親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

神や仏の本質はその意志にあります。
決してその姿形ではございませぬ。
それゆえ神や仏に姿形を求めてはならないのです。
とりわけ人の姿形を神や仏に求めるなどは愚の骨頂でございまする。
それゆえ仏像を彫ってはこれを仏のごとく拝んだり、イエス・キリストの絵を壁に貼って賛美歌を歌うなどはおよそ知能ある人間のやることではございません。
古来よりこれらの行為は偶像崇拝と申しまして、およそ人間がやる行いの中で最も卑しむべき行為とみなされておるのです。
大仏様だの、イエス様だのと言うものは、全てこの偶像なのでございます。
これらが神や仏と無縁のものであることは、知能ある人間であれば少し頭を冷やして考えれば直ぐに判ることなのでございます。
神や仏に姿形を求めてはなりませぬ。
神や仏の本質はその意志、御心にあるからです。

A 回答 (16件中1~10件)

神や仏の姿形を見たいと言う人がいました。

その人が絵を書き仏像を作ったのです。

まあ、人間って意思が弱いですからね。

人類の絵画力や創造力も向上し、石を砕いて染料にしたり、銅を溶かす事が出来たのも影響したのでしょうね。

字の読め無い人達に、仏の教えを教えるのに、仏像は有効だったのですよ。
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この回答へのお礼

それは大昔の話ではありませんか。
昔のことは昔のこと。
いつまでも昔の話をしてもしょーがないではないですか。
21世紀の現代人は大昔の人とは何から何まで全て違うでしょーに。

お礼日時:2017/07/31 22:17

お礼ありがとうございます。


つまり、ゴーダマ・シッダールダは仏では無いと言う事で良いのでしょうか?
仏教の仏は、教えと真理(仏教では、法と言うと思います)だけと言う事だと、人間は仏にはなれないと言う事ですね。
ところで、そのような教義を持つ仏教と言うのは存在するのでしょうか?
仏と言う言葉の意味が、上座部仏教や大乗仏教諸派とは違うようですが、誰にそれを教えてもらったんですか?(仏(法)が教えてくれたんですか?)
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この回答へのお礼

>仏教の仏は、教えと真理(仏教では、法と言うと思います)だけと言う事だと、人間は仏にはなれないと言う事ですね。

昔、今から20年ほど前の頃、自らを最終解脱者であるなどとと名乗り、巷で空中浮揚などのパフォーマンスを行って見世物にしていた者がおりました。
その者はその後殺人罪その他の罪で死刑宣告を受け、今は刑務所の中でクサイ飯を食っていると言えば誰のことか判るのではないでしょーか。
人間が悟り解脱して仏になるなどといった話はおよそこの類で御座います。
全て形にこだわるが故の愚業なのでございまする。

お礼日時:2017/07/29 16:33

お礼ありがとうございます。


イエス・キリストが「神」でないのであれば、キリスト教が成り立たないことになりますが、ゴーダマ・シッダールダに関しては、現実の仏教の教義の問題となると、ゴーダマ・シッダールタが仏と無縁なのかどうかはわからないです。
人が仏になれると言うのは、仏教に共通の教義だと思いますが、これはどうなんでしょうか?
これが、成り立たないのならば、全ての仏教の教義は誤りとなります。
これについては、どうお考えですか?
質問文では、形の無い物をかたどる事が、「偶像」の意味だと思いますが、その場合、少なくともイエス・キリスト、ゴーダマ・シッダールダの単なる像は、似ていなくても、人間である事は確かですから、「偶像」では無いと思います。
イエス・キリストが「神」で無く、ゴーダマ・シッダールダが仏と無縁であれば、それぞれを「神」、仏として扱うならば、それは「偶像」(それぞれ、「神」、仏として扱う行為自体です)と言えるかもしれません。
意味としては、どちらを想定されていますか?
ちなみに、上座部仏教と大乗仏教諸派では、仏に対する考えが違いますが、こちらはどちらを想定されているのでしょうか?(仏を解脱者の最上位と考えるか、法身と考えるかで、解釈は異なると思います)
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この回答へのお礼

仏教における仏とは教えであり、真理であって、姿形を備えたものではございません。
それゆえ解脱者のことでもなく、法身でもないです。
そもそも姿形にこだわること自体が仏教の教えに反しておるのです。

