegend/überschwenglich ⇔ einheimisch

transzendental ⇔ empirisch : apriorisch ⇔ erfahrungsgemäß

(Fritz Mauthner: Wörterbuch der Philosophieの解説より)

『純粋理性批判』の複数個所で、「transzendent - immanent」「transzendental - empirisch」が同義に使われているということが、
Christoph Asmuth著のKant und Fichte - Fichte und Kantの解説中に見受けられます。
区別が明確になるのは、Prolegomenaにおいてだそうです。
ほかにも、Der Begriff "transzendental" bei Immanuel Kant(Nikolaus Knoepffler著)
という書物を見つけたのですが、残念ながらいま仕事が忙しくて読み込めないので、
ここまででご勘弁願います。

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。
「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ...続きを読む

Q先日、このカテに掲載された“・・・は、人のこころを傷つけてないですか、”という文章は、肯定しているの

先日、このカテで、
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この文章は、①「 “・・・は、人のこころを傷つけてない” と思われるが、如何?」、ということを
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例外のない法則 真理と言い切れるものはあるでしょうか?

もしあれば一つでもいいから教えて頂けないでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

普遍的な宇宙の大法則(摂理)を想像すると、例外というものは存在しないように
思えますが、変化・成長があるということを考えますと、完全ではなく、「例外」
と呼べるものがあるはずだと思います。

またそれは、現在の人間の認識方法によるもので、宇宙の普遍性から見たときに
「正しい」とは全く限らないわけです。
そのあたりを、現代物理学が解明しつつあるように思えます。

もう少し言えば、なぜ変化・成長があるかと言えば、それは個別化された生命に
自由があり、その自由な能動的な創造という行為が変化・成長を産む、と。
その全体から見ればわずかな「歪み」が「例外的存在」となり、それを因として
全体が変化をする、と。

まあ、こんなことを考えて楽しんでいる私です。(^^♪

Q屁理屈と詭弁

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論理学で、外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法、となりますので、
「屁理屈」と「詭弁」はもちろん違うものということになります。

要するに、「間違い」ということでは同じなのですが、「屁理屈」は間違いだと明らかに
分かりますので、「不愉快」ということ以外は実害はないと思います。

問題は「詭弁」です。

「詭弁」には何らかの意図がある場合が多く、またそれを証明することはできません。
そして、一般大衆においては、論理学をキチンと心得ていない人が大多数だと思います。

これは、そう簡単なこととは思えないのですが、「詭弁」に騙されないためには、どの
ような点に注意したらよいのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。緑萌ゆる季節になりましたね。
詭弁は、論理的思考や論理的対話におけるひとつのシステムと呼びうる地平で、誤謬を交えないことによって、制御できるものでしょう。

・要素であるものは何か、概念や共通理解をとおして明確であること
・作用また機能にかかわるような、必要な要素群は何と何か、明確に挙がっていること
・目的や結論をけっして要素としないこと
・木を見て森を見ないような視点を避け、何が部分であり何が全体であるかを区別し続けること
・論理は複数の論理と繋がっている構造物なので、論理間の正しさだけを問題とするのでなく、下位の論理について、ひとつでも複数でもいずれも正しくあること

こういう態勢にあれば騙されないと思いますよ。
ただ、言語活動の場合、要素とか部分とか、あるいは土台や隣接の論理とかが、経験的な合意形成だけで成り立つものですから、スルーッと流してしまう恐れがありますね。一方で、経験が蓄積されているほど、そうした経験的な合意の妥当性を判別することが出来るとも言えるでしょう。詭弁そのものを情報的要素とすることも可能だし、人間の知性の面白いところですね。

こんにちは。緑萌ゆる季節になりましたね。
詭弁は、論理的思考や論理的対話におけるひとつのシステムと呼びうる地平で、誤謬を交えないことによって、制御できるものでしょう。

・要素であるものは何か、概念や共通理解をとおして明確であること
・作用また機能にかかわるような、必要な要素群は何と何か、明確に挙がっていること
・目的や結論をけっして要素としないこと
・木を見て森を見ないような視点を避け、何が部分であり何が全体であるかを区別し続けること
・論理は複数の論理と繋がっている構造物なの...続きを読む

Qきのう、友人から、借りて 読んだ本があります。 この文章の意味がさっぱり、わかりません。わかる方いら

きのう、友人から、借りて
読んだ本があります。

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その場合にしたって、書けば、かわる、
のである。』


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その文章は、多くの方が簡単に理解できそうですよ。
繰り返し、何度も本の頭から読み直すことで、分からない本も分かるようになりますよ。

Q教育哲学

教育の本質ということで「教育哲学」という言葉を思いついたのですが、
すでに学問の領域として存在していたことを知りました。

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ます。これは、教育が欲望達成のための道具に成り下がっているというこ
とで、あるべき姿ではないと考えます。

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また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

Aベストアンサー

>教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?

食糧の調達と保存と加工方法、それに栄養学、あとは哲学を教えるべきです。
上記を無償の義務教育として、それ以外は有料の選択科目とすればよいでしょう。

>また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

教師の収入・生活を確保するための議論は排除して、個人が自由に教育を買えるようにすることが重要です。
教育を買うだけのカネがない人達には、食糧の調達と保存と加工方法、栄養学、哲学だけは無料で(税金んで)教えるようにしましょう。


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