お礼日時:2017/07/29 15:54

お礼ありがとうございます。


釈迦牟尼は、ゴーダマ・シッダールタと呼ばれる人物のつもりで書いたんですが、仏とは無縁なんでしょうか?(この場合の仏は、解脱した人と言う意味です)
仏が何を成すのかはわからないですが、ゴーダマ・シッダールタは仏や如来では無い、偶像と言う意味ですか?
仏ってのは、人間がなれるものでは無いのでしょうか?(そう言う事であれば、仏教自体が成り立たないと思います)
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この回答へのお礼

>そう言う事であれば、仏教自体が成り立たないと思います)

仏教が教えとして成り立つか否かは、その教えの中身と現実の仏教文化の有り様、実態にかかっています。
ご存知のよーに現実の仏教は葬式仏教に成り下がっておりまして、そこでは本来の仏教徒というのは皆無であり、肉食妻帯坊主が仏像などを作ってこれを拝ませたり、戒名ビジネスを営んでいるのみで、いわゆる教えなどというものはもはや存在しません。
そもそも教えを説くのに仏像などを拝ませる必要はないはずです。
実質的には仏教は既に成立しておりません。

お礼日時:2017/07/29 15:15

釈迦牟尼が仏と無縁だったり、イエス・キリストが「神」と無縁だったら、仏教やキリスト教は偶像崇拝と言う事ですかね?(これは、彫刻された物と言う意味じゃなくて、存在そのものが偶像と言う事だったらと言う事です)


釈迦牟尼やイエス・キリストは、実在したとしても、仏や「神」とは無縁と言う事ですか?(「神」は、アブラハムの宗教の信仰対象を意味します)
神や仏の意志や御心ってのは、どうやってわかるんですか?
補足をお願いします。
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この回答へのお礼

>釈迦牟尼が仏と無縁だったり、イエス・キリストが「神」と無縁だったら、仏教やキリスト教は偶像崇拝と言う事ですかね?

神が人の姿形をして地上に降りてくるはずはありません。
ましてや神が奇跡を披露したり、奇跡を説いたりは決していたしません。
これだけ考えてもイエス・キリストが「神」と無縁なものであることは明らかです。
釈迦牟尼はコレ↓であり、仏とは無縁のただの仏像です。
http://seihou8.sakura.ne.jp/art/jiinn-butu/syaka …

お礼日時:2017/07/29 12:36

こんにちは。



揚げ足取りをおこなって ツッコミとします。

★ 神や仏の本質はその意志にあります。
☆ 神は 経験事象を超えていますから 現象と本質といった認識の
仕方には ほんとうには なじみません。

本質は 存在として形而上のことを意味し得るかも分かりませんが
ふつうは 現象の奥にひそむ抽象的な意味内容を言うはずです。

意志も 一般には 本質と同じく経験事象(人間の意志行為を含む自
然および社会の現象)にかかわる問題です。

もし本質も意志も 抽象化した概念であることを超えて 形而上の場
のことを言っているとすれば それは――つまり《神あるいは法身と
してのブッダ》は―― 非経験の場でありそういったナゾです。


★ 決してその姿形ではございませぬ。
☆ じつは――詭弁を弄すると見られかねない話をしますが―― ナ
ゾなる非経験の場は 経験事象としての有る無いや因果関係をも超え
ています。超えているからには 経験し得るような姿かたちを持つか
どうか これは 分かりません。

分かるか分からないかが分かりません。姿形からは自由なナゾなんで
す。

つまり 姿形――経験現象であること――から自由だということは
神は 姿を現わすかも知れないし現わさないかも知れないということ
です。 ブッダも 形を成さないかも知れないが それと同時に形を
採り得るのかも分からない。

つねに 両方のコトが あり得ます。


★ それゆえ神や仏に姿形を求めてはならないのです。
☆ 非経験の場なのですから 人間がこれをその能力と努力とで知ろ
うとしても 無理です。人知を超えているというのが 非経験のナゾ
という意味です。

ということは 問題は 神のほうからわれわれ人間にやって来ること
があるか? になります。

姿形をとり得るという場合を考えれば その場合の神を人間は見るこ
とが出来るかも知れない。

つまりは 誰かが おれは神を見たぞと言った場合 そのことの成否
は これも人間一般には分からない。

分からないナゾであるからには その人の神体験について 否定も肯
定も成し得ない。こう成ります。

《神や仏に姿形を求め》ることは 無理筋であるが ただし神や仏の
ほうから われへのおとづれが ひょっとしてあるかも知れない。と
は言えます。その人ひとりの内面だけの体験としてですが。


★ それゆえ仏像を彫ってはこれを仏のごとく拝んだり、イエス・キ
リストの絵を壁に貼って賛美歌を歌うなどはおよそ知能ある人間のや
ることではございません。
☆ ひとりの人間たるわれにあっては 仏がおとづれて来たかも分か
らない。そして そうでなくても――人間は想像力がゆたかなのです
から 芸術としてでも―― 仏の絵や像を思い描きこれを 表現する
ことは あり得ます。

讃美歌というのも ひとりのわれなる神体験にもとづき――そうでな
くても自由に―― わが思いを表現することはあり得ます。


★ 古来よりこれらの行為は偶像崇拝と申しまして、およそ人間がや
る行いの中で最も卑しむべき行為とみなされておるのです。
☆ つまり 《われなる心の内面》を超えて外に出かけてしまっては
もうその神体験は 生きない。外に出かけるということは 非経験の
ナゾが 経験事象になるということですから。

言いかえると おっしゃるようなこの偶像崇拝というのは 外に出か
けて形而下のものごととなってしまったものを そのまま神や仏だと
見なしてしまうことです。

偶像は 仮りの姿形だということになります。そして この場合の姿
形というのは 或るひとりのわれにおとづれた神や仏を おそらく記
念としてみづからが表現したものなのでしょう。

メモつまり備忘録のようなものです。メモとして表現されたその姿形
が 神や仏なのではないわけです。仮りの姿形です。

しかも 非経験のナゾたる神は 姿形を現わすかも知れないと同時に
――同時にです―― 現わさないかも知れない。

つまり われに現われたからと言って ほかの人にも現われたとは限
らない。わたしに現われないからと言って 別の人にも現われないと
は限らない。

それはつねに同時に ふたつの異なる可能性が 成り立っているとい
うことです。

したがって――神のおとづれがまだ無い場合も――神の仮りの姿とし
ての偶像をほかの人がつくったからと言って それを否定する謂われ
もない。

言うなれば 神などいるもんかと思っている場合にも 偶像というの
は 神に到る道としての補助線であると捉えておけばよいわけです。

むろん おっしゃるように 補助線を崇拝せよというのなら それは
ナンセンスです。

しかも 補助線と言えば いわゆる聖典とよばれる教義についても
それは 神や仏についての――或る人たちそれぞれが思い描いたとこ
ろの――仮りの姿であることになります。つまり オシヘは これも
偶像なのです。

オシヘは 偶像です。

★ 大仏様だの、イエス様だのと言うものは、全てこの偶像なのでご
ざいます。
☆ まぁ そうなのかも。



★ これらが神や仏と無縁のものであることは、知能ある人間であれ
ば少し頭を冷やして考えれば直ぐに判ることなのでございます。
☆ 偶像ないし補助線(あるいは 依り代とも言います)が 神や仏
と《無縁》であるとは 言えないでしょうね。

★ 神や仏に姿形を求めてはなりませぬ。
☆ 偶像はあくまで偶像なのだと心得てそれらを扱いましょう。

★ 神や仏の本質はその意志、御心にあるからです。
☆ その《みこころ》が われわれそれぞれに おとづれるのをじっ
と俟ちましょう。

《無い神》を心に受け容れている場合には すでにその《無神論》が
神のおとづれた結果であると捉えるとよいでしょう。姿形を現わさな
い場合もあるのですから。

神のこころは おそらく何にしても その何かにかんする人間の見方
や描いた姿が一方的・一面的であるという事態には おさまり切らな
いでしょうね。

神は――普遍神は―― 《有る神》派と《無い神》派との両方を受け
留めていると そのみこころを忖度しますが どうでしょうか。


長々と言いたい放題でしたが あしからず。
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「大仏様だの、イエス様だのと言うものは、全てこの偶像なのでございます」


⇒その通りです。

「これらが神や仏と無縁のものであることは、知能ある人間であれば少し頭を冷やして考えれば直ぐに判ることなのでございます。・・・・神や仏の本質はその意志、御心にあるからです」
⇒まったく、その通りです。
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この回答へのお礼

パチ、パチ、パチ

お礼日時:2017/07/28 09:09

ま 質問じゃないみたいけど



その通りだと思う 

仏像等も 芸術品としての価値しかないと思う 

聖書 仏教経典 その精神は絶対正しい

もし 人類文明にこの二つの宗教が無かったら、
人間の知恵はいかにも底の浅いものに
なっていただろうと思います

大くは語れませんが
「科学がどんなに発展しても 人類は繁栄しない
そこに宗教がなければならい」
アインシュタインを始め 多くの化学者の一致した意見です

特に 生命科学 また最新の量子論など学ぶと
又 ミクロ マクロを学ぶと
宗教を感ぜざるを得ません
神を否定する事などできないのです

化学の分からない人ほど 宗教を否定します

神や仏の本質はその意志に・・
  その通りだと思う

 内村鑑三は
 経済の背後に政治がある 政治の背後に社会がある 
社会の背後に道徳がある 道徳の背後に宗教がある
と述べていますが

好き嫌い 損得 で判断する 宗教に無知な人達の
無節操な意見 行動を うれいます 



仏教 キリスト http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm
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善悪知る木の実が何か分かっているのですか。


リンゴです。
リンゴ食って善悪が判るっておめでたい話だな。」←そうですね・・

でも 聖書は比喩と喩えの書物・・比喩を正確に知ればリンゴには ならない・・

唯 それだけ・・
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神や仏が何か全く分かってませんね。


まず神や仏が何か理解しましょう。」←解かって無いのは あなたの方です・・

善悪知る木の実を食べなかったら 神は食べてもイイ時期に食べさせる様に していました・・

それを最初の人間アダムとエバは 待たずに食べたので 待った人間「キリスト」を使命したのです・・

既に そのキリストに依り 全ては整っています・・・
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この回答へのお礼

善悪知る木の実が何か分かっているのですか。
リンゴです。
リンゴ食って善悪が判るっておめでたい話だな。

お礼日時:2017/07/28 00:13

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Qtranszendentとtranszendental

transzendentとtranszendentalの対義語を調べたいのですが見つかりませんでした。

transzendentの対義語はimmanentで良いでしょうか?
transzendentalの対義語はempirischとかでしょうか?

ドイツ語に詳しい方よりご教示頂けましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。
「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ語ができないなら回答しない方がよい、ということで、
immanent, immanentalが挙げられていますが、そんなに簡単な話ではありません。
immanentalという語形は、英語では使いますがドイツ語では使いません。
そもそも、transzendentalという語を哲学用語として新たに導入し、
transzendentとtranszendentalは同じではない(nicht einerlei)とカント自身が書いている以上、
対義語が同じimmanentに由来する語になるはずはないのです。

哲学用語辞典の前に、一般的な辞書、Dudenを見てみます。

transzendentはラテン語のtranscendens(動詞形transcendere: überschreiten, übersteigen超えること)に由来、
哲学用語としての意味は、
「経験、および感覚的に認識可能な世界の境界を踏み越えること、超感性的、超自然的」
die Grenzen der Erfahrung und der sinnlich erkennbaren Welt überschreitend; übersinnlich, übernatürlich
対義語:immanent

transzendentalは中世ラテン語のtranscendentalis(übersinnlich: 超感性的)に由来、
哲学用語としての意味は、
「あらゆる主観的経験以前に在り、対象そのものの認識を最初に可能にすること」
vor jeder subjektiven Erfahrung liegend und die Erkenntnis der Gegenstände an sich erst ermöglichend
対義語:記載なし

カントにおけるこの二語に関しては、ドイツ語による哲学語辞典や研究書の解説は一貫しています。
結論から言うと、質問文に書かれているとおり、
transzendent ⇔ immanent
transzendental ⇔ empirisch
となっています。
ただし、カントにおいても、まだこの二語の使い分けは必ずしも明確ではなく、
ほぼ同義に使っている個所もあるということが、ドイツ語の各種研究書に詳しく書かれています。
この点については、三一書房刊のロングセラー、「哲学・倫理用語辞典」でも注意されています。

ドイツに、学術的な書物を多く出しているUTBという出版社がありますが、
その哲学用語辞典では、transzendentに関しては
名詞形Transzendenzを見よとなっているので、その一部を引用します。

Transzendenz
「超越(Transzendenz)」の概念においては、人間の原経験は、有限な存在であることを言い表す。なぜなら我々は、洞察可能かつ把握可能な現実の一部として存在はするが、その一方ではこの現実を、我々の認識能力の有限性を通して、それと同様限られたものとして体験するからである。この二重の境界経験は、思考に対し、我々の存在の内在的実在性(immanente Realität)が止揚される超越的現実(transzendente Wirklichkeit)の必然的予見を生じさせる。Transzendenzはつまり、Immanenzという概念に対応した相対的概念であり、Immanenzの概念をどのように理解するかによって、Transzendenzに相対する概念としてExistenz、Erleben、Daseinなどが考慮の対象となる。Xavier Tilliette (1921-)は、Transzendenzの本来の対義語は、「落下」「沈下」を意味するDeszendenzという概念によって成されるのではないかという。Transzendenzは、常に不完全なものとして見られる目の前の現実(Immanenz)からより高次の領域へ入ることを意味するゆえ。
カントの批判的認識論においては、Transzendenzとは、過剰(überschwänglich)な、かつ許容されざるかたちで感覚的経験から導き出された対象把握の使用を意味する。このような超越的使用(transzendenter Gebrauch)は詭弁であり、客観的認識の根拠とはなり得ない。
ドイツ観念論においては、Transzendenzに関わる問題は、主観・客観という弁証法的対概念に変化し、「彼岸(jenseits)」–「此岸(diesseits)」(Transzendenz – Immanenz)という意味論的な対義から「絶対的(absolut)」–「限定的(bedingt)」へ変換される。

以上の意味から、transzendentの対義語はimmanentとなります。

transzendentalは、カントの定義では、a priori(つまりempirischではなく)とみなされる認識に関わることであり、この認識は、対象を直接にではなく、我々が対象をどのような方法で認識するか、その方法によって規定する、とあります。
「対象とではなく、a prioriに可能な限りにおいての我々の対象認識の方法と携わるすべての認識をtranszendentalと名付ける」

transzendentalの上のような意味と、その語源の意味がübersinnlichであることから、カントの用語のtranszendentalの対義語はempirischとされています。

また、これらのラテン語由来の述語をカント自身がより一般的なドイツ語に置き換えていますが、
transzendentはüberfliegend(飛び越える)、またはüberschwenglich(過剰な、感情過多な)、
immanentはeinheimischと訳されています。
(注:überschwenglichは、こんにちではüberschwänglichと綴ります。)
なので、この場合のeinheimischは「土着的」ということではなく、
immanent(内在的)のドイツ語訳です。
heim(家)という語が含まれていることからもわかるように、
古くは「在宅する」の意味で使われた形容詞です。
以下、Georg Samuel Albert Mellin著のEncyclopädisches Wörterbuch der kritischen Philosophieからの引用です。

Einheimisch
immanent, domesticus, domestique, immanent. So heißt im Theoretischen diejenige Vorstellung, die nur auf Erfahrung geht, oder auf Erfahrung eingeschränkt ist, weil sie dann in ihrem Gebiet ist und bleibt. Eigentlich heißt also einheimisch oder immanent seyn, in seinem Gebiet seyn, transcendent seyn dagegen, über sein Gebiet hinausgehen.
(einheimischは、自らの領域にとどまること、transcendentはその領域から出て行くこと。)

以上をまとめると、ラテン語由来の述語とその対義語、およびそのドイツ語訳は、以下のように対応します。
(apriorischのみはラテン語由来のままです。)

transzendent ⇔ immanent : überfliegend/überschwenglich ⇔ einheimisch

transzendental ⇔ empirisch : apriorisch ⇔ erfahrungsgemäß

(Fritz Mauthner: Wörterbuch der Philosophieの解説より)

『純粋理性批判』の複数個所で、「transzendent - immanent」「transzendental - empirisch」が同義に使われているということが、
Christoph Asmuth著のKant und Fichte - Fichte und Kantの解説中に見受けられます。
区別が明確になるのは、Prolegomenaにおいてだそうです。
ほかにも、Der Begriff "transzendental" bei Immanuel Kant(Nikolaus Knoepffler著)
という書物を見つけたのですが、残念ながらいま仕事が忙しくて読み込めないので、
ここまででご勘弁願います。

私はこのカテゴリは見ておらず、回答もやめてから久しいので、この御質問にはすぐには気が付きませんでした。
「ドイツ語に詳しい方」と書いてありますが、出ているのが哲学カテである上、
質問の焦点が定まっていない感があるので、自説、推測などで回答が散らかっているように見えます。
また、日本で出ている事典、辞書、ウィキペディアの参照が多くされていますが、
こうしたドイツ語の専門用語の微妙な意味の違いについては、
可能な限りドイツ語で書かれた事典や解説書に当たった方がよいでしょう。

ドイツ...続きを読む

Q真っ直ぐなものと曲がったもの

ヘルムホルツによると、この世界のあらゆる動きは真っ直ぐなものと曲がったものの2つに分けられるという。
真っ直ぐなものとは外に向かって伸びるもの、発展性のあるもの、革新的なもの、正なるもののこと。
曲がったものとは同じ所をただぐるぐる回るだけのもの、発展性のないもの、保守的なもの、邪なるもののこと。
ヘーゲルも弁証法において同じようなことを述べています。
正と邪とはおよそこのようなものと理解してよいのではないか。

Aベストアンサー

曲がった考えのやつは嫌いだよ。
真っ直ぐ筋を通すのが礼儀だよ。
当たってると思います。

Q拝む相手は何なのか

大仏様をこしらえて、その大仏様に向かって手を合わせて拝む大勢の人達がおりまする。
大仏様は仏ではなく人がこしらえたただの偶像でありまする。
なぜ大勢の人達が大仏様に向かって手を合わせ拝むのでございましょー。
拝むとは一つの表現でありまする。
その表現はいったい何に対し向けられているのでしょー。
それは仏様に向けて何かを伝えたいのでしょーか。
あるいはそれは仏様ではなく、自分自身に向けて何かを送ろうとしているのでしょーか。
 
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/08/15/20160815oog00m010060000p/9.jpg?1

Aベストアンサー

織田信長みたいですね。

あれは金属と木材の塊に過ぎない。
そんなものが、何故尊いのだ?

そして比叡山を焼き討ちしました。


偶像を通して、その先にある観念を拝んで
いるのでしょう。

人間は具体的なモノがないと、やりにくいので
布教のため、金儲けのためにそうした偶像を製作
するのです。

Q池のメダカは、何匹ですか?

池のメダカは、何匹ですか?

Aベストアンサー

>いやメダカには、メダカのアイデンティティーが、あるから!

だから、メダカとして一匹なのですよ。

Q今ちまたで、流行りのス昆布貴方は好きですか?ベビーラーメンと比べてどうですか?

今ちまたで、流行りのス昆布貴方は好きですか?ベビーラーメンと比べてどうですか?

Aベストアンサー

いい加減なこと言うでない。
ス昆布がちまたで流行ってるって誰が言った。
今ちまたで流行ってるのはカルビーのカールだろが。

Q先日、このカテに掲載された“・・・は、人のこころを傷つけてないですか、”という文章は、肯定しているの

先日、このカテで、
“・・・・・は、人のこころを傷つけてないですか、”
という質問がありました。

改めて読んでみると、この文章は肯定しているのか、否定しているのか、私には分かりません。

この文章は、①「 “・・・は、人のこころを傷つけてない” と思われるが、如何?」、ということを
質問しているのですか?

あるいは、②「 “・・・は、人のこころを傷つけている” と思われるが、如何?」ということを問い合わせているのですか?

なお、私の質問は、元の質問の哲学的な内容についてではなく、単に、文章を(正しく)読むと、どういう意味になるのですか? と言うことです。

Aベストアンサー

疑問文には、ご指摘順に言えば、通常疑問文と反語的疑問文があります。ご質問は、これの識別ですが答えはありません。敢えて言えば文脈で捉えるしかない問題です。

言葉は人体同様で有機的に繋がって機能します。なのに、心臓だけ切りだして、それが生きているか死んでいるか問うようなものです。

Q信仰には神も仏も要りませぬ

信仰について言えば皆勘違いをしているのでございまする。
ここではっきりと申しておきまする。
信仰とは神や仏を拝むことではないのです。
それゆえ信仰するのに神も仏も要らないのです。
それどころか信仰するのに必要なものは殆ど何も無いのでございまする。
食うメシがなくて腹を空かしていても信仰するのに何の問題もございません。
見栄えの良い仏壇やら、お題目を唱えるのに高いお金を払って御本尊を買う必要など毛頭ございません。
また戒名料やら高額なお布施など要求する坊主らを相手にする必要もございません。
信仰するのに必要なものはただ一つなのでございまする。
ほんとーに信仰するのに必要なものはただ一つなのでございまする。
そのただ一つのものとは夢見る心でございまする。
なぜなら信仰とは夢を見ることに他ならないからでございまする。
布団の中にはいって猫のよーに夢見ることができれば、それはもー立派な信仰者なのでございまする。

Aベストアンサー

たとえそれが師、ブッダ、聖人であったとしても、他人を信じるより自分を信じることの方が優れている。そのように信じられる自分を確立する方が優れている。
また、他の人の欠点や汚点を見てそれを毛嫌いしその人の本質を見ないことよりも、人のまことを信じることの方が優れている。人のまことを信じる人は精進によって自身のまことを知る事になる。

人は普通、頼りなく、しかも表面的な事に流されるゆえ信を確立する事は容易では無い。しかし誰もが持ち得るのが信であり、それをいくら強く抱いても非難される事がないのが信の本質なのである。

静かな夜は貴重な時間である。静かに観じるならより澄んでくるだろう。
夢見ている間は眠っていて目覚める事はない。しかし、夜の間にぐっすり眠っているからこそ、朝にはすっきり目覚める事ができる。朝がいつになるかは人それぞれであり前以て分かることではない。その時が来たならそれがその人のその時なのである。
夢見ている間の寝言の一つや二つは特に何の害もない事で、気にすることはない。

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q御心

仏の御心。
神の御心。
人の心は願いに過ぎないが、仏や神の御心とは意思である。
仏や神の意思であればそれはもう揺るぐはずのないものに違いあるまい。
ではこの世で決して揺るぐことのないものとはいったい何か。
それは宇宙の法則を除いて他にはあるまい。
仏の御心、神の御心とは宇宙の法則なのである。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20170723/k10011071001000.html?utm_int=all_side_movie-ranking_007&movie=true

Aベストアンサー

宇宙の法則じゃあ御利益がないから、拝んでも意味無いし、賽銭も集まらんようになって、神社仏閣はお手上げでんなぁ。

Q結局哲学って役に立つの? 巷の人に何を知ってほしいか?

私は大学を選ぶとき「哲学科」に行きたいと思い 父に言ったら却下されました。

そんなお金にならない所に行かせられないということでした。

哲学をすると死にたくなる とか 難しいばかりで訳が分からないとか

巷では不人気です。

巷の人に知って欲しい哲学の言葉というか知恵とはどんなことでしょう?

これだけはみんなに知ってほしいという哲学の智慧の言葉はなんでしょうか?

あなたは何を知ってほしいですか?書いて教えてください どうか短文で。

Aベストアンサー

科学だけでは解決しないもっと根源的な問はないでしょうか?
  ↑
科学で解明出来ていない部分に、存在価値が
あると思います。
それも時間の問題だと思いますが。




例えば「性質」とは何かを科学は考えません。
科学は測って仮説を立てて実験して証明するだけです
   ↑
性質ってなんですか?
言葉の問題じゃないですか。



人間とは何か?という問いはあまり問いません。
  ↑
そんなことはありません。
脳科学は、魂の問題にまで入り込んでいます。
人間が他の動物とどこが違うのか、という点なども
科学は答えてくれます。



人生の意味は存在することにあります。
   ↑
それは科学と一致します。
生命体はまず存在することを第一義としており
人間もその例外ではありません。
遺伝子研究などもそれを示しています。

何のために存在するのか、という部分に
哲学の意義があるのではないですか。
つまり、人生の指針です。


